不連続な読書日記(2001.10)




★2001.10

☆マーティン・リース『宇宙を支配する6つの数』(林一訳,草思社:2001.10)

 天文学はもっとも古い数の学だ(5頁)という印象的な文章で始まり、科学には非常に大きいもの、非常に小さいもの、非常に複雑なものという三つの最前線があって宇宙論はこの三つをすべて含んでいる、つまり宇宙論は「根本的」な科学であり、それと同時にもっとも壮大な環境科学でもある(282-283頁)という断言で終わる。宇宙論の世界的権威が語る、心ときめく存在の物語。──著者は「ごく初期の宇宙を解明し、多宇宙の概念を明確にすることが、次の世紀の課題となる」(280頁)と言う。つまり、内的空間」である原子以下の世界と「外的空間」である宇宙とのウロボロス状の密接な関わり(20頁,286頁)を解明すること、そして原子大のミニ・ブラックホールとそこから始まる(われわれの宇宙をもたらしたものとは別の)ビッグバンの実在を解明すること。──著者はまた、「われわれの宇宙」と宇宙の集合体である「多宇宙」(マルチバース)とを区別し、前者の意味での宇宙を適切に定義するなら「存在するすべてのもの」ということになろうと言う(238頁)。宇宙空間の「無」はとても豊かな構造を持っている。いつか理論家は物理的実在を支配する基本方程式を書き上げられるようになるだろう。しかし、そもそも「何もないのではなく、何かが存在するのはなぜか」という根本的な疑問は哲学者が答えるべきものである(235頁)。この基本方程式(万物の理論)は、次の六つの宇宙数の意味を説明できなければならない。

◎陽子間に働く電気力(斥力)を重力(引力)で割って得た数N(10の36乗)◎核力(強い相互作用)の強さ、核融合効率(水素ガスが核融合してヘリウムになるときにエネルギーに転換される質量の割合)を示すε[0.007]◎宇宙の密度Ω[少なくとも0.3]◎自然界でもっとも弱くもっとも不可思議な力(反重力)を記述する宇宙定数λ[ゼロ以上]◎重力と静止質量エネルギーの比Q(10のマイナス5乗)◎宇宙空間の次元数D[3]

☆小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書:2001.1)

 バカに奨める本──物語を構成し意味が与えられた歴史書。バカに向いていない「読んではいけない本」──パスカル『パンセ』、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメル十八日』、山本常朝『葉隠』、夏目漱石『文学論』、折口信夫『古代研究』、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』、バタイユ『エロティシズム』、ブランショ『明かしえぬ共同体』、ロラン・バルト『表徴の帝国』、フロイト「モーゼと一神教」「ドストエフスキーと父親殺し」「トーテムとタブー」、河合隼雄『昔話と日本人の心』、丸谷才一『忠臣蔵とは何か』、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫『虚無への供物』、前田愛『都市空間のなかの文学』、それから小林秀雄とユングと中沢新一とカルロス・カスタネダのすべて。それぞれに付された著者のコメントが過激で面白い(ユング=オカルト、中沢=インチキなど)のだが、割愛。(このブックリストに載った本はほとんど読んでいる。それも何かと評判がいいので読んだものばかり。これもひとつのバカの典型。)

☆茂木和行『木から落ちた神さま ウィトゲンシュタイン・キリスト&釈迦』(毎日新聞社:1991.3)

 著者は元毎日新聞記者、サンデー毎日記者、ニューズウィーク日本版副編集長、フィガロジャポン編集長、生命誌研究館のサイエンスキュレーター、96年、聖徳大学助教授就任。宇宙と心と神の三つの問題を一つの統一した構図のもとに描き出せるとの直観をもって、第一部『無から生まれた宇宙』(既刊)、第二部『心の量子力学』(未完?)、第三部『幽霊と科学』の三部作を構想。本書はその第三部に当たる。《こう言えるのではないでしょうか。人類は「神の場」、すなわちX場を感じるようになった時に「ヒト」になった、と。言い換えれば、「X場」を感じることのできる唯一の生物(少なくとも地球上では)こそが、「ヒト」なのではないでしょうか。しかも、ヒトはX場を感じることのできる、たぶん唯一の「観測装置」なのです。》(192頁)──ここに出てくる「X場」とは、場としてとらえられた神のこと。この「X」をめぐる本書の議論は、次の「命題方程式」に示されている。X(キリスト教の神)は極限にある。X(仏教の仏)は極限である。Xは語り語りえない。Xは語りうる。この矛盾の解:Xは繰り込み可能である。Xの解は交換可能である。Xは状態である。Xは無限である(Xは部分と全体が等しい)。Xは背後にある。Xは、ダイモーンを解にもつ。

☆クザーヌス『神を観ることについて 他二編』(八巻和彦訳,岩波文庫:2001.7)

