不連続な読書日記(2001.12)




★2001.12

☆田島正樹『スピノザという暗号』(青弓社:2001.6)

 私が初めて手にした哲学書がスピノザの『エチカ』だった。高校二年の時だった。その時はたしか第一部の途中で挫折した。以来、最初から順を追って読むことは断念したものの、断片的、間歇的に読み続けてきた。いつか自分なりに解読してみたいと思い続けてきた。(数年前オランダを旅行した時は、文庫本上下二冊を鞄の中に入れたまま終日アムステルダムの街を歩き続けた。もちろん何の意味もなかったけれど。)ジル・ドゥルーズが『記号と事件』の「哲学について」というインタビューで、哲学史の本を書くことから仕事を始めた際、「全体としてはスピノザ=ニーチェの重大な統一をめざしていた」と語っている。個人的な話題を重ねると、私が『エチカ』の次に手にしたのがニーチェの『ツァラトゥストラ』で、大学一年の頃だった。この時はとにかく最後まで読み切った。ドゥルーズがめざしていたこととはたぶん何の関係もないと思うのだが、私なりの「スピノザ=ニーチェの重大な統一」を、たとえば人間主義的拘束を脱した新しい倫理とか、変身ならぬ「変人」つまり非人間的なものへの進化を、『エチカ』の解読を通じて構想してみたいと思うようになった。タイトルは「スピノザの屈折率」と決めてある。ノヴァーリスの「自然科学研究ノート」に、パラケルススの次の言葉が抜き書きしてある。《神のなかに私たちは何ものも見ることができない。神のなかでは、すべてが全体としてあり、完全だからである。神は何ものも屈折させ brechen ない。しかし、神の被造物のなかには、智慧とわざの解剖学があらわれている。》また、ノヴァーリス自身の断章には次のように書かれている。《色が屈折させられた gebrochen 光であるのと同じ意味で、音とは、さえぎられた gebrochen 運動にほかならない。》こういった事柄と関係があるのかないのか、それらも含めてスピノザが磨いたレンズの「屈折率」の射程を見定めてみたいと思ってきた。
 いま私は『エチカ』の解読を通じてと書いたが、ここでいう「解読」とは暗号解読のこと、すなわち解釈ならぬ「復号」化のことにほかならず、つまり『エチカ』は私にとって暗号で書かれた書物だったし今でもそうあり続けている。田島氏が本書のあとがきで「スピノザは長い間、私にとって暗号も同然であった」と書いているのを読んで、その経験の質と量の歴然たる違いはさておいて心から同感した。しかし「まさに暗号解読という方法(およびそれと結びついた全体論的合理性の観念)こそが、スピノザの全哲学の核心そのものである」という田島氏の発見は、私には驚くべきものに思えた。スピノザの哲学から実在論(神)を棄て、その方法的立場(『聖書』解釈を通じてスピノザが確立した二つの態度、すなわち「内在主義」と「全体論的解釈」)をくりかえしスピノザ自身に適用すること。このアクロバティックな解読の試みによって見えてくるのは「まさにそれがどのように解読されるべきかということそれ自身」である。そしてその時スピノザの学説は「生きている以上不可避なものとしてわれわれの内部にあって、意識されないままに働いていたわれわれ自身の固有な力の一部である」というのだ。田島氏が見出した──「プラグマティック」(111頁)で「社会工学」(241頁)的な?──スピノザ哲学の姿は、それ自身哲学書解読の優れたサンプルともいえる第3章「自己原因としての神」、第4章「心─身問題」、第5章「倫理」に精緻かつ精妙な読みとともに示されている。それはそれで熟読玩味すべき鮮度をもつ面白いものだったのだが、私がとりわけ刺激を受けたのは、スピノザ哲学の奥義(ニーチェのルサンチマンの説とからめて叙述される理性的認識と能動的活動性の一致)とその方法を扱った第1章「スピノザの出発」と、スピノザ哲学へ内在するための前梯としての実在性と現実性、可能性と超越性をめぐる形而上学的予備考察と知識論を扱った第2章「実在性」だった。(わけても、信原幸弘氏の議論を参照にしながら展開されるクオリア論は秀逸。)

☆高安秀樹・高安美佐子『経済・情報・生命の臨界ゆらぎ──複雑系科学で近未来を読む』(ダイヤモンド社:2000.4)

