不連続な読書日記(2001.9)




★2001.9
 

☆港千尋『洞窟へ──心とイメージのアルケオロジー』(せりか書房:2001.7)

 洞見と洞察に満ちた知的刺激の書。本書の最大の魅力は、コスケール(1991年発見)やショーヴェ(1994年発見)といった旧石器時代の洞窟壁画、フォンテーヌブローの森にある「木靴の岩」に刻まれた線刻をめぐる具象的思考や「図像的推論」(パース)の透徹さにある。具象的というよりは、むしろ物質的と形容する方が適切かも知れない。第5章「脳と洞窟」に出てくる文章を借用するならば、「ニュートンによって自然のなかから締め出された感覚世界を、ゲーテ色彩論によって召還したハイゼンベルクの思想」(115頁)に共鳴しつつ、イメージ生成のメカニズムを「霊的物質」(生命ある物質)ともいうべきものに即して腑分けするその手つきが素晴らしいのである。(とはいえ、本書の「唯物論」的な側面については実地に体験していただく他ないと思う。)──《洞窟は支持体や材料ではない。画像の保存容器でもタイムカプセルでもない。洞窟は石灰岩でできた「素材」以上の何ものかである。芸術的な生命を与えられた場であり、生きた空間である。ショーヴェ洞窟を描いた人間たちは、長い時間をかけてこの洞窟の物理的な特徴を理解し、しかるべき場所にしかるべきイメージを配置し、鉱物空間に生命を付与することに成功したのである。》(187頁)

☆落合仁司『ギリシャ正教 無限の神』(講談社選書メチエ221:2001.9)

 翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない。これは永井均の著書に出てくる印象的なフレーズなのだが、これを落合仁司流に言い換えれば次のようになる。普遍言語(数学)で洞察する者にとって「神の存在公理」(NBG公理系の無限公理、あるいは完結した全体としての無限=現実的無限:本書267頁、117頁参照)は自由な信仰の対象であるが、民族的地域的な言語で空想する者にとってはそうではない。また前者(洞察者)にとって「神の多一性」や「神の自己超越性」──ギリシャ正教の二大教理では、神の異なる三つのヒュポスタシス(実存)は同一のウーシア(本質)を持つとする「トリアス」(三一論)や人間はこの世界の他者(現実的無限)である神のウーシアには接近すらできないが神のエネルゲイア(活動)には一致しうるとする「パラミズム」──は数学的証明(神学的弁明)の対象であるが、後者(空想者)にとっては信仰の対象もしくは端的に非合理──この世界の他者である「神が人に成る」ことも「人が神に成る」こともともに矛盾──である。(「非合理ゆえにわれ信ず」などと極めて無責任な発言をしたラテン教父もいた。ただしこれは落合氏の言。)

☆村上龍『ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界II』(幻冬舎文庫:1998.4/1996.5)

 この作品には長い科白を割り当てられた三人の人物が登場する。躁病のクン・マニア(「元気な人間が元気のない人に元気をあげる、これが東洋の価値観でしょう」)。コヤマを相手に「人間はなぜ不安になるか」と問いかけ──コヤマの答え「人間はなぜ不安になるか、を考える場合、有効なのはどうやって不安状態から脱しているかを分子レベルで解明することだ」──地下で暮らす浮浪者の泣き声について語るシスター・レイ(ワカマツがつくるのは「歌ではなくて音楽なのだ、歌は世界中で死んだ、…歌は常に泣き声でうたわれる」)。ヒュウガ・ウィルスから生還し「圧倒的な危機感をエネルギーに変える作業」についてコウリーに語るジャン・モノー(「想像するんじゃない、刻みつける、…現実を正確につくらなきゃならないんだ」「いつかぼくはニジンスキーが踊るところを、詩にしてみようと思うんだ」)。彼(女)らの語りは「アンダーグラウンド」の実質を逆転写、いや逆照射し、そしてその語りのバックグラウンドには「向現」が潜んでいる。──コウリーによるインタビューと見聞記で綴られたこの作品で、たぶんもっとも多くの科白を割り当てられているのはオクヤマ中佐である。

☆西山豊『自然界にひそむ「5」の謎』(筑摩書房:1999.12)

 ヒトデの足はなぜ5本かという謎をめぐり、オイラーの多面体定理(V[頂点の数]+F[面の数]=E[辺の数]+2)を経て、卵割された32個の細胞の配置をサッカーボール(準正32面体)でもって説明する前編。後編では、被子植物で双子葉植物、つまり進化論的に高等な植物群に5弁の科数が多いのはなぜかという5弁の謎を追って、フィボナッチ数列と黄金比を結ぶルート5を一瞥しながら、バックミンスターフラーレン、略してフラーレンというサッカーボール型分子に行き着く。こういう書物を私は好きだ。

☆吉田武『虚数の情緒』(東海大学出版会:2000.2)

