不連続な読書日記(2001.6-7)




★2001.6

☆幸田真音『日本国債』上下(講談社:2000.11)

 小説としての結構が下巻で崩壊している。フィクションとしての濃度が薄まり興はそがれたけれど、著者のメッセージは強烈に伝わってきて最後まで飽きずに読めたのだから、これはこれでよく出来ているのだと思う。それにしてもこの小説作法はどうにかならないものか。いっそ、ノンフィクションに徹すればいいのに。惜しい。

☆神崎京介『女運』(祥伝社文庫:2001.5)

 またまた読んでしまった。でも、これは失敗。

☆ロバート・B・パーカー『ペイパー・ドール』(菊池光訳,ハヤカワ文庫)

 久しぶりのスペンサー。シリーズ第20作。村上貴史の解説に「シリーズのなかで最も謎解きの要素が濃く、最も密なプロットを備えている」とある。ちょうどほど良い味わい。

☆宮脇淳『財政投融資と行政改革』(PHP新書:2001.5)

 この著者とは一度、ある会合で隣り合わせになったことがある。名刺交換もした。ただそれだけ。情報と資金の質、という言葉が印象に残った。

☆エリヤフ・ゴールドラット『ザ・ゴール』(三本木亮訳,ダイヤモンド社:2001.5/1984)

 村上龍がJMM [Japan Mail Media](No.115 Monday edition 2001年5月21日発行)の「編集長から」に寄せた次の文章で、ほとんどすべてが言い尽くされていると思うので、以下に丸ごとスプラップしておく。──実は、この文章を読んだその日に本書を購入した。読み終えて、この本は高速道路の渋滞解消のヒントになると思った。

 『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット著 三本木亮訳 ダイヤモンド社)という本を読みました。小説です。実は、この本は友人から推薦文を依頼されて、製本前のものを読むことになったのですが、「企業の究極の目標は何か」という副題がついていました。著者はイスラエルの物理学者で、TOC(Theory of Constraints:制約条件の理論)という、革命的な生産管理・サプライチェーン・マネージメントの理論を提唱した人です。
 正直なところ、参ったな、と最初思いました。生産管理がテーマの小説、と聞いて、これは面白そうだ、と思う人はあまりいないのではないでしょうか。
 ところが、読み始めると、一気に引き込まれて、500ページ近い大著ですが、1日で読んでしまいました。本当に面白かったのです。そして、これほどその面白さについて説明するのがむずかしい小説もめずらしいと思いました。
「アレックス、もう一度説明してくれ。どうしてロボットを導入したことがそんなにすごい改善だと思うのか」
「生産性が向上したからです」わたしは答えた。
「では、生産性とはいったい何なのかね」
 そういった会話が随所に登場します。業績が上がらず閉鎖に追い込まれつつあるアメリカ東海岸のある工場が舞台で、その経営者が主人公です。小説を面白くするために、主人公の家庭の危機も平行して描かれますが、この小説が持つ面白さの本質は別のところにあります。
 それは、「問題を正確に把握し、目標を設定し、解決策の仮説を立て、実行し、達成を得る」という過程は本質的にスリリングなのだということです。さらに言えば、危機に際した人間の思考過程こそがスリリングだということかも知れません。
 以前、映画『タクシードライバー』の脚本家であるレナード・シュレーダーから、この世には2種類の物語しかない、という話を聞いたことがあります。穴に落ちた人がその穴の中で死ぬ物語と、穴に落ちた人がその穴から脱出する物語です。穴から脱出するために、まず必要なことは何でしょうか? まず絶対に必要なのは、自分はこの穴から脱出したいのだとはっきり認識することです。そして、その穴がどういう穴で、自分がどういう状態なのかを客観的に把握することです。自分の意志を確認し、穴の状態を把握して、はじめて解決策について考えることができます。
 『ザ・ゴール』の主人公は、自分が穴に落ちていることを自覚し、穴から脱出することが自分の目標(ゴール)なのだということもはっきりと自覚します。物語はそこから始まるのです。次に、経営する会社のゴールと自分自身のゴールがどう整合性を持つのかと自問します。そして、そのゴールを阻害しているものは何か、について部下たち(あるときは妻や子どもたち)と論議を重ね、解決に向けた仮説を立てて、実行していくのです。
 『ザ・ゴール』で示されていることを参考に考えると、構造改革や不良債権処理はわたしたちのゴールではないことがわかります。それらは一つの手段にすぎません。それでは、ゴールとは何でしょうか? そもそも、「日本、あるいは日本経済のゴール」というものが存在するのでしょうか? カルロス・ゴーンは日産自動車のゴールとそのためになすべきことを全社員に示し、達成しました。小泉首相は、日本のゴールを示しているでしょうか? あるいは、すでに国・政府は日本人一人一人のゴールを設定することはできない、ということなのかも知れません。
 『ザ・ゴール』の解説には興味深い逸話が紹介されています。著者は、この本の日本語訳を長い間許可しなかったそうです。その理由は、部分最適化にかけては超一流の日本企業が、この本で全体最適化のノウハウを学んだら飛躍的な生産性向上が予想され、貿易摩擦が再燃して世界経済が大混乱に陥る、というものでした。著者が、この時期に、日本語訳を許可したということは、きっと日本に対する考え方を変えたのだろうと解説にありました。

☆山内志朗『天使の記号学』(双書現代の哲学・岩波書店:2001.2)