 ある教科書に、最も面白い学問は統計学だと書いてあった。面白いのは統計学そのものというより、むしろ統計学が対象とするマクロな現象の方だろう。たとえば戦争による死者の分布は「フラクタル分布」になっていて、人口統計が比較的はっきりしている17世紀以降、およそ総人口の1%程度が戦死しているという(172頁)。こういう現象を知ると、デュルケムの向こうをはって「社会的自殺論」など研究してみたくなる。──フラクタル分布は、地形の凸凹の形成プロセスや宇宙塵の分布、価格変動や会社の所得分布、インターネットの情報流量の変動(情報渋滞)やファイルの樹形構造、魚群の分布や血管の樹形構造など物質・経済・情報・生命のさまざまな現象の中に見られるもので、それらの多くは「自己組織化臨界現象」として広い視野から理解できる可能性がある(171頁)。──自己組織化臨界現象というのは、「臨界点」(臨界現象の相転移点)が自動的に安定化される現象のこと。コロイド(ゼリーや卵、生クリームのように水の分子の間に水よりもはるかに大きな分子や微粒子が混じっている混合物)がゾル(牛乳や血液、雲や煙のようにマクロに流動性を持ったコロイド、英語では solution の省略形 sol)からゲル(チーズや豆腐のように流動性を失ったコロイド、英語では gelatin の省略形 gel)へと相転移する際、ちょうど柔らかめの半熟卵のように固体と液体がミクロ・マクロのあらゆるスケールでぐちゃぐちゃに混ざったドロドロした状態を経る。それが相転移点である。ゾル・ゲルのようにエネルギーの出入りなしに起こる相転移を連続転移(水から氷への相転移は不連続転移)と呼ぶのだが、この連続転移の相転移点での振る舞いは特別に臨界現象と名づけられ、その相転移点が臨界点(ミクロなゆらぎがマクロに成長する境目という意味)と呼ばれている。臨界現象としては、ゾル・ゲル転移のほかに超伝導状態や超流動状態への相転移、強磁性体の相転移や水の超臨界状態などがあり、いずれも「バラバラの状態と全体が連動する状態との間の相転移」「無秩序状態と秩序状態の間の相転移」として統一的に理解できる(52頁)。臨界現象のミクロからマクロまでのゆらぎが入り交じった状態はフラクタル構造をもつ(49頁)。そして、この臨界現象こそが社会・情報・生命などのゆらぎを理解するうえでの基礎になる(45頁)。──いま、意図的に本書の叙述を遡ってみた。免疫システムの比喩や地域通貨の例をもちだして情報化経済の近未来を論じ「多様性とゆらぎをできるだけ大きく取り入れられるような社会」(216頁)を構想したり、これからの教育システムをめぐってアマチュアの科学研究を専門に扱うジャーナルの発行を提言する後半の議論もそれはそれで面白く読んだ。「与えられた情報から答えを導き出すのではなく、その場その場でみんなで答えをつくりだしているのが経済現象、しいては社会現象の本質なのです」(180頁)という指摘などは結構深いと思う。それはそうなのだけれど、なにしろ臨界的なゆらぎ発生の普遍的メカニズムや多様性についてはまだよくわかっていないことだらけだというのだから、どうしても迫力を欠く。それよりも前半の物理学に即した話題の方が私にはもっと面白く、かつ刺激的だった。本書では物理学をギリシャ語の「フィシス」本来の意味で使いたいと、著者は序文で書いている。それは「人間の活動も含めた森羅万象の生成発展」を表している。この「新しい物理学」は生物物理学や経済物理学や情報物理学を生みだし、たとえば古代ギリシャのヒュポスタシスの概念(「下に+立つ」という動詞から生じた名詞で、ラテン語 substantia の語源。「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの」の意をもつ)やカントの第三アンチノミー(自由と決定論)などをくりこみながら生成発展し、やがて「新しい哲学」(メタフィジックス)の可能性を拓いていくことだろう。

☆サム・リーヴズ『長く冷たい秋』(小林宏明訳,ハヤカワ文庫:1993.10/1991)

  以前、ちょうど本書が刊行された年、ニューヨーク・スター紙のトップ記者ジョン・ウェルズが活躍するキース・ピータースンのハードボイルド四部作──『暗闇の終わり』『幻の終わり』『夏の稲妻』『裁きの街』(創元推理文庫)──に陶酔したことがあった。シカゴを舞台にしたサム・リーヴズの「叙情的」ハードボイルド第一作は、ほぼ八年ぶりの陶酔を与えてくれた。これまでにシリーズ四作が翻訳されている。第五作があるのかどうかはしらないけれど、しばらくはサム・リーヴズの世界にはまり続けることだろう。──ヴェトナム帰還兵で挫折したインテリでタクシー運転手のクーパー・マクリーシュ。最近はカール・ポッパーの『開かれた社会とその敵』を読んでいて、アメリカのヴェトナム介入より「もっと大きなテーマ」で本を書くべきかどうか決めかねている。「あれは本じゃない。セラピーみたいなもんさ」(クーパーのこの科白はシリーズ第二作に出てくる)。八歳年下の恋人ダイアナ・フローリックはウェイトレスをしながら金を稼いで大学へ入り直すつもり。部屋にはバルガス・リョサやボルヘスやペレス・ガルドスやウナムーノのスペイン語の本が並んでいる。《「いいかい」クーパーはなんとか彼女にわかってもらおうと、身を乗り出して言った。「ちゃんと説明させてくれ。おれが好きなのは、人を傷つけることなんかじゃない。おれが好きなのは、どこかのろくでないの顔にあの表情、世の中はおれを中心にまわっているんだっていうあの表情を見て取って、そういう考え方を改めさせてやり、自分を変えるためにひと汗かかせてやることなんだ。おれはそれが好きなんだよ。それは認める。なぜって、連中がなんの罰も受けないでのさばってるのにがまんできないからだ。ほんとにがまんできない。もううんざりなんだ。子供のころは、右のほおを打たれれば左のほおを出せって教えられた。だが左のほおを出すってことは、両方のほおが傷つくってことだ。そういうのは、もううんざりなんだ」》(248-249頁)

