不連続な読書日記(2001.8)




★2001.8

☆坂口尚『VERSION』上下(講談社漫画文庫:2000.12−2001.1)

 自己増殖機能をもち、全人類の知識と記憶を学習し終え、ついに“人類総体の自我”にまで成長したバイオチップ「我素」は、3次元を超える「青の次元」で生命体のゲノムに直接アクセスし、第三惑星に展開する“命”の連鎖に寄生した“私”──ブロックマスター(自我の主人)──の存在を知る。「我素」はブロックマスターのコピーだったのだ。

 人間は自我の主人[ブロックマスター]の部分なのだ 世界中に“私”は私を造り続けている
 “私”の新しい世界を創造しているのだ この惑星を美しく変えようとしているのだ!!
 “私”は創造を続けねばならん! だから“私”は新しい身体が欲しいのだ!! 人体の改造[バージョン]だ!!

 “私”がおまえと敵対することは何もないのだ! “私”の涸れることのないパワーの源泉からおまえの思いは湧き出ているのだ!
 違うーッ 私は“私”じゃない 違う 違う 違う……

 ブロックマスターと「我素」、“私”と“命”の戦い。──人魚に変態した「我素」に導かれ、「私の果て 私の思考区画[ブロック]の果て」の波打ち際で“思考の果て”の向こうの歌を聴く場面、そして“言葉”が生まれ変わり蘇る森で影男、最終変態を遂げた「我素」と語る場面は、とりわけ美しい。

 思考の果ての向こう 名のないすべての旋律…それが“私たち”だ “思い出が駆けめぐる存在”なんだよ
 城壁の裂け目の向こう 見えるものすべてが姿をもっている……みんないっしょだった頃の思い出がある
 “私たち”はいつもそばにいるんだよ
 あんたも“私たち”だったんだ………“思い出が駆けめぐる存在”なんだよ それを忘れないでおくれ………

☆アゴタ・クリストフ『悪童日記』(堀茂樹訳,ハヤカワepi文庫:2001.5)

 双子三部作(『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』)の第一作。ちょうど十年前に翻訳が出て、ずいぶんと評判になりブームにもなったのがつい最近のことのように思える。文庫化されたのを機に遅ればせながら読んでみたのだけれど、これがまあ比類のない傑作で、いまさら絶賛するのもちょっと気が引けてしまう。どこがどう面白いのかと問われて絶句し、「まあとにかく読んでみてください」としか言えないのも芸がないので、一言だけ述べておくと、この作品には怪物的な「知性」が躍動している。この知性の担い手は、言うまでもなく双子の「ぼくら」──固有名をもたない場所(小さな町)に住み、体と精神を訓練し、作文や不動の術や断食の練習をし、学習し(「作り話ではなく、事実を書いた本が読みたいんです」)、生き抜いていく、まるで二人の天使みたいに美しい「ぼくら」である。知性の双子性。この反省のない非ロマン主義的知性の形態を造形し叙述しえたことが、この作品の最大の達成だ。

☆三浦俊彦『可能世界の哲学』(NHKブックス:1997.2)

 このところ可能世界という語彙に執心している。本書は以前にも概読したことがあって、そのときは「ロジカル・ハイ」という言葉が気に入ったのと巻末のブックガイドが重宝だったことを(というより、それだけを鮮明に)覚えている。「論理学と数学は、一度は腰を据えてハードな教科書を読み通すことが大切です」とか「眩暈の感覚こそが知的陶酔の唯一の入り口なのです」といった印象的なフレーズは今でも頭のなかに残っている。(続編の『論理学入門』を続けて読んでいるのだけれど、その序文に書いてある「ロジカル・ハイの論理的解放」の境地を予感するところまではなかなかたどりつけない。)
 「哲学の究極の問い」、つまり「なぜこの世は他ならぬこのようであるのか?」という問いに、起こりうることはすべて起こっているとする可能世界の実在論(ディヴィッド・ルイス)は完璧な答えを与えてしまったようだと著者は書いている(193頁)。それでも残る問題、つまり「僕はなぜ存在しているのだろうか、なぜ存在しないのではないのだろうか?」「なぜ私は意識を持たぬものではなく意識を持つものとして存在しているのか?」といった問いについても、可能世界論にはこうした自己存在の謎(個体原理としての「このもの性」)を直観的に解決する偉業を成し遂げる力があるだろうと書いている(200頁)。そしてこの「意識と自己の問題」をめぐって、「論理空間の自己言及、もしくは論理の自意識とも言うべきシステムとしての心」や「物質の非物質的結合、いわば論理的結合の特殊パターン」としての心といった独自のアイデアを提出している(232頁)。私はこれらの議論に接して、まったく「眩暈の感覚」を覚えなかった。
 最近、可能世界を特集した『哲学8』(1989年秋)で丹生谷貴志氏の「『経験論と主体性』をめぐるノート」を読んでいたく刺激を受けたのだが、そのエピグラムに、ポール・ヴァレリーの「驚くべきことは、この世界が存在するということではなく、世界がこのようであってほかのようではないという事実なのだ」(『覚書と余談』)と、ウィトゲンシュタインの「神秘は、如何にしてこの世界が存在するかという点にあるのではなく、世界がこのようなものとして存在しているという事実にある」(『論理哲学論考』6.44)の二つの文章が掲げられていた。これらはそれぞれヴァレリーの問いでありウィトゲンシュタインの問いなのであって、三浦俊彦の問いではない。第一それらは「意識と自己の問題」や物質と心の問題などとは何の関係もない。だからこれらの「驚き」や「神秘」は、三浦俊彦の「可能世界の哲学」──「不可解の念や割り切れなさのまとわりつくあらゆる主題からその感じを払拭しようと努力する行為が哲学であるとするなら、可能世界論はまさに哲学を達成している」(231頁)──によっては答えを与えることができない。