 とてつもなく濃密で凝縮された内容をもつ書物だ。論理展開というよりは(饒舌と寡黙の?)濃度変化とでも形容すべき精妙でリリカルな(?)構図のうちに概念が潜在し、自らの強度によって「見えないもの」から「見えるもの」へと現実化=実在化を果たしていく。たとえばイデアやゲノムのようにネオ・プラトニズム的な流出論の衣装を纏ったプロセスを通じて、潜在的に最初に与えられたものが最後に実在として成就する(時間的な?)生成のメカニズム、あるいは聖霊を通じて祈ることと聖霊が祈ることとの一致といった「己有化」ないしは「反転可能性」に根ざした(空間的な?)生成のメカニズム、そしてこうした内在的超越のプロセスの媒介を表現するキーワードがドゥンス・スコトゥスの「形而上学的濃度 gradus metaphysicus 」=「内在的様態 modus intrinsecus 」であり「このもの性 haecitas,haecceitas 」である。《実際、スコトゥスの固体化の議論は、「石」などの例を使いながら、ペルソナ・人格を論じる枠組みと重なるところが多い。そして、新プラトン主義の伝統の中では、「私とは何か」を問うことと、存在論、宇宙創造論、霊魂論が重なっていたことを思い出してもよい。/話を先に進めよう、個体化は共通本性に新しい概念規定を加えないということ、にもかかわらず個体化はそこに生じている。そこに見られる錯綜をスコトゥスは「内在的様態」という概念で表現する。度(gradus)といっても、強度・内包量・濃度と言ってもよい。たとえば、「赤」を例に取れば、濃いものの薄いものもある。特定の赤色には必ず特定の濃さが備わっていて、その結果、特定の「赤」としてある。しかし、この濃度、つまり「赤さ」というのは、「赤」に何を付け加えているのだろう。/スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考える。概念規定の領野に最終的な概念規定が加わって、個体が析出してくるというのではなく、そのような最終的な概念規定は存在しないことを述べたのがスコトゥスの「このもの性」ということだ。》(212頁)──しかしこれでは要約にも何にもなっていない。所詮、わかちゃいない。濃すぎるのだ。何度も咀嚼し希釈しなければ強すぎるのだ。

《可能性が現実性への志向性であり、現実性が可能性を含んでいるとしたら、可能性が未来に投影された場合、それは目的・テロスとして映じることになる。(略)目的・テロスは、観察し、記述する能力を持った存在者がいるという条件が満たされている場合には、可能性にとどまりながらも、現実性に含まれているばかりでなく、現実性の表現の中に登場する。その場合には、最後に現れるものが、最初にあたかも原因であるかのごとく、いやたぶん実際に原因として存在する。(略)この本の要点を取り出せば、意を尽くしていないが、だいたいこういうことになるだろう。こういう存在論や形而上学のモデルを通して、リアリティの問題に踏み入った場合、リアリティは、被限定項─限定項─限定態という三項図式においては、限定項に現象するものであると考えている。/結局のところ、私は「私」とはハビトゥスであると言うことで表現したかったのだろう。「それをいっちゃあ、おしめいよ」で、事実を言っても仕方ない、いや言説の流通過程に流すべきではないのかもしれないが、「私」とは、肉体でも脳でも精神でも無意識でも関係でも幻でもないとすれば、少しは意味があるかもしれぬ。「私」は必ず具体的な姿で、形を持って存在するしかない。》(231-233頁)

☆村上龍『あの金で何が買えたか 史上最大のむだづかい'91〜'01』(角川文庫:2001.4)

 2年前小学館から出た絵本に書き下ろしのエッセイや竹中平蔵との対談、最近の事例が追加された改訂版。たとえば今年の2月経営破綻したシーガイアの負債総額3261億円で、プレステ2を開発し(200億円)、都道府県に100面ずつ芝のサッカーコートを造り(2021億円)、トルシエ級のサッカーコーチ100人を1年間雇い(100億円)、坂本龍一オペラを製作して(50億円)、それでもおつりが890億円もある。
 対談の中で竹中が、英米では経済学の社会教育という分野が確立していると述べている。右肩上がりの成長が続いた日本では経済に対する基本的な目を持たないで済んだのだが、普通の国になると経済の社会教育が必要になってくる。しかし専門家がいない。結局は自分で考えるしかない。これを受けて村上が、誰がコストを払っているかに少し気をつければ、物事の本質が見えてくると応じる。個人の確立とは(思惟主体の確立の前に)経済的主体の確立のことであって、だから経済の社会教育というのは人間の生存条件を体得させるものにほかならず、だからそこに小説家の技術がかかわってくる。

☆『國文學』臨時増刊(2001年7月:學燈社)

 「世界経済・金融」「学校」「戦争・暴力」「フーゾク」「キューバ・音楽」「映画」の6つのフェイズで「“現代”のエッジを行く」作家村上龍を特集している。(「サッカー・スポーツ・F1」といったフェイズがあってもいい。)詳細な年譜がとても重宝だし、小熊英二や田口ランディや妙木浩之や寺脇研や金子勝といった最近の Ryu's Bar の常連の文章もそれなりによかったのだけれど、面白かったのが竹中平蔵の「村上龍はとてつもない“正統派エコノミスト”である」という文章。われわれ経済学者の抽象的で無感動な政策シュミレーションは社会的存在感を持ち得ないが、言葉という武器を縦横無尽に駆使して無から感動を生み出す魔法使い=作家という人種は物凄い。《その意味で、村上が日経新聞の経済教室に堂々たる政策論を展開する姿自体が、もはや近未来小説のようでもある。そもそも経済学の語源は、「共同体のあり方」すなわち社会のあり方である。原点に立ち返って人間と社会を捉え、それを感動をもって表現する村上のような作家が社会をリードする主役になるのは、極めて自然なことなのかもしれない。》
 ──ちなみに竹中がいう日経新聞の記事(2001年1月8日付「経済教室」欄)は「経済変革は文化の力から」というタイトルで、これは政策論というよりむしろ政策を語る言葉とメディア批判の論文だ。その要約部分を抜き書きしておく。《経済活動にはコミュニケーション、つまり文化の力が欠かせないが、いまはそれが十分機能していない。日本の場合、近代化や高度成長などの目標を達成できたのは、一体性を訴えて国民を鼓舞できたマスメディア・文化の力による。しかし、こうした目標の達成後も文化は、「個人の確立」など社会が概念を共有していない言葉を、旧来手法で多用し、啓蒙しようとしている。その手法の限界を超えないと、既得権の切り崩しと経済の変革はおぼつかない。》
 巻頭の池澤夏樹との対談では「高度成長の先に新しい倫理をどう作るか」というくだりが面白かったし、「僕はいつも小説は情報だと言うんです。情報を物語に織り込んでいくということだと思っているんです。物語の構造というのはそんなにたくさんあるわけではないですから、ものすごく織り込み方がうまいとか、織り方が非常に高度であるというのはわかるんだけど、そもそも物語の中に組み込んである情報が古かったり、あまりにも陳腐なものであったりすると、影響は受けにくい」という村上の発言が印象に残った。

☆村上龍『フィジカル・インテンシティ '97-'98 season 』(光文社:1998.12)

