不連続な読書日記(2001.2-3)




★2001.2

☆ジャック・デリダ『言葉にのって』(林好雄他訳,ちくま学芸文庫:2001.1)

 分かるか分からないか、好きか嫌いか。──いずれにしても哲学の書をめぐる評言としては禁句だと思うし、そもそも私はそういった事柄を云々できるほどにデリダを読んでいるわけではないので本当はなんとも形容のしようがないのだけれど、強いていえばこの本はデリダが語るその内容はよく分かるような気がしたが、あまりデリダの「肉声」が聞こえてくるような気がしなくて好きになれない。(書かれた言葉の中途半端な肉声化。これはもちろん翻訳のせいではないと思う。)「デリダ自身によるデリダ哲学への入門書」とカバーの裏に書いてあるのも気に入らない(私は別にデリダに弟子入りしたいとは思わない)し、訳者解説で唐突にデリダと道元の「類似」に言及されるのも(訳者の一人である森本和夫氏の著書に『デリダから道元へ』がある)舌足らずだと思った。とまあ好き放題に毒づいてはみたものの、本書に収められたラジオ番組での六本のインタビュー記録のうちたとえば「歓待について」と題されたそれなどはとても興味深いもので、私は何度も読み返して熟読玩味した。ちなみに哲学の書についてもしイエス・ノーの回答を求める問いを発しうるとすれば、「それは私の問題なのか」でしかないと思う。

☆太田肇『ベンチャー企業の「仕事」』(中公新書:2001.1)

