不連続な読書日記(2002.1)




★2002.1

☆宮部みゆき『模倣犯』上下(小学館:2001.4)

 くっきりと濃く深く内面と外面の両方から丹念に造形された登場人部の一人一人がそれぞれ一つの独立した物語世界の可能性を開示するなかで、ただ一人けっして内側からその心の世界が叙述されることのない「ピース」の存在が際立っている。内面を持たない表情と言動だけの(つまりTV向けの映像だけの)人物、純粋な悪の演出者にしてオリジナリティを希求する凡庸な模倣者(なぜなら「ピース」の独創性は「大衆」の想像力によってあらかじめ夢見られた犯罪の模倣でしかないから)。この前代未聞の人物を描ききるためにこそ、この物量は必要だったのだ。私はそう得心している。

☆別冊太陽『白川静の世界 漢字のものがたり』(平凡社:2001.12)

 昨年末来とりつかれている心脳問題への補助線を引くため、古代人の「心の化石」(茂木健一郎)ともいうべき漢字をめぐる書物を読んだ。──「大き過ぎる」人・白川静の「フィールド・ワーク」を試みた前書は「サイ」(「日」の横三本のうち最上部を省略した形に似た字形で、神への申し文を入れる器をあらわす)をめぐる物語から始まり、梅原猛との二度にわたる対談(いずれ単行本としてまとめられるという)や岡野玲子との対談を収録している。この本は私にとっての宝物となった。

☆サム・リーヴズ『雨のやまない夜』(小林宏明訳,ハヤカワ文庫:1994.9/1992)

《雨はいっこうにやまなかった。長い時間がたったあと、彼のわきにしずかに横たわっていたダイアナが言った。「あたし、このところずっと便器の底で暮らしていたような気がするわ」
「実際そうだったんだよ。人間がただの肉の塊でしかない世界で暮らしていたんだ。みんながお互いをそんなふうに見ている世界なんて、ぞっとする」
「あたしはそんな世界を一度も見たことがなかった。そんなぞっとする世界はね。以前にはそんな世界を歩くことも、そのにおいを嗅ぐことも味わうことも、その手を感じることもなかった。なにもかも枯れて腐ってしまう世界だわ」
「たしかにしばらくはそうさ」クーパーは言った。「だが、やがて雨がふってくる」
 彼は、くたびれたレンガを打っている外の雨を見た。「そして太陽が昇り、月が出て、地球がまわっていれば、また色が見えてくる。そんなものさ。ひとりぼっちでなければ」
 彼女にそんな力があろうとは、夢にも思わなかった。こんなふうに自分をきつく抱きしめる力があろうとは。》

☆石川九楊『二重言語国家・日本』(NHKブックス:1999.5)

《かくて、二重言語・日本語は正負両面にわたって、「日は昇り、月は傾き、花は散り、雪は降りつつ、水は流れる」とでも総括される文化を再生産しつづけている。比喩的に言えばこれらの、「花鳥風月」「雪月花」の思想は、二重言語・日本語が不断に再生する生理であり、世界に特異ではありえても、超克すべき課題は多く、決して誇るべきものではありえない。/人間の意識は言葉を発する現場に形成される。意識と言葉とどちらが先かなどは決められない。むしろ同時と呼ぶ方が正しい。むろん言葉以前に、何かもやもやした「さわり」や「しこり」のような前意識はある。だが、それが意識として自覚されるのは、言葉に転じるその瞬間においてである。脳が思考するのではなく、声帯が空気を摩擦し、筆尖が神と摩擦している現場、声帯蝕と筆蝕の現場に、意識も言葉も生じる。言葉、その語彙と文体とは、或る時代の人々に先立つ先例として、ひとつの宇宙をつくり上げている。文化的伝統なるものは、言葉の宇宙の別名にすぎない。世界の言語は、どの言葉であっても構造自体には何の変わりもない。だが、政治的語彙と文体の緻密な言語、生活上の語彙と文体の豊富な言語など、それぞれに特色がある。その言語の特色が、その言語を用いる人々の文化と文化的価値観を形成している。日本語の二重言語の性格が、これらの日本文化の特徴なるものを生み出す。言葉を日々刻々、再生産することを通じて、日本文化の特質は再生産される。/そうであるなら、日本語のどこにこれらを再生産する構造が眠っているかを考察することも、またその原因が、漢語と和語の二重性の分裂と統一の中にあるとすることも、あながち、無理な説とも言えないのではないだろうか。》(181-182頁)