 タイトルが実にいい。文章もいい。この今も続くスポーツ・エッセイは、村上龍の代表作になるかもしれない。《わたしはあのジョホールバルのゲームでまさにフィジカルなインテンシティを感じたのだと思う。肉体的な強度、鮮烈さ、濃度、彩度、そういうものである。サッカーにおける本当の意味での死闘を目にして、電子メールなどという、肉体性のないコミュニケーションツールがさもしく思えたのだ。》(26頁)
 「スポーツというのは圧倒的なコミュニケーションの場である」と村上はいう。すばらしい試合、プレー、選手は、必ず音楽的だ。《音楽にはスコアがあり、また即興演奏でも「敵」はいないが、サッカーでは敵との応酬を含めて、それが一つの音楽的なコミュニケーションを形作る。/言葉を必要とせずに、何か大切なものが伝わってくるのだ。選手たちの勝利への執念といったものが、生存の条件とか、歴史とか、運命とか、偶然を生む意志の力とか、そういう抽象的なものに姿を変えて、見ているものに伝わってくる。》(26-27頁)
 解任された加茂前監督が解説者・評論家として「復帰」したことやカズへのバッシングをめぐって。《歴史というのは本来、ある一貫した価値観を持つ個人・集団・国家の、他者との遭遇とその反応の連続だ。歴史とは単なる過去ではない。歴史は現在に連なり、未来とも連続するものだ。歴史とは「終わってしまったこと」ではない。日本人にとての歴史とは、内輪の栄枯盛衰の物語に過ぎない。》(98-99頁)
 中田とペルージャの日本マスコミとの対立をめぐって。《「このゴールの喜びを誰に最初に伝えたいですか? チームにはもう溶け込めましたか? 慣れない土地で苦労しているんでしょう?」/苦労しています、とマスコミは中田に言わせたい。それは世間に対する甘えた告白だからだ。「苦労しています。毎日大変です」と中田が甘えると、日本の世間は安心する。イタリアへ行っても依然として中田が仲間で家族のような存在だと思えるからだ。/中田は、日本の社会に庇護を求めない、貴重で新しいモデルだ。…中田は今後もマスコミに迎合することはない。自分の価値観を貫くべきだ。マスコミの側が少しずつ中田の価値観に近づいていくだろう。旧態依然としたシステムはこのままではこれから生き残っていけないからだ。銀行の次には製造業、そのあとにメディアの淘汰が始まるだろう。》(220-221頁)
 補遺。自作のどこが面白いの、と韓国人に聞いてみたら、「近代化を急ぐ国の、人間の精神の未来が書いてある」(56頁)という意見が返ってきたという。実に面白い。批評にはモデルが必要だという指摘(たしか)も鋭い。

☆村上龍『寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ』(ビクターブックス:1999.4)

 ワールドカップ'90イタリア大会、ユーロ'96イングランド大会、そしてワールドカップ'98フランス大会の観戦記が掲載されている。サッカーのゴールは奇跡である、90分間集中するのは人間の限界を越えている、集中力の持続が、才能というものなのだ──「ある何かに対して集中力を持続させることができる、それがその人の才能のすべてなのだ」「文章の上手な人が小説家になるわけではないのだ。小説を書く時に最高度の集中力を発揮してそれを持続できる人が小説家になるのである」「集中力を持続させるためには、常に飢えていなくてはいけない。…だから、ゴールに飢えていないプレーヤーはフォワードにはなれない」「ハングリーとプアは別のものなのだ」、マラドーナはセクシーなプレーヤーだろうか、イタリアではセクシーなことが美徳とされている、なぜか、豊かだからだ──「豊かさの果てにそうなったのである。貧乏人には幸福はあっても快楽はないといったのはスタビスキーだが、日本もあと5百年か千年繁栄を続ければイタリア人のことが理解できるようになるかも知れない」と語る90年の村上と、日本には「過去」はあっても「歴史」はないと語る98年の村上の対比が面白い。

☆村上龍『寂しい国の殺人』(シングルカット社:1998.1)

 村上龍の文章には「強度=濃度」(インテンシティ)がある。本書はもともとインタビュー構成の予定だったものを止めて「書く」ことにしたものだとあとがきに書いてある。「近代化の終焉」によって集団的・国家的な目標が喪われ、さまざまなレベルでのコミュニケーションが変わらざるを得なくなって「伝えなくてはいけない情報を正確に伝える技術への依存度が高まる」とも書いてある。《書くのは面倒だといつも思っている。》
 本書にはアドビ・フォトショップを使って「滅び行く日本」をモチーフに村上が製作したCGが添えられていて、テキストの「強度=濃度」と拮抗している。「(貧しさによる)悲しみから(豊かさによる?)寂しさへの基本感情の変化」が造形されている。──「近代化が終わったのはすばらしいことだ、おめでとう」(イタリア人の新聞記者のインタビュー語の言葉)。ちなみにこの6月に刊行された対談集『存在の耐えがたきサルサ』の文庫版あとがきで村上は次のように書いている。《近代化の途上では、近代化のあとにどういう問題が噴出するのか誰もイメージできない。わたしは日本の近代化の終焉について、もうしばらく考え続けたいと思う。》
 本書に収録された文章は、読売新聞に「インザ・ミソスープ」を連載中、神戸須磨区で起きた児童殺傷事件の犯人が逮捕された時のものだ。《例の十四歳の少年が本当に犯人で、ひょっとして会うことがあったら、聞いてみたいことがある。警察へのあの挑戦状を書いているときも、自分を「透明」だと思ったか、ということである。》

☆村上龍『オーディション』(幻冬舎文庫,原著:1997年6月刊行)

 久しぶりに村上龍の小説を読んで、村上龍はこれほど巧い小説家だったのかと今更ながら感嘆した。12章構成の9章前半までは完璧に作者の手玉に取られて、というか山崎麻美の怖いまでの「魅力」に感応して、よくできた恋愛小説のように文章に引き込まれてしまった。「からだを流れる血液が蜂蜜になってしまったかのような甘い高揚感」なんぞ、これだけを取り出して素で読むとばかばかしくて恥ずかしくなる表現だけれど、これがまたシチュエーションにうまくはまるのだから御しがたい。「解説──男と女、怖い関係」で斎藤学氏が「声は人格の一部で、人格の変化を最も敏感に反映する」と書いていて、この作品で村上龍はそこを確りと見ていると指摘していたが、山崎麻美の声と、それから匂いの描写が実に効果的だったと思う。「そこはヌルヌルしていて、熱く、山崎麻美は、それまで聞いたことのないような金属的な声を出した。錆びついた歯車がふいに回転を始めたような、硬く、低い声だった。」──ここから始まる9章後半以降の転調、とくに11章から先の叙述は、怖いといえば怖いけれど、山崎麻美に左足を切り取られた青山重治の16歳の息子、重彦の、何というかリアルなものにちゃんと向き合って生きている「健康さ」のようなものが妄想じみた作品世界に闖入して一気にけりをつけるラスト以外は、違和感をぬぐえなかった。