 著者の持ち味である実証性、イデオロギー化した言説や慣行への批判精神、そして性急に理念を語らず常に現実との接点を意識しながら理論化を試みる着実な方法論が見事に融合している。ベンチャー企業の光(新しいワークスタイルや組織の可能性)と影(ベンチャー企業の組織やマネジメントに内在する矛盾)を精緻に描き切り、その将来を期待をこめて展望した本書は、著者のこれまでの実証的・理論的研究の集大成にして今後の新たな展開を期待させる、その意味でも画期的な著書だと思う。
 実証性について一例をあげるならば、一般に成果主義の弊害とされる事柄、たとえば利益を絶対視した反倫理的行為などは成果主義自体に内在するものではなく、活動と評価の場が外部に開かれていない組織の病理現象であるとする指摘は鋭い。また、成果主義と能力主義の違いを分析した上で、大多数のベンチャー企業が掲げる成果主義が「日本型能力主義」(労働力の流動性が低い閉ざされた組織内での、年功という大きな枠の中での処遇制度)と大同小異であることを示す第4章、さらに「相対的に低い報酬で大きなモチベーションを引き出そうとする」日本企業特有のマネジメントが多くのベンチャー企業においても見られる実態を摘出する第5章の叙述は、本書に深い説得力を与えている。
 理論面では、インフォーマルでウェットな人間関係に根ざした「有機的組織」への批判(組織尊重から個人尊重へ)をベースとして、組織と個人をめぐる「間接的統合」の理論や「仕事人[しごとじん]」モデル、さらには「インフラ型組織」(伝統的な日本企業のようにメンバーを抱えるのではなく、メンバーに仕事の場を、すなわち設備・機器、情報、賃金、人的支援、ブランド、さらには孤独感への対応までの一種のインフラストラクチャーを提供することに重点をおいた組織)の提示など、著者がこれまで主として現状分析のために用いてきた、あるいは現状分析のなかで鍛え上げてきた概念が、本書第1章から第3章で試みられたモデル構築のための工具として、いわば総動員されているのである。
 本書がもつ今後の展開への可能性は、たとえば次の一文に濃縮されていると思う。《近代組織論の祖、C.I.バーナードは、組織を「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力の体系」と定義している。彼によれば、そもそも組織にとって重要なのは、コミュニケーション、貢献意欲、および共通目的であり、物的な条件や人間そのものではないのである。/一方、個々のメンバーの立場からすれば、組織は「特殊利益を獲得するための手段」と定義することができるのではなかろうか。組織化することによって、あるいは組織にメンバーとして加わることによってはじめて、…さまざまな利益を獲得できるのである。したがって、個人主義で組織が形成される場合には、組織化することに伴う諸々の不利益が、「特殊利益の獲得」というメリットを上回らないことが条件になる。/このように割り切って考えるならば、仕事のみで結びつくネットワーク組織やバーチャルカンパニーの出現は、組織本来の姿への回帰現象といえるかもしれない。》(110-111頁)
 ここで述べられているのは、「インフラ型組織」の発展形となる新しい組織観の方向である。私は、組織がもたらす最後の「特殊利益」、あるいは究極のインフラストラクチャーは「経験」なのではないかと考えている。著者が「ベンチャー企業は、ある意味でニ一世紀における仕事と働き方を「実験」する場である」というときの実験、さらには著者が使う「仕事」という概念そのものが、私がいう「経験」にほかならない。それは市場や貨幣がもつ機能の根源にある純粋な媒介作用(もしくは社交作用)といっていいものだし、自由と責任を語りうるメタフィジカルな次元を開く機能であるといってもいい。──唯名論と実念論、経験論と観念論を「超克」する「態度変更」へと導く「経験」の場としての組織。純粋媒介組織。私はそれを端的に「共同体」と呼ぶ。
 ところで著者は本書の終章で、一九八○年頃までの、「組織化された能力主義以前」の日本企業が処遇面では年功序列が支配的であったものの、その草の根(職場)レベルで個々人の能力や適性、意欲に応じて仕事が与えられてきたと指摘している。《それは、イデオロギーとしてではなく、社会や職場で自然に形成された慣行もしくは風土であり、「草の根的な個人主義」とでもいうべきものである。》そして、新しいベンチャー企業の組織について、まず報酬の面ではアメリカ型の制度を導入し、仕事の面では「本来の日本企業の特徴である草の根的な個人主義を生かしながら、そのなかに個人の自由と自己責任の原則をビルトインすること」を提唱している。ここでいわれる「草の根的な個人主義」の実態はおそらく「実証」されえないだろうし、「理論」的に分析することもできないものだろう。それは著者のこれまでの「方法」を超えた領域に属しているに違いない。「経験」とは、つまり「歴史」とはそういうものだ。しかしそれはもちろん本書の欠陥などではない。むしろ私はそこに可能性を見る。

☆笠井潔『国家民営化論 ラディカルな自由主義を構想する』(光文社知恵の森文庫:00.12/1995.11)

