不連続な読書日記(2001.4-5)




★2001.4

☆ロバート・ゴダード『永遠に去りぬ』(伏見威蕃訳,創元推理文庫:2001.2/1995)

 ミステリー界の稀代の語り部。“溺れるような物語の愉楽”を求めてやまない読者を虜にする作家と言えば、いま、ロバート・ゴダード氏をおいていないだろう。──いずれも、ゴダード初来日を報じる『ダ・ヴィンチ』(2000年5月)の記事から。絶品。実際、虜になってしまった。

☆かわぐちかいじ『ジパング』1〜3(講談社:2001.1)
☆かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』11〜16(講談社漫画文庫)
☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師3 六合』(白泉社:1999.7)

 最近、根をつめて本を読むことができなくなり、ビデオと漫画ばかり眺めて休日を過ごしている。『ジパング』は面白くなったところで続刊待ち。欲求不満が募ったので、途中まで読んで中断していた『沈黙の艦隊』を最後まで一気に読み切り、興奮した勢いで、少しずつ大切に読み進めてきた『陰陽師』を手にとった。

☆南みや子・永瀬輝男『ポアンカレの贈り物』(講談社ブルーバックス:2001.3)

 フェルマー、リーマン、ポアンカレの固有名を冠せられた三つの予想(その一つはとうとうホンモノの定理になった)には、尽きせぬ興味と刺激を感じ続けてきた。これら数学のハード・プロブレムの「意味」を直感的に理解できる知性への憧れとともに。で、本書を読んでみたのだけれど、いまひとつピンと来るところがなかった。

☆船木亨『ドゥルーズ』(清水書院:1994.2)

 『アンチ・オィディプス』を中心に据えて、1980年頃までのドゥルーズの思索を素描した書物。よく整理されているとは思うのだが、辛口に評するなら、死んだ概念の標本集を眺めた感じ。

☆宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社:2001.4)

 ベルクソニスムにおける「潜在的なもの」と「可能的なもの」(現実化されたものの方からの事後的な投射)との相違を踏まえ、「ドゥルーズの哲学の全体が、潜在性の哲学といってもいいくらいだ」(36頁)と述べる第一章「ある哲学の始まり」、新しい『資本論』を書くことをひとつの目標とした『アンチ・オイディプス』をめぐって、クロソフスキー(『生ける貨幣』)を引用しながら「欲望経済学」や「ただ一つの経済学=唯物論的精神医学」(144頁)について語る第三章「欲望の哲学」、「たぶんドゥルーズが続けてきた哲学的思考そのものに、何か映画的なもの、映画のイメージに本質的に対応するような何かが含まれていた」(200頁)あるいは「映画が思考にもたらしためざましい転換は、現実的であると同時に、潜在的である」(201頁)と、ドゥルーズにおける映画的思考を論じる第五章「映画としての世界」、そしてエピローグでの次の文章が印象に残った。──もちろん「怪物的」な書物『差異と哲学』を取り上げた第二章「世紀はドゥルーズ的なものへ」や『千のプラトー』をめぐる第四章「微粒子の哲学」、そして、超越ではなく内在を原理とし、形像ではなく概念によって思考する哲学というドゥルーズ最後の関心を論じた第六章「哲学の完成」も面白かった。
《決して彼の哲学は、悲しみ、恨み、隷従によって連帯する集団としての「大衆」に捧げられているのではない。ドゥルーズが問題にしているのは喜びを原理とし、決して支配を内面化しない「民衆」なのだ。それは「欠けている」にしても、「民衆」は幻想ではなく、実在なのだ。この集団は、ドゥルーズが終始問題にした「内在性」に深くかかわっている。》(253頁)

☆『小林秀雄 百年のヒント』(新潮4月臨時増刊:2001.4)

 以前から入手したいと思っていた「感想」の冒頭、全56回のうち第12回までが本書に収められている。三木清との対話「実験的精神」や昭和17年の講演「歴史の魂」も収録されている。いずれもいつか読みたいと思っていたものばかり。本書に収められた対談での安岡章太郎の言葉、「やはりね、小林さんは、話が、文章よりもいいかもしれませんね。いいというのは変だけどね、名人意識が出てくるぐらいいいですよね」と、吉本隆明の談話中の「僕らが一冊の本で書いていることを、五○枚で言いきってしまう人ですから。あの動かすことのできない言葉の使い方は、僕はやれと言われてもできません」が印象的。

☆今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)』(講談社:2000.3)