☆正高信男『子どもはことばをからだで覚える』(中公新書:2001.4)

 「少し長いあとがき」に出てくる音楽の起源をめぐる仮説が面白い。子どもにとって言語の習得とは、身体全体を巻き込んでなされる営みなのだが、いったん自由にあやつれるようになると、ことばを用いることは理性的かつ主知的な営みであるとみなされてしまう。ヒトはロゴスを所有する動物である、というわけだ。《だが、「ことばを持った動物」たるヒトは、「テキストとしての言語を所有する動物」にはとうていなりきれないのだと私は思う。ゆえに、身体性を表面的には消し去ることに成功したとしても、決して抑圧することはできないのだろう。ただ、形を変えて、姿を現すだけなのではないか。そして、それこそ音楽というものの本質ではないかと、私には思えるのだ。それゆえ、およそ音楽は、歩行のリズム・和声・韻律・手の動き(舞踊)といった、ことばの習得に重要な役割を果たすにもかかわらず、言語がテキスト化するなかで排除された要素によって構成されているのではないだろうか?》(176-177頁)《古典としてのテキストこそが、「正しい」言語とみなされていた時代を例にとると、当時は「語り」としてのことばが音楽の主たる要素であった。韻律や声調を、メロディーとして効果的にデフォルメするなかで、演じ手が他者にいかに感銘深く話して聞かせることができるかによって、音楽の良し悪しは評価された。(略)アーノンクール風に表現すれば、ここ一五○〜二○○年あまり、先進国地域での音楽は、「語り」中心の姿勢から離脱し、「響き」の注目へと一貫して傾斜を強めてきたのだが、それは言語のとらえ方が変わってきたこと[philology から linguistics へ:引用社註]と表裏一体をなしているのだ。》(179-181頁)──前段に関してはオングの『声の文化と文字の文化』、後段に関しては兵藤裕己『〈声〉の国民国家・日本』をそれぞれ読まずに済ますわけにはいくまい。
 このあたりの面白さを堪能するためには、本書を最初から丁寧に読むことが必要だ。言語の習得が子どもにとってどれほどの大事業である(あった)ことか、そして大人はいかに「常識」にとらわれてそれを見てきた(忘却していた)ことか、目から鱗の鮮烈な読書体験を味わうことができるだろう。そして、実験科学のすごさも。──本書を読んで、思ったこと。一つは、ここに叙述されているプロセスを、脳科学の最近の知見(たとえばミラー・ニューロンの発見など)でもって理論的かつシステマティックに叙述した書物をぜひ読みたいと思ったこと。いま一つは、最近感銘を受けた二冊の本、清水哲郎著『パウロの言語哲学』と山内志朗著『天使の記号学』と響き会うところが多々あるのではないか、子どもの言語習得のプロセスが西欧のロゴスやキリスト教神学の歴史とかなり重なり合うのではないかということ。後者についてはいずれじっくり検証してみよう。

☆兵藤裕己『〈声〉の国民国家・日本』(NHKブックス:2000.11)

 NHKのラジオ全国放送が開始(昭和3年)され、日本で浪花節が流行していた1930年代のはじめ、ホメロスの物語が「オーラル」に構成されるしくみについて考察したミルマン・パリーは、その成果を検証するため、旧ユーゴスラビア地域に残存していた吟遊詩人のパフォーマンスを実地調査していた。ミルマン・パリーがそこで観察したのは、物語芸人たちの口頭芸を通じて旧ユーゴスラビア地域の民族意識(ナショナリティ)が再生産されるしくみだった。──著者は本書で、このミルマン・パリーの「発見」を、たとえば日本近代を代表する「リテラルな文学者」漱石と同時期に活躍した桃中軒雲右衛門の声が「社会秩序や法制度のロジックにたいする合理的な感覚」を麻痺させ、聴衆を「ある均質で亀裂のない心性の共同体」へとからめとった経緯を通じて、実地に検証・確認している。《浪花節という声の文学は、ラジオという新時代のメディアをとおして、昭和初年の日本に全国規模の声のユニゾンを形成してゆく。法制度のロジックを吸収・解体してしまうメロディアスな声は、「日本固有の義理人情」といったことばで説明される浪花節的心性の実体である。…浪花節の声によって浸透する物語のモラルは、既存の秩序やヒエラルキーにたいする暴力的破壊の気分さえただよわせながら、日本的ファシズムの感性を醸成してゆくのである。》(235頁)
 日本人の「均質幻想」を生み出した背景に権力による徹底した文書主義の浸透(多様な口語世界をおおった均質な文字文化の表皮)を見る網野義彦の所説に関して、著者は次のように書いている。《列島の言語が「日本」語でありつづけたことには、文字言語の画一性よりも、中世以来の口頭的[オーラル]な物語芸能の流通が、より大きな要因として作用したと思われる。地域を越えて伝播・流通する物語芸能の声が、「日本人ならだれでも」わかる口頭言語の最大公約数を提示しつづけたのである。》(77頁)また、丸山真男が日本型ファシズムの思想的特徴として、農本主義、大アジア主義とともに家族主義をあげ、昭和のテロリズムが天皇を親としていただく国体思想を行動原理としていたと指摘していることについて、こうした「家族主義」は、制度としての家父長制とは異質の文脈から発生したものであると著者は指摘している。《物語として流通・浸透した制度外のファミリーのモラルを媒介として、国体という観念が受容され、天皇の「赤子」としての国民の平等幻想が大衆に共有される。浪花節のメロディアスな声が、地域や階級による差異・差別をいっきょに解消して、あるナイーブな「国民」精神の共同体をつくりだすのである。》(232-233頁)