 訳者によると、ニコラウス・クザーヌス(今年が生誕六百年にあたる)の神秘的思弁の頂点をなすとされる「神を観ることについて」(De Visione Dei)は、クザーヌスの思想の神髄に向けたクザーヌス自身による「手引書」である。「神のイコン」(icon Dei)──その顔が巧みな画法で描かれていて、どの位置から見ても見ている人がその像から見られているかのように錯覚する「万物を見ている人物像」──をめぐる経験から説き起こし、突然、「主よ、あなたの観ることは愛することです」「あなたの観ることはあなたの存在することです」「あなたの観ることは生命を与えることです」「あなたを観ることは、あなたを観ている者をあなたが観て下さることに他ならないのです」──訳注でも指摘されていたが、『エックハルト説教集』(岩波文庫、93頁)に「わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である」という文章が出てくる──と、「至福直観」(visio facialis)が開示する摂理を語り出す。以下、「知ある無知」(docta ignorantia)や「反対対立の合致」(coincidentia oppositorum)の思想、目に見えない「原像」(exemplar)とその「似像」(imago)、普遍から個別への「縮減」(contractus)と「引き寄せ」(attrahere)、神による万物の「包含」(complicatio)と「展開」(explicatio)、そして神の三一性──「愛する者」と「愛されるべき者」と「両者の結合」の三者の一致としての神──や媒介=通路=門としてのイエス論へと、クザーヌスの語りはしだいに熱を帯びていく。(例によって眠気と退屈の虫を噛み殺しながら、ほぼ三時間近く自らを罰するようにして読み継いでいくうち、三一論あたりまで来るともうすっかり熱中していた。)

☆高橋秀明『言葉の河』(共同文化社[札幌市]:1999.7)
☆笠井嗣夫『声の在り処──反=朗読論の試み』(虚数情報資料室[函館市]:1999.9)

 数ヶ月前に友人から借りて、なかなか読む気になれなかった。もう何年も前から詩や詩論から遠ざかっていたので、相当気を入れないと言葉が腑に落ちてこないのだ。──高橋秀明(1951年、小樽市)が編み上げた言葉には、力があった。私はこの詩集に収められた十八編の詩をすべて声を出して読んだのだが、そこには確かに高橋が意識的に紡ぎだした「律動」があった。だから朗読していてとても気持ちがよかった。標題作「言葉の河」はとりわけ印象に残る作品の一つで、「言葉は死者と、そしていまだ生まれぬものとに属しています。彼らの持ちものであるなら、それは慎重に扱わねばなりません」というカフカの言葉に拮抗しうる喚起力を持っていた。(高橋の作品の魅力の多くは、言葉の映像喚起力によるものであると思う。詩人はこのことに時に苛立ちながら、そこかしこに声ならぬ音のイメージを張り付けている。)──笠井嗣夫(1942年、札幌市)の文章は、時にナイーブすぎるくらい率直に個人的経験や感覚を織りまぜながら、たとえば福島泰樹の「絶叫コンサート」に代表される「現代のオーラル派や朗唱派の詩人たち」への自身の異和の質を問い、戦中の詩歌朗読運動の分析やオング、デリダ、オクダビオ・パス、ブランショらの言説の丹念な読み込みを経て、「詩のことばが声に変換可能であるかのような錯覚と二項対立の外」に「聴衆が安易に共同体意識を形成しえないかたちでの朗読の場」を夢見る。聴衆はそこで、すなわち書物(活字の配置)の沈黙の中で、実在しない音や声(リズム、響き)を聴く。序章で引用されるマラルメの言葉──「自由詩とは個人的な転調に他ならない。なぜなら人間の魂とはどれも律動の結び目なのですから」「〈音楽〉をギリシャ語の意味で用いなさい。事実、それは〈観念〉すなわち諸関係間の律動を意味しているのです」──がすべてを語り尽くしている。

☆橋元淳一郎『われ思うゆえに思考実験あり 最新科学理論がもたらす究極の知的冒険』(早川書房:2000.2)

 著者が標榜する擬似科学的思考実験の醍醐味を味わえたのは第1章「葉緑体人間は可能か」で、自己意識(第2章・第3章)と時間(第4章から第6章)をめぐる議論は、個人的な関心に引き寄せて充分に楽しめはしたのだけれど、思考実験としての切れと濃度に欠けていたように思う。たとえば、自己意識を生み出すのは物質(エネルギー)の流れであって情報処理ではないとか、われわれが意識を考えるとき「高度の自律的活動」「無意識」「自己意識」「知能」「喜怒哀楽」の五つの生命現象を一括して意識と呼んでいるのだが、喜怒哀楽(感情=主観)こそがもっとも意識らしい意識であるといった、それ自体としては魅力的な議論が、擬似科学的奔放さやオリジナルな思考実験抜きで展開されるものだから、看板に偽りありと言わざるを得ない。実験とは何か、人間が思考実験をする動物へと進化していったのはなぜか、それが科学の営みとも関係しているのではないかといった原理的な考察を、擬似科学的思考実験でもって鋭く鮮やかに展開してみせてほしかった。

