不連続な読書日記(2001.11)




★2001.11

☆関川夏央『本よみの虫干し──日本の近代文学再読』(岩波新書:2001.10)

 関川夏央を読むとなぜか故開高健(1989年没)を思い出す。本書に収められた「ただ家にいたくなかった作家」で、関川夏央は『輝ける闇』を「死と食物が並列され、叫びと響きに満ちているようでいて静謐な小説」と評している。『輝ける闇』の開高健は『麦と兵隊』の火野葦平と『てんやわんや』の獅子文六と一緒に「自分の戦争、他人の戦争」の章で取り上げられていて、その扉に関川夏央は次のオマージュを捧げている。《戦争小説は、前線を描いたものでなくとも、その人、その文化の本質をあらわにする。/広大な中国という存在そのものに圧倒された経験を火野葦平は書き、獅子文六はむしろ戦後の平和の中に戦争を描いた。開高健は、他人の戦争が突然自分の戦争になりかわる瞬間の恐怖を書いた。それらはいずれも戦争と歴史の本質にかかわるものであったから、一時は広く読まれても、永く読みつがれることはなかった。人は本質に直面するとたじろくのである。》──文学はもはや教養や鑑賞の対象ではない。文学は個人的表現であると同時に時代精神の誠実な証言であり必死の記憶なのであって、つまり史料であり歴史である(まえがき)。本書で「虫干し」されるのは怠惰な文学的感性であり、再読されるのは肉視される歴史である。(取り上げられた59編の「史料」のうち30編が未読。未読本のうち吉川英治の『宮本武蔵』を「再読」することにした。)

☆吉川英治歴史時代文庫14『宮本武蔵(一)』(講談社:1989.11)

 小説の面白さを思うとき、きまって頭に浮かぶのが『ドグラマグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』の探偵物、ウージェーヌ・シュー(だったかな)の『さまよえるユダヤ人』(だったかな)や『神州纐纈城』『富士に立つ影』『大菩薩峠』といった時代物で、これらの作品にはいずれも独特の過剰が萌えていた。放縦なまでの語り口の転換や物語の分岐によって自同律(人格的一貫性)や排中律(善悪二分)はもちろん時には矛盾律(時空構造)ですら軽々と打ち破られ、登場人物の内省や内語や内観でさえ朧気な主体の輪郭から漏れ出て宇宙大のフィールドへと拡散していく。聴覚的物語。──『宮本武蔵』は獣が人間に成る(成り下がる)物語である。全編読み終えてから、井上雄彦の『バガボンド』に挑む所存。

☆江川達也『源氏物語 第壱巻桐壺』(講談社:2001.10)
☆橋本治『窯変源氏物語1』(中公文庫:1995.11/1991)

 桐壺だけならこれまで何度読んだことだろう。原文、円地訳、与謝野訳、等々。原文・註・解説付の江川訳現代絵巻を読みとても新鮮で、初めて源氏物語の世界に触れることができたような気がする。たとえば「この皇子のおよすけもておはする御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを」を「この皇子の成長していく姿かたち性格がこの世に存在しない“愛”そのものようにまで見えるので」と翻訳する(この箇所は巻末の対談「源氏のエロスを掘り下げる」で大塚ひかりも指摘している)。原文に忠実な逐語訳に徹している反面、奔放過剰な性愛表現の逸脱が見事なまでに源氏の世界を醸造している。
 江口源氏に触発されて、読みかけのままだった橋本源氏の第一巻を読み終えた。「美とは力かもしれない」(桐壺,61頁)。この内省する光君の物語も捨てがたい。「窯変」執筆の動機を著者は次のように述べている。「源氏物語の中で、光源氏は“空洞”として存在している」「だったら自分がその空洞の中に入っちゃえ」(『源氏供養上』その一)。

☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師9 玄武』(白泉社:2000.3)
☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師10 大裳』(白泉社:2001.6)