☆岩田誠『脳と音楽』(メディカルレビュー社:2001.5)

 石川九楊氏は『二重言語国家・日本』で、「西欧声中心言語からもたらされる文化の中核をなす表現は、声→発声と深い関わりをもつ音楽だが、書字中心言語からもたらされる文化の中核をなす表現は、書である」(70頁)と書いている。また「声中心言語の西欧文化は、たとえば木を見ることによって木の声、その本質を聞く文化である。対して、書字中心言語の東アジアでは、たとえば木の声を聞く以上に、木の姿いわば文字を見る文化である」(79頁)、あるいは「物の形を描き、色彩を用いるという点では西欧の絵画も東アジアの絵画も同じである。だが、西欧の絵画は音楽の変種であり、東アジアの絵画は書の変種であるというように、その構造はまったく異なっている」(82頁)とも。──岩田誠氏は本書で、西欧の天才音楽家の脳の形態的特徴から説きおこし、ラヴェルの病(失語症)とガーシュインの病(脳腫瘍)とシューマンの病(幻聴)の話題を織りまぜながら、失語症と失音楽(音楽能力の障害)、音楽する脳や幻聴を生み出す脳や創造する脳について語る。『見る脳、描く脳』ほどの刺激はなかったけれど、たとえば次の記述など、石川氏がいう「表出」と「表現」の区別(吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で「文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する」と書いたことを踏まえている)と絡ませて考えるならば、結構面白いと思う。《言語機能が比較的個人差の少ない万人共通の神経機構の基盤によって実現されているのに対し、音楽能力には個人差が大きく、音楽を実現している脳機構にはかなりの個人差があると考えられる。それゆえ、音楽能力と言葉の能力との相互関係にも個人差が大きいであろう。したがって、音楽と言葉の関係を一律に論ずることはできない。しかし一方、失語症の罹患した多くの患者において音楽能力が良好に保たれ、しかもそれが高度な芸術活動につながる場合さえあるという事実は、ヒトの高次大脳機能において音楽能力というものが言葉の能力に十分匹敵できるほどの根源的なコミュニケーション能力の一つであることを示している。ヒトは言葉を失ってもコミュニケーションの手段をすべて奪われるわけではない。》(112-113頁)

☆シュテファン・ゲオルゲ『魂の四季[DAS JAHR DER SEELE]』(西田英樹訳,東洋出版:1993.4)

 「ニーチェの権力意志とボードレールの人工庭園を基軸に展開するこの白日夢のような詩的世界」──これは「初期のゲオルゲを最も端的に象徴する」詩集『アルガバール』(1892年,ゲオルゲ24歳)をめぐる訳者の評言。『魂の四季』(1897年)については、「この詩集では、「ぼく」と「きみ」とのふたつの魂を激しく揺りうごかす感受性の磁針にしたがって、抒情の世界がくり広げられる」云々。第二版の序文で、詩人は「この詩集におけるほど〈ぼく〉と〈きみ〉とが同一の魂であることは稀である」と記していて、ここに出てくる〈きみ〉の「モデル」となったイーダ・コブレンツとゲオルゲとの交渉の経緯は興味深い。

☆夏目漱石『坊ちゃん』(新潮文庫)

 ここ数年、持続的に漱石を読んでいる。主要作品では『行人』『道草』『坑夫』などが未読(『猫』も?)。漱石の「文」はいつ読んでもどこか「神話的」ともいえそうな想像力を刺激するところがある。それはたぶん個人の内奥の無意識と呼ばれる領野に届いているからなどではなくて、何かもっと具体的で感覚的(物質的)なものと接触しているからだと思う。たとえば『坊っちゃん』も、狸、赤シャツ、野だ、うらなり、マドンナ、山嵐、そして坊っちゃんという換喩や提喩や隠喩、それから名を思い出せないその他の比喩形象を駆使したあだ名(記号)で表示されるアレゴリカルな登場人物たちが織りなす神話的、というより民話的な世界の構造が気になってくる(とくにマドンナの影の薄さ)。いずれにせよ、漱石で一生楽しめるだろう。──追記。気になる関連本としては、河西善治著『「坊っちゃん」とシュタイナー 隈本有尚とその時代』(ぱる出版)と小池滋著『「坊っちゃん」はなぜ市電の技術者になったか』(早川書房)。特に、漱石や子規に数学を教え後にシュタイナーの思想を日本に紹介した隈本有尚(「山嵐」のモデルと目される)の評伝は興味深い。そういえば、関川夏央・谷口ジローの『坊っちゃん』の時代シリーズ全五巻を途中までしか読んでなかった。