☆桑子敏雄『感性の哲学』(NHKブックス:2001.4)

 「感」とは動くことである。「気」(エネルギーをもつもの)が拡散して空間となり、拡散した物質が凝集して物体的なものが成立する。これら二つの状態は相互作用によって宇宙と生命を作り出す。この相互作用を「感」という。また、「性」とは能力(デュナミス)である。性が感じて、つまり世界と交感して「情」(エネルゲイア)となる。「性」と「情」の統合が、すなわち「心」である。感性とは「環境世界と自己の身体との交感能力」(32頁)であり、「配置と履歴から世界を感知する能力」(222頁)である。──ここに出てくる二つの言葉、「配置と履歴」が本書のキーワードとなる。人間を「履歴をもつ空間での身体の配置」(198頁)と捉えることが、「履歴をもたない自己」=「デカルト的自己」の対極に位置する、著者の人間観の根幹をなすのである。著者は、風景がもつ奥行きを「ひだ」と呼ぶ。《風景のひだの奥には、空間のもつ履歴が存在する。ひとの人生の長さを超える履歴がひそんでいる。その履歴をもつ空間のなかに自分の存在を得ることで、自己の存在は、時間的存在であることを確認し始める。》(51頁)
 西行に朱子学、アリストテレスのプシューケー論とこれにもとづき江戸初期に書かれた『妙貞問答』(ハビアン不干斎著)、ハードゾーニングの形態をとる「概念風景」(ロゴス化された風景)と空間の意味に着目したソフトゾーニングによる「感性空間」の対比、環境と生命と情報をめぐる価値構造論、等々、西洋と東洋の哲学から公共政策のあり方まで、まことに射程の広い目の眩むような書物で、全九章のどれをとっても刺激的な洞察に満ちているのだが、とりわけ終章の、個人的交流の履歴を織り交ぜた故大森荘藏をめぐる叙述は印象深く、感動的でさえあった。《大森は、ことばについて考察するプロセスでつぎのように考えている。声になったことばは、じっさいは、身体の外にあってのみ、はたらくことができる。声は出されていないときには存在せず、声として身体の外に出されてはじめて存在するからである。すると、声は皮膚の外で身体の生きることに「参加」しているのである。そこでこそ、声は、身体と密接な関係をもつ。大森は、このように考えて、声を身体の一部として見ることもできるという。(略)ひとが身体を動かすとき、身振りが生じるが、この「身振り」ということばを大森は、たんに身体を動かす場合だけでなく、声や視線を動かすときの「視振り」や「声振り」などの全体を含めて用いている。(略)触れられ、動かされることが、ことばの意味を知ることであり、だからこそことばとは行為である。(略)このように考えるならば、ことばとひと、ことばと世界とは人間の生活のなかで直接的にむすびついていることになる。だから、そこには、世界とことばをむすぶ第三の存在としての「意味」を想定する必要はない。》(205-206頁)
 

★2001.7

☆上田閑照『エックハルト』(講談社学術文庫:1998.7/1983)

 エックハルト[1260頃〜1328頃]の生まれる12年前[1248]に定礎式が行われたケルンの大聖堂が600年の時を経て完成したように、「ヨハネ伝註解」第一分冊[1936]に始まったドイツでのエックハルト全集が「以後すでに六十年、世代を重ねての多数の研究者たちによって大河の流れるがごとくに刊行され続けていることに、歴史を貫いてゆくヨーロッパの学問の力というものを感ぜざるを得ない」(学術文庫版あとがき)。──「説教という言葉の動態(働き)が、正にそのものが自らを語り出す生きた場となり得た」(233頁)とされるエックハルトの説教が、700年の時を経て私の「魂の根底」に受肉することに眩暈を覚えざるを得ない。
 トマス・アクィナスの『神学大全』絶筆とエックハルトのドイツ語説教とを比較した箇所に出てくる、「神秘学とスコラ学ないし広く形而上学との関係」をめぐる次のアナロジーが秀逸。《しかし、そう言ってしまうとすでに概念であって、存在を超過するその当のものが、その超過をもって現前するとき、超存在という概念をも含めて概念組織そのものを突き破って現前するであろう。概念組織は丁度、立体が平面図にうつし取られていたようなものといえる。当の立体が現前するときは、うつし取っていたその平面図を突き破って現成するということが、そもそも現成ということなのである。》(235頁)

☆永井均『転校生とブラック・ジャック 独在性をめぐるセミナー』(双書現代の哲学・岩波書店:2001.6)

 この本には著者による前書きも後書きもない。つまりこの本には〈私〉は、もう、いない。〈私〉は火星へ転送されたのかもしれないし、十字架上で死んだのかもしれない。だからこの本は〈私〉がいなくなる最後の晩餐での出来事が綴られている。つまりAからIまで十二人の学生(使徒たち)と先生N(にゃんこ先生ならぬインサイト、ならぬイエス)との最後のセミナーでの会話が記録されている。実際、四人の使徒(学生DからGまで)はそれぞれ福音書(レポート)を書いている。(そうすると裏切り者ユダは誰なのだろう。)──この本の話者を示す記号にアルファベットのMが出てこないのには、実は意味がある(と思う)。Mはたとえば中間者・媒介であり、三つの精神鑑定(現実世界の犯罪者と可能的な法的責任主体《私》との関係を問う)を経て死刑判決を受けたMであり、あるいは三浦俊彦、もしくは森岡正博、ひょっとすると茂木健一郎である(?)。ついでに言うと、NをはさんでMと対峙するOは大庭健、それとも大森荘藏のイニシャルではないか。──ところで、終章にてくる「解釈学的生・意識」「系譜学的認識」「考古学的な視線」をめぐる議論は本書にとってどのような「意味」をもつのだろうか。あるいは、どのような「哲学的問題」の所在を示しているのだろう。このことを確認するためには、本書をもう一度最初から読み直さなければなるまい。
 付記。ずいぶんと迂闊なことで、これは後になってようやく気がついたことなのだが、第7章「談話室──哲学的議論のための要諦」はむしろ前書きか後書きにふさわしい自著解説とこの本の成り立ちや背景への言及を含んだ章で、これがこの位置に、つまり学生Gのレポートと終章の前に置かれていることには深謀がはりめぐらされているのかもしれない。──といった事柄とは無関係に、この第7章にはちょっと珍しい文章が出てくるので、書き写しておこう。《全共闘運動って、プロレタリアートという無垢な理想を措定しておいて、特権を享受している大学教授たちを断罪して、同時に自分たちの罪深さも誠実に自覚して悔い改めようという、一種のキリスト教運動だったんだよ。いまでもあの武器を使って他人や自分を告発できると思っている人が結構いるんだけどね。当時から嫌悪感のほうが強かったな。》(182-183頁)