 今年4月に第3巻まで読んで、まだ購入していなかった第4巻から第8巻を抜かして一気に最新刊まで飛んだ。なぜこれほどまでに面白いと思うのだろう。第十巻で何かが極まっている。これから先が楽しみというより読むのが恐いほどだ。《思いがけぬ所[あたご]と思いがけぬ所[五岳]に導管が繋がっていてな それが開いたとたん こちらを発見してしまったのさ》(第十巻)。──『ダ・ヴィンチ』の2000年2月号と2001年10月号、『鳩よ!』の2000年10月号が岡野玲子の『陰陽師』を特集している。半永久に保存し、全巻完結した際熟読する予定。

☆内田樹『ためらいの倫理学──戦争・性・物語』(冬弓舎:2001.3)

 折に触れ思い出し間歇的に反芻するほど慣れ親しんでいるのだが、ふだん殊更あらためて意識し突き詰めて考えることもなくやり過ごしている漠然とした感じ。異和(いやな感じ)であれ親和であれそうした曖昧かつ朦朧たる思想の種のようなものの実質を鋭く問い、十全・柔軟に展開し、明晰・精緻に言語化した文章にめぐり逢うことは本読みに時たま訪れる奇跡である。内田樹のエッセイ群はまさにそのような至福の時を与えてくれた。それは私自身の思考の質を発見することでもあった。──倫理とは曖昧に耐え二律を生きることである。若くして(?)私はそのように喝破した。決断主義的に旗幟を鮮明にし立場に拘泥する(拘束される)くらいなら、優柔不断の誹りを甘んじて受けよう。それは超越論的と呼ぶべき態度だったのかもしれない。フロイトに関して内田が語る言葉を使うなら、それが事実であれ幻想であれ「経験が「事実」として生きられているということの重要性を、客観的な事実性とは「別の次元」で認知しようと」(36頁)する態度。あるいは語りの内容より語り方そのものを問う態度。それをユーモアと呼んでもいい。実際、内田の文章には上質のユーモアの薫りが縫い込められている。ユーモアとは「「自分は間違っているかも知れない」と考えることができる知性」(111頁)が醸し出すものの別名だ。倫理とは知性である。もはや若くない私は、本書を読み終えてそのように考えている。知性は「酸欠」や「泥酔」によって「蒙昧」に陥る(110頁)。知性は身体と不即不離である。そもそも「ふだん殊更あらためて意識し突き詰めて考えることもなくやり過ごしている漠然とした感じ」こそ身体がもたらす経験であった。内田樹のエッセイは身体=知性が紡ぎだした物語である。そのことに私の眠れる身体=知性が感応したのである。

☆山本芳幸『カブール・ノート 戦争しか知らない子どもたち』(幻冬舎:2001.11)

 現場に居合わせないと語れない事実がある。現場にいては見えない論理がある。事実を蹂躙する論理は妄想の翼を消耗させ、論理から遊離した事実は根絶やしにされ忘却の闇に沈む。──日本にいて著者は「現実遊離感」を悪化させつづけてきたという。それは非自由・非平等・非博愛の日本社会の因習のためであると同時に、現場に居合わせない者が紡ぎ出す出来合の物語と現場を垣間見た者が性急に語る粗雑な論理、つまりメディアと政治における想像力と言語の貧困がもたらしたものだった。《おそらく僕は、膨大な言語情報(正確には言語というより、音の羅列でしかない情報なのだが)を「知っている」と思っている。しかし、それらを触ったことも食べたこともない。より根本的には考えたこともない。僕はこれまでほとんどすべての情報をその実際と関連づけることができなかったのではないだろうか。》(フラッシュバック「分断された音の記憶」)──私は『カブール・ノート』を書くことによって、日本で壊れた精神の瓦解を拾いつづけていたのかもしれない。著者はあとがきでそのように書いている。人は結局、自分のことしか書けない。だから、人の魂を撃つ。現場で遭遇する事実と現場を離れてこそ培える論理を融合する希有な精神の質をもった山本芳幸によるリアリティの探求の記録。

☆田中宇『タリバン』(光文社新書:2001.10)