☆デイヴィッド・ドイッチュ『世界の究極理論は存在するか──多宇宙理論から見た生命、進化、時間』(林一訳,朝日新聞社:1999.11/1997)

 実在の織物(the fabric of reality)の四本の主要な撚り糸、つまりヒュー・エヴェレットの多宇宙(マルチバース)の量子論、カール・ポパーの認識論、アラン・テューリングの普遍的計算理論、そしてリチャード・ドーキンスの進化論という四つの理論がいっしょになって「ひとつの整合的な説明構造体」をかたちづくるならば、それは新しい世界観への全面的な移行をもたらす「最初の万物の理論」であるだろう。この第1章で高らかに宣告された方向に沿って、著者の議論は、多宇宙論に軸足を置きながら四本の撚り糸の平行関係を丹念にたどり、物理的実在の自己相似性をめぐる議論やタイムトラベルの思考実験(多宇宙にまたがる知識の「貿易」)を経て、「四本の撚り糸すべての統一は、哲学が基本的な前進を遂げるのに不可欠であり、意識に対する理解がいつかそこから生まれるだろう」(296頁)と予言し、最終章では、フランク・ティプラーの“オメガ点理論”[Frank tipler,The Physics of Immortality,1995]に準拠しながら、全知・遍在・全能の社会=神や死者の蘇りにまで説き及ぶ。まことに壮大かつ刺激に満ちた書物だ。

☆美園満『女美術教師』(フランス書院文庫)
☆美園満『女音楽教師』(フランス書院文庫)

 うまく言えないけれど、久しぶりにフランス書院文庫を読んで、何か新しい機軸、方向が生まれつつあるのではないかと思った。このジャンルでこれまでに案出された構図や文法や趣向を定石として取り入れながら、21世紀の純粋消費小説(?)への脱皮をそれと自覚せずに試みているというか。量の蓄積が自ずから生み出す質的転換。(それほど大袈裟に言うほどのことでもないか。)この作者は新人らしいが、相当な書き手になるかもしれない(見込み違いかもしれない)。何よりタイトルが素っ気なくていい。

☆中田力『脳の方程式 いち・たす・いち』(紀伊國屋書店:2001.9)

 21世紀の幕開けは、脳が真の意味で物理学の対象となったことを意味している。──全154頁(付録のメモ類を除くと127頁)の本書の90頁に刻まれたこの宣言から本論が始まる。「読者よ、本当に面白がるのは最終章まで待たれよ。そこで読者はブッ飛ばされる。思ってもみなかった角度から脳科学のパラダイムが引っくり返される。頭がガタガタにゆさぶられる」と立花隆氏の推薦文に書いてある。早くブッ飛ばされガタガタにゆさぶられたいと思って読み急いだのだが、20世紀の物理学と情報科学と脳科学と数学(ゼータ関数の話題が出てきたのが嬉しかった)の基礎と肝の部分が簡潔明瞭に、かつ天才科学者たちのライフ・ヒストリー(特にディラックをめぐる叙述は感動的)や著者の得意分野の話題(ファンクショナルMRI)を織りまぜながら生き生きと描いてあったものだから、本論に入るまでの助走部分だけでも充分に楽しめた。
 本論は、前座(脳の方程式)と真打(統一脳理論)の二部で構成されている。前段では、21世紀の科学(こころの科学)にとってのキーワードが一気呵成に提示され、複雑系の理論とシミレーションの関係をめぐる(推論の方法が同時に実在の生成過程そのものであることを踏まえた?)決定的に重要な指摘の後で、脳の形は「熱対流(heat convection)の法則」に従った自己形成からなるという「脳の方程式」が示される。そして最終章。それまでの叙述とはうってかわっていきなり抽象度が数段高くなるものだから、実をいうと私はちゃんとフォローできなかったのだけれど、たかだか11頁で概説される「統一脳理論」の仮説の要点は二つあると思う。その一は、「生体において「形」はもっとも重要な「機能」である」(99頁)のだから「脳がその形態の決定と発生のプロセスに熱対流の原則を用いるとすれば、脳はその原則を脳の基本機能にも応用しているはずである」(121頁)という推論である。その二は、「ニューロンが脳を形成する最小機能単位である」という脳科学のセントラル・ドグマへの挑戦である。

☆小室直樹『数学嫌いな人のための数学 数学原論』(東洋経済新報社:2001.10)