 今村氏の本を読んでいつも思うことだけれど、そこで提示される理論は少々できすぎている。氏の新刊に接するたびきまって知的興奮を覚えるのだが、それはひとときの熱気であって、読後の時間の経過とともにいずれは冷めていく。抽象度が足りないのだと思う。だから知的刺激を誘う読み物としては(少なくとも私にとって)最高の部類に入る書物なのに、私自身の経験の能力の核心部分には浸透していかない。これは決して批判の辞ではないし、抽象度の不足は本書の欠陥などではない。むしろその分、知的潮流への的確な目配りに支えられた豊富な素材と射程の広い創見がちりばめられていて、知的興奮が去った後、冷静に自前の思考を紡いでいく際の手引書として最適だ。
 本書の理論的骨格をなす命題は、たとえば「交易は交換不可能な物を交換の場に引きずりださなくては開始しない。交易不可能なものが交易を可能にするのである」(222頁)というパラドクスでもって示される。この謎を解く鍵は「原媒介」とでもいうべきものの介在である。《人と人との関係(相互行為または交易)は、必ず、神々と人間の関係によって媒介される。(略)人間たちは、人間だけで、社会関係を構築することが原理上できないのである。(略)人間関係のなかに「人間でないもの」が参加するときに、ようやく人間の相互関係が動きだす。「人間でないもの」が介入して「はじめて」、あるいはそれによる媒介と「同時に」、あるいは「その後で」、自分を人間であると称する存在たちがおもむろに互いに交渉しはじめるのである。》(144-5頁)
 こうした命題を支える今村氏の理論的構図そのものは、「労働と霊性の関係」という問いを踏まえて、たとえば次のように図式化されている。《してみると、霊的世界(アニマ的世界、生ける自然)のなかから、祈りを媒介にして、聖なるものと俗なるものとが分離される事態が理解されるだろう。こうして供犠と祈りは一体となり、霊的な世界のなかに、一時的に開口部をこじあけて、霊的効力を宙づりにして、霊的世界を一時的に事物化するのである。事物化した世界が俗なるもの、すなわち生業であり、他の部分が聖なるものである。そして聖なるものは、擬人化的な神話的思考によって、霊的力が実体化されて神々の住まう領域に縮減される。霊的世界を聖なるものに「縮減する」ときに、想像的な神話的思考が強く関与する。祈りのなかに宗教的儀式と神話が不可分にからみあっている所以である。この神話がなければ、祈りの生産力をもってしても聖なるもの、すなわち神々を結果として生産することはできないであろう。》(102頁)
 このいかにもアルカイックな様相を帯びた社会理論に出てくる「霊性」を自然に、「祈り」をテクノロジーに、「聖」と「俗」を言語化可能な「制度」と無意識的な「構造」という社会を成り立たせる二つの要素にそれぞれ置き換え、さらに「擬人化的」で「想像的な神話的思考」をマスメディアの思考様式にあてはめてみるならば、それはそのまま情報資本主義段階へ以降しつつある現代にも妥当するだろう。それは「マルクスの所有論的な歴史的考察の成果とモースによる贈与体制の論理と倫理への考察の成果」(273頁)に基づく「人間学的な普遍的構造」の把握に向けた、著者の現時点での到達を示している。(付言すると、著者はエピローグで、「政治もまた社会的相互行為としての交易であるという事態」をめぐる著書を予告している。次なる知的興奮と速やかな冷却の読書体験を期待している。)

☆ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』(兼子正勝訳,青土社:2000.1/1994)

 フーコーが「私たちの時代のもっとも偉大な本」と称えた書物。フロイトとマルクスが紡いだ思考の上に「サドが決定的に刻印した真実」(フーコー)と「フーリエの奇妙な構築物」(クロソウスキー)を重ね合わせた本。一度や二度の通読では容易にその全貌を明らかにしない謎めいた著書で、バタイユの『呪われた部分』とともに、私にとって半永久的な常備本のひとつとなった。
 訳者解説によると、「主体の欲望の次元と産業社会の生産=消費の次元を重ね合わせることで、欲望あるいはファンタスムが広く社会的に流通する体制を思考しよう」とした本書の全体で、クロソウスキーが追及していることはただひとつ、「伝達も共有も交換も不可能である情欲[e'motion voluptueuse]を、交換可能なものとして思考するためにはどうしたらいいか」ということである。「クロソウスキーに対する裏切り」との非難を覚悟の上で「わかりやすさ」を旨として再構成されたこのよくできた「見取り図」を繰り返し読んでみても、本書に表現された何かしら思考し得ない事柄が要約整理の手捌きをすり抜けて、どこか深いところで息づいているのを感じてしまう。自ら「生きた貨幣」となって「情欲の普遍的コミュニケーション」(訳者)──「普遍的に真であるようなコミュニケーションはただひとつしかない、つまり身体的諸記号による秘密の言語によって身体が交換されることしかない」(117頁)──に身を投じることでしか理解できない何か。
《いつの日か人間存在が、外的倒錯を、つまり諸「欲求」の病的肥大の怪物性を乗り越え、つまり減少させ、そのかわり内的倒錯に、つまりみずからの虚構の統一性を解体することに同意したならば、そのときには、欲望とその対象物の生産とのあいだに、みずからの諸衝動との相関において理性的=合理的にうち立てられた経済学というかたちで、調和が組織されることになるだろう。つまり、労力の無償性と非理性的なるものの価格とが、相互に釣り合うことになるだろう。サドの教えは、フーリエのユートピアには深い現実が隠されていることを証明する。しかし、現在からそのときに到るまでは、フーリエのユートピアがユートピアでありつづけ、サドの倒錯が産業の怪物性の原動力でありつづけることが、産業の利益にかなうことなのである。》(99頁)

☆妙木浩之『心理経済学のすすめ』(新書館:1999)

 「心」を経済的な現象とみる心理経済学。心は一つの経済活動であり、一定の需給環境によって成り立っている(181頁)。そもそも心は社会経済的状況の産物であるから、必然的に社会経済的枠組みに影響される(236頁)。──著者の臨床での治療体験に根ざした「心の経済」という発想に立ち、フロイトとマルクスを起源とし、ニーチェを先駆者にもつ学問。
 フロイトやマルクスが生きた金本位制(〜1913)の時代から固定ドル本位制(1945〜70)へ、変動ドル本位制(1973〜84)を経てプラザ合意以後の「ドル救済のためのマネーシステム」、そして「マネーゲーム」の時代へと、経済システムは変化してきた。
《構造主義が明らかにしてきたように、システムが違えば、そのなかの意味も異なったものになります。ということは、フロイトの時代と今では「お金」といっても意味が異なるのです。今日私たちの世界は、金本位制の時代のように、リアリズムと本質主義の時代ではありません。(中略)今や変動する差益を基準として、さらに大きなお金が動くというハイパー・マネーの世界なのです。ここでは家族や個人、つまり精神にもさまざまな循環が起きています。思想は構造主義、さらには相対主義の時代です。家族は多元化しています。》(15頁)
 多元化した現代の家族は、市場原理(=貨幣の原理)に対する共同体原理(=愛の原理)を割り振られた「共同体の最後の防波堤」として、かつて「妖怪」という恐れと不思議、脅威と驚異が同居する中間領域が果たしたショック・アブソーバーの機能(共同体の外部と内部の緩衝帯)を欠いたまま、共同体意識と市場原理の「心の戦場」になった。そこで闘われているのは、まさに心理戦、情報戦である。
《今、日本は、昭和初期と同じように外部のマネー経済に振り回されているのです。振り回されているのは当然です。庇護社会[母性的なものを期待し、それを求める社会]で失われやすいのは、先の金融マネー社会で必要な(一)市場原理に対応できる情報戦、(二)主体的なリスク・マネージメント、そして(三)個人主義的な意思決定、なのです。どれもハイパー・マネーの世界で必要なものばかりですが、日本では家族でも、学校でも教えてこなかったものです。庇護社会は、外部のマネー経済に二度目の侵襲を受けている危機的状況にあるのです。》(281頁)
 心理経済学は循環あるいは反復を前提として、「悪循環」の解消をめざす。そして、これからの社会経済状況のなかで生き残るための「心の戦略」を示す。
《そもそも庇護社会は、主体的な行為と情報戦は苦手なのです。これは第二次世界大戦で起きた数々の失敗が証明しています。にもかかわらず、新しい外圧である外部のマネー経済が登場し、金融ビッグバン以降の日本はこの心理戦の世界に向かって金融の世界を開こうとしています。そこでは「経済主体」と「心の戦略」が不可欠なのです。心理経済学という領域が切に必要だと、今ここで考えているのは、こうした文脈からなのです。不幸な反復を避けるためには経済的な「心の戦略」が必要な時代になっているのです。》(294-295頁)