☆和田純夫『量子力学が語る世界像』(講談社ブルーバックス:1994.4)

 『可能世界の哲学』巻末のブックガイドで「量子力学の多世界解釈については、なんといっても和田純夫『量子力学が語る世界像』が群を抜いて啓発的でした」と紹介されている。数年前にも一度、埴谷雄高の「死霊」九章や池田晶子の『オン! 埴谷雄高との形而上対話』などに続けて読んだことがあって、とても感銘を受けた記憶がある。最近、新装版が出た竹内外史著『集合とはなにか』と並ぶ、私の「ブルーバックス」ベスト・テンの有力候補。

☆パース『連続性の哲学』(伊藤邦武編訳,岩波文庫:2001.7)

 途方もない可能性、汲めども尽きぬ無尽蔵の「潜在性」をはらんだ書物だ。いま再読している。三度、四度と読むことになるだろう。(三度目の読みにはいったとき新幹線の中に置き忘れて二冊目を購入した。なくした本にはいろいろとチェックを入れ、後日の検索の便を講じておいたのでとても残念。潜在性の領域に沈んでいった愛読書に哀悼の意を捧げる。)

☆岡田雅勝『パース』(清水書院:1998.11)

 凡庸な本。「ダンディ」・パースの人と生涯とその哲学がほとんど戯画化されている。文章もひどい。「彼の人生の残りにとって、種々な外観において偶然について考え続けたのであった」(101頁)なんて、これ日本語かい。

☆丸谷才一・三浦雅士・鹿島茂『千年紀のベスト100作品を選ぶ』(講談社:2001.5)

 サイデンスティッカーが「異議あり」のコーナーで「この手のリストにまったく同感できるという者はまずあるまい」と書いている。「偏りにもそれなりの面白さがあるものである」とも書いている。実際、本書は選者たちの「偏り」と「付会」、つまりは「趣味」を楽しむ本なのだと思う。たとえば『新古今』(あるいは「古今‐新古今‐源氏物語‐平家物語」という系譜)と、フローベル(「フロベール‐ヘンリー・ジェームズ‐ジョイス‐フォークナー‐マルケス」)やボードレールのモダニズムをめぐる座談。──《…このベストテンに『ボヴァリー夫人』と『悪の華』が入っているというのは、要するにスポンタネイテ、自然な感情そのものでは文学はつくれないというのが、結局、一○○○年から二十世紀を経たあとに生まれた結論だという気がするんですね。》(鹿島茂)──《ボードレールはモデルニテということを最初に言った人で、つまり彼がモダニズムの創始者なんだけど、都市生活のうつろいやすい、たった今出てきた変なものの中に美の最高を発見するというあの考え方。あれは後鳥羽院が京都の町の歌謡をとり入れて自分の詩の中に入れたという、あのセンスと近いものがあると思って、実に洒落た感覚だなあと感心するんですよ。》(丸谷才一)
 ベスト100作品の魅力を綴った選者たちの文書がまるで連句のような趣向が凝らされていて面白かったので、そのさわりの部分を抜き書きしておく。──まず第1位になった『源氏物語』をめぐる丸谷才一の文章。《しかしもともと『源氏』にはプルーストと共通するものがあったから二人の翻訳者の文体が近づいたのだし、紫式部が遙かな昔に書いたものは一種のモダニズム小説であったから二十世紀の読者たちに歓迎されたのだ。》──第2位は『失われた時を求めて』で三浦雅士が担当。《『失われた時を求めて』は小説ではない。評論である。……ジョイスの『ユリシーズ』は演劇を思わせ『失われた時を求めて』は映画を思わせる。映画には焦点が一つしかない。レンズの焦点であり、監督の視点である。……『失われた時を求めて』が扱うのは十九世紀末から二十世紀にかけてのいわゆる世紀末だが、それは、明かりが蝋燭からガス灯へ、ガス灯から電灯へと変容した時代である。『失われた時を求めて』を一貫して流れる思索のリズムは、蝋燭の炎の揺らめきに似ているが、しかしその蝋燭の炎は電気照明によって照らし出されている。この詐術が人を驚かすのである。……独特な音楽を感じさせるのは、それが、過去の思索のリズム、蝋燭のリズム、つまりモンテーニュの『エセー』のリズムによって貫かれているからだ。》──第3位の『ユリシーズ』は鹿島茂。《モダニズムは化学と似たところがある。廃物を利用して、新しいものを生み出す点である。……文学の廃物から文学をつくるというモダニズムの究極の姿がここにある。》
 個人的には、『源氏物語』の正しい読み方をめぐる丸谷才一の説、ただ前へ前へと進んで、所々飛ばしてもいいからとにかく前に進んで止めないこと、がとても気に入った。(『源氏』と『失われた時』と『ユリシーズ』を数年ごしに読み続けている。間歇的に「読み進めて」いるのであって、挫折を繰り返しているのではない。)