 田中宇の文章はとてもいい。文学や思想、ノンフィクションや学術論文ではない、紛れもないジャーナリズムの文体が紙面に緊張を張りめぐらせ、行間もしくは紙背の志が滲み出ている。歴史と出来事と人々によって糾われる現実を、感情移入や抽象を排した冷徹といえばいえる抑制された文章でもってアクチュアルに立ち上げていく。正義面のジャーナリストの毒素はセンセーショナリズムを煽るマス・メディアと同列である。「フリーの国際情勢解説者」(ホームページにそう書いてあった)田中宇の私情を押さえた文章は、議論ではなく解説、事実と論点の提示に徹していて、ある種の清々しさすら漂っている。──《パキスタンはイギリスの植民地だったし、日本はアメリカに無条件降伏した歴史を持っている。このように負けた歴史を持っている民族は、歪んだキャラクターを持たざるを得ないのではないか。イギリスやソ連に侵略され、無数の死者や難民を出しつつも、民族として負けたことがないために、アフガニスタン人やチェチェン人は古き良き純粋な人々でいられるのかもしれない。》(第3章「サムライの国・アフガニスタン」,95頁)──《しかしこれは、ベトナム戦争のときにアメリカが「南ベトナム政府」を支援したのと同じで、冷戦時代の汚い代理戦争の繰り返しにすぎない。オサマ・ビンラディンもアメリカも、アフガン人にとっては「祖国を食いものにする人々」という点で同列だ。アフガニスタンの人々は、ビンラディン対アメリカという「グローバリゼーション」どうしの戦いに巻き込まれている。》(あとがき,214頁)

☆今福龍太『荒野のロマネスク』(岩波現代文庫:2001.8/1989)

 荒野とは現代の物質文明とテクノロジーが切り開いた新しいフィールドである。そこにはたえず移ろい移動し変容する運動性と混血の種が発生するエスノジェネシスの胎動がある。それは「アルトー的身体」(器官なき身体、リゾーム的身体、動物的身体)が立ち現れる層、「音と言語と身体の領域が奇跡のようにして一つの律動的感覚の連続体へと変化する」場、「音楽と言葉がある種の連続性を持った音響的実体であること」を気づかせる未知のテリトリーへと通じている。ロマネスクとはこうした荒野の新しい時間と空間を旅=移動する身体によって押し出される新しい言葉、詩と直覚とイマジネーションに満ちたアレゴリカルな「非‐小説」としてのエスノグラフィーの断片である。それは物語の内容と叙述と語りの三者が奇跡的な直接性によって結ばれるアナクロニー(時間変差)のゼロ度を達成し、純粋な肯定だけでできているインディオの言葉がもつ「世界が創りあげられるときの流動的であまねき力の所在を伝える能力」へと接続される。著者自身の解説がすべてを語り尽くしている。《本書はあえていえば、学問による歴史の収奪を脱して、思想の方法論的な「無時間」を指向した書物であるともいえる。そしてこの場合の無時間とはいうまでもなく、「歴史」の不在のことではなく、学問が対象化してきた歴史の時間性のなかで廃墟としてうち捨てられていった声や身体の瓦礫のなかから、あらたな「歴史」の空間と時間とを発見しようとするときの精神のある位相のことであった。》(299頁)

☆田口ランディ『根をもつこと、翼をもつこと』(晶文社:2001.11)

 田口ランディは空虚な器である。共鳴する器である。共鳴しシンクロする対象は多くは人間だが、時には場所や物、屋久島の木や森、動物や植物である。田口ランディは船大工である。言葉は魂を運ぶ船であり、しかも誰か他人の魂を運ぶ言葉である。感じたことを言葉にすると、そこに思いもよらなかった表現が立ち現れ、それが言葉の船に乗って流れていく、「感動」を乗せて。《私は書きながら、毎日、自問自答している。/今日、私は本当に自分が伝えたいことを書いたか、恨みや嫉みの気持ちを言葉に乗せなかったか。純粋に自分のためだけに書いたか。誰かをおとしめるような文章を書かなかったか。言葉を武器にしようとしなかったか。誰かを言葉で傷つけようとしなかったか。自分の自意識のために言葉を利用しなかったか。》(「言葉の船を流す」)──田口ランディは類い希な聴き手なのだ。ネット上に綴られた言葉から声が立ち上がる。この奇跡的な瞬間を私は何度も経験した。書物という形態において声は複数性・多声性を高め、空虚な器=書物は魂で充填される。