☆蛭川立『性・死・快楽の起源 進化心理学からみた〈私〉』(福村出版:1999.11)

 快楽ドラッグやシャーマニズム、チンパンジーの不倫から説き起こす人間の利己主義と利他主義の話題、遺伝子交換過程としての性と死の観念、死後の世界や臨死体験、互酬性と再分配の交換原理、『千のプラトー』からフーリエの「ファランジュ」、聖アウグスティヌスの回心をめぐる脳生理学的説明まで、そしてミームにAIに「心の転移(ダウンローディング)」等々と、てんこ盛りのコラムが縦横に編集され、まさに学問領域を超速度で横断する「最先端の科学読み物」(カバー裏に印刷された言葉)で、結構楽しめた。著者はあとがきで、「遺伝子再生産機械として進化してきた使い捨ての身体」という社会生物学のモデルと「認識と行為の主体である「私」という感覚」との折り合いをどうつけるかが進化心理学に課せられた今後の課題ではないかと書いている。ここから何か(無意識を意識的に語りデザインする「情報革命」後の学問?)が生まれそうな予感を育んでくれる書物。

☆柄谷行人他『NAM生成』(太田出版:2001.4)

 柄谷氏を交えた三つの対話(浅田彰・坂本龍一・山城むつみ「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」、村上龍「時代閉鎖の突破口」、王子賢太・三宅芳夫「二○世紀・近代・社会主義」)と、二つの書き下ろし(鈴木健「ネットコミュニティ通貨の玉手箱」、山住勝広「希望を紡ぐ学校─ニュースクール構想について」)で構成されている。浅田氏の「スターリン主義的」なまでの「われながらうまい司会」とツッコミが冴えた対話や『希望の国のエクソダス』をめぐる村上氏との対談が面白かったし、シティ・カレッジあるいはソーシャル・センターとしての「ニュースクール大阪」構想をめぐる山住氏の文章も示唆に富んでいたのだが、なんといっても鈴木氏の文章が「ぶっ飛ん」でいて新鮮かつ刺激的だった。(本書に収録されなかった文章を含む未編集版が、鈴木氏のHP[http://sacral.c.u-tokyo.ac.jp/~ken/frame-j.html]上に公開されている。)
 NAMやcode(坂本龍一主宰)が採用を決めた通貨発行ソフトウェアGETS(Glocal Exchange Trading System)の開発プロジェクトやInterGETSをめぐる話題、貨幣商品説や貨幣法制説の向こうを張った「貨幣評判説」(評判言語としての貨幣)の提示、そして、一次産品だけで生活できるような素朴な社会に適合的なLETS(すべての取引を販売‐購入型の絶対値取引として扱う)に対して、生産関係が複雑に絡み合う高度に分業化された経済システムに適合的な「相対値貨幣」(すべての取引を投資‐被投資型の相対値(=割合)取引として扱う。利潤を対価とする直接金融や利子を対価とする間接金融に対して、付加価値を対価とする第三の金融手段)のアイデアや「すべてが出資であるような経済圏」の構想。
《現在のどんな大企業でも、実は一つ一つのプロジェクトは二○○人程度で行われていたりする。相対値貨幣が目指すのは、巨大企業は形成されず、どんなに大きくても一○○○人程度のプロジェクトが生成と協力と崩壊を繰り返すような社会だ。バーチャルな組織体としてのプロジェクトはそれ自体としては何の目的も持たず、巨大なプロダクトはそれら中小企業の連合(あくまで取引という名の投資)として生まれてくるだろう。企業は、コースのいう取引コストを最小化させ、付加価値を最大化させるための単なる道具なのだ。決して利潤を最大化させるための道具じゃない。/いま、はやく起きて欲しい、というよりも起こしたいのは、協同組合やNPOの職員が一生使い切れないほどの金持ちになるという事件だ。スケールでいえば、年収一○○○億円くらいはありえると思う。(中略)このとき、従来の意味での資本主義的企業はNPOに絶対勝てなくなるだろう。》(204-205頁)
 あらゆる取引が投資として行われる究極の資本主義の中ではNPOしか存在しえない。──この仮説ひとつ取り上げてみても大胆かつ魅力的なものなのだが、鈴木氏の奔放な構想力は、ネット貨幣と実世界インターフェイスをめぐる議論(脳とコンピュータの接続によるクオリアつき貨幣!)を経て、さらには経済的な問題を越え政治や法律の分野を取り込んだ「貨幣・投票・所有の情報論的融合」をめぐる議論へと、すなわち e-democracy の新しい形態、あるいは公私二項対立の図式を越えた共(コミュニティ:共同体)のパラダイムにおけるガバナンスをめぐる社会工学的な議論へと進んでいくのであって、まことに斬新かつ不羈にして説得力と問題提起力に満ちた論考だった。とりわけ最後に出てくる次の文章など、私はほとんど心脳問題(貨幣=魂=価値や心の形式・容器と置き換えるならば、「魂脳問題」)への示唆に満ちた言及として読んだ。(貨幣の問題は古代ギリシャ哲学、中世スコラ哲学以来の西欧形而上学の、そしておよそシステムをめぐる思考の根幹にかかわっている。)
《貨幣は心(志)の配置に影響を与えるだけであって、心そのものじゃない。つまりこういうことだ。ぼくは貨幣なんぞに、全く興味がない。そして、貨幣そのものは無価値だからこそ、ぼくは貨幣について考え、新しい貨幣をつくろうとしている。貨幣を考えるときの空しさは、ぼくが健康であることの証拠だ。》(215頁)
 備忘録。村上龍との対話の中で、柄谷氏は「エコマネー」とLETSの違いについて、「これは、福祉に国家予算を使わない、さらに、地域経済を国際的変動から守ろうという意図から出てきたものですね。しかし、地域通貨一般になじみができるのは悪くないので、僕は反対しません」(105頁)と語っている。