 著者の基本的な認識は、所有権をはじめ人間の権利は、市場において無数の譲渡や交換が暗黙のうちに反復的に行われている事実に由来するフィクションである、というものだ。ここでいう「フィクション」は、たとえば国家主権を論理的に導き出す社会契約説のような虚偽意識として否定されるべきものではない。
 著者はいう。われわれは貨幣や市場と共存しなければならないのであって、それを恣意的に廃止すれば人間性の概念から否定的に逸脱しかねない。このことはカンボジアの虐殺共産主義や文化大革命時の中国、ソ連の収容所社会主義において如実に示されている。「市場と貨幣の不可避性を徹底的に思考することのない微温性と曖昧性」において、悪徳商人を罰する水戸黄門に拍手する視聴者大衆や通俗的進歩主義者の心性はヨーロッパ中世のユダヤ人差別と同根なのある。
 国家を前提とすることなく人権をとらえる「ラディカルな自由主義」は、思想の自由を主張しながら経済については自由反対を唱えるリベラリズムや、経済の自由を主張しながら思想の自由に反対する保守主義の欺瞞的なダブルスタンダードを、マルクス=レーニン主義とはちがう方法で批判する。それは、国家の市場への解体を思想的核心とする点で、個人主義的アナーキズムの徹底によるアナルコ・キャピタリズムの理論と共鳴するものなのだが、ただ一点、資本主義を「主義」とみなさない点において異なる。
 つまり、資本主義は経済活動をマネーゲームとしてシステム化した点で自給自足的な共同体経済とは異なるにせよ、それは主観的に肯定したり否定したりできる対象ではなく、思考の前提と見なすべき所与・不可避性なのである。だからラディカルな自由主義者は「資本主義に代わる空想的な社会プランの構想に熱中するよりも、より悪くないかたちで貨幣や市場と共存できるシステムの構想」をめざすのである。その理念は、ニ○世紀社会主義の実験と惨憺たる結末が不可避のものとしてもたらしたのであって、アナルコ・キャピタリズムとは思想的系譜も出生の由来も異なる。ラディカルな自由主義は、革命を否定する「革命」思想なのだ。
 以上が本書のいわば「原理」である。私はほぼ全面的に賛同する。そこから、警察や裁判所の民営化、税金や個人財産相続の廃止、安楽死や自殺の人権化、企業法人の寿命設定等々のラディカルな主張が出てくるのだが、私は、それらは極めて現実的な主張(現実主義的ユートピア思想!)であると思う。正確に述べておくと、ラディカルな自由主義もまた「主義」ではないというべきかどうか、あるいは「構想」する主体は何か、そこから出てくる政策もまた「実験」なのではないかなど、見極めておくべき論点はいくつかある。ただ、たとえば次の文章を読むかぎりで、私は著者の主張にほぼ全面的に賛同するのだ。

《経済外的な強制で、賃労働制を廃止することなど不可能である以上、ラディカルな自由主義の理念を掲げた独立生産者の群生が、企業の社会的専制の土台を侵食することが望ましい。現代社会において、「会社に雇われて会社の仕事をする」から「会社を使って自分の仕事をする」方向に、労働観が変容しはじめている事実には疑いえないものがある。その方向性を徹底することから、独立生産者のユートピアもまた実現可能なものとして、あらたに構想されうるだろう。》(236頁)
《また協同組合には、ラディカルな自由社会においても不可欠である、固有の役割が期待される。というのは、市場における競争を好まない人々の自由もまた、尊重されなければならないからである。(中略)産業社会や都市生活に身を置くことさえ望まないタイプ……マネーゲームをはじめ、あらゆる社会ゲームの勝敗と無関係に、静かに穏やかに暮らしたいという諸個人は、協同生活組合を結成し、農業を基礎に自給自足の集団生活を試みることもできる。(中略)コミューンは、「愛の関係」において労働を組織しようとする。愛の関係と労働関係の無矛盾的な一体化は前近代的な家父長制を、最悪の場合にはテロリズムが支配する閉鎖集団をもたらしかねないのだが、それでも相互の合意からコミューンを形成する人々の権利を、ラディカルな自由社会は尊重しなければならない。》(237頁)
《最後に述べておきたいのは、ラディカルな自由主義もまた、想定されるかぎりの最良の制度にすぎないという点である。制度の領域とは別に、人間の魂の領域が存在する。簡単にいえば、これまで芸術や宗教が担当すると考えられてきた領域である。/個人には自由に生きるための条件が、なによりも優先的に与えられなければならない。そのために国家が邪魔であるなら、国家は廃止されなければならない。/しかし自由に生きるための条件は、それを前提として、なにを個人が究極的にめざすのかまでを決定しうるものではない。なんのために生きるのか、どのような人生を理想とするのか。ようするにそれが、魂の領域に属する問題ということになる。》(273-274頁)

☆保坂和志『世界を肯定する哲学』(ちくま新書:2001.2)