☆中沢新一『人類最古の哲学 カイエ・ソバージュT』(講談社選書メチエ:2002.1)

 本書の中心は第一章から第六章まで、かぐや姫(結婚したがらない娘)の物語に出てくる子安貝をめぐる考察(南方熊楠『燕石考』)に始まり、神話的思考法と西欧哲学的思考法との「ちょうつがい」の働きをしたピタゴラス派(この秘密結社には「ソラ豆を食べてはいけない」とか「燕が家の中に巣をかけてはいけない」といった掟があった)と神話に出てくる豆や燕がともに仲介機能をもった両義性的な存在であることの論証をはさんで、「人類的分布をする神話」としてのシンデレラの物語が「気の遠くなるような深い古代性と波乗りのように浮わついた資本主義の一側面」をひとつに結びつけた「神話的思考の残骸」であったことを実証する「原シンデレラ」の探求譚である。とりわけ、シャルル・ペロー(サンドリヨンまたは小さなガラスの靴)からグリム兄弟(灰かぶり少女)、ポルトガル民話版(カマド猫)や熊楠(『西暦九世紀の支那書に乗せたるシンデレラ物語』)が発見した中国のシンデレラ(葉限)、そしてミクマク・インディアンが鋭い批判精神をもって創作した「パロディ」版のシンデレラ物語(見えない人の話)へと遡行し、最後に、シンデレラが脱ぎ落とした片方の靴の謎をめぐるレヴィ=ストロースの推定やギンズブルグの研究(『闇の歴史』)やシンデレラ物語の異文「毛皮むすめ」を踏まえて、シンデレラとオイディプス(=跛行者)との共通性(生と死の仲介者=シャーマン)を摘出して、神話的思考法のエッセンスである「仲介機能」(著者はこれをヘーゲルの弁証法と関連づけている)と「感覚の論理」(著者は言及していないが、レヴィ=ストロース後のフランスのたとえばドゥルーズの思考と関連づけることができはしまいか)を実地に示してみせるくだりは圧巻。この本編は確かに面白い。だけど私にとってもっと面白かったのがその前後、「はじめに」と序章と終章で提示される八千年から一万年前の新石器革命を巨大な転換点とする「人類の哲学史」とミシェル・ウエルベック(『素粒子』)の論を踏まえた第三次「形而上学革命」(ウエルベックによれば、キリスト教=一神教の登場と科学革命に次ぐ第三次の形而上学的変異は、あらゆる個人が同一の遺伝子コードを持つ新種=人間の似姿=「神」の創造をもたらす)への見取り図だ。「カイエ・ソバージュ」シリーズの完結が待たれる。

☆ミシェル・ウエルベック『素粒子』(野崎歓訳,筑摩書房:2001.9/1998)