☆岩井克人『貨幣論』(ちくま学芸文庫:原著1993)

 トートロジーは「力」の表現である。──エックハルトは、「命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出ている」とき「命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きる」のであって、もし命が「あなたはなぜ生きるのか」との問いに答えることができるならば、それは「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないだろうと説いている(「なぜという問のない生き方について」,田島照久編訳『エックハルト説教集』所収,岩波文庫)。ニーチェの永劫回帰、あるいはウィトゲンシュタインが「同語反復は諸命題の実体のない中心である」(『論理哲学論考』5.143,奥雅博訳)とか「論理の命題が同語反復であることは、言語の、世界の、形式的──論理的──性質を示している」(同6.12)と書いているのも、もしかすると世界の「力」の裏返しの表現だったのかもしれない。
 岩井氏は本書(後書)で、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはいけない、もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにないと書き、このことをマルクスの価値形態論と交換過程論の徹底的な読解を通じて、つまり「商品語」(全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態との無限の循環論法によって成立する貨幣形態)とその「人間語」への翻訳(貨幣が今まで貨幣として使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる:201頁)の両面から論証し、さらには労働価値説に立脚し商品世界に実体的な根拠を確保しようとしたマルクスの「価値記号論」や「超越的な記号されるもの」の場を究極的に確保してきた古典ギリシャ以来の伝統的な記号論を、貨幣の系譜をめぐる歴史の事実(「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」になってしまうという小さな「奇跡」のくりかえし)によって論駁し、最終的に資本主義の真の危機としてのハイパー・インフレーション(貨幣からの遁走)に説き及んでいる。「貨幣が貨幣であるのは、それが貨幣であるからなのである」。マルクスの方法の徹底化、すなわち抽象化の極限値として摘出されたこのトートロジーが示す「世界の実体のない中心」から噴出する力とは「剰余価値」であり、岩井氏はこの力の創出を「原初の奇跡」と表現している。
《…わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」世界へと歴史が跳躍したあの「奇跡」のときである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。》(227頁)
 備忘録。本書を読んで強烈に印象に残ったこと。その一。一般的な交換の媒体としての貨幣が価値の保存手段としての役割も果たしていることに関連して、ケインズが「時間をえらばずにどのような商品にも交換できる容易さの程度」を「流動性」と名づけたこと。この周知の事実が、とりわけ「流動性(liquidity)」という語彙がなぜかとても新鮮に思われた。その二。木村敏氏の著作を示しつつ、不況(depression)、熱狂(mania)、解体(splitting)という「貨幣的な交換に固有な困難なあり方を形容する」言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia=splitting of mind)といった精神病理学的な病名を想起させるのはけっして偶然ではないと岩井氏が註をほどこしていること。

☆ベルナルド・リエター『マネー崩壊──新しいコミュニティ通貨の誕生』(小林一紀他訳,日本経済評論社:2000.9/1999)

 地域通貨に関連した本のうち、私がこれまで読んだものの中でもっとも得心し感銘さえ覚えた書物。懇切で丁寧で簡明で、歴史認識の的確さや周到な理論的目配りに支えられ、政策論としても抗い難い説得力がある。著者はベルギー中央銀行で欧州統合通貨ECUの設計に携わった経歴の持ち主。最終章で提示される「四段ギア」のマネーシステム(グローバルな基準通貨「テラ」、三大多国籍通貨、いくつかの国家通貨、地域レベルの補完通貨)へのシナリオは、異論はあるかもしれないが雄大。本書の続編『貨幣の神秘』もぜひ読んでみたいと思う。
 無尽蔵といってもけっして言い過ぎではない「情報」がふんだんに盛り込まれた本書から、ここでは一点だけ抜き書きしておこう。──情報革命が社会に与える影響を概観した後で、著者は次のように述べている。《しかし、情報革命が解き放つ可能性のなかでも「本当の革命」は、今日の国家通貨以外の様々な種類の通貨がものすごい勢いで電子化への道を歩み始めたことだろう。サイバースペースは新しいマネーの開拓地として理想的であり、そこではお金のもつさまざまな可能性が開花することが期待されている。私たちの国家通貨は工業社会の遺物の一つであり、それが新たな情報時代の影響を受けないとは考えにくい。》(88頁)
《私たちにとっては、「マネーシステムを選択することができ、そしてその選択が大きな意味をもつこと」に気づいたときから全てが始まる。歴史的に見ても、マネーシステムの特徴のほとんどは意識的にデザインされたものではない。それはただ“進化”し、結果的にその社会の権力構造や集合的無意識が反映されていったものである。(略)グローバルなレベル、国家レベル、企業レベル、草の根レベル、もしくは個人レベルで意識的にマネーシステムを選択することは、情報時代に「持続可能な豊かさ」を生み出せるか、あるいは別の世界の終わるかのかを分ける強力な決め手になるかもしれない。》(89頁)