 この人の作品はまだ三冊(それと某文芸誌に掲載されていた野矢茂樹氏との対談)しか読んでいない。それでも私の脳髄の中には保坂和志のための領域がくっきりと確保されている。『この人の閾』はその不思議な言語感覚が後々まで印象に残り、『季節の記憶』ですっかり魅了されてしまって(文庫版の養老孟司氏の解説がとてもよかった)、『〈私〉という演算』では前代未読の途方もない言語表現の世界(がそこからひらけていく可能性)に驚嘆しなぜかしら嫉妬に近い感情を覚えた。保坂和志はイナガキタルホやハニヤユタカ(そしてカフカやボルヘス)のようにカタカナ表記が似合う作家なのだと私は思っていて、この人の紡ぎ出す言葉には「抽象」の力が漲っているしその作品は「体系」を湛えている。

 だからこの人はいつか自分流の「哲学」を、つまり「論理的抽象」を語りだすに違いないと思っていた。案の定というか予想的中というか雑誌『世界』に「世界のはじまりの存在論」が連載されはじめて、気がついたかぎりでコピーをとっておいて連載終了後まとめて読もうと計画していたのだがそれより先にどういうわけか別の出版社のそれも新書版で刊行された。カバー裏に「風景や動物を文学的な比喩として作品に組み入れず、ただ即物的に描写する特異な作風の小説家によって、問いつづけられた「存在とは何か」」とか「小説家独特の思考プロセスを経て、存在することの核心に迫っていく」といった文章が出てきて、私はそれはちょっと違うんじゃないかと思う。この書物は「小説家」やまして「哲学者」などではなく「保坂和志」の、いやホサカカズシの思考の論理と生理(といっても「無機物の生理」といった語彙の組合せが成り立つかぎりで)の極限的な言語表現の産物なのだ。

☆養老孟司『臨床読書日記』(文春文庫:2001.1/1997)

 書物を文庫版で再読する楽しみの一つは、著者の自著への言及や練達具眼の士によるオマージュに接することである。本書には残念ながら著者の文庫版まえがきやあとがきは付されていないが、そのかわり『ダ・ヴィンチ』発行人長薗安浩氏の解説が掲載されている。そこに「養老節とも呼べる断定短文でのエッセイ」という形容が出てきて、私はいたく共感を覚えた。長薗氏は「断定のエクスタシー」というけれど、断定される側はたとえそれが絶賛の辞であったとしても堪ったものではないだろう。それはほとんど斬られる思いではないか。──本書ではとりわけ中沢新一著『純粋な自然の贈与』と坂口ふみ著『〈個〉の誕生』をめぐる文章が面白かった。それから文科系の学問の粋ともいえる歴史をめぐる養老氏の文章は(ついでにいえば政治と宗教をめぐる文章も)いつ読んでも苛烈なまでに面白い。たとえば次の一文。(『毒にも薬にもなる話』に収められた「臨床歴史学」に関する文章ではこのあたりのことがより詳細に議論されていた。)

《しかし、事実とはじつは理論によって負荷されたものだということを認めれば、歴史もまた脳の法則にほかならないのである。私が面白いと思うのは、そのこと自体ではない。西洋人がそれを「自発的には」なかなか認めないということなのである。それを認めるかどうか、まともに議論をしたことはない。説得したこともない。しかし、書物を読んでいれば、かれらはやはりなんらかの外的客観性を「頭から」信じているように見える。だからやっぱり、かれらにとっては、世界は神による被造物なのであろう。それはおそらく言語負荷性に依存している。つまり西洋語のなかにしみ込んだ原則なのである。私が日本語を使って抽象的にもの考えると、結果はお経になる。それと同じことであろう。》(223頁)

☆山口椿『一条戻り橋』(2000.12)