☆永井均『〈子ども〉のための哲学』(講談社現代新書:1996.5)

 『転校生とブラック・ジャック』に、「『〈子ども〉のための哲学』は、それ以前に出した本や論文より一段高い水準に達している」と書いてあったので、読み直すことにした。たぶん、再々読。

☆永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み─哲学的諸問題へのいざない─』(ナカニシヤ出版:1995.12)

 『転校生とブラック・ジャック』に、「『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、他の本よりずっと高水準の議論をしている」と書いてあったので、さっそく( bk1 で購入して)読んだ。(届いたのが2000年3月発行の初版第12刷。売れているのだ。)──「翔太は神の概念を信じるが、神の存在を信じない。インサイトは神の存在を信じるが、神の概念を信じない。」(65頁)

☆永井均『マンガは哲学する』(講談社:2000.2)

 『転校生とブラック・ジャック』に、「『マンガは哲学する』は、ぼくにとっては初めて中心化された世界という考え方を虚構世界に適用した画期的なもの」と書いてあったので、出版直後に購入し、少しだけ読んで放置していたのをひっぱりだして読んでみた。

☆星野之宣『ブルー・ワールド』上下(講談社漫画文庫)

 『マンガは哲学する』で星野之宣の作品が三つ(『ブルーホール』と『2001夜物語』と『スターダシトメモリーズ』)取り上げられていた。──極限状態でより多くの人間が生き延びるため足手まといになる人間を殺害することの是非をめぐる英国海軍中尉と軍医の二人の女性の確執、その中尉が生き延びることの意味を少女とその祖父の救出に置いていたこと、等々、この作品にも「哲学の問題」はちゃんと用意されていた。が、そういうこととは関係なく、よくできた作品だった。

☆藤子・F・不二雄異色短編集『1 ミノタウロスの皿』『2 気楽に殺ろうよ』『3 箱船はいっぱい』『4 パラレル同窓会』(小学館文庫)
☆藤子・F・不二雄少年SF短編集『1 未来ドロボウ』『2 絶滅の島』(小学館コロコロ文庫)

 これまで読まずに大切にとっておいた6冊。『マンガは哲学する』でいくつかの作品が取り上げられていたのがきっかけになって、とうとう読んでしまった。結構、夢中になって読んだ。

☆かわぐちかいじ『ジパング』4(講談社:2001.7)

 これは『マンガは哲学する』とは関係なしに読んだ。

☆宮部みゆき『魔術はささやく』(新潮文庫,原著:1989.12)
☆乃南アサ『凍える牙』(新潮文庫,原著:1996.4)
☆柴田よしき『月神[ダイアナ]の浅き夢』(角川書店:1998.1)

 無性に日本人のそれも女性が書いた物語を読みたくなって、立て続けに読んだ。三作ともミステリーで、だから猟奇的かつ不可思議な殺人事件と探偵(うち二作は女刑事、残りは少年)と伏線とトリック(催眠術に調教、トラウマと二重人格)と謎解きの趣向はもちろん講じてあるのだが、そういったところにはもともとあまり関心はなかったし、さほどの感銘も受けなかった。いずれの作品も、ほんのちょっとの手捌きで駄作になってしまう危うい緊張の上に、見事に緊密な虚構世界を築き上げている。男性作家が描くと組織小説になる題材が、女性作家の手になると家族小説になる。
 『魔術』は、この素材とテーマと筋立てでよくぞここまでの作品に仕立て上げたものだと、作者の力量に舌を巻きながら一気に読み切った。──『牙』は新幹線の中で3時間かけて、少し長い目の映画を観るような感じて読んだ。ウルフドッグ疾風[はやて]とヒロイン音道貴子の追跡シーンと一瞬の交錯。作者はこのクライマックスを描くためだけにこの作品を書いたのではないか。すべての結構はこの一点に向かって収斂していく。人間の犯罪の矮小さなど、この際どうでもいいことだ。(安原顕の解説は、ちょっとひどいと思った。)──『月神』は村上緑子シリーズの第三作。シリーズ物特有の重層的な構成が設えてあって、横溝正史賞をとった第一作『RIKO』以来ずっと気になりながら未読だった前二作を読めば、もっと「深い」味わいがあったのだろうとは思ったけれど、これはこれで十分楽しめた。
 
☆村上龍『トパーズ』(角川文庫,原著:1988年10月刊行)

 村上龍の「トパーズ系」の作品にはこれまで関心がなかった。というより『トパーズ』の前年、1987年に刊行された『69』や『愛と幻想のファシズム』を堪能して以来、村上龍の作品をほとんど読まなくなっていた。(いま記憶に残っているのは、1989年の『ラッフルズホテル』と1991年の『超伝導ナイトクラブ』がまったく面白くなくて興味を失い、それから1992年の『長崎オランダ村』と1994年の『五分後の世界』でやや息を吹き返し、2000年の『希望の国のエクソダス』でようやく回復の兆しが見えたこと。)──本書を読み終えて、「公園」だとか「紋白蝶」だとか「バス」だとか、いくつか気に入ったり気になったりした短編をめぐって何か気の利いた評言など捻り出そうとする魂胆が嫌になったので、十年後の1998年8月に刊行された『ライン』のあとがきの一部を抜き書きしておく。(それにしても、村上龍は自著解説というか自註風のあとがきをよく書いていて、いずれもそれなりに面白い。「まえがき」ではなくて「あとがき」なのが何よりも面白い。あれ、俺、こんな小説を書いてしまったよ。これって、何なんだ?──「トパーズ系の作品群の集大成」と謳い文句にある『THE MASK CLUB』をめぐる『ダ・ヴィンチ』2001年8月号でのインタビューでも、村上龍は自作について精力的に語っていて、とても面白い。『THE MASK CLUB』でももちろんあとがきが書かれていて、この小説のモチーフの一つに「男性のライフスタイル」がある、と書いてあった。村上龍はほんとうに自作について考える作家なのだ。)
《八〇年代に『トパーズ』という短編集を書いたとき、登場するSM風俗嬢たちは日本的共同体の中で特殊な人間たちだった。SMという演劇的な性のゲームに自分のからだを提供することで、彼女たちは社会から個として露になろうとしていたのではないかと思う。つまり、近代の物語・個人史を、テーマではなく背景としたという点で、わたしにとってこの小説は新しい。(略)近代化が終わったのだから、近代文学も滅びるべきだと思う。文学は言葉を持たない人々の上に君臨するものではないが、彼らの空洞をただなぞるものでもない。文学は想像力を駆使し、物語の構造を借りて、彼らの言葉を翻訳する。》(『ライン』あとがき)