☆森野栄一監修/あべよしひろ・泉留維共著『だれでもわかる地域通貨入門』(北斗出版:2000.5)

 貨幣の歴史や利子生み資本としての貨幣がもたらす諸問題、オルタナティヴな協調的マネーシステムとしての地域通貨(補完通貨、自主通貨、自由通貨、会員制通貨、コミュニティ通貨、グリーンドル、エコマネー、オリジナルマネーとも)が地域資源循環型経済への転換や地域共同体の再構築に果たす機能、そして地域通貨の歴史や現状、その実際(レインボーリング)と導入マニュアル。これらの広範にわたる内容をコンパクトに整理した入門書。理論的ではないけれど実践的で、とりわけ第七章「地域通貨に関するQ&A」がよくできている。本書は『週刊プレイボーイ』[2000.5.23] で紹介されていた。記事に出てくる見出し「まずは遊び、そして出会いがある」が、事柄の本質を衝いている。

☆河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』(NHK出版:2000.2)

 出版された直後、ミヒャエル・エンデとシルビオ・ゲゼルを取り上げた部分(第3章まで)を読んで、そのまま放置していた。興味を失ったのではない。それどころか「ここから何かが始まる!」と興奮して、じっとしていられなくなったのだ。私自身は具体的に何か行動を起こしたわけではないけれど、たぶん本書刊行を引火点として、日本のここかしこで地殻変動が起き始めている。エンデは「自然界に存在せず、純粋に人間によってつくられたものがこの世にあるとすれば、それはお金なのです」「お金は人間がつくったものです。変えることができるはずです」と語っている。深い叡智の言葉だと思う。本書のもとになったNHKのBS1での放送(1999年5月4日)は観ていないが、その内容は「エンデの遺言」[http://www3.plala.or.jp/mig/will-jp.html]に詳しい。

☆小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生 鬼と富の民俗学』(工作舎:1982.9)

 対談の最後で、「私が経済について話すなんてことはありえないとおもっていた。しかし、今日の対談で、自分は経済民俗学者なんだということを発見した」と小松和彦が語れば、栗本慎一郎が「私も、だからいまや経済とは憑きものであると確信している。(笑)……ストレンジャーや、ストレンジャー的なものである貨幣を、たんなる内部の論理から生みだされたものだとしないと同時に、やはりたんに外部からの力だけだと逃げないという苦しい地点にわざわざ身をおいてふたりともがんばってみているということです」と応じる。
 共同体の秩序に関する学(エコノミー)が宗教と切り結ぶ場の所在を示す対話編。ほぼ20年ぶりの再読。これはもはや現代の古典だと思う。──栗本の次の発言が妙に心に残ったので、書き抜いておく。《技術というのは、もともと秘密から出たというべきですね。共同体が安定している普遍的な非市場社会で、そのままみんながやっていけるもの、というのは秘密でも技術でもなんでもない。》(136頁)

☆ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』(生田耕作訳,二見書房:1973.12/1949)

 訳者あとがきによると、晩年のバタイユは、『わが母』をはじめ「聖なる神」の総題のもとに統合される文学作品群や「無神学大全」三部作(『内的体験』『有罪者』『ニーチェ論』)とともに、「普遍経済学の試み」の副題を持つ──そしてウィリアム・ブレイクの「過剰は美である」を題辞に持つ──本書を第一部として、以下『至高性』(未完)『エロティシズム』へと続く「呪われた部分」三部作の三つの著述群をもって、その思想的総決算を構想していたという。
 言語芸術(あるいは心理学、もしくは精神医療)と宗教と経済。このトリアーデはまことに魅惑的で、本書はとてつもない起爆力を潜めていると思う。(ほぼ20年ぶりに腰を据えて再挑戦を試みたものの、今回もまた徒労に終わった。再起を期すべし。)
《…目下執筆中の書物(今日世に出す)は専門の経済学者の流儀で諸事象を考察するものではなく、わたしには一個の見方があり、それによれば供犠や教会の建立や財宝の贈与が麦の売買に劣らぬ関心事であるということを附言せねばならなかった。要するに、富の「消費」(蕩尽)が、生産に比して、第一目標となるような「普遍経済」の原理をわからせようと努めてみたが、徒労に終った。》(緒言)

☆『自由経済研究』第1号〜第14号(ゲゼル研究会編,ぱる出版:1995.10〜1999.11)
☆『大航海』No.27 特集「金融とは何か」(新書館:1999.4)
☆『環』vol.3 特集「貨幣とは何か」(藤原書房:2000.10)
☆『週刊金曜日』No.352[2001.2.23] (株式会社金曜日)
☆『広告』2001年3月号(博報堂)

 地域通貨関連で買いためていた雑誌類のまとめ読み。『自由経済研究』は現在第18号まで出ているらしい[http://www.alles.or.jp/~morino/INDEX.HTML]。プルードン、ゲゼル、ケインズの経済思想の流れは実に面白い。『大航海』と『環』は流し読み。刺激的な論考がちりばめられていた(と思う)。『週刊金曜日』の特集「やってみたら?! 地域通貨で何かが変わる」で紹介されていた社内通貨「ヴァンドルディ」の実験レポートも興味深いものだった。「バーチャルでスーパーフラットな」スクエア(広場)をめざして文字通り正方形のカタチになった『広告』では、掲載されていた九つのプロジェクトのうちマイケル・リントン編集の「open money project」と鈴木健編集の「post corporation project」をやや丹念に読んだ。
 

★2001.5

☆金子勝『市場』(岩波書店:1999.10)