 語りが出来事を紡ぎ出し、五、七の律動のうちに言葉は艶かしい肉の裏地を露呈させ、あまつさえ腋、血、汗、涙に濡れ、滴り、流れ、そして臭、香を纏い、ねばり、繁りゆく。まさに言葉の出自が歌(語り)であったこと、つまりは肉、ひいては“物質”と即物的にいってしまえばそれまでの生存の世界の所在を指し示す山口椿の文の技は、意味や情緒や精神といった言葉に囲われ痩せ細った観念群をその本来の在処のうちに解き放ち、読み手をもまた語りのうちに縫い込んでしまう。すなわち戻り橋とは、言葉が世界を垣間見て自ら屈折する極北、臨界点なのだ。──このような文章を挿絵入り和綴本で読めることは得がたい至福だ。惜しむらくは、活字もまた水面を流れ行くかのごとき墨痕であれば。

☆廣松渉『物象化論の構図』(岩波現代文庫:2001.1/1983.11)

 噛んで含めるような文章で綴られ、あまつさえ要点の反芻まで疑似体験させてくれる古典的ともいうべき香気に満ちた作品集。本書には序文や跋文を含めて五つの論文と二つの講演録が収められているのだが、書き言葉と語り言葉との間にまったく違和がない。もちろん講演録にも著者の筆は入っているに違いないのだけれど、この連続感が廣松渉という希代の哲学者の強靭かつ独特の思索力を際立たせる一つの特徴なのだと私は思う。
 本書は主著『存在と意味』で展開されている著者独自の物象化論の「前梯」となるマルクスの物象化論の「構制と射程」を見事に描き切った「廣松哲学の精華」(文庫版カバー裏の言葉)である。疎外論から物象化論への移行、そして中世における唯名論(ノミナリズム)と実念論(レアリズム)、デカルト以後の物質と精神、観念論と経験論、本質と実存、普遍と個別、類と個、等々、等々の様々な二元論の相克と対立がマルクスの物象化論において、すなわち生態学的な視座をもった「生産関係」論によって相即的に叙述され超克されていく様が説得力をもって叙述されている。
 なかでも私が刺激を受けたのは、「体系的叙述=体系的批判」というマルクスの方法をめぐる議論と、本書冒頭と末尾で反復的に触れられ本書全体の通奏低音をなしている『ドイツ・イデオロギー』の次の件をめぐる考察、つまり自然と歴史の相克と超克をめぐる議論だった。
《われわれは唯一の学[Wissenschaft=体系知]、歴史[ゲシヒテ]の学しか知らない。歴史は二つの側面から考察され、自然の歴史と人間の歴史とに区分されうる。両側面は、しかし、切り離すことはできない。人間が生存するかぎり、自然の歴史と社会の歴史とは相互に制約しあう。》

☆中島義道『カントの時間論』(岩波現代文庫:2001.1/1987)