☆村上龍『ライン』(幻冬舎:1998.8)

 カンディンスキーの絵やワグナーの音楽を好み、電気信号を解凍するソフトを内蔵していて、見えるはずのない映像を見、聞こえるはずのない音を聞くユウコを中継点にして、18人の人物の姓や名を章名にもつ20の短い文章が数珠繋ぎにされた連作小説(と、言っていいのだろうか)。──《おいソノダ気が狂ったふりをしていると本当に気が変になるんだぜ知ってか……ソノダおれはこの世の中の人間みんなが仮面をつけて生きていると思っているんだがおまえはどう思うかな……シリコンとかそういうやつで、それをつけているということがわからないくらい顔にフィットしてしまう透明な仮面……》(159-160頁)

☆村上龍『THE MASK CLUB』(メディアファクトリー:2001.7)

 『ダ・ヴィンチ』2001年8月号でのインタビューで、村上龍は「フィクションというのは、ある程度、現代科学の知識を前提にしないと作品として成立しません」と語っている。臓器生物学、情報理論、コミュニケーション論、臨床心理学の情報が小説の中にふんだんに盛り込まれている、と取材者は記事に書いていて、村上龍自身は、「7人の女性の一人が自分のトラウマを告白するシーン」を書く前にジェームス・ギブソンの『生態学的視覚論』を読んだと述べている。──《記憶や意識は物質だ》(87頁)《お前が今いるのはたぶんニューロンの端だ。電気信号の流れに接触しようとしている。そこにいろ。脳まで一瞬だ。お前は今、電子の特急に乗ろうとしているんだよ》(94頁)

☆村上龍『イン ザ・ミソスープ』(冬幻舎文庫,原著:1997年10月刊行)

 河合隼雄の解説がすべてを語っている。強いて言えば、「巨大なミソスープの中に、今ぼくは混じっている、だから、満足だ」とフランクが最後に語るとき、そこで言われる「ミソスープ」は日本的な「ぬるま湯」の象徴というよりは、むしろ「脳味噌」という語彙が連想させるものを思うべきではないか。──《…人間は想像する、あらゆる動物のなかで、想像力、を持っているのは人間だけだ、…危機を回避して生き延びていくためには、予測、表現、伝達、確認、などが絶対に必要で、それを支えるのは想像力だ…》(262頁)《…人を殺すとき、どれほど緊張してどれほど集中が必要かケンジにはわからない、極度に研ぎ澄まされる、そいつが発している信号がわかる、信号は、脳を巡る血流からくる、退化している人間は脳を巡る血流がものすごく弱い、殺してくれという信号を無意識に発しているんだ…》(292頁)

☆村上龍『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』(集英社文庫,原著:1996年12月刊行)

 名作『69』の続編。ヤザキケンとアオキミチコが23年ぶりに再会して、長崎ハウステンボスのレストランでディナーを三度共にする。これはたぶん、絶対に書いてはいけない類の作品だと思う。「読み進むのが哀しかった」という村山由佳の解説は、おそらくそういうことを言っている。──《中学時代は違う、中学の頃の思い出はまるで別の惑星で起こったことのように、新鮮で、完結している。中年男となってアオキミチコに電話してもその輝きのようなものは決して再現されない。高校時代のように、抽象化もできない。絶対に研磨を許さない宝石の原石のようなものだ。私は中学時代が好きだ。/恐らく、あの時期に、すべての本質的なことが既に起こっていて、今それを変えることなどできないのである。》(75-76頁)

☆佐藤正午『Y』(角川春樹事務所:1998.11)

 佐藤正午の小説は、ほぼ九年前、芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』と一緒に『個人教授』を読んだのが最初で、それ一冊だけ。その時の感想が「村上龍の『69』以来の楽しめる青春小説」(これは『デンデケデケデケ』と共通の感想)と「村上春樹の世界を思わせる知的に乾いた叙情」で、村上春樹のことは『Y』を読んでいてもやっぱり(『リセット』の北村薫とともに)連想した。つまり、これは上手い小説であり好みの作品であったということ。(噂によると、昨年の『ジャンプ』が傑作らしい。いずれ読まねば)──18年分の記憶をもったまま18年前の自分に戻り、二度目の人生を送った男から、一番目の人生で友人であった男(主人公)あてに届いたフロッピー・ディスク。「Y」というのは時間の分岐をあらわす記号で、フロッピー・ディスクに綴られた「作中作」のタイトルでもある。この小説にはたぶん、時を彷徨う男の三番目の人生(それは主人公にとって、もう一つの別の人生である)を構成することとなる人物(たとえば、女性の新聞記者)や素材がそれとなく描かれている。小説はなぜ書かれるのか、そしてなぜ読まれるのか。これがこの作品の隠れたモチーフである。

☆芦原すなお『東京シック・ブルース』(集英社:1996.9)

 休日の午後、1時過ぎに目覚めて、まだこんなに朝寝ができるのだと、妙に充実した気持ちになって、早々と訪れた昼下がり、36度を記録した外気を避けて、部屋でだらだらと時間を潰していて、何気なく手にしているうち止まらなくなり、最後まで一気に読んで、どことなく『三四郎』や『ノルウエイの森』を思わせる世界に浸って充実した気分になって、すこしだけ翳った陽をたよりに、あてもなく出かけた。いい一日だった。──名作『青春デンデケデケデケ』に続く純愛青春小説(と、確か文庫版のカバーに印刷されていた)。「自然」の観念をめぐる「教養小説」の薫り。

☆酒見賢一『ピュタゴラスの旅』(集英社文庫,原著:1991.1)