 再読。自立性(自分らしく生きること)への要求と共同性(一人では生きていけない)への要求という、近代的人間が抱え込んだ「分裂」を見据え、ありふれた人間が抱える問題を「弱い個人の仮定」を出発点として解決する政策構想力を提唱する。グローバリズムという名のアメリカンスタンダード、市場原理主義という名の全体主義への対抗戦略として著者が示す方向(コミュニティへのセーフティネットの張り替え、市場では提供できないものを送り出す社会的交換のネットワークや独自の第三者評価機関の創出など)や視点(企業組織における「自己なるもの」の制度化、労働・土地・貨幣的資本という本源的生産要素を「所有することの限界」など)は、いまだ抽象的なものにとどまる。だが、本書の主眼と魅力は、主流派経済学の市場理論やマルクス経済学に対するラディカルな批判にある。この理論的な抽象化の徹底を通じてこそ、いいかえれば普遍と特殊を同時に説明する論理の一貫性の追究においてこそ「社会哲学における現実感覚とアクチュアリティの回復」(104頁)がもたらされるのであって、近代的人間の分裂はまことにパラドキシカルで根が深いのである。

☆ジェイン・ジェイコブズ『経済の本質 自然から学ぶ』(香西泰・植木直子訳,日本経済新聞社:2001.4/2000)

 駆け足でキーワードを抜き出しておく。(もちろんこんな要約にもならない文章で括られるほど本書はヤワではない。)
 経済発展(質的変化)の本質を、「動物、植物、三角州、法律や修理した靴底」等々に共通する「発展」の基本過程・普遍的法則──「一般から発生する分化」「分化したものが一般的なものとなり、その一般的なものからさらなる分化が起こる」「発展は共発展(co-development)による」──でもって示す第2章。
 経済成長(量的拡大)の本質をめぐって、熱帯雨林におけるバイオマスの拡大と種の多様性が、生態系(エネルギーが通過していく導管)の中に受け入れた太陽エネルギーの複合的利用によることを踏まえ、「経済拡大についてのエネルギー・フロー仮説」を提唱する第3章。《生態系にあっては、導管[生態系:引用者註]においてなされる本質的な貢献は多様な生物学的活動によってつくりだされる。繁栄する経済においても、導管[都市や地域:同]の中でなされる本質的な貢献は多様な経済活動によって生み出される。どちらのシステムにおいても、受け入れられたエネルギーが多様に利用され、断片化され、再利用されるおかげで、そのエネルギーと物質は導管通過の証拠を多く残す。(中略)われわれは、集団それ自体が豊かにした環境の中でその集団が豊かになっていくのはなぜか、どうしてかを、いまや理解できるわけだ。》(73-74頁)
 こうした「分化と結合による発展と再発展」や「エネルギーの多様かつ多角的な利用による拡大」に「活力自己再補給による自己保全」(第4章)を加えた、経済と生態系に共通な三つの過程の分析を経て、これらのシステムの動的安定性(絶えざる自己修正)を支える四つの手段──分岐(発展、技術革新)、ポジティブ・フィードバック(分岐と多様性が出現する構造・背景)、ネガティブ・フィードバック、そして緊急適応──を論じ、「経済的悪循環は経済的・政治的中毒だ。それを絶つには、現状の持続ではなく、分岐に拠るのがいちばん効果的だ」と処方箋を示す第5章。
 そして、経済生活と生息地維持との間のつながりをめぐって、「進化の過程で人類に授けられた抑止力」──美的鑑賞、報復への恐れ、畏敬、説得力、修繕工夫するくせ、加えて道徳感覚?──を提示する第6章。
 さらに、人間と自然とのつながりをめぐって、「意識の神秘」(どうして心は、心が外部に存在するかのように心を観察できるのだろう?)にまで説き及び、「真の経済学」は「超自然的でない経済学と人間ぎらいでない生態学の共生」から可能になるのかもしれないと示唆し、経済と言語の共通性──「予測できないように自己を形成すること」「文化や目的を実現するための多くの用途を発展させること」──を論じる第7章。

☆神野直彦『「希望の島」への改革 分権型社会をつくる』(NHKブックス:2001.1)

 盟友金子勝氏の『日本再生論』に続き、深い絶望の淵から渾身の力を振り絞って、「若い世代」への思いを託した著者最後のメッセージ(?)とも思える著書が刊行された。──タイトルの由来は村上龍の『エクソダス』なのか(金子氏の著書が村上龍の作品への言及から始まっていたように)と思っていたら、1930年代のスウェーデンを『ロンドン・エコノミスト』が「絶望の海に浮かぶ希望の島」と賛美したことを踏まえているという。
《「総体としての社会」は、家族、コミュニティなどの社会システムと、そこで営まれる人間の生活のために存在する政治システムと経済システムから構成されている。人間のために政治と経済学があり、政治と経済のために人間があるわけではない。(中略)「強者の論理」を賛美する市場市場主義は、単なる集団的信仰にすぎない。この集団的信仰の催眠状態から目覚め、人間の、人間による、人間のための「協力社会」を創出しなければ、人類の社会に明日はない。そのために必要なことは、人間の手が届き、目に見える距離に公共空間を創り出すことである。》(206-207頁)
 この、ほとんど本書のエッセンスともいえる文章を読んで、無条件に賛同するくらいなら、むしろ「甘い」と断ずる方がいい。財政学者たる著者の、実証的な歴史認識と優れた理論的考察(たとえば、政府は「共同体の失敗」から誕生したのであって「市場の失敗」からではない、等々)に裏打ちされた政策思考や、そこから紡ぎ出された分権型社会への税制改革論と政府体系の再編論を抜きにして、結論だけを取り出してみたところで、それは(著者自身の言葉でいえば)「ロマン」にすぎないだろう。「どんなに嘲笑されようとも、どんなに愚弄されようとも、私には人間の「愛とやさしさ」を見続ける使命がある」。このような言葉が刻まれた経済学の書を、私はたぶん初めて目にした。

☆清水哲郎『パウロの言語哲学』(双書現代の哲学・岩波書店:2001.2)