 小室直樹の原論シリーズ──『国民のための経済源』(光文社)『小室直樹の資本主義原論』『日本人のための経済原論』(以上、東洋経済新報社)『日本人のための宗教原論』(徳間書店)──に数学が加わった。出版元を見れば明らかなように、最近のロジカル・シンキングや学習ブームに乗ったビジネスマンのための数学原論で、入門と銘打たないところに著者の真骨頂がある。つまり「数覚(数学的真理を感得する知覚)」などはどだいあるかないかの存在の問題であって、数学世界への門は万人に開かれているわけではない、だから西欧原産の数学の論理のエッセンスとそれが世界のOSとしていかに力を振るってきたか(いるか)を万人向けに、とりわけ「論理音痴の日本人」のために語ってきかせようというわけだろう。語りおろし速成本(だと思う)特有の叙述の乱れや飛躍が散見されて、とても文章を噛みしめて味わうといった類の書物ではないのだけれど、執拗なまでに繰り返される中国人の論理や日本人の非論理、もう一つの社会のOSである法律の論理(嘘の効用)との比較、歴史の引用、科学や数学の方法と論理をめぐるかなり高度な議論(だと思う)など、なかなかどうして一筋縄ではいかない奥行きをもっているし、何よりも小室直樹という人が生きた論理とでもいうべき凄みをもって読み手の脳髄に直接ぐいぐい迫ってくるのである。ちょっと持ち上げすぎかもしれないが、読者の力量に応じていかようにでも読める本だと思う。

☆黒川信重『数学の夢 素数からのひろがり』岩波高校生セミナー4(岩波書店:1998.5)

 朝日ワンテーママガジン44『あぶない数学』(1995年1月)に掲載された「ゼータは生きている──類体論から霊体論へ──」を読んで以来、著者のファンになった。本書は3年ぶりの通読。この間なんども手に取り、目に馴染ませてきた。この本を読む(というより、ほとんど毎頁に繰り広げられている数式を鑑賞する)ことは、私のストレス解消法の一つであり長年つきあってきた持病である。中田力著『脳の方程式 いち・たす・いち』の44頁と49頁と136頁にオイラー積の話が、そして50頁と138頁にリーマンとゼータ関数の話が出てきて、ゼータ関数が「数論と量子力学とを結ぶ接点として注目されている」などと書いてあったのを読んで、ゼータ狂いが再発してしまった。「1+2+3+……=−1/12」とか「1×2×3×…=2πの平方根」といった奇妙な計算には、リーマンの名とともに強烈に惹かれ続けてきた。その証明が高校生向けの本書にきちんと書かれている。それどころか、すべてのゼータを統一して素数全体の空間の真の姿を研究する「絶対数学」の夢と、それがライプニッツのモナド(生きている点)や宇宙の解明につながること、そしてこれらの夢が21世紀の中頃には完成するかもしれないことが書かれている。オペラ鑑賞と数論(とりわけリーマン予想)の「研究」を老後の楽しみにとっておこうと計画している私にとって、本書は恰好の入門書だ。

☆梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子『ゼータの世界』(日本評論社:1999.6)

 ゼータ狂いが再発して、急いで『ゼータの世界』(梅田亨・黒川信重・若山正人・中島さち子著,日本評論社:1999.6)を購入して、夢中になって眺めている。この本に収められた7つの文章はほとんど雑誌掲載時に読んだ記憶がある。もちろん中身はほとんど覚えていない。こんどこそ熟読玩味、詳細勉強の上、老後に備えることにしたい。以下、その昔書いた文章を添付。──「ζの世界」の特集を組んだ『数学の楽しみ』創刊号(1997年5月,日本評論社)に、「ζの世界は生物の世界によく似ている」(たぶん黒川信重氏の言葉)とある。そこに多様性と統一があるからというのだ。そういえば、同誌に掲載された「ゼータの世界を眺めて」で中島さち子氏は次のように書いていた。《数学の真髄にはつねに素朴な人間の感覚があり、それは2000年前,いや人が人になる前から(?)流れている自然なものですが,それはより雄大な,世界を統一する構造理念への準備であったかも分かりません.人が直観している最も原始的な宇宙の関数は何なのか──数学に哲学などの名を付けるのはあまり好きではないのですけれども,もともと文学も医学も生物学も,すべて共存しうるのでしょう.この不確定で混沌に満ちた学問は,ゆっくり,最も原始の世界に同化してゆく感じがします.》この実に気持ちのよくなる文章(筆者は現役の高校生なんですね)に出てくる「原始の感覚」とでもいうべきものは、「歴史の概念」について考える際の一つの足場になるはずだ。

☆ルパート・シェルドレイク『世界を変える7つの実験 身近にひそむ大きな謎』(田中靖夫訳,1997.3/1994)

 シェルドレイクといえば「形態形成場」(モルフォジェネティク・フィールド)における時空を超えた「形態共鳴」の理論(私はこれを「形状記憶場」の理論と間違ってインプットしていた)で知られる。これは雑誌『ネイチャー』から焚書を宣告された『生命のニューサイエンス』で提唱された。 本書でも、たとえば次の文章が出てきた。《「拡がる心」とう概念は、魂が身体に浸透し、生気を与えているという伝統的な考え方に似ているが、私としてはこの概念は場によって解釈するのが一番わかりやすいと思う。身体は場によって組織化され、そのまわりは場に囲まれている。電磁場、重力場、量子場だけでなく、形態形成場も身体の発育やその形状維持に貢献しているし、行動の場、精神の場、社会の場によって、行動や精神生活が支えられているのである。私の形成的因果作用の仮説によれば、形態形成場、行動の場、精神の場、社会の場といったものは形態場としていずれも異なるものであるが、そこには個人の過去に由来する生来の記憶と過去の数限りない人々からの集団的記憶が含まれているのだ。》(165頁)──以下、シェルドレイクが提唱している「世界観を大きく変える7つの実験」を、目次に即して記録しておく。