 数学独習者の必携本『オイラーの贈物』(海鳴社:1993)、初学者向けの可憐な『素数夜曲』(海鳴社:1994)に続く第三弾(?)。副題が「中学生からの全方位独学法」で、書名の英語訳は「Square root of minus one:Mathematics,Physics and Human mind.“Imaginative in All Directions.”」。ルビの振られた活字群の美しさは絶品。特に「巻頭言」は圧巻。《世の中のあらゆるものに「正解」が存在する,と著者は信じている.…》(巻頭言)──作者自ら自認するとおり、希に見る「奇書」である。《脳が脳を理解する.虚数が虚数を記述する.》(514頁)──全千一頁の枕頭の書。頁数まで、何やら意味ありげだ。一度や二度ではとても味読し尽くせないし、大団円に向かうあたりに批判の虫が刺激される箇所もあった(ような気がする)。詳細の分析は他日を期す。それまでにまだ未読の『ケプラー・天空の旋律』(共立出版:1999)を是非読んでおこう。

☆江國香織・文/飯野和好・絵『草之丞の話』(旬報社:2001.8)

 活字を拾うだけなら一、二分で読めてしまう。幽霊の侍(草之丞)と天真爛漫な女優(れいこ)との間に生まれた十三歳の「僕」(風太郎)の五月から十二月にかけての体験談。十月のある夜、ふろ場で幽霊の父から年をきかれ、もう一人前の男だなと言われて「僕は胸がしわっとした」。

☆川喜多愛郎・佐々木力『医学史と数学史の対話 試練の中の科学と医学』(中公新書:1992.11)

 カバー裏に「医学と医学史こそ、これからの学問のモデルだ」とあるのを見つけて以来、いつか読まねばと思っていた。川喜多の『近代医学の史的基盤』を読んだ「気鋭の数学史家」(カバー裏にそう書いてあった)が、医学(医術)ないし医学史はどんな「哲学」でも飲み込んでしまうカオティックなところがあると感じ(69頁)、これに触発されて「科学論の医学史モデル」を構想する。それは「数学や科学も、いかに理想化された形態であれ、必ずカオティックな世界に面した技術的側面を有しているという認識から生まれたもの」(78頁)であった。数学史を医学史と同じように見ること、つまり「天使の営みとして数学を捉えるのではなく、死すべき有限な人間の営みとして数学を見る」(81頁)こと。──エピソードを一つ。戦前の京都大学の哲学教室では、哲学専攻の学生は必ず個別科学を最低一つはマスターすることを要求されたのだが、それは西田幾多郎の考えだったという(91頁)。

☆アーウィン・パノフスキー『ゴシック建築とスコラ学』(前田道郎訳,ちくま学芸文庫:2001.9)

 9世紀のエリウゲナから15世紀のクザーヌスまで、前・初・盛・後期のスコラ学とゴシック芸術との「類比性」をわずか14頁足らずで叙述し切り、1130年‐40年頃と1270年頃との間の時期(盛期)において両者の間にあったものが単なる「平行性」ではなく「真正の因果関係」であることを、スコラ学の二つの支配原理──「マニフェスタティオ」(顕示 manifestatio)と「コンコルダンティア」(和合 concordantia)、端的に言えば「視覚論理」(ヴィジュアル・ロジック)と「討論」(disputatio)──が建築にもたらした「精神習慣」(メンタル・ハビット)でもって解き明かす、たかだか53頁の疾風怒濤の論証。驚嘆した。

☆中込照明『唯心論物理学の誕生』(海鳴社:1998.1)

 以前、「脳と心の量子論」を特集した『数理科学』(2000年10月)で中込氏の「ライプニッツと現代物理学 機械と意識」を読み「量子モナド論」にいたく興味をいだいて以来、いつか読んでみたいと思っていた。予想と期待に違わず、実に刺激的かつ面白い読み物で、ほとんど一気に読み終え、興奮いまだ冷めやらない。《複数のコンピュータが相互に関係付けられたヴァーチャルリアリティを共有している状況で,ゲームをしている図はまさにモナド論の世界である.》(付録,161頁)──著者は方便、比喩と断っているが、私が見るところでは、そして著者自身が本文末尾で明かしているように、実はこの「コンピュータ・ゲームの喩え」はかなり本質を衝いている。

☆堀米庸三・木村尚三郎編『西欧精神の探求 革新の十二世紀』上下(NHKライブラリー:2001.7)

 上巻の「祈れ、そして働け─西欧の修道精神」(今野國雄)、それから下巻に収められた二つの講義、「大学と学問─自由な思索の展開」(今道友信)と「近代化学の源流─スコラ自然学と近代」(伊藤俊太郎)が読みたくて、それでも最初から順を追って14の講義と対談・鼎談を丁寧に読み進めていった。至福の境地とは、こういう読書体験を言うのだろう。

☆村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫:1997.4/1994.3)