 書名は二重の意味をもっている。パウロによる言語哲学と、パウロの言葉の意味への著者による言語論的なアプローチ。そしてこのダブル・ミーニングは、「イエスの信=ピスティス・イェースゥ」というロマ書の語句が、「イエスに対するピスティス」ではなく「イエス自身においてあったピスティス」を意味する表現であったこと、したがって、パウロは「イエス・キリストを信じる信仰などというユダヤ教の枠を越えた思想を抱いていたわけではなかった」と結論づける導入部とパラレリズム(並行法)をなしている。
 本書で面白かったのは、第4章「イエスは何者か」での「プシューケー」=「土でできたもの+神の息吹(プネウマ)」=「身」をめぐる議論や、第5章「復活と終末」と第7章「アテネのパウロとギリシア哲学」での次の記述。
《もし死に際して霊といったものが遊離し、それがどこかで生き続けるというならば、それが天国に行くというような至福の在り方をすればそれでいいのであって、復活は必要ないことになろう。だがパウロの背景にある死は人は死んでネクロス[死体・死者]状態に置かれるというものであった。そうであれば、ここでは「霊」と「肉」の意味は規定できなくなる。パウロ的に規定し直すためには、復活をも視野に入れた上で、死に際して身体から分離し、従って死後も生き続けるものとしてではなく、復活以後の人の在り方として「霊」を決め、これに対応して、死以前の人の在り方を「肉」とする外ないであろう。このようにしてパウロは霊肉二元論的用語を換骨奪胎して自家薬籠中のものとしたと私は考える。》(156-157頁)
《…アテネにおけるパウロの活動についての使徒行伝の記述は、日頃中世哲学を専門分野とする私にとって〈中世哲学〉という一つの探求ないしディスカッションの流れの源の検討という意義を持つ。アテネにおけるパウロの演説こそが、少なくともその後のギリシア教父のしていることの、さらには中世哲学という営みの枠を決めることになった、と私には思えるからである。(略)中世哲学に多大な影響を与えた五世紀の或る文書群が、パウロの演説を聞いて従った少数の者として名が挙げられた、アレオパゴスのディオニュシオスに擬して記されたものだったということが、このことを象徴的に表している。》(205頁,224頁)

☆山本七平『小林秀雄の流儀』(新潮文庫:2001.5/1986)

 小林秀雄はドストエフスキーという目標を、三つの線が交合する点で捉えようとしている。──山本七平は本書に収められた「小林秀雄とラスコーリニコフ」で、帝国陸軍最新の「光学兵器」であった軽地上標定機をもちだして、小林はこの装置を据える大体の位置は知っていた、と書いている。「どこかって、そいつはまずプネウマティコンとプシュキコンとサルキコンの三点のはずだ」。
 ここに出てくる「サルキコン」を「肉・肉欲的」と訳し、「プシュキコン」を「肉体をもつ人格的霊魂的存在」の意味にとれば、一応は理解できる。だが「プネウマティコン」(神からの風)を「霊・神に属する者」と訳したとて、それがどんなものか、日本人には理解できない。「精神と肉体」とか「霊と肉」といった言葉をごく普通に使い、しかもこの「精神」や「霊」を「良心と理性の座」だと信じて疑わず、だから人間に「罪」(良心に反すること)を犯さすものは「肉の欲望」だと簡単に考えているからだ。
 ラスコーリニコフは「罪」を犯していない、従って「罰」はない、と小林は繰り返し言っている。しかし「最も良心的な個人全体主義」(山本の造語)を奉ずる者には、このことが理解できない。「個人全体主義、そこにあるのはプシュキコンの自問自答だけ」だからである。ある特定の対象へのプシュキコンの預託によって、自問自答の世界(他が一切ない全体主義の世界)は拡大する。それこそが『悪霊』のテーマである。
《プシュキコンの預託はプネウマティコンとは関係がない。だが預託した先からの影響…を人は天からの啓示いわばプネウマティコンと間違える。この間違いを思い知らされるのは、本物のプネウマティコンが来たときだ。それを否応なく経験させられたのが使徒パウロであろう。(略)一体、「神からの風」[プネウマティコン]が来るとはどういう心理状態なのか。それは確実に来た。来たがゆえにラスコーリニコフがムイシュキンになるという考えられないことが起こったのだ。そしてムイシュキンこそ、ラスコーリニコフの、シベリア以後の物語であることを、小林秀雄は明確に指摘している。ではこの「別人格への転回」はどのようにして起こったのか。そしてこの転回が、パウロのいう「自分のために生きないで……復活した者のために生きる」ということなのか。》(148-151頁)

☆『エックハルト説教集』(田島照久編訳,岩波文庫:1990.6)

 エックハルトの説教集を読んでいる。退屈の虫を噛み殺しながら読んでいる。だったら止めればいいようなものなのだが、読まずに済ませられないない力がそこにあるのだから、仕方がない。小林秀雄に「退屈に堪える練習」という言葉がある(「偶像崇拝」)。「理解する事とは全く別種な認識を得る練習」とも書いている。それは「絵はただ見るものだ」「絵を見るとは一種の練習である」といった文脈で言われているのだが、エックハルトが解るということと「絵が解る」ということを、この際パラレルに考えておくことにする。(もちろんこれは乱暴な話だ。)
 エックハルトは、「わたしの体の内にわたしの魂はあるというよりは、わたしの体がわたしの魂の内にむしろあるのだ」(「神の根底にまで究めゆく力について」)と語っている。別の説教では、次のように語っている。本書を読んで、最も印象に残った箇所だ。
《ある師は、目が歌とは関係なく、耳が色と関係がないように、魂はその本性においては、この世界のすべてのものと関係がないのであると言っている。それゆえに自然学の師たちは、魂が体の内にあるというよりも、むしろ体が魂の内にあるのだと言っている。ワインが樽を容れるのではなく、樽がワインを容れるように、体が魂を保有するのではなく、魂がその内に体を保有するのである。》(「自分の魂を憎むということについて」,98-99頁)

☆田口ランディ『モザイク』(幻冬舎:2001.4)