☆太田肇『囲い込み症候群──会社・学校・地域の組織病理』(ちくま新書:2001.12)

 日本の企業組織研究の蓄積を踏まえて、著者は自らの問題意識をより「大局的な視点」(146頁)に立って再設定する。すなわち、日本の組織に共通してみられる最大の問題点は組織が個人を囲い込むこと(8頁)であり、その弊害を一言で表すならば、個人のレベルでは「不自由」、全体社会(国家)のレベルでは「不平等」、中間組織(個人と国家の中間に位置する組織)のレベルでは「不適応」(非効率)をもたらすことにある(146頁)。こうした問題を解決する道筋を示し「組織や社会の未来像」を描くために、著者はまず囲い込みの論理と生理を実証的に明らかにする(第一章)。そこで展開されるいわゆる日本型組織(プロセスを重視し個人責任をあいまいにする、柔軟で「人間的」な有機的組織)への批判は鋭い。次いで、囲い込みが遂行される場としての「中間組織」がもつ保護と抑圧の二重機能を摘出する(第二章)。著者はここで「個人の自由や平等を保証するために全体社会が中間組織に対して優位に立つべきだ」(169頁)という立場を鮮明に打ち出している。そして「強者の論理としての分権」批判(これも鋭い)をもとに、全体と個の媒介をめぐる政治の問題、つまり全員の責任といった観念的な責任の問題ではなく「中間組織の内外で生じる権力争いや多数者の専横から個人の権利を保護し、普遍的な基準で人々を律する」という「より上位の組織の責任」(75頁)の問題を論じるための足場を固める。(民主主義的国家観に根ざした「多数者=一般者」のための責任論から、自由主義的国家観に根ざした「少数者=単独者」のための責任論への転換?)こうしてあぶり出された日本的中間組織の病理は、組織に対して限定的・手段的にかかわる「仕事人[しごとじん]」に典型的な個人の意識や価値観の変化によってその条件が崩れつつあり(第三章)、これに伴い会社・学校・地域といった範囲の中で部分最適を図ろうとする「組織の論理」そのものが破綻に瀕している(第四章)。以上の考察と分析を経て、最後に日本型組織再生への三つの処方箋が示される(第五章)。第一に、会社や労組、職業団体、政党や自治体、自治会・町内会やPTAといった旧中間組織の改革に向けて、「インフラ型組織」や「間接統合」の理論など企業組織研究の過程で培われた著者の理論装置が総動員される。その結論は、組織を「仕事の場を提供するところ」ととらえ、メンバー個人を積極的に選別・管理しない、入りやすく出やすい「小さな組織」あるいは「遠心組織」へと組み替えることである。第二に、全体社会(国家)の権力の肥大化や独走をチェックする存在としての「代替セクター」が構想される。この「新しい中間組織」には、これまで以上に人々を引きつける「求心組織」としての魅力と、社会的な正当性が強く求められる」(171頁)。著者は、参加の任意性、活動分野の限定性、地域的な非閉鎖性という三原則を提示した上で、新しい組織づくりに際しては「「最初に組織あり」という前提から出発するのではなく、具体的な目的や必要性によって自発的に組織に参加し、また組織をつくっていく」(175頁)といった組織の原点に立ち返ることが必要だとする。(ここまでの議論は実に明快で示唆に富む。)第三に、基本的に特殊利益を追求する中間組織に対して普遍性を追求する「超」組織、つまり「社会全体を俯瞰し、すべての構成員を公平に扱う」ための上位の組織(国家)の必要性と、かりに内容に差異があっても実質上の平等が保たれるならば問題はないとする「実質等価の原則」(181頁)に即してその役割が考察される。著者がほんとうに書きたかったのはこの最後の節だったのだと思うが、私はそこに若干の不満を覚える。代替セクターとしての新しい中間組織論やそれへの個人の多元的帰属(ジンメル)をめぐる議論と、「超」組織としての国家をめぐる議論との関係がしっくりこないのである。というより、そもそも著者がいう「国家」がイメージできないのである。それは統治機構のことなのか、中央政府のことなのか、システムや市場のように目に見えない観念上のもの(それでいてアクチュアルなもの)なのか、あるいは個人ではなく中間組織をメンバーとする組織の組織ともいうべきものなのか、それとも「普遍性」の異称なのか。第二章の「分権の功罪」を論じた箇所で、著者は次のように書いていた。《個人の立場からすると、とくに組織のメンバーが同質的で利害が一致するとき、組織に権限が委譲されることの意義は大きい。(中略)このように分権の一つのポイントは、いかにして利害の共通する切り口を見出すかである。現実的かどうかはともかく、理屈のうえではテーマごとに分権の範囲と担当すべき中間組織のレベルを変えるのが理想であり、NGOやNPOが部分的にはその道を開くかもしれない。》(58-59頁)私はこの指摘は玩味すべき豊かな内容をもっていると思う。代替セクターとしての新中間組織と国家の関係を明確にし、「個人の立場」に徹して「国家」の「超」組織性の実質を理論化していくためには、まず「個人」の概念規定を精緻化する必要があるように思った。