☆坪内祐三『文学を探せ』(文藝春秋:2001.9)

 ヤスケンvs.坪内戦争の一部始終が何といっても本書のハイライトで、それは「文学=批評としての書評」に賭けた著者が「ポトラッチ的書評/ためにする書評」に対して仕掛けた、というより売られた喧嘩を買った戦争でもある。《「書評」は単なる「情報」ではない。単なる[原文強調]「情報」ではないと今私が述べたのは、「情報」という「批評」性を持った「書評」もあるからだ。その本のどこを「情報」として取り上げ「書評」するか、それも一つの「批評」である。例えば「書評」が単なる[原文強調]「情報」であるなら、もはや本屋はいらない。インターネット書店で事足りる。》(「「書評」は誰のためにするのか」)──「筆一本」で生きる自営業者・坪内祐三の批評=書評に対する姿勢は、どことなく小林秀雄(江藤淳が描くところの)を思わせる。

☆原野守弘『探す力 インターネット検索の新発想』(ソフトバンクパブリッシング:2001.3)

 この程度の中身で一冊の本になるのだ。基本的にハウツーものなのだから「批評(や思想)がない」のは当たり前だが、検索を「ケンサク」と表記して、検索という行為そのものについての「本質的な理解」を重視したといわれても、内容がそれほど濃くないのだから説得力に欠ける。役に立つ情報も結構盛り込まれていたのだから、そんなに力まず実用に徹するか実例をもっとふんだんに取り上げればよかったのに。

☆二木麻里・中山元『書くためのデジタル技法』(ちくま新書:2001.11)

 本書はいったいどういう読者像を想定しているのかちょっと掴みきれないところがあったけれど、そこがかえって面白く感じられたし、思考、表現、編集に至る一貫した道具としてのコンピュータをめぐる純粋技術論(第2章)と、「メディアと身体」というテーマのもと展開される巨大なオンライン・デジタル情報をめぐる検索論(第1章)や思考と執筆と発表の技法論(第3章)との奇妙なアンバランスが、いまこの時点でしか書けない臨場感をもって「生まれつつある何か」の輪郭を示唆している。中尾浩他『マッキントッシュによる人文系論文作法』(夏目書房:1995)でそれと知られずに告知された世界の可能性が、本書で一つ次のステップへ到達した。PC倶楽部編『インターネット 読む・学ぶ・調べる 文学─歴史─思想─芸術』(毎日ムック,2001年3月)ともども、人文系の思考と表現に関心を寄せる者の必需品。

☆村上龍『eメールの達人になる』(集英社新書:2001.11)

 豊富に収録された実例が結構楽しめる。たとえば中田英寿へのメールで「>新しいマックの調子はどうですか?」に「ロナウドみたいな速さ。ジダンみたいな速さじゃなくて」云々と答えたことをめぐって、「PowerBookG3のことを書くときにも、サッカー選手の例を出して説明している」「サッカーファンにとって、中田とのサッカーの話は、メールでも、会って話すときも、それぞれ至福の時間だ」と自作解説している。妙におかしくて楽しい。技術論についても、メールの文章は簡潔が基本だが、相手に何かを依頼するとき「〜してください」と書くと図々しくて不快感を与える場合があるので、「〜していただけると助かります」と自分の利益をオープンにすることで誠実・率直・正直を演出するのがベターだ、「〜してくれるとうれしいです」と書くとさらに可愛くなると書いてあって、これも楽しめた。

☆村上龍『奇跡的なカタルシス フィジカル・インテンシティU』(光文社知恵の森文庫:2000.10/1999)