 私は『純粋理性批判』を毎朝20分、週5回、つごう4週間で読んだ。通勤電車での「速読」というやつだ。続けて『存在と時間』をたしか5週間程度で読み切り、その前後に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をこれは数ヶ月かけて「精読」した。
 流し読みや拾い読みではない速読と、いたずらに細部に拘泥し文脈感覚を喪失するのではない精読。これらの「実験」の結果、いま挙げた三冊の書物は読後数年経ったいまでも私の脳髄のどこかに艶めかしく息づいていて、いま直ちに言語化するわけにはいかないものの、概念群がかたちづくる星雲状の形態やその背後の呻吟と陶酔の肉声(カントとハイデガー)、あるいは諸概念の内実とそこに犇めき蠢く欲望のダイナミズム(ヴェーバー)が無意識の一歩手前で身構えている。
 ──中島義道氏が本書の文庫版まえがきで『純粋理性批判』を「時間論の書」と規定しているのを読んで、私は、その意味がまったく異なることは百も承知の上で、読書をめぐる二つの時間体験を想起したわけだ。(超越論的観念論者の速読と経験的実在論者の精読?)
 本書は時間や認識をめぐる二元論のポリフォニー、すなわちアリストテレスとアウグスティヌスの時間論、つまり外的な物体の運動か内的な「こころ」のあり方に準拠した時間論、自己意識と自己認識、物自体(物質の動力学的秩序)からの触発による客観的時間の構成と「自己触発」による内的世界ないしは「私の時間」の構成、そして時間の経験的実在性と超越論的観念性へと到るダイナミックな叙述と構成をもった力強い書物だ。
 私はとりわけ第3章「時間の経験的実在性(II)」と第4章「時間の超越論的観念性」に惹かれた。たとえば次の一文など、とてつもない起爆力を秘めているのではないか。
《赤い色は、私がそれを知覚し、それを空間における一定の場所に位置づけるのみならず、客観的時間の一定の場所に位置づけることによって、はじめて私の状態としてとらえられる。言いかえれば、私は、過去の構成を通してはじめて、知覚を私の状態へと転換することができる。(略)私の眼前の赤い色は、それが非知覚的な諸表象と並んで客観的時間における位置を得るときはじめて、私の状態とみなされることになる。私が、もし知覚という唯一の意識作用しかもたず、常に目を見開いて外的世界の全体に対しているのだとすれば、私は内的世界をけっして構成しないであろう。》(219頁)
 付言。中島氏の本の造り方は懇切丁寧だ。充実した人名索引と事項索引、掲載論文の要点と全体構成の的確な紹介。『時間と自由 カント解釈の冒険』(講談社学術文庫版)では、各論文の末尾に「読者へのメッセージ」が付されていて、文庫版へのまえがきでは「初心者」向けの読み方まで書いてある。(私はこのまえがきと読者へのメッセージを繰り返し読むことで『時間と自由』を仕上げたつもりになってしまった。)

☆吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文藝春秋:2000.12.31)

 著者は、1989年から翌年にかけて、昭和天皇の重態が報じられるなかで遂行されていった幼女連続誘拐殺人事件を二つの側面から叙述している。犯人宮崎勤の事実と妄想とファンタジーに彩られた精神のリアリティを内側から理解すること。そして、宮崎を「憂鬱な先端」として持つ「世界」の実相を、つまり戦後復興から高度成長を経て脱神話化された「生活圏の町」を実現し、大衆化された消費社会へとつき進んでいった戦後日本の社会システムやメインとサブのカルチャー、映像を代表とするメディアの在り様を外側から叙述すること。この二つの視点は本書に張りつめた緊張感を強いるものであって、マス・メディアから精神鑑定、ノンフィクションの言説のあり方への批判、はてはいままさに書きつつある自作への内省的言及とないまぜになり深い陰翳に富んだ作品世界をもたらしている。
 本書に記述された「宮崎語」、たとえば、のそりのそり、どっきんどっきん、相手性、甘い世界、父の人、母の人、ネズミ人間、肉物体(生きていない状態の体)、骨形態。あるいは著者による、映像の攻撃性その他の分析枠組みの提示。そして宮崎勤=解離性同一性障害(多重人格)説と地域社会や日本の戦後社会そのものの解離性を重ね合わせて描写するその構えは、抑圧と解離をめぐるたとえば斎藤環氏(『文脈病』その他)の言説へと接続されるのではないか。
 それにしても、このような書物を前にしてどんな言葉を紡ぎ出せばいいのだろう。しゃべるな。語るな。沈黙するな。通奏低音のように響くこの言葉に、私の魂は戦慄する。著者は本書に10年かけたという。その時間と思索と内省の重みが、たとえば次の文章に凝結している。
《おそらく私の国が歴史を取りもどすことはないだろう。この国をニ○世紀のまんなかで大陥没させた狂信や残酷さや激しい暴力を思い起こす記憶力を、この社会は持っていない。解離はまだつづいている。/そうであれば、ひとつの国が、ひとつの社会が、一人の人間が持っている攻撃性の意味を考え、想像し、認識するのは一人ひとりがやるしかない。集団にたよらず、一人で考え、あたえられた関係を離れ、絆を選びなおし、そうやって親密圏を作っていくなかで人間と国家と世界の善と悪を、正と邪を、愛と憎を、美と醜を、真と偽を見きわめ、もう一度理念を作っていくこと。/しかし、歴史意識を欠いたまま理念を作ることができるだろうか?/たとえできたとしても、それは脆弱なままではないだろうか?/そうかもしれない、と私も思う。/だからこその先端なのだ。/やがて確実に歴史を忘れていく世界の、憂鬱ではあるけれどもここが先端なのだ。》(540頁)