☆鎌田東二『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』(岩波現代文庫:2001.12)

 「銀河鉄道の夜」には四種類の草稿がある。そのすべてに出てくるのが「蠍の火」のエピソードだ。いたちに追われ井戸に落ちて溺れ死にそうになった蠍が「どうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい」と祈り、夜の闇に燃える「まっ赤なうつくしい火」になる。著者はこれを法華思想と密接につながる「久遠(永遠)=本仏=一乗に身を投じる菩薩道の喩え」と解釈している(20頁)。ここに出てくる法華一乗思想、すなわち法華の信仰だけが真の悟りに至る唯一の道であるとする「法華原理主義的なラジカリズム」(120頁)は、第三次稿で加わった「神学論争」によって深い陰翳を帯びる。タイタニック号で溺れ死んだキリスト教徒の青年に向かってジョバンニは「たったひとりのほんたうのほんたうの神さま」の話をするが、議論はすれ違ったままで終わるのである。この神学論争は第四次稿にも引き継がれるが、決定的な違いは「セロのやうな声」をもつ二人の人物が第四次稿で削除されたことだ。二人の人物とは「考を伝へる実験」(テレパシー)でジョバンニに語りかける教導者たるブルカニロ博士(現実存在)と、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」と語りジョバンニに瞑想(「こゝろもちをしづかにする」こと)という実験を教える求道者たる「その人」(霊的存在)である。(この「セロのやうな声」をもつ二人の人物の区別と物語にしめるその意味を見定める第3章は本書の白眉だと思う。)およそ七年余に及ぶ宮沢賢治の推敲につぐ推敲の軌跡を丹念に腑分けして著者が得た結論は次のようなものだ。《その変化は、一言で言えば、教導者に導かれる者から、単独者の旅人となるジョバンニの孤独と、「みんなの幸福」を希求するその果てしない不可能性の探求への企投の深遠さ、距離である。別の平たい言い方をすれば、依存体質から自立への変化。水平軸から垂直軸への屹立。自己超越と自己受容。あるいは、自己の使命を自己自身で引き受ける覚悟。/いいかえると、それは自分が自分自身の教導者となるプロセスである。それは、ある意味で、教師、あるいはシャーマン、あるいは菩薩の誕生でもある。あえてとても大げさな言い方をすれば、『銀河鉄道の夜』は、世界教師・宇宙シャーマン・銀河菩薩の誕生のイニシエーション的な物語である。そしてそれは、表向きはもちろんジョバンニの「銀河鉄道の夜」の幻想的な旅の物語であり、死と再生、絶望と深い気づきと覚悟の物語でもあるが、より本質的には菩薩の悲願=大悲の現世である。それは、断念と悲と願とを抱えて生きる道行きである。》(94-95頁)こうして著者の筆は「銀河鉄道の夜」の推敲過程と「鳥シャーマン」宮沢賢治の思索・生の軌跡という二つの「不可能性の探求への企投」(それらはいずれも未だ完結していない)をだぶらせていく。《第四次稿の最後で、ブルカニロ博士や「その人」の姿が消え、「お父さん」が帰ってくるらしいことは『銀河鉄道の夜』という作品にどのような変化をもたらしたか。その大きな変更はどのような意図によるのか。それによってどのような作品世界の転換が引き起こされたのか。/その答えは、ジョバンニが現実の中に、ある静かで強い意志と覚悟を持って、「たったひとり」で還ってきたという構図を際立たせることになったということである。これまでの物語構造はいわば“起承転結”の定型的な落ち着きを持っていた。それが第四次稿では、“起・承・転・転”と、どこまでも転じ、流転していく構造になっている。、銀河鉄道の夜の旅は終わっていない。旅は「どこまでも」「どこまででも」つづくことが暗示される。その不可能性の探求への企投が際立つ。》(136頁)

☆中山元『新しい戦争? 9.11テロ事件と思想』(冬弓舎:2002.1)