 読み終えてから数日、何をどう書けばいいのか思いあぐねていた。まとまった感想があるから書くのではなくて、感想文を書くから何かしら実質的なものとしてまとまってくる、そんな事後印象を記録しても自分を欺くだけのこと。生々しい読書体験がリアルに想起されるうちに、何を考え何を思いながらこの長編小説を読んだのかを書き残しておきたかった。それはたとえば、ロシア・コスミズムや本書とは何の関係もないピーター・ゲイの『快楽戦争』の名が浮かんできたこととか、ニーチェの仏訳者ピエール・クロソウスキーの『生きた貨幣』は関係してくるのではないか、本書はスピノザの哲学が下敷きになっているのではないかと思ったこと。あるいは、主人公の片割れミシェル・ジェルジンスキはどこかウィトゲンシュタインを思わせるとか、物語が1882年を起点としているのはニーチェがルー・ザロメに求婚したことやブロイアーの催眠療法と何か関係があるのかとか、母親譲りの遺伝子を分かち持つ異父兄弟のブリュノとミシェルの生の軌跡の交錯はアインシュタイン・ポドルスキー・ローゼンの「想像上の実験」(19頁,135頁)と何か関係するのか、そしてそれは本書の書名の由来を明かしているのか、それともそれは二人の会話の中に出てくる「単子[モナド]か……。」というミシェルのつぶやき(205頁)のうちに示されているのか、等々といった散漫な印象やくだらない思いつき。そんな断片的な(素粒子的な?)感想群をどうやって編集すればいいのか、それともそれはそのままにしておいて時間の熟成を待つべきなのか、あるいは雲散霧消するにまかせておけばいいのか。そうやって悶々と思いをめぐらせているうち到達した結論は、この小説のテーマは現代において宗教と愛がいかにして可能か、要するに新しい結びつき(共同体)の可能性の問題であるという、いかにも事後印象的なものだった。──この「テーマ」に対して作者が与えた回答が人間の終焉、ではなくて人類の消滅である。キリスト教の成立による第一次形而上学的変異、科学革命による第二次形而上学的変異、そしてそれがもたらした「分離」と「物質主義」の時代を過去のものとする第三次形而上学的変異の到来。ジェルジンスキの業績によって、細胞は無限の複製能力を与えられ、「どんなに進化した種であれ、すべての動物種はクローン操作によって複製可能な、同一の、不死なる種として生まれ変わることができるようになった」(340頁)のである。──《喜びとは強烈で深い感情であり、意識全体によって感じ取られる、胸躍るような充実感である。それは陶酔や法悦、恍惚にもたとえうる。》(13頁)《彼のプロジェクトに対して浴びせられた最初の非難の一つは、人間のアイデンティティを作り上げる重大要素である男女の差異をなくしてしまうという点にあった。これに対しハブゼジャックは、いかなるものであれこれまでの人類の特徴をまた繰り返すことは問題にならない、そうではなく理性的な新しい種を創造しなければならないのであり、生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しないどころか、まさにその逆なのだと返答した。ちょうど、胚形成の歳クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭の表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいくらでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエコノミーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いないとハブゼジャックは主張したのだった。》(344頁)──田村隆一は最後の詩集で、「さよなら遺伝子と電子工学だけを残したままの/人間の世紀末」と書いた。異父兄弟の陰鬱で苦悩に満ちた生と思索の軌跡を、まるで戯画化された「ケルズの書」のように絡ませ叙述することで二十世紀そのものを総括し、小説の「死後の生」(ベンヤミン)までをも完璧に描き切きったこの作品は、はたして悪夢の予言なのか希望の告知なのか。

☆河村次郎『脳と精神の哲学──心身問題のアクチュアリティー』(萌書房:2001.10)