☆大沢在昌『灰夜 新宿鮫VII』(光文社:2001.2)

 私の好きなシリーズもののキャラクター。イギリス情報部(MI6)所属の窓際スパイ、チャーリー・マフィン(フリーマントル)。彫師伊之助(藤沢周平)。そして新宿署生活安全課鮫島警部。──本書はその新宿鮫シリーズ第八作。昨年、三年ぶりに第七作『風化水脈』が出たばかりだが、そこで手がけていた大掛かりな窃盗事件捜査の合間、自殺した警察庁キャリアの同期、宮本の七回忌に出席するため鹿児島を訪れた鮫島が遭遇した三日間の悪夢の出来事が描かれている。この作品はむしろ短編で読んだ方が印象が深いのではないか、長編小説としてはもう少し緊密な構成やストーリーの展開、人間関係の書き込みが欲しいところ。だけどそれは一気読みでいつに変わらぬ新宿鮫の世界を堪能した読後の後知恵であって、ファン心理は多少の瑕ですら味わいの種にしてしまう。愛すべき番外編。
 

★2001.3

☆入不ニ基義『相対主義の極北』(春秋社:2001.2)

 ほぼ15年の時を経て、真正の哲学の書に再びめぐりあえた。ここには確かに「考えるヒト」がいる。──本書を読み進めながら、この読書感覚は、というより入不ニ氏の(まさに哲学的としか形容のしようがない)思考の生理のようなものは、以前たしかに経験した覚えがあると思い続けていた。
 プロタゴラスの人間尺度説に関するソクラテス=プラトンの個人主義的解釈の無効性を衝き、これに替わる思考や認識や概念の「枠組み相対主義」説の詳細な検討(マクタガートの「時間の非実在性」をめぐる議論やルイス・キャロルの無限推論のパラドクスとの構造的・論理的同型性の指摘など)を経て、相対主義とその批判との「非対称的かつ内的な関係」を反復的に産出する場の所在を炙り出し、一番外側の「枠組みX」や「向こう側性 transcendency」、「遂行的な論証」や「私たち」の反復(私たちと彼らの差異づけを更新しながら、自らの存在を産出していくあり方をいう。入不ニ氏はこれを「A[A⇔非A]」という基本形式に整理している)といったとてつもない駆動力をもったアイデアが矢継ぎ早に提示されるくだり(第2章〜第6章)まで来て、やっと確信が持てた。これは、永井均氏の『〈私〉のメタフィジックス』(1986)を初めて読んだときのあの感覚(神秘感の伴わない神秘体験?)の再来だと思い至ったのである。
 入不ニ氏は本書第7章で、「相対主義の極北」を次のように説明している。《「私たち」はメタレベルによって相対化されるのではなく(「私たち」に対するメタレベルはない)、いわば、「私たち」の未出現という非対称的なプレレベルによってこそ相対化される。つまり、「私たち」は、「未出現」のままに止まることなく、なぜかこうして反復されてしまっているということ。その偶然性を、相対主義は極限値として指し示している。》(184頁)
 このような地点から見れば、たとえばクオリア(感覚質)をめぐる主観主義と機能主義の二つのアプローチ、さらには唯名論と実在論、観念論と実在論、相対主義と実在論といった哲学的な二項対立は、「ないよりもっとないこと」と「あるよりもっとあること」との極限的な一致へと到る無際限のプロセスのある切断面でしかない。本書末尾に記された次の一文は、このような哲学的思考の極北へ達した者にのみ許された言葉だ。《行き着くところまで行き着いた。ひとまずここで考察を終わりにしよう。》
 しかし、入不ニ氏の考察はここで終わらないはずだ。たとえばかつて「入不ニ‐永井論争」を経て炙り出された「私3」(単独性の《私》)と「私4」(独在性の〈私〉)との関係のアナロジーでいうと、「私たち4」の次元の問題(実在論の極北としての「彼・彼女4」あるいは「彼ら4」の問題、さらにいえば「他者4」の問題)が残っている。
 ヘーゲルは、哲学とは scientia すなわち神学と通底する体系知であり、表象のかたちで神を捉える宗教に対して、概念において絶対者を把握するのが哲学なのであって、絶対者の自己展開を追認する哲学体系(ミネルヴァの梟)は本質的に未来を包摂しえないと規定した。(この要約は、廣松渉「マルクスにおける哲学」による。ちなみに、廣松論文がいうマルクスの「体系的叙述=体系的批判」の方法は、入不ニ氏の「遂行的な論証」を思わせる。)
 入不ニ氏の議論は、体系の原理的な未完結性を極限まで追及し、一瞬、「私たち3」の無際限の反復自体を超出する絶対的無限=神と切り結んだ後に、過去現在未来といった時間様相の始原へと──生を完結させる死と対峙した未来感覚ならぬ、胎児以前さらには「父母未生以前」(夏目漱石『門』)にまで遡行する「未生感覚」をもって──位相転換している。この分岐点の所在と構造を主題的に考察すること。それがもし入不ニ氏の「問題」ではないというのであれば、その解明は、氏の道案内によって相対主義(実在論)の極北へと到る探求を擬似的に体験させられた読者である私の仕事なのかもしれない。