 哲学は単独者の不換言語で綴られ、思想は植民地の言語で紡がれ、文学は帝国の周縁で複数言語の間に育まれる。これは誰の言葉でもないし、本書とはなんの関係もない。──「9.11」以後おびただしい量の論考がインターネット上に掲載された。「今回のテロほど、グローバルに情報を伝達するインターネットが、思考の道具としても貴重なものであることを、はっきりと示した事件はなかったといってもよいだろう」(124-125頁)と著者は書いている。そのほとんどがインターネットで集められた文章を手際よく整理して、著者は本書で「9.11テロ事件があらわにしたさまざまな問題を考えるために役立つ」五つの視座を取り上げた。すなわち、これはテロなのか新しい戦争なのか、文明の衝突か、宗教の衝突か、それは私たちに「現実の覚醒」をもたらしたのか、そして「9.11」以後反グローバリズムはいかにして可能か。私はとりわけ第四の視座が重要だと思う。メディアなしではテロは意味を失うのだが、それではメディアが流し続ける映像はリアリティを伝達しているのか恐怖と憤慨と復讐の念をかきたてているだけなのか。グローバリゼーションが進み世界がアメリカ化している現状にあって、はたしてアメリカは「世界」の現実をきちんと認識できているのか(テロはアメリカ市民に「覚醒」をもたらしたのか)。ツインタワーの崩壊という「映画(ヴァーチャル・リアリティ)みたい」な出来事を目の当たりにして、いまや「現実のリアルの世界」の認識そのものが不可能になっているのではないか。《ぼくたちはいま、現実とフィクションが分かち難く、不分明なままになっている薄明の世界に生きているようだ。ツインタワーは、どこか『風の谷のナウシカ』の巨神兵を思わせる身ぶりでゆっくりと崩れていったのだが、現実もフィクションと映画の世界のうちに、ゆっくりと溶け込んでしまったかのようである。》(91頁)ここには「問われているのは、ぼくたちの思想そのものなのである」(109頁)と著者が書くときの「思想」の問題が、そしてもちろん「政治」の問題が集約されている。──これは余談だが、本書を読み終えてから塩野七生氏の「日本人へ! ビンラディンにどう勝つか」(『文藝春秋』2001年12月号)を再読した。そこに出てくる次の文章が、実に新鮮だった。《なぜなら、これはもはや政治であるからだ。》それから、次の文章も。《歴史をとりあげる私の仕事も三十年をこえる今、何よりも痛感しているのは、宗教の良さを本来の姿で発揮させるのに最も有効な方法は、政治が機能することにある、という一事である。》

☆渡辺茂『ヒト型脳とハト型脳』(文春新書:2001.12)

 本書でもって脳の成り立ち・進化をおさらいし、ヒト型脳とハト型脳の違いを知り、「実は小鳥の歌とヒト言語には驚くような類似性がある」とか「鳥類は生き残った恐竜である」とか「脳は遠い将来のことを見こして慎重に設計されたものではない。その時、その環境で個体が生き延び、遺伝子を伝えるように、いわばその日暮らしで進化してきたものである」といった知見に触れ、そうやって著者が諫める「知的つまみ食い」(あとがき)にひととき興じたわけだ。確かに「教科書的なところ」(あとがき)もあったけれど、オウムのアレックスやイルカのロッキーやチンパンジーのワシューといった高名な動物をめぐる数々の実験の紹介と、随所に教室ジョークを織りまぜた著者の語り口は楽しめた。特に面白かったのは、同一性や対称性や推移性や等価性の認知をめぐる動物実験を踏まえて、ヒューマン・ロジックとアニマル・ロジック、そして記号論理はそれぞれ違うことを論じた第1章。《ヒトや動物のしていることは一見論理操作のように見えるが、実際にはそれと違う原理で行われている。その原理は個体の維持であり、遺伝子の伝達である。ヒトや動物が論理操作をしているように見えるのは、論理操作と効率的な個体維持や遺伝子伝達がたまたま一致する場合があるからにすぎない。最初に述べたようにアリストテレスは人間の弁論から論理学を導いたが、公理系としての論理学はヒトの思考とは独立したものである。》(37頁)パースの名もひきあいに出しながら、言語(対象をまとめて認識し=概念化・カテゴリー化、それに名を与え=シンボル理解、単語を系列的に組み合わせること=文法という三つの要素でもって定義される)がヒトに固有のものかどうかを論じた第2章も示唆に富んでいた。ヒト言語の発生をめぐる「踊るヒト」仮説(「発声器官が音声言語を発するのに十分な機構を備えた時、ダンス産出文法や手先運動文法を音声に転用し始めたのかもしれない」)はとても興味深い。

☆柴田正良『ロボットの心──7つの哲学物語』(講談社現代新書:2001.12)