 序文「心身問題と臨床神経哲学」を読み始めたとたん不安になった。《「精神」は、ここでは魂とか心とか意識あるいは主観、さらには生命といったものを総括したものと受け取ってもらってかまわない。》いきなりこんな乱暴な断りをされても困ってしまうのだが、これはこれで何かしらポジティブな主張が予告されていると読めないでもないのでいいとしよう。《生命がこの地球上に誕生してから約三八億年。この間の生物進化の過程を経て、ヒトは万物の霊長として、この地上に君臨するに至った。》私はだいたいこの手の「見てきたような」文章が出てくる本は即座に棄却することにしている。まして「意識は「開放系のスーパーシステム」としての脳から「創発」する生物学的現象」であり「この脳の機能としての心的プロセス(意識の主観的特質)を捉えるためには、情報‐神経生物学と非線形力学の共同研究が必要である。しかも、それに鍛錬された一人称の現象学的既述[ママ]が加味されねばならない」(169頁)とし、「心身二言[ママ]論」(177頁)や主観・客観二元論の克服を標榜する哲学書の冒頭でこんな文章に出くわすと、なんだ著者は結局自然科学が叙述する「客観世界」の実在を素朴かつ盲目的に信じこんでいるだけじゃないか、それとも著者の脳は「生命がこの地球上に誕生してから約三八億年」とか「生命進化の過程」云々にリアリティを感じるほど自然科学しているのかなどと揶揄したくなる。哲学者はもっと経験科学を勉強しなくちゃだめだ、脳哲学(神経哲学)をアクチュアルな次元で志すなら認知科学や情報理論、臨床医学と臨床心理学を究める必要がある、と著者自らの率先行動を踏まえて主張される本書でこんなテレビ番組のナレーションのような文章を読まされると、かなり先行きが不安になる。それでも我慢して最後まで読んだのは二千四百円が惜しかったからではなくて、テーマが魅力的だったこと(だからこそ内容をよく確かめもせずに購入したのだ)と、よく「できる」学生がゼミ提出レポート向けに丁寧に参考書籍を読み込み几帳面に整理要約したといった趣のある生硬で決して上手とはいえないけれど真面目な文章に好感がもてた(ただしチャーマーズや茂木健一郎等々の研究を扱った第5章「意識のハード・プロブレム」は、本書の中核的部分をなすにもかかわらず単に表面的で怠惰な言葉の引用羅列に終わっている)し、これだけしっかり勉強している(第5章は別)のだからきっと最後にこれらを踏まえた自説が滔々と主張されるに違いないとの期待ゆえだった。この期待は裏切られた。たしかに著者は最終章で、反‐唯脳論的かつ反‐無脳論的な「有機的‐システム論的統合体論」──「脳は他の脳との情報交換による「社会的相互作用」を繰り返しながら、生成(物活)する、高度の可塑性を有する「主体の志向性の器官」であり、それはまた「身体」に有機統合されたものである」、つまり「「脳」と「身体」と社会的「心」、この三者は切っても切り離せないものとして、一つの「有機体」のうちで統合されている」──を提示しているし、「万物のアルケーは「情報」ないし「宇宙の情報構造」である、というのが本書における筆者の暫定的見解である」(184頁)とも述べている。しかしそれは参考文献からの断片的引用の積み重ねがもたらすイメージにたよった自説開陳、というかほのめかしにすぎない。著者は、脳哲学(神経哲学)とは「神経科学の哲学的基盤を鑑定するものであり、その中心論点は心脳問題にある」、そして「心脳問題は「意識の主観的特質」としての「経験」と「クオリア」の問題に収斂する」と書いている。その意味がほんとうにわかっているのか。正確に言うと、著者はほんとうに「心身二元論」を超克したいと思っているのだろうか。そうだとしたらなぜそう思うのだろう。心脳問題はなぜ解明されなければならないと考えているのだろうか。著者自身の「哲学の問題」は何なのか、それは著者にとってどのようなアクチュアリティを持っているのか。それが読後の根本疑問だ。
 

★今月の棚卸し

☆大月隆寛『独立書評愚連隊 天の巻』(国書刊行会:2001.4)
☆大月隆寛『独立書評愚連隊 地の巻』(国書刊行会:2001.6)

 「この本は目方で売る。目方で質を保証する。(中略)まず、読んでくれ。おもしろいのは保証する。」(天の巻「まえがきにかえて」)──約十五年の間に書かれた二千枚以上の「書評仕事」を集大成した「二巻仕立ての外道な書評三昧」、十分に楽しめた。それぞれの末尾に付された「現時点からのコメント」がめっぽう面白い(「野の知性」とか「スタンドアロンの知性」とか重宝な言葉が満載されている)し、『サンデー毎日』連載の俗名「書評の書評」のまとめ読みも結構いけた。「書評はすでにひとつの表現ジャンルである。ゆえに思想であり、言論である」と著者は書いているが、書評の要諦はまず藝と毒(薬)だ。本書を通読して、つくづくそう思う。

☆『文學界』2002年2月号(特集「読書のリバイバル」)
☆『BRUTUS』No.494[2002.2.1](特集「もう本なんか読まない!?」)
☆『InterCommunication』No.33[2000.7.1](特集「21世紀のための500冊」)

 本のことを特集した雑誌はたいがい購入して、ざっと眺めてはそのほとんどを永久保存している。時折思い出しては、読み返している。(『文學界』では、小泉義之氏の新連載「文学の門前」が始まった。第一回が「なぜ、子供を作るのか──受肉の文学のために」。)

☆レイチェル・カーソン『沈黙の春』(青樹[竹+梁]一訳,新潮社:2001,6)