 本書の随所に象嵌された珠玉の言葉をいくつか。──《現地のスタジアムにいると、そういう歴史[百年以上の欧州サッカーの歴史]が、サポーターの声援とともにからだに浸み込んでくるような気がする。強烈な一体感がある。見方のゴールが決まると、地響きをたてて発煙筒が燃え、スタジアムには爆発的な歓喜が充満する。現実のまっただ中にいるという強烈な実感。自分は世界から切り離されていないのだと思うことができる。世界や現実や歴史と身体的に接触するのは快感なのだ。》(「歴史」と身体的に接触する快感)──《サッカーの快楽は、選手の意志がプレーとして表れ、ときにそれが実現することにある。サッカーの攻撃は、圧倒的優勢を誇る敵陣に対して少人数のゲリラが仕掛ける周到で大胆な奇襲のようなものだ。運や偶然や敵のミスに頼ってはいけない。ベースとなるプランと、臨機応変な柔軟さと想像力が求められる。意志に基づいたプランと技術に支えられた想像力がプレーとして実現する瞬間が見たくてファンはスタジアムに足を運んでいる。》(「集団病」から自由な中田)──《サッカーのカタルシスは爆発的でそれがゴールという奇跡によって成立することを考えると宗教的ですらある。サッカーより刺激的な人生を送るのはそう簡単ではないような気がする。》(あとがき)

☆ノヴァーリス『青い花』(青山隆夫訳,岩波文庫:1989.8)

 この未完の小説の第一部「期待」は、水をめぐる二つの夢で語ることができる。──《まるで夕焼け雲にすっぽり包まれているようで、この世のものとは思われぬ感覚が体中にみなぎってきた。ひそやかな官能の歓びと手を結ぼうと、ほしいままな想いが次々と胸の内にわきおこり、いまだ目にしたこともない彫像が新たに浮かんできたかと思うとまた溶けあうように消えていった。だがいつしかそれが肉眼にもとらえられる生きものの姿となって青年の肌をつつみこんだ。四大元素のひとつ、やさしい水がまわりじゅうからふくよかな乳房となってまつわりついてきたのだ。たゆたう池の水は、じつはなよやかな娘たちの溶液で、それが青年の体にふれる瞬間、本来の姿に変じるかのようであった。》(17頁)──《マティルダは手をふって、なにか言いたげだった。小舟がすっかり浸水しているのに、マティルダはいうにいえぬ思いをこめた笑みをうかべ、ゆっくりと渦をのぞきこんでいたかと思うと、あっという間にその中へすいこまれていった。》(171頁)

☆木村俊一『天才数学者はこう解いた、こう生きた──方程式四千年の歴史』(講談社選書メチエ:2001.11)

 古代幾何学をほぼ極限まで突き詰めたギリシャ数学にも盲点があった。ギリシャでは「数」の概念と「長さ」の概念が別物だと思われていたのだ(第一章「古代の方程式」)。幾何学ではなく代数を基礎におくことで、個数と連続的な量の二つの数が実は同じものだという視点が生まれる。こうしてヴィエト、デカルトを通じて数と長さの完全統一が達成される(第二章「伊・仏・英「三国志」」)。解と係数の関係、すなわち対称性(方程式の係数は解の基本対称式である)の視点から方程式の解の公式を見つめ直したラグランジュは「目に見える美しさよりも、抽象的論理的な美しさを発見する才能にずば抜けていた」(第三章「ニュートンとラグランジュと対称性」)。そして抽象現代数学への道を拓いた二人の天才、アーベルとガロアの数学と生涯(と死)に捧げられたオマージュ(第四章「一九世紀の伝説的天才」)。

☆東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書:2001.11)