 下倏信輔『〈意識〉とは何だろうか』(1999)、信原幸弘『考える脳・考えない脳』(2000)に続いて、現代新書版「心脳問題」叢書(?)に魅力的な新顔が加わった。これからも年に一度、知的スリルを味わわせてほしい。──本書の戦略と構成はとてもシンプルで分かりやすい。ベースにあるのは記号論一般に関するモリスの三分類(64頁)、すなわち統語論(シンタックス)と意味論(セマンティックス)と語用論(プラグマテックス)である。本書の戦略を乱暴に整理してしまうと、統語論vs.意味論(なめらかな会話vs.主観的意未体験)という図式では心脳問題は解けない、そこに文脈を、つまり身体と環境世界(「思考するには身体が必要だ」し「意味は環境世界にあるのだ」)を持ち込み語用論に訴えなければならない、というものだ。この基本戦略に基づいて本書の構成を大雑把に要約するならば、チューリング・テストをめぐる話題(第1章・第2章)で統語論を、サールの「中国語の部屋」の思考実験(第3章)で意味論を、そしてフレーム問題の状況認知面と行動判断面の分析(第4章)を通じて語用論を導入し、さらに状況認知面に関してコネクショニズム(第5章)を、行動判断面に関して「野生の考慮」としての感情とクオリアの機能(第6章)をそれぞれ論じるという具合だ。(私はこの感情とクオリアの機能を論じる第6章が本書のハイライトだと思う。著者が一番書きたかったのも「感情の人工的実現に関する哲学的問題」だったのではないか。そういえば、かのパースも『連続性の哲学』第一章で「魂の実質的部分をなしているのは本能であり感情である」「理性はその最後の助けを感情に求める」云々と「わたしの哲学的な感情主義」について語っていた。さらにいえば、藤原新也氏の『全東洋街道』に出てきた「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」という、たしかトルコの娼婦の言葉を思い出す。)このように乱暴かつ大雑把に整理要約したところで、周到に叙述された各章の緊密な関連性は見えてこない。ましてや、こうして第1章から第6章へと至る螺旋階段が一周し、さらにエピソードで次なる螺旋階段が素描され、さらにさらにプロローグでより高次の螺旋階段が予告されるといった、著者が手塩にかけて練り上げたに違いない大仕掛けはとても味わえない。ぜひ実地に見聞されたい。──著者の基本的立場も明確で分かりやすい。一人称の世界、つまり「内側から」しか経験できない主観的意識体験(神のみぞしる「超事実」)を原理的にわれわれの手に届かないものとする「素朴な物理主義」、そして意識や心の多重実現の可能性を認める「柔らかな行動主義」の立場に立って、三人称の世界(「見なし事実」の世界)を「きっぱりと認める」(213頁)こと。したがってロボットが心をもつこと、正確に言えば、ロボットの心を「工学的に」作り出すことは原理的に可能であると認めること。《しかし、もちろん、こうして作られた掛け値なしの心的性質が当のシステムによって〈内側から〉どう体験されているのかは、われわれには知り得ない〈超事実〉である。われわれが知りうるのは、まずは、自分たちが工学的手段によって、われわれにとっての意識や感情やクオリアの機能を果たす〈心的な何か〉を実現したということだけである。しかし、われわれは次にこの〈超事実〉を〈素朴な物理主義〉に許された〈見なし事実〉という形でやすやすと(?)乗り越える。それは、新たなタイプの存在者に対するわれわれの抗いがたい傾向、つまり「柔らかな行動主義」の命ずるままに、意識や感情やクオリアがあるように見える存在者とは、まさに意識や感情やクオリアをもつ存在者なのだ、と〈見なす〉ことにほかならない。》(215頁)──こうして「一人称複数」の世界(われわれの社会=共同体?)へのイニシエーション・テスト(感情やクオリアへと拡張されたチューリング・テスト)をパスしたロボットは、「自然環境のなかで生きのびる知性」から「社会と文化の環境のなかで生きる人格」(238頁)へとその存在様態が更新される。著者は最終章で「善悪のクオリア」(感覚、感情に次ぐ第三のクオリア=幻覚のクオリア?)の可能性を論じつつ、ロボットを組み込んだわれわれの社会の倫理と自由の問題(真正のフレーム問題?)をめぐるカント的議論を展開しているのだが、これは本書のハイライトに添えられた後日談であり、おそらくは「ロボットの心」とは別の問題である。《最後にここで、われわれにとって大変気になることを一つ述べておきたい。それは、〈善悪〉のクオリアがこのように高階の認知状態から生じている[引用者註:著者は、善悪のクオリアが感情機能の調整を行う第三階のクオリアではないかと示唆している]とすれば、それと結びつく善悪判断の〈内容〉は、客観的である必要はないどころか、ますます主観的、もしくは恣意的でありうる、という点である。(中略)もっとも、もう一歩踏み込んで私の予想を言わせてもらえれば、恐らく妥当な道徳的原理というものがたった一つは存在しており、それは、自由裁量相互の調整に関する参加原理、つまり、「他人の自由裁量を最大限尊重せよ」というような形式的な原理になるだろうと思われる。》(240-241頁)──本書を読み終えて、スピノザの『エチカ』をなぜか懐かしく思い出した。(なぜだろう?)

☆茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム 「私」というミステリー』(NHKブックス:2001.12)