☆森村進『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(講談社現代新書:2001.2)

 要するに市場観の違いなのだと思う。《最後に、一番重要なことを述べたい。人々の間で狭い自己利益を超えた連帯が可能になるのも、大部分は市場のおかげである。……市場社会はしばしば「弱肉強食」の社会としてイメージされるが、これは間違いである。それは協力と分業によって相互に利益を与え合う共存共栄の場である。》(116-117頁)
 リバタリアニズムはナショナリズムと対立する点で「新保守主義」と異なる(193頁)こと、またエコロジー思想との対比を通じて示されるリバタリアニズムにおける自由主義的な側面と個人主義的側面(205-206頁)の指摘が示唆的。

☆多木浩二『20世紀の精神 書物の伝えるもの』(平凡社新書:2001.2)

 二○世紀の思想や文学を六冊の書物を介して語る。この魅力的な試みのために著者が選んだのが次の本。以下、目次を抜き書きしておく。無意識──フロイト『精神分析入門』 言語──ソシュール『一般言語学講義』 文明──T・S・エリオット『荒地』 国家──カール・シュミット『政治的なものの概念』 想像力──ベケット『ゴドーを待ちながら』 人間──プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』
 反、というより非ヒューマニズム。本書を通読しての、これが私の感想。とりわけシュミットの政治神学をめぐる記述を読んでいて、背筋が凍る思いでこの言葉を想起していた。ところで、「一九世紀から二○世紀にかけてほど、科学的研究の成果が人文学に浸透していったことはなかった」(36頁)と著者は書いている。であるなら、なぜ自然科学の書物が取り上げられなかったのか。

☆坪内祐三『シブい本』(文藝春秋:1997.6)

 書評集。『象徴と社会』(ケネス・バーク)や『千のプラトー』『パサージュ論』など、本書後半に収められた哲学思想系の書評を拾い読みしているうち、面白くて止められなくなりとうとう最初から最後まで読んでしまった。ある時代のある傾向をもった学