☆カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本という国をあなたのものにするために』(藤井清美訳,角川書店:2001.7)

 日本は「未完の国家」である。まず第一に、日本にはアカウンタビリティの中枢が欠けている。アカウンタビリティはリスポンシビリティーとは違う。リスポンシビリティーは個人のモラルの問題だが、アカウンタビリティは政治の仕組み、つまりシステムの問題だ。官僚のモラルが問題なのではなくて、政治的アカウンタビリティの中枢の不在(中央の空洞、危機管理能力の欠如)が問題なのだ。これと裏腹の関係にあるのが第二の問題で、日本式の「コンセンサス・デモクラシー」はデモクラシーではない。「民主主義とはつまりは、市民間の対立や市民と権力保持者との対立を納得のいく形で解決するための一連の制度や慣行をいう」(86頁)のだから、対立の存在を認識しないデモクラシーなどナンセンスであり危険である。このように中央に空洞をかかえた日本の政治システムを改革する処方箋は何か。それは「パブリック・レルム(公共の領域)」あるいは「パブリック・スフィア(公共圏)」とよばれる領域、つまり「人びとが集い、語り合い、社会のなかで起きていることについての情報や、それについての自分の考えを交換することができる場」(194頁)をつくることである。──以下、著者は内政・外交の各般にわたる政治的論点(公共の領域で議論すべき問題)に即して議論を展開している。(ハンナ・アレントだったら数頁で書き切っているだろう。)

☆金子隆一『新世紀未来科学』(八幡書店:2001.2)

 何年かに一冊くらいの頻度でハードSFが読みたくなる。ガイドブックがわりに本書を読み始めて驚いた。たとえばディレーニイの『バベル‐17』(未読)を代表作として取り上げた「人工言語」の節など、優れた読み物だと思う。「SF小説──とりわけハードSFと呼ばれるものを中心に、その科学・技術的なアイデアに解説を加えたものは、国内ではあるいは初めてかもしれない」と著者は自負している。初めてかどうかを見定める知識と経験はないが、少なくとも私はこんな本を読むのは初めて。荒俣宏さんの『理科系のための文学案内』(だったかな)がこれと似た雰囲気を漂わせていたような気もするけれど。(八幡書店の本を読むのもこれが初めて。)──本書を読んでベアとイーガンの二人のグレッグがやはり気になった。で、いまグレッグ・イーガンの『祈りの春』を読んでいる。

☆鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想──未来のパラダイム転換に向けて』(藤原書店:2001.5)

 南方曼陀羅をめぐる長編評論に短文エッセイ、韻文、講演録から松居竜五との対談まで織り交ぜて、同じテーマと素材が文体と息遣いを変え何度も繰り返され、そのつど鶴見和子のオリジナルな発見の驚きが新鮮に伝わってくる。フラクタルな編集の妙。これぞ曼陀羅、これぞ萃点の移動。──萃とは「あつめる」の意。だから萃点とは「あつまるところ」、交差点である。《真言密教曼陀羅図では大日如来にあたるところなんです。つまり、さまざまな因果系列、必然と偶然の交わりが一番多く通過する地点、それが一番黒くなる。それがまん中です。そこから調べていくと、ものごとの筋道は分かりやすい。すべてのものはすべてのものにつながっている。みんな関係があるとすればどこからものごとの謎解きを始めていいかわからない。この萃点を押さえて、そこから始めるとよく分かるのであると言うのです。》(105頁)──萃点(著者は熊楠の造語であろうと言う)は、しかし中心ではない。萃点は移動する、「普遍性にいたる道のり」(松居竜五,154頁)を。それはたぶん、俗に言う「視点の移動」とは違う。《回々教国にては回々教僧となり、インドにては梵教僧となるつもりに候。》(土岐法竜あて書簡から)──本書で示唆的だったのはパースやユングと熊楠の関係、古代論理[paleologic]や内念[endocept]をめぐる議論だった。それに対して、ファジーやカオス、複雑系の理論と南方曼陀羅との連続性の示唆は、それだけだと何も言ったことにならない。パースが『連続性の哲学』の末尾で言う「数学的形而上学」(275頁)への手がかりを、たとえば萃点や古代的=粘菌的論理を「幾何学的トピックスすなわちトポロジー」や「関数の理論」(34頁)と絡めていくことが必要だ。