第1部「ふつうの動物の超能力」=生物種・個体間の関係(コミュニケーション)に関する実験
 ペットは飼い主がいつ家路についたかを感知する?
 鳩はどうやって巣に帰る?
 シロアリはなぜ巨大アーチをつくれるのか?
第2部「心は脳の外へ拡がるか?」=心とからだの関係に関する実験
 見つめられている感覚
 幻肢はそこに実在する!?
第3部「ゆらぐ科学の客観性神話」=主体(実験者)と客体(実験系)の関係に関する実験
 「基礎定数」は変化する!?
 実験者の期待は結果を左右する!?

☆竹内薫・茂木健一郎『トンデモ科学の世界』(徳間書店:1995.12)

 5年ぶりの再読。思えばこの本のパートU「茂木健一郎のちょっとハードな「トンデモ科学の世界」」にすっかり触発されて、ペンローズの『皇帝の新しい心』を3か月かけて読み、翌年の1997年に刊行された『脳とクオリア』をむさぼるように読んで以来、すっかり心脳問題にはまってしまったのだった。今回読み返してみて、小林秀雄の『感想』から始まるパートT「竹内薫のわりあいソフトな「トンデモ科学の世界」」も結構面白かった(funnyではなくinteresting)。とりわけ量子時空とゼノンのパラドックスの関係を扱った最終章など秀逸。《…どうして、時間と空間が原始的な(基本的な)概念だと言い切れるのか。もしかすると、時間や空間という概念は、より基本的な原始概念から二次的に導かれるものかもしれない。また、時間にしても、誰がどうやって計るのか、という問題が効いてくる可能性もある。》(125頁)──ここに出てくる「原始的」という言葉の使い方は面白い。

☆奥泉光『ノヴァーリスの引用』(新潮社:1993.3)

 十年以上前の友人の死の謎をめぐる推理小説と幻想小説と恐怖小説の三態構成。知性の物語、想像力の物語、肉体の物語。そしてシューマンの作品47、ピアノ四重奏の響きとともに四人の男たちによって再び封印される死者の記憶。最後に明かされる「復活」の痕跡。《死者は去り、死者の記憶は消える。》(157頁)──グノーシス思想(反現実主義、反宇宙主義、霊肉二元論)がふたたび蔓延する時代を先取りし、身体性を抽象した「純粋な関係」への希求と身体的な営みからはじまる関係を肯定する「幸福な思想」(82頁)への憧憬との分裂を「刻印された肉体」をもって、文字通り身をもって生きた「帰国子女」の叫び──「アナタチハ、ネッカラノ、ニッポンジン、ナンダナ!」「アナタタチハ、死ンデイルノト同ジダ」。初期マルクスの疎外論にノヴァーリスの魔術的観念論を接ぎ木した思考を紡ぎ、背中に痣(聖痕)をもった魚(つまりイエス)が最期に残した言葉。《あなたたちは祈ることをしない。だからぼくはあなたたちを信用しない。祈るっていうのは想像することでしょう? いまとは違う現実に向かって、こことは違う場所に向かって、リアルに、いろいろに、想像を巡らせることでしょう?》(132頁)《人間は本当に理解しあうなんてことは絶対にできない。でも、人間には理解しあう以上のことができるんじゃないでしょうか? あなたたちが僕を理解しないで、僕があなたたちを理解しなかったのはたしかだと思います。しかし、本当は、僕らは理解しあうことなんかじゃなくて、もっと別のことをすべきなんじゃないでしょうか?》(134頁)

☆小島寛之『サイバー経済学』(集英社新書:2001.10)

 市場という海には魔物が棲んでいる。それは「不確かさ」を糧として、個と集団、ミクロとマクロの質的差異をもたらす「大数の法則」にのっとって棲息する。ケインズ理論はかつてこの魔物に対抗しうる魔法であった。しかしいまや魔物は進化し、新しい魔性を備えるに至った。《ジェーン・ジェイコブズはかつて『都市の経済学』という本で、こんな提案をした。/世界中が国単位よりももっと細かい都市単位で地域貨幣を創出する。そして、その地域貨幣のコントロールを通じて、安定的で地域色の豊かな経済社会の樹立をすべきである、と。これは実に有望な提案なのであるが、皮肉にも二一世紀の世界は、それとはまったく逆の方向に向かって突き進んでいるのである。/世界は、目に見えず触覚できない細密なネットワークを通じてリンクしていっている。そして、どこかに生じた障害は不可避的な形で世界全体を浸食していくだろう。それはあたかも、防御膜を失い、侵入した病毒に一瞬のうちに全身を汚染されてしまう抵抗力のない肉体のようなものである。》(33頁)──ネットワーク外部性をもったサイバー経済が誕生したのである。人々の欲望をかなえる貨幣の流動性に表現されたもの、すなわち資本主義の本質である自由がITに支えられあらゆる領域で拡張され、凶悪化した魔物は今にも邪悪な牙をむこうとしている。「そう、新しい市場は、新しい恐慌の舞台でもある」。この来るべき市場に住みついた怪物にかける新しい魔法、ケインズ理論を凌駕しこれを現代に復権させる新しい理論は、ベイズテクノロジー(ベイズ推定)など確率論の進化にかかっていると著者は言う。新しい数学に根ざした新しい経済学の誕生が求められている。

☆小島寛之『数学迷宮 カントール・レクイエム』(新評論:1991.9)
☆小島寛之『数学幻視行 誰も見たことのないダイスの7の目』(新評論:1994.6)

 数学エッセイスト時代の小島氏の処女作と第二作。いずれもこれまで部分的に拾い読みをしては結構刺激を受けてきた。第一作の著者紹介欄に「世田谷市民大学で経済学を勉強中。ケインジアンの仲間入りをするのが当面の目標」と書いてある。『サイバー経済学』で、その目標は達成されたのだろうか。
 『数学迷宮』は、それぞれ文体の違う四つの章で組み立てられている。カントールに捧げられた最終章「無限が牙をむくとき」が秀逸で、ボルヘス『アレフ』や『砂の本』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』まで出てくるのには読むたび感動する。《ボルヘスが描く「数学」は、数学本来の特性である明瞭さや確実さからかけ離れ、ひときわ幻想的である。だがそれは数学が宿命的にもつもう一つの側面(数学者の大部分はそれに気づかずにいる)、すなわち「情念」を詩人独特の嗅覚がかぎ分けたものであると言えるだろう。》(236頁)
 『数学幻視行』は、第一部「数学アレルギーに効く12杯のカクテル」も捨てがたいけれど、やはり第二部「思索家のための「科学の霊域」」が秀逸。とりわけ哲学における「言語」、数学における「数」、経済学における「貨幣」、物理学における「時間」という「四つの循環論」をめぐる最終章は結構刺激的だった。ケインズ理論の世界観が量子論のそれに酷似しているといった指摘など、言葉だけならサルでも言えることかもしれないが、なかなかどうして深いと思う。《私はこのケインズの貨幣論とハイゼンベルクの確率波の概念に奇妙な符合をみます。貨幣は流動性という不確定の数値をもっており、財に換えたとたん確定的なものになるというところに、不確定性の原理との神秘的な類似性を見いださずにはいられないのです。》(172頁)

☆川上弘美『いとしい』(幻冬舎:1997.10)

 川上弘美の文章はどこか生き物めいていて、何かが煌めいている。生き物めいているのは、マリエにからまったユリエの長い髪とか「意味を生きるひとは意味を生きることに終始するのである」と宣う神様とかいまだに死んでいるねずみのようなものとかオトヒコから出芽した「新たなもの」とか鈴本鈴郎がミドリ子にプレゼントした死んだ何十匹もの猫の絵とかデルボーの絵を思わせる森の奥の停車場で手をつなぎあっているミドリ子と鈴本鈴郎と蒸気機関車とか幽霊になって交わりつづける春画のモデルだったマキさんとアキラさんとか、その他諸々の生誕と生殖と無限に続く死の形象たちが、ユリエやマリエの母とチダさん、マリエと紅郎(こうろう)、マリエの姉のユリエとオトヒコ、チダさんとミドリ子、ミドリ子と鈴本鈴郎、紅郎と妹のミドリ子の恋愛譚をとりまいているからだ。煌めいているものを才能と名づけるしか私には能がなくて、それもまた生き物めいたものである。

☆利根川進『私の脳科学講義』(岩波新書:2001.10)

 この人はなぜこれほどの確信をもって、脳科学が進めば人間の感情や嗜好などの心の現象も物質的に説明できるようになると断言できるのだろう。宗教とか哲学が対象にしてきた概念や問題は脳科学がもっと進めば説明がつくだろうとか、文学もいずれは脳科学に集約されていくのではないかといった発言が出てくるたびに私は訳が分からなくなる。利根川氏の発言に違和感を覚えるのは、心の現象が立ち上がっていることと物質的な説明がつけられるプロセスが稼働していることとはまったく別の話なのではないかと思うからだ。科学者は実験や観察の対象(物質)に心の現象が立ち上がっていることを物質的現象(たとえばマウスの行動のような)を通じてしか確認できないのだから、結局、物質的現象と物質的プロセスとの対応関係を科学の方法でもって説明することが科学者の仕事なのである。だとすると利根川氏が言っていることはごくごく常識的なことでしかない。脳科学が進めば云々と予言めいたことを言い出すから訳が分からなくなるのだ。
 それでも本書は優れた科学啓蒙書であり「サクセス・ストーリー」だ。何よりも科学者としての利根川進の生き方や人物には魅力があるし、プライオリティ(優先事項)をしっかりさせることが重要だという指摘は人生の達人の言葉である。「私は科学するということは、それこそ人間の脳の本質的な属性だと思うんです」(160頁)という発言など実に鋭いし深い。実を言うと、私は脳科学がすべての学問を「包括」していくだろうと思っている。脳科学が哲学や宗教の概念を説明したり文学を集約するというのは、哲学や宗教や文学もまた脳の営みであるというあたりまえの事実を脳科学者流に表現しただけのことだと理解できる。自然科学の、とりわけ脳科学の最新の成果を踏まえない哲学や芸術など三流でしかない。世の中には碌でもない哲学や芸術が多すぎるというのが掛け値なしに一流の科学者である利根川氏の評価なのだとしたら、上で取り上げた発言の意味はまったく違った様相を帯びてくる。

☆朝永振一郎『量子力学と私』(江沢洋編,岩波文庫:1997.1)
☆R.P.ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』(江沢洋訳,岩波現代文庫:2001.3/1968)

 この類い希な個性、人を惹きつけてやまない磁性ならぬ滋性をもった二人の物理学者は同じ年(1965年)にノーベル賞を受賞した。その受賞記念講演や「二つ孔の実験」をめぐるそれぞれにユニークな解説文(朝永「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」、ファインマン「確率と不確定性──量子力学的の自然観」)を収録したこの二冊の本を、私はほぼ同時進行的に読み進めた。語り手の息遣いまで聞こえてきそうな物理学の本を読むのは久しぶりのことだった。

☆中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想──自然学から詩学へ──』(創文社:1998.2)

 このような書物にめぐり会えることこそ「生きる歓び」というものだ。どの頁を開いても濃厚、濃密といった言葉とは少しニュアンスの違う何かしら豊かで清冽な香気、猥雑なまでに豊饒なものを蒸留した澄み切った響きのようなものが立ち上がってくる。それは随所に引用されたまるで未来語で綴られたような──「生成途上にある」(435頁)思索が畳み込まれた──断章群と、ノヴァーリスの未完の生を愛おしみながら──かつ冷徹な解剖学者(パラケルススは森羅万象、万物がそれに従ってつくられる原型を知ることを解剖学と呼んだ:63頁)の手捌きをもって──これらの断章を整序編集する著者の端正で静謐な文章とが相まって醸し出す香気であり響きである。抽象化と具象化(ヒュポスターゼ)。純粋な意味作用。《ノヴァーリスにとって「抽象化」は、「浄化」「精髄化」でもある。数学、音楽、結晶、スコラ哲学などの抽象的なものの美とその美による魂の浄化の感覚がノヴァーリスにはある。》(268頁)──折しもベンヤミン「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」の新訳(浅井健二郎)が出た。中井氏がノヴァーリスや初期ロマン主義の現代性・同時代性の「発見」に関連して参照すべき文献として掲げるメニングハウス『無限の二重化──ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』ともども、本書によって啓示され告知された鉱脈への探索行の必携本として再読すべきだろう。

☆鹿島茂『セーラー服とエッフェル塔』(文藝春秋:2000.10)

 日本のSMで亀甲縛りという複雑で過剰な縛り方が生まれたのはなぜか(SMと米俵)、イソップ寓話の「キリギリスとアリ」がどうしてラ・フォンテーヌの寓話では「セミとアリ」になったのか(セミとキリギリス)、女性の乳房がいつも膨らんでいるのはなぜか(愛とはオッパイである)、なぜセーラー服が女学生の服装となり男たちのエロチックな夢想を誘ってきたのか(セーラー服の神話)、ポルノ小説の発生と黙読の秘められた関係(黙読とポルノ)等々、好奇心と懐疑精神と「仮説癖」の赴くまま鹿島茂が縦横に才筆をふるったブッキッシュなエッセイ集。

☆池澤夏樹『むくどり通信』(朝日新聞社:1994.5)

 池澤夏樹さんが最近始めたメールマガジン(新世紀へようこそ)のことが新聞で紹介されていて、ためしに購読することにしたのだが、考えてみるとこの人の文章はこれまでほとんど読んだことがなかった。遅ればせながら手にとった本書に収められた五十本のエッセーは1993年の1月から12月まで『週刊朝日』に連載されたもので、弛緩も韜晦も嫌みもなく、文章家としての確固たる視点と格調を湛えたユーモアが漂う気持ちのいい文章だった。(癖になるかもしれない。)

☆村上龍/はまのゆか『おじいさんは山へ金儲けに 時として、投資は希望を生む』(NHK出版:2001.8)

 村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「蜂蜜パイ」は、生まれながらの短編作家である主人公が「これまでとは違う小説」を書こうと決意するところで終わっていた。主人公がめざすことになる長編小説はたぶん新しい家族小説だろうと私は思った。もう一人の村上龍は『最後の家族』を書き上げた。これはリアリズムの手法で書かれた寓話で、しかもこれまで誰も書いたことがなかった経済小説だ。さてもう一人の村上はどのような家族小説を披露してくれるのだろうか。──ここで「蜂蜜パイ」を持ち出したのには訳がある。それは二人の村上の作品の系譜にうかがえる平行関係を指摘するためではなくて、「蜂蜜パイ」に出てくる本物の寓話(熊のまさきちと親友とんきちの蜂蜜と鮭の交換の物語)を思い出したからだ。村上龍がこれに「対抗」して本書を書いたとは言わないし思いもしないが、ここに収められた十一の寓話は寓話としての出来が悪い。出来は悪いが、村上春樹の寓話にはない荒々しさがあって面白い。たとえば「鶴の恩返し」で、ツウとの悲恋を嘆き離別に打ちひしがれた若者に浴びせる「偉い人」の言葉。《それは違うぞ。おまえに、高い技術や、深い知識がなかった、というだけのことだ。おまえは無知で、貧しかった。それだけだ。理解できなかったとか、幸せにしたかったとか、そんなことは、何の関係もない。幸せにしたいという気持ちだけで、ほかの人を幸せにできる時代は、とっくに終わってるんだ》。

☆太田忠『最強のブックガイド 投資をするならこれを読め!』(日経ビジネス人文庫:2001.6)

 ジャネの理論は金利生活者的なメタファーに満ちている(斎藤環・浅田彰との共同討論「トラウマと解離」での中井久夫の発言,『批評空間』第V期第1号所収)。フロイトは株式市場で学んだ原理を無意識の欲動エネルギー(リビドー)の動きに見立て「リビドー経済」という画期的な理論を打ち出した(鹿島茂「フロイトと「見立て」」,『セーラー服とエッフェル塔』所収)。超越論的思考は金利生活ではなく株式投資によって培われる感覚に由来する?──投資はやってみなければ分からない。というより、およそすべての理論や思想には、それが生まれ育つ具体のフィールドがある。

☆吉本ばなな『体は全部知っている』(文藝春秋:2000.9)

 十三編のショート・ストーリー、というより大きな物語の切れ端、見本、あるいは種子が、モザイクのように組み合わされて、吉本ばななという原石をカットしていく。(こんな鮮やかな短編集を読むと、長い小説がなんだか下品で汗くさくて鬱陶しいものに思えてしまう。)──体が知っているものは、もちろん感覚であり、喪失や美しいシーンの記憶であり、幸福の予感なのあって、意味ではない。《生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシーンが私の魂を埋めつくしているのだが、生きていることに意味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。》(「おやじの味」)

☆田口ランディ『昨晩お会いしましょう』(幻冬舎:2001.10)

 五人の語り手による短編集。──二十歳の誕生日の夜、目隠しされ後ろ手縛りで双子の兄弟と動物のように交わって、不倫相手の「快楽の楽器」であることを止めた写真の専門学校に通うエロトマニアの麻由(「昨晩お会いしましょう」)。義父から受けた性的虐待のトラウマと、その義父を想像的に(あるいは現実的に)殺して埋めた死体の悪夢と交通事故で突然死んだ母親の霊に憑かれ、人恋しさに誰とでも寝る男運がなくて変態で病気の淳子(「深く冷たい夜」)。インターネットの出会い系サイトで知り合った人妻でM女の月子との性的関係を、亭主との間にできた子供を堕胎できなかったために失い「夕日の返り血を浴びて立ち尽く」す産婦人科医(「堕天使」)。心が離れた恋人に「嫌だ。行かないで。絶対に離さない」とすがりつき「おまえなんか嫌いなんだよ、顔もみたくないんだよ。もう二度と俺につきまとうな」と叫ばれて見物人に「バカみたい」と言われても、傷つけられたらこれみよがしにもっと傷ついてみせることでしか生きられない不器用な恵美子(「満月」)。取材で出かけた沖縄の島の民宿で雨に閉じ込められているうちしだいに浄化され、最後の日に訪れた聖地(ウタキ)でユタのアイコさんの祈りの歌を聞いていて「なにかしらの意味を求めようとしてしまう。そのくせ、自分が自分に与えた意味に絶対に満足できない。この十五年間、思うように書けなかったのはそのせいだ。私は意味を求めすぎた。求めるものを間違えてしまった」と気づく四十九歳の作家松原久美子(「ウタキ夜話」)。──ピンク色の死体(「深く冷たい夜」)と殺気を感じて子宮の中を動き回る胎児(「堕天使」)。二年ぶりの生理の血とガジュマルとの繋がり(「ウタキ夜話」)。