 この本はいつかきちんと読んでおきたかった。文庫で読むのもいいけれど、昨年新装版が出たので、近所の図書館で出回っているのを見かけた際にはかならず借り出している。何年かかってもいいから、最初から最後まできちんと読むつもり。(『InterCommunication』No.33の「21世紀に伝えたい本」という対談で、坂本龍一がベスト10の最初に本書を掲げていた。対談相手の後藤繁雄のトップが『われらをめぐる海』。)

☆柄谷行人『増補 漱石論集成』(平凡社ライブラリー402:2001.8)

 第三文明社版に「詩と死──子規から漱石へ」「漱石のアレゴリー」の二編が加えられた。その「アレゴリー」に次のくだりが出てくる。《漱石の作品には、いわば「想像界」が象徴界の抑圧を経ないでそのまま出てきているといってもよい。つまり、漱石の驚くべき豊かな語彙は、何かの対象やイメージを喚起するのではなく、もともと言葉がそのようなものなしにあることを開示するかのように、乱発されるのである。》(370頁)──それから「漱石とカント」という文章が面白かった。《このようにF[認識的要素]とf[情緒的要素]ですべてを見ようとする漱石は、科学・道徳・芸術を領域的に区別したカントと違っているように見える。しかし、カントの「批判」は、それらが客観的な領域として分かたれているのではなく、それぞれがある態度変更(超越論的な還元)によって出現するということにこそある。たとえば、美的判断は「関心」を括弧に入れることによって可能であり、科学的認識は道徳や感情を括弧に入れることによって可能である。(中略)しかし、漱石が[『文学論』の裸体画について述べた箇所で]「除去」と呼ぶのは右に述べたような括弧入れである。漱石は文学芸術の根拠を、道徳や科学的真理に対立するものとしてでなく、それらを意識的に括弧に入れる能力──これは歴史的に形成される「習慣」である──に見いだしている。この意味で、漱石の「科学」はまさにカント的批判の反復なのである。》(542頁)

☆夏目漱石『倫敦塔・幻影の盾』(新潮文庫)
☆夏目漱石『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)
☆『漱石文明論集』(三好行雄編,岩波文庫)
☆高木卓『露伴の俳話』(講談社学術文庫)

 『坊っちゃん』に続いて漱石の比較的初期の「文」を眺めてみた。(柄谷行人は『増補 漱石論集成』に収められた「漱石の多様性」で、大岡昇平の指摘を踏まえ、「漱石はたとえば『倫敦塔』を短編小説としてではなく「文」[エクリチュ−ル]として書いた」、「漱石は「文」に、近代小説が排除しそれによって自己純化していったものの可能性を見ていたのです」と語っている。)「夢十夜」とか「趣味の遺伝」とかは、いずれまた熟読玩味してみよう。『文明論集』に収められた講演録は、時折読み返しては元気をもらっている。漱石と露伴は、年来のテーマ。

☆中沢新一『森のバロック』(せりか書房:1992.10)
☆中沢新一『東方的』(せりか書房:1991.3)
☆東洋文庫ふしぎの国9『神々と妖精たち』(中沢新一編,平凡社:1990.4)

 『人類最古の哲学』で、熊楠が整理した「燕石」の7つの要素の意味については『森のバロック』を見よとあったので、さっそく眺めてみた。収められた文章のほとんどは初出の河出文庫版『南方熊楠コレクション』全五巻の長文解説で読んでいたし、本書が刊行されたときにもあらためて通読して、なんだか後知恵で熊楠の怪物性を称揚していてずるいと重ねて思った記憶がある。──『東方的』は数多い中沢本のなかでも好きなものの一つで、時折読み返しては刺激を受けたり、いまひとつ乗れなかったりしている。今回は「高次元ミナカタ物質」と「脳とマンダラ」と「エコソフィアとしてのシャーマニズム」を読んだ。「脳とマンダラ」では、西洋のポリフォニーと東洋のマンダラを比較するなかでペンローズのツイスター理論まで出てきた。──『神々と妖精たち』は、『デルスウ・ウザーラ』や『オルドス口碑集』、『今昔物語集』や『甲子夜話』など『東洋文庫』に収められた二十数冊の古典から縦横に抜き出された断片を「山・森の精霊たち」「水・海の精霊たち」「シャーマン・仙術・呪術」「超越へ」の四章に整理した可憐な書物。