 東浩紀は本書の中心をなす第二章「データベース的動物」の冒頭で、「シミュラークル[=二次創作]の全面化」と「大きな物語の機能不全[=虚構重視]」という特徴をもつポストモダンの本質をめぐる二つの問いを立てている。第一の問いは「ポストモダンのシミュラークルはどのように増加するか」というもので、これに関して提示されるのが近代的な「オリジナル‐コピー」モデルに対する「データベース‐シミュラークル」モデルであり、大塚英志の「物語消費」と対比される「データベース消費」の概念である。《近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。その変動のなかで日本のオタクたちは、七○年代に大きな物語を失い、八○年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く九○年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた。》(78頁)──第二の問いは「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という疑問である。ここで東は、大澤真幸による戦後日本のイデオロギー状況の分析、すなわち「理想の時代」(45〜70年)と「虚構の時代」(70〜95年)の二分を受けて、「動物の時代」(95年〜)の到来あるいは「データベース的動物」という新たな人間像を提示する。《データベース型世界の二層構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では疑似的で形骸化した人間性を維持している。(略)近代の人間は、物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通して満たすことができた。(略)しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。》(140頁)
 著者自身が書いているように、本書のエッセンスはほぼ以上で尽きている。(データベース化された信念と記憶と歴史、そこからサンプリングされ身体化=動物化される表象、そしてそれらを媒介する「工学的」な命題知と能力知の体系。実に面白い。)この原理的考察から何が生まれてくるか、どのように「応用」されうるのか。著者自身は第三章で、予告編として二つの序論的試みを示している。その一は「ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか」をめぐるもので、ここでの考察を通じて、「超平面的」なシミュラークルの世界において働く「過視的」(=過剰に可視的)な欲望や視覚的な近代の超越性に対する過視的なポストモダンの超越性といった哲学的問題の所在が示唆される。その二はゲーム批評への応用で、具体的には『YU‐NO』をめぐるやや立ち入った分析がなされている。《このようなすぐれた作品について、ハイカルチャーだサブカルチャーだ、学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るために、本書は書かれている。》(174-175頁)
 補遺。アレクサンドル・コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』第二版の注(邦訳245-247頁)に、ヘーゲルがイエナの戦いの中に見た「歴史の終末」後の人間は動物として生存し続けると書いた。《人間が再び動物になるならば、そのもろもろの芸術や愛や遊びそれ自体が再び純粋に「自然的」にならねばならない。そうすると、歴史の終末の後、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散するよなものであろう。》──コジェーヴは、1948年から1958年までの間、合衆国とソ連を数回旅行して比較した結果、アメリカン・ウエイ・オブ・ライフがポスト歴史の時代に固有の生活様式であり「人間が動物に戻ることはもはや来たるべき将来の可能性ではなく、すでに現前する確実性として現れた」と結論づけている。また、1959年の日本(「ほとんど三百年の長きにわたって「歴史の終末」の期間の生活を、すなわちどのような内戦も対外的な戦争もない生活を経験した唯一の社会」)への旅行の印象をもとに、次のように書いている。《「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或は「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、「生のままのスノビズム」が「自然的」あるいは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。(略)日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。》

☆アングス・ゲラトゥリ/オスカー・サラーティ『マンガ脳科学入門 心はどこにある?』(小林司訳,講談社ブルーバックス:2001.11)