 本書は実に手際よくかつ平易に脳科学の最前線の話題を読者に提供し、ブレイクスルー前夜の理論構築現場に立ち会わせてくれる卓越した啓蒙書である。読者をして心と脳の関係をめぐるハード・プロブレム解明への挑戦心をかきたててやまない優れた誘惑の書である。たぶん本書を熟読玩味し批判的に追思考するだけで、「私が心を持つとはどういうことか」(263頁)を解明する手掛かりが得られるのではないかとさえ読者に思わせる(そう思うのは私だけか)迫力を持った本である。理性の悲観主義、意志の楽観主義。これは確かトーマス・マンの言葉だと記憶しているが、本書のあとがきを読んで、私は改めて茂木ファンであるとの自覚を強くした。──超越論的という言葉が経験の条件にかかわるものを表現しているのだとすれば、茂木氏がめざしているのは「超越論的脳科学」なのだろう。すなわち「私たちの体験のリアリティを生み出す脳というシステムの成り立ちの本質」(253頁)を解明し、「いかにして、物質である脳から、クオリアに満ちた私たちの心が生まれるのか? いかにして、ニューロンの活動から、何かを「志向する」心の状態が生まれ得るのか?」という、結局解けないかもしれない「大問題」(275頁)を解くこと。しかし「心と脳の問題を考えるということは、すなわち、主観と客観の関係を考えるということである」(231頁)と茂木氏が書くとき、この「大問題」がなぜか色褪せた哲学的駄弁(問題感覚=哲学感覚を欠いた出来合の問題をめぐる堂々巡りの議論)の対象に転落してしまう。茂木氏が本書で展開している議論が色褪せた哲学的駄弁と同類だと言いたいのではない。それはむしろ逆で、ミラー・ニューロンの発見や両眼視野闘争の実験、チンパンジーや自閉症における心の理論等々、最新の脳科学と認知科学の知見を踏まえた茂木氏の議論は、それこそ真正かつ斬新でスリリングな「来るべき形而上学」(ノヴァーリスの「新しい自然学」?)の前夜を予感させるものだ。(たとえば、本書を読みながら私は柄谷行人著『トランスクリティーク』第一部のカント論との「同型性」をしきりに感じていた。脳科学のシステム論的転回とカントのコペルニクス的転回、あるいは茂木氏の著書の隠れたモティーフである「見るためには道徳がなければならない」という哲学者ジョン・ホージランドの主張とカントの超越論的視点との関係、等々。)茂木氏が哲学者の議論に対して「ナイーヴ」(97頁)なのが問題なのではない。哲学的手垢にまみれた用語(表象、志向性、主観性、抽象、意識と無意識、感情と情動、空間と時間など)の使用が問題なのでもない。真正の科学理論と真正の哲学的思考とを接合する「共通のフォーマット」(198頁)の不在こそが問題なのだと思う。共通フォーマットを形成し脳科学の「システム論的転回」の実質をより積極的に示していくためには、哲学者(たとえば「心身問題」とは現在と過去の関係の問題だという中島義道氏)との対話による議論が必要なのだろう。養老孟司氏も推薦文で「著者といろいろ議論すれば面白いだろうと思わせる本である」と書いている。──本書には他にもいろいろ興味深い指摘や示唆が盛り込まれているのだが、「古代の人の心の化石など残っていない。残っているとすれば、レリーフのような芸術作品が唯一の化石である」(256頁)という指摘に関して一言。『白川静の世界』(別冊太陽)所収の岡野玲子との対談で、白川静が「僕は古代におけるそういう世界[霊的な世界]というものを、文字の形を通じて復元してみせておる訳です」と語っている。「心身問題」の原型が「漢字」にあるなどと言いたいわけではないけれど、少なくとも漢字は「心の化石」の一例だと思う。
 

★今月の棚卸し

 読みかけのままの本が何十冊と書棚に並んでいて、眺めるたびうらめしげにアピールしてくる。途中でほかのことに手と眼と時間をとられ止むをえず放置したか、強烈な刺激をうけて自分勝手な思考が始動してしまいそれ以上読み進めるとかえって頭がフリーズしそうになって他日を期すことにしたか、それともばかばかしくなって止めてしまったか、理由は千差万別だけれど、そういった類の書物がたまってくると気になってしかたがない。しかも月々増えていくものだから、気にするどころか気を病むことになる。だから時々「棚卸し」(要するに、速読、流し読み、部分読み、一瞥、透視のこと)をしておくことにした。いずれ全編を精読する機会もあるだろう(と思う)。

☆内閣府『平成13年度 年次経済財政報告』(2001.12)

 いまだかつてちゃんと隅々まで読み切ったためしがない「経済白書」の衣替え版第1号で、副題は「改革なくして成長なし」。読み手にやさしいフレンドリーな内容、経済分析と財政分析の総合、過去を振り返るのではなく今後の経済財政政策を企画立案するのに役立つ前向きなもの、の三つを売りにしている。確かに読みやすい。でも、結局、経済財政政策の目的はやっぱり「成長」なんだな。で、結局、今回もまた全編を読み通すことはできなかった。

☆保阪正康『医学部残酷物語 もう医者にはなりたくない』(中公新書クラレ:2001.11)

 たまに病院や診療所へ足を運ぶと、自分が複数の器官でつくられたモノであり、受付番号であることを体感させられる。待合所にたむろしている患者群をながめる私自身がそういう目で他人を見ている。これは仕方がないことだし(だって人が多すぎるのだから)、そういう態度(超越論的態度といっていいだろう)こそが医学的対象や治療対象を客観的に見ることを可能にしているのだから、要は、それも人間がとりうるいくつかの態度の一つだということを自覚すればいい(時と場合に応じていつでも括弧をはずすことができればいい)のだと思う。著者は、1990年代半ばから2000年にはいっての医学部学生は「生とはなにか、死とは何か」「医学や医療はどこまで許されるのか」「医学・医療は何に忠誠を誓うべきか」の3点を意識するところから医師をめざさなければならないと書いている(53頁)。というのも、1980年ごろから人類は医学・医療の知識や技術を大きく変える道を直線的に進み、手をふれてはならない「神の領域」にはいったからだ(151頁)。でも、そんなことは医学部学生だけの問題じゃないし、意識(心がけ)の問題でもない。