 表題作を含む五つの短編が収められている。小説という虚構世界の五つの型を示している。と言いたいところなのだが、虚構性そのものをテーマにした「そしてすべて目に見えないもの」、現実性と虚構性の決定不能性を示す「籤引き」、そして幻想世界と現実世界の融和を描く「虐待者たち」の区別はつけられるのだけれど、「ピュタゴラスの旅」と「エピクテトス」の手法の違いがよく判らない。が、それにしてもこの二作品はよく出来ていた。この手の作品をもっと読みたい。

☆小室直樹『日本人のための宗教原論』(徳間書店:2000.6)

 宗教とは畢竟、このうえもなく恐ろしいものなのだ。資本主義とデモクラシーと近代国際法を生み出したキリスト教。予定説(キリスト教)と因果律(仏教)の対比。キリスト教のキーワードは予定説、仏教は「空」、イスラム教は「コーラン」、儒教は「官僚制度」。日本にあるのは「労働共同体」だけだ。『豊饒の海』で唯識の法相宗を徹底的に解明し魂の輪廻転生を否定した三島由紀夫は、生まれ変わって復活するものは何かという宿題を読者に残した。以上、印象に残った断片。(結局、仏教を論じた章がいちばん面白かった。)──以前著者の『資本主義原論』を走り読みして経済学が解ったような気になったのだが、本書を概読して、これは実用書(ホンモノの宗教の見分け方に関する)だと納得した。(結局、マックス・ヴェーバー。)

☆加藤清・鎌田東二『霊性の時代─これからの精神のかたち』(春秋社:2001.3)

 鎌田東二が書いたまえがきに、本書のキーワードが列記されている。スピリチュアリティ、セクシュアリティ、シャーマニズム、イニシエーション、密教、超宗教、沖縄、場所の力、一人[いちにん]、創造の病、そして健康。(「魔抜け」「魂風」という鎌田の言葉と、「調律」「阪神大震災よ、ありがとう」という加藤翁の言葉も加えておこう。)──シモーヌ・ヴェイユと親鸞をめぐる話題(二人とも、病いが創造性を持っているということを一つの哲学にし、それを生きた、と鎌田は言う)、親鸞と同じ世紀を生き「エックハルトの先駆け、ドイツ神秘主義の最初」(加藤)であったヒルデガルト・フォン・ビンゲンをめぐる話題(ヒルデガルトは、堕落以前の人間の目と耳が性器だったと語った)がとりわけ面白かった。──《ぼくは「今の私」と「私の今」に分けるけれども、現在、私は「私の今」にいるわけで、「今の私」を捨ててしまって。「私の今」になって、いま話していると思うんです。そういう点で、将来のビジョンができるだけ見える態勢のもとでいつも生きていきたいと思う。》(加藤、238頁)

☆糸井重里『インターネット的』(PHP選書:2001.7)

 インターネットと「インターネット的」は違う。それは、自動車や道路のセットとモータリゼーション(自動車が社会的に浸透して変化したことのすべて)の違いみたいなものだ。役割や肩書きのジョイントではなく「思い」を含めた情報のリンク、市場占有率ではなくて「おすそわけ」という意味でのシェア、価値のヒエラルキーからフラットへ。これら三つのキーワードを見るかぎり、インターネット的であるためにはパソコンはいらない。──パソコンやインターネットは道具でしかない、大切なのはそれを使って何をやるか、どう楽しむかだ。ここまでなら誰でも言える。そこから先のことをまるごと語った本は、たぶんこれが初めてではないか。『ほぼ日刊イトイ新聞』を出し続けているのは、クリエイティブの水子供養のようなことなのかもしれない、と著者は書いている。《インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっと重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。画面の向こう側とこちら側に「人間がいて、つながっている」という実感が、クリエイティブを生み出すこと、送ること、受け取ることの楽しさを思い起こさせてくれたことが、革命的なのだと思っています。》(159-160頁)
 本書に対して、楽天的すぎる、インターネットの陰の部分が扱われていない、などと批判しても無意味だ。インターネットと「インターネット的」とは違う、と著者は最初に断っている。本書でもっとも面白かったのは、インターネット的という切り口から見ると、「人間まるごと」が、勝ち負けや強弱といった二項対立的な思考を強いる「脳」に反乱しているように見える、新しい時代には答えの見えないことがもっと価値を持つようになるのではないか、つまりもっと「魂」に関わることに人間の意識が向かっていくのではないか(93-94頁)、という著者の「予言」だ。人間の社会は、食を中心とした農業社会(内胚葉→消化器・内臓系)に始まり、工業化社会(中杯葉→筋肉系)を経て情報化社会(外胚葉→神経系)に移行してきたのだが、さてそのあとにはどんな社会がくるのか。著者は、それは「魂(スピリット)の社会」なのではないかと言う。《「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議はないとも思うのですが。》(112頁)

☆佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社:2000.4)

 ヒルデガルトは、エデンの園でまだ人間が堕落する前には、耳や目は性的器官であった、つまり堕落によって霊性(スピリチュアリティ)と性性(セクシュアリティ)が分離したと語っている(『霊性の時代』)。あまり関係ないのかもしれないけれど、「労働と失業」をテーマにした本書第9章でシュンペーターが話題になっていて、竹中平蔵が次のように語っているのが妙に印象に残った。《イノベーションという観念を、シュンペーターは別の言葉で表してるんですよ。日本語では「新結合」って訳されてるんです。新しい結合。これはまさにアイデアとか言葉とか、そういうのに通じますよね。新しい結合なんです。それがブレイクスルーになるんです。》(333頁)

☆細野真宏『経済のニュースがよくわかる本〈銀行・郵貯・生命保険編〉』(小学館:2001.8)

 ほんとうによくわかる。わかったつもりになっていたこと、わかったふりをしていたこともよくわかった。経済や経済学や金融システムではなく、つまり事実や事実の見方、理論や理論の評定の仕方ではなくて経済のニュースが「よくわかる」ことに徹したところが潔い。風が吹けば桶屋が儲かることは知っていても、その筋道や論理がわかっていなければ、風が吹いて桶屋が儲かったというニュースの意味がわかっているとはいえない。でも、風が吹けばいつも桶屋が儲かるわけではない、というニュースにならない事実はわからない。このことをよく弁えているかぎり、本書は小学生でなくても読む価値がある。