 鯨は、全身これ耳である。──中沢新一の「すばらしい日本捕鯨」(『純粋な自然の贈与』所収)の書き出しの文章だ。本作品の主人公は「ミミ」という名を持つ女性で、「ミは、見であり、身であり、実である。そして弥勒の弥である。ミは第三の道の三である。重なる三は六であり、天、地、水、太陽、月、火である。その存在が、世界をバランスに導く」。ミミはまた「あしゅらおう」(『百億の昼と千億の夜』)であって、「この世界に『シ』を組み込んで崩壊に追いやっている者は誰なのか、それを探して過去から未来へと旅をしながら、ずっと戦う」。ミミは、古武術で鍛えられた性能のいいOS=身体をもつ「アース」でもある。「俺たちさ、身体全体が耳なんだよ。ミミがサウンドって呼んでいるのは、耳で聴いている音じゃなくて、もっとこう自分全部で聴いている音なんだよ。この音を聴くためには、性能のいい身体が必要で、身体ってのは心とセットなんだよ。」
 この小説は、「天使にチューニングが合う」人間が生まれる時代、つまり映像の世紀から情報の世紀へ向かう時代における、視覚と聴覚のシンクロによる霊覚化、いいかえれば水と波(電磁波)による浄化、ホツレとムスバレの同時化による生き霊化、すなわちOSの更新(復活)の物語だ。── ところで「モザイク」とは何だろう。少なくとも12回以上は出てくる使用例のうち、もっとも印象に残った文章を記しておく。「人間の精神は無数の感情のひな型で構成されたモザイクである」。

 付録。「田口ランディのコラムマガジン」(2001.5.17)に掲載された「アニミズムという希望・山尾三省さんのこと」という文章に、「屋久島には二十年くらい前に移住してきて、山奥で自給自足の生活をしながら詩を書いている」山尾氏と著者との会話が紹介されている。とても面白かったので、丸ごと引用しておく。(また一つ、魂の新しい定義を収集することができた。すなわち、魂とは濃度変化である。)
「つい最近、三作目の小説を書き終えて、今、新しいテーマに向かっているところです。でも、自分でもまだイメージの塊のようなものしかなくて、何かを探しています。自分が何を探しているのかすらよくわかっていないのですが、今年に入ってから私はずっと、水と音楽について考え、水と音楽に関わる旅をしています。自分がいま、とてもこだわっているのが水と音楽のようです」
「おもしろいですね。水ですか……」
「はい。それで、なんだか漠然と、水というのは魂ととても似ているのではないかと思い始めました。それは……なんというか、水は蒸気になったり、氷になったりして姿を変えるけれど、その本質は変らないでしょう?それが、魂と似ているなあと。だからもしかしたら、魂は水という性質を似せて作ったものなんじゃないか、なんて思ったりしました。こういう考えって変ですか? 水と魂は相似形なんじゃないか……って」
「いえいえ、ちっとも変じゃないですよ。わかります。その通りではないかと思います。私はいつも、魂は濃度変化だと言っているんですけどね、同じようなことだと思います。つまり、魂というのもその本質はいっしょで、ただ、その濃淡があるんじゃないかと。濃度がどんどん濃くなると、まあ神様のようなものになるし、人間もその濃度のなかのひとつ、というかね」
「ああ、なるほど。濃淡ですね、濃くなっても、霧散していても、その本質は同じなんですね」

☆『芸術新潮』2001年6月号

 バルテュスの追悼特集号。1984年、京都国立近代美術館の「バルチュス展」で観た「コメルス・サン・タンドレ小路」「部屋」「美しい日々」「画家とモデル」「子供たち」等々の具象画の残像が甦ってくる。──「バルチュスの生成変化」(ガタリ)。『嵐が丘』を読みたくなった。
 昨年フランスで刊行された晩年のインタビュー集から、若干の抄訳が掲載されていた。そこからいくつか拾っておこう。
「ドミニコ会修道士 Dominicain」わたしの兄ピエールは若い頃ドミニコ会の修道士になった。それから、ずいぶん後になって、イスラム教に改宗した。
「女 Femme」少女とは生成の受肉化である。これから何かになろうとしているが、まだなりきってはいない。要するに少女はこのうえなく完璧な美の象徴なのだ。成人した女性がすでに座を占めた存在であるのに対して、思春期の少女[アドレサン](この言葉はラテン語の「アドレスケレ」=「成長する」から来ている)は、まだ自分の居場所を見つけていない。…でも、わたしの作品をエロティックと評するのは馬鹿げている。少女たちは神聖で、厳かで、天使のような存在なのだから。結局のところ、わたしとあの哀れなナボコフに共通点があるとしたら、それはユーモアのセンスだけだ。
「機嫌 Humeur」フランス語の「機嫌」[ユムール]は、英語だと「ヒュウモア」。わたしは往々にして機嫌が悪い。きっとそれがわたし流の「センス・オブ・ヒュウモア」(ユーモア感覚)なのだろう。

☆神崎京介『女薫の旅』(講談社文庫)

 何気なく(でもないけれど)勝目梓の解説が付いた文庫版第一作を手にして、つい(でもないけれど)勢いで「灼熱つづく」「激情たぎる」「奔流あふれ」と、シリーズ第四作まで一気に読んでしまった。1998年11月から始まって、現在も『週刊現代』に連載中の性的ファンタジー(叙情派官能小説?)。もしかしたら勘違いかもしれないが、一作ごとに著者の筆力が高まっている。「生きた貨幣」としての主人公の身体(プシューケー)をめぐる性愛と感性のコミュニオンの物語、と書けば言いすぎか。

☆幸田真音『傷 邦銀崩壊』上下(文春文庫:2001.5/1998.7)

 筆名の真音は「まいん」と読む。売った(Yours)、買った(Mine)、取引成立(Done)の「マイン」。──『日本国債』が刊行されたとき、これは買いだなと思った。他に読まなければならない本がいくつかあったものだから、いずれなどと先送りしているうち、いまさらという感じになってしまった。タイミング良く旧作の文庫版が出たものだから、早速読んでみた。題材といい、登場人物といい、シチュエーションといい、期待できそうだったのに、小説としては結構がイマイチで、ひところ言われた「情報小説」としても中途半端。『日本国債』を読もう。