☆司馬遼太郎『本郷界隈 街道を行く37』(朝日文庫:1996.7/1992)

 数年おきに「司馬漬け」状態になる。後記の小説に馴染めなくなってからは、文明論やエッセイが中心になった。街道を行くシリーズでは海外篇を中心に少しずつ読み進めていて、日本篇はもっと年をとってからにしようと思っていた。今月、大学生の息子が菊坂に引っ越しをした。訪れる機会が増えそうなので、常備本として購入した。いま「司馬漬け」になる余裕も予定もないので、一気に読むことはひかえた。今月は『この国のかたち 六』(文春文庫)も少しだけ読み進めた。つくづく凄い作家だと思った。

☆池内紀『ゲーテさん こんばんは』(集英社:2001.9)

 池内訳『ファウスト第二部』を山本容子さんの挿絵付きで読んで、ファウストのイメージがあっけらかんと変わってしまった経験がある。そのファウスト翻訳中の余録として(?)書き続けられたエッセイ集で、これは実に楽しい本だ。

☆丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス:2001.6)

 本書に収められた41編の「イギリス書評」のうち、四つは『鳩よ!』1999年8月号で読んだ。なかでも初期ベンヤミンを肴にジョージ・スタイナーが書いた「エヴァがアダムを誘惑したとき、いったいどんな言語で誘ったのか?」の強烈な印象はいまでも覚えているし、このたび読み直してみてもやっぱり凄いと思った。この書評を800字足らずで紹介しきる丸谷才一の文章もまた名人藝。

☆鎌田東二編著『謎のサルタヒコ』(創元社:1997.10)

 猿田彦の神は「先がけ・先導・道ひらきの神」である。「猿田彦のことがわからなければ、日本の神のことは本当にわかったことにならないよ」。中上健次が生前の対談で鎌田東二に語ったこの言葉から本書は生まれた。総勢14名がフォーラムや座談会、エッセイや紀行文で参加した「本書の出版は一つの神事なのだ」と鎌田氏は書いている。(第1部のフォーラム参加者に美内すずえの名がある。そういえば『アマテラス』はいまどこまで進んでいるのだろう。)

☆A.L.ストラウス『鏡と仮面 アイデンティティの社会心理学』(片桐雅隆監訳,世界思想社:2001.3)

 監訳者あとがきによると、本書は「構築主義的なシンボリック相互行為論」の起点として位置づけられる書だという。書名に惹かれて手にとってみたのだが、私の当面の関心とはほとんど関係がなかった。つまり「仮面」と「鏡」をめぐる気の利いた、あるいは深い、あるいは斬新な、要するに端的に手っ取り早く引用できる記述は見あたらなかった。そもそも巻末の事項索引にこの二語が出てこないのはどういうわけか。

☆レジス・ドブレ著作選3『一般メディオロジー講義』(西垣通監訳・嶋崎正樹訳,NTT出版:2001.3)

 メディオロジーとはいわゆるマスメディア論ではない。いかにして人間の象徴活動が人々に伝播していくのかという、根源的かつ一般的な問いに答えようとする挑戦的な学問なのである。(監訳者序文)──それくらいのことなら知っている。だから、気になる。気になるけれども、500頁を超える本はさすがに荷が重い。《メディオロジーが問題にしようとしている問いをもう一度記しておこう。すなわちそれは、どのような媒介作用によって思想は力となるのか、いかにして言葉は出来事をなすことができるのか、いかにして精神は肉体を得るのか、ということである。/われわれはおそらく、こうした問いを掲げた最初の者ではない。最初からいってしまうが、この問いの答えも久しい以前から見出されていたのだ。その回答には馴染み深い名称が付されている。いわばわれわれのファミリー・ネームであり、それはビザンティン、ローマ、プロテスタントなどに枝分かれする手前の、始祖をなしたものである。その名は「受肉」である。》(第四講「受肉の神秘」)

☆『日本の論点2001』(文藝春秋:2001.11)
☆都留重人『21世紀 日本への期待 危機的状況からの脱却を』(岩波書店:2001.11)
☆神野直彦『二兎を得る経済学 景気回復と財政再建』(講談社+α文庫:2001.8)
☆川勝平太編著『世界経済は危機を乗り越えるか グローバル資本主義からの脱却』(ウェッジ選書:2001.12)
☆根井雅弘『シュンペーター 起業者精神・新結合・創造的破壊とは何か』(講談社:2001.10)

 『論点』は毎年手にするけれど、読み通したことがない。『期待』はさすが大御所の風格あり。『二兎』は前著『希望の島』の簡略版。『危機』は編者と岩井克人、松井孝典の鼎談が面白かった(議論がかみ合っていないようで不思議にかみ合っている)。『シュンペーター』はやや期待はずれ。ただし「起業者精神・新結合・創造的破壊とは何か」を手っ取り早く知りたかったがゆえの感想で、評伝としてはよくできているのではないか(と思う)。