 本書を読んで想起したこと。その一。東浩紀は宮台真司との対談「データベース的動物の時代」(『週刊読書人』2001年11月30日)で次のように述べている。《僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。(略)経済学は金融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だから起きるわけです。社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけで、八○年代や九○年代といった枠組みよりも広い問題なんですね。(略)世界はすっかり工学的な知で覆われて、聖性などなくてもやっていけるようになっている。というか、正確には、「聖性」すらも工学的に供給しようという方向の世界になっている。(略)人間の行動を説明するのには三つのレベルがありますね。神経生理学的、認知科学的、そして精神分析的なレベルです。これは単純に言うと、理系的な人間理解、工学的な人間理解、文系的な人間理解に対応している。(略)現在の社会では、理系的な聖性の供給(ドラッグ)はあまりにも直接的で社会的に回収不可能なので、聖性の体験は、文系的な方法で行いましょう、ということになっているわけです。お祭りとか文学とか。けれども問題は、そのどちらでもない認知科学的な聖性の供給システムなんですよ。僕はこれを「萌え」と呼んでいるわけですね。(略)スノッブな消費者は、記号的差異に対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違うでしょう。》
 その二。田島正樹は『スピノザという暗号』(青弓社)の第2章「実在性」で、感覚質(クオリア)をめぐる信原幸弘の議論を批判しつつ次のように書いている。(ちなみに、田島氏はクオリアの知識を「能力知」に分類し「命題知」と区別している。)《…クオリアの差異を、物理的差異に「還元」することはできない。というのは、物理的差異は、クオリアの差異をつくり出すためにたまたま利用されているにすぎず、別の物理的差異によってそのシニフィアンを実現することも、当然可能であっただろうからである。(略)かくて、シニフィアンの成立が、クオリアの差異にも、クオリア弁別に利用される物理的特性にも、ある意味で先行せねばならない。それは、シニフィアンが自己保存力[コナトス]をもつということである。/感覚質は、行為や感情と同じようにそれを習得せねばならず、それは、逆上がりの技が「私秘的」でないという意味では、私秘的であるわけではないが、それを習得する能力をまったく欠いている場合には、それにアクセスすることができないものである。われわれがコウモリの感覚質を習得できないのは、感覚質一般が純内面的・私秘的なものだからではない。たんに、コウモリのもつ感覚─運動能力を欠いているためである。つまり、彼らのように飛行できないように、われわれは、彼らのように知覚できないにすぎない。》(109-110頁)
 その三。グレッグ・イーガンの作品集『祈りの海』(ハヤカワ文庫)に収められた標題作は、静謐な感動を湛えた佳品だった。《麻薬はここにだけあるのではない。(略)それはいまでは、ぼくたちの一部分だ。(略)だが、あなたがそのことを知っていさえすれば、それはあなたが自由だということだ。あなたの心を興奮させるなにもかもが、あなたを高揚させ、心を喜びで満たすなにもかもが、あなたの人生を生きる価値のあるものにしているなにもかもが……偽りであり、堕落であり、無意味であるという可能性に面とむかう気がまえがありさえすれば──あなたは決して、その奴隷になることはない!》(445頁)
 その四。丸谷才一は「イギリス書評の藝と風格について」(『ロンドンで本を読む』,マガジンハウス)で、優れた書評は流暢で優雅で個性のある文体をもって紹介と評価の機能を果たすことに加え、より高次の機能をもたなけれなならぬという。「対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺戟し、あはよくば生きる力を更新すること」、つまり批評性である。(『マンガ脳科学入門』はとてもよく出来た啓蒙書だと思うけれど、私はここで書評をしているわけではない。)

☆神崎京介『女薫の旅 陶酔めぐる』(講談社文庫:2001,11)

 複数の女性との同時進行的な「純愛」(唯一の恋愛)がいかにして可能か。あるいは倒錯的欲望や三角関係や嫉妬といった趣向を凝らさず、ただひたすら性愛描写を反復するだけでいかにして読者を飽きささないか。──神崎京介の「女薫の旅」シリーズは、東浩紀の「データベース‐シミュラークル」モデルで解読することができる。臭いや匂い、香りや薫りに彩られた性愛描写(小さな物語)の分岐的反復のうちに愛のデータベース(大きな非物語)が蓄積されていく、言い換えれば、動物的欲求(器官愛)と人間的欲望(人格愛)が解離的に共存したノベルゲーム。(このシリーズの時代設定も何やら意味深である。)
《近代の小説においては、主人公の小さな物語は、必ずその背後の大きな物語によって意味づけられていた。だからこそ小説はひとつの結末しかもたず、またその結末は決して変えてはならなかった。/対してポストモダンのノベルゲームにおいては、主人公の小さな物語は意味づけられることがない。それらの物語は、データベースから抽出された有限の要素が偶然の選択で選ばれ、組み合わされて作られたシミュラークルにすぎない。したがってそれはいくらでも再現可能だが、見方を変えれば、ひと振りのサイコロの結果が偶然かつ必然であるという意味において、やはり必然である。再現不可能だと言うこともできる。大きな物語による意味づけを運命だと考えるのか、有限の可能性の束から選ばれた組み合わせの希少性を運命だと考えるのか、おそらくここには小説とノベルゲームの差異にとどまらず、近代的な生の技法とポストモダン的な生の技法のあいだの差異が象徴的に示されている。…シミュラークルの水準で生じる小さな物語への欲求とデータベースの水準で生じる大きな非物語での欲望のあいだのこの解離的な共存こそ、ポストモダンに生きる主体を一般に特徴づける構造だと筆者は考えている。》(東浩紀『動物化するポストモダン』,124-125頁)