 7年前読んだとき、これは画期的な作品だと思った。『ヒュウガ・ウィルス』に続いて再読して、やっとその意味が解った。言葉にするとあっけないものだが、この小説はバーチャル・リアリティの技術を駆使した対戦型コンピュータ・ゲームの言語版だったのだ。言語による描写こそ最古のバーチャル・リアリティ技術なのだからして、これは物語のDNAに則った原始的な作品である。──実際、この作品には至る所に分岐点がある。たとえば薬化学の研究員だった女性作業員やマツザワ少尉、日ノ根村(非国民村)で出会ったぞっとするような美しい女。彼女たちと小田桐との間には何事もおこらない。しかし「他人との出会いはそれだけで別の人生の可能性なのだ」(『最後の家族』)。これ以外にもワカマツや少女ダンサー、ヤマグチ、ミズノ少尉、等々、この物語には至るところに分岐点が用意されている。そもそも本編のプレイヤー小田桐自身が、「本土決戦を行なわずに、沖縄をぎせいにしただけで」降伏した大日本帝国の末裔、「「無知」のままで、生命をそんちょうできないまま、何も学べなかった」(135頁)日本人が住む世界からアンダーグラウンドへ分岐してきたのだった(物語の「原‐分岐」)。

☆山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書:2001.9)

 即身仏と天使とライプニッツと修験道とイスラーム哲学とスコラ哲学とセクシャリティと普遍記号学を一緒に考えている著者による「ブタでも書ける論文入門」。(即身仏云々は「あとがき」に出てくるスコラ的枚挙で、カバー裏の著者紹介には「専門のスコラ学だけではなく、現代思想、現代社会論、コミュニケーション論、身体論、修験道、ミイラなど」について研究していると書かれている。ブタでも云々は第1章に出てくる言葉だが、「参考文献」には矢玉四郎の「はれブタ」シリーズが挙げられている。これは確かに素晴らしい絵本だった。)──本書のハイライトは記号や略号の使用法(90〜126頁)、文献表の作り方や註の作法(157〜175頁)等々をめぐる「偏執者」的な(スコラ的な?)枚挙なのだが、随所に掲げられた例文が過激なまでに偏っていて実に面白かった(e.g.「トマス・アクィナス『能力論』における可能性と現実性の問題」[p.81f,p.179ff])。本書は、マニュアル本に徹することでもってスコラ学の、そしてスコラ学的な「精神習慣」によって培われた著者自身の思索(cf.『天使の記号学』)の要諦を語る類い希な奇書である。──《ここまで書いてきたことは、結局のところ、心の中にある思想の〈かたち〉を、文字に定着し、固定化した〈形〉にするための技法のことである。〈かたち〉は、ひらめきであったり、ビジョンであったりするが、それを見据えて手に取ろうとするとすぐに見えなくなる場合も多い。目に見える〈形〉にすることで、実は、曖昧であった〈かたち〉も明確になっていく。つまり、〈かたち〉は最初にありながら、最後に現れるものだということだ。そして、この〈形〉に表現する技法をハビトゥスとして考えているのだ。実は、この本は形而上学の以上のモチーフを論文執筆に応用したものだ。形而上学もなかなか役に立つのである。》(pp.193-194)

☆村上龍『最後の家族』(幻冬舎:2001.10)

 三時間足らずで一気に読んだ。ちょうど少し長い映画を一本観るくらいの時間。今回はちょっとした実験を試みてみた。あくまで言葉に即して読むこと、つまり言葉が喚起する映像を意識的に廃棄すること。たとえば登場人物の顔や情景を一切思い浮かべないようにすること。──『最後の家族』は10月18日からテレビ朝日系の連続ドラマで放映されることになっていて、脚本も村上龍が執筆するという。村上龍は小説とドラマ(脚本)の違いを意識してこの作品を書いたに違いないと思う。2001年10月から12月までの七つの出来事を四人の家族のそれぞれの身体(視点ではない)に即して微妙にずらせながら重ね描き、一つの家族の複数の履歴(物語ではない)を記録する。四人の家族はそれぞれ家族以外の異性との間で「別の人生の可能性」(295頁)を穿っているのだが、この四つのモナドの内部世界は一つのドラマや物語やシステムへと編集されることはない。そういえば作中で一度、テレビドラマに言及した箇所があった。《殴り合いのケンカをしたあとで双方が和解し、お互いに感動し合う。それはたいていラストシーンだ。テレビドラマでは和解のあとが描かれない。だが暴力はまた必ず起こる。暴力のあとの和解の感動は長続きしない。もう一度和解して感動し合うためには、次の暴力が必要になる。》(136-137頁)──家族というシステム、家族という物語、あるいは「救う・救われるという人間関係」(あとがき)に「介入」(190頁)すること、つまり分節=自立を経て「一人で生きていけるようになること」(285頁)。山内志朗氏の表現を借りるならば、目に見える〈形〉にすることで曖昧であった〈かたち〉も明確になっていく、つまり家族という〈かたち〉は最初にありながら──たとえば「殴らないで」(44頁)という言葉の力によって、いや端的に身体の力を通じて──最後に現れる。だからこの小説に描写されているのは「家族の最後」ではなく「最後の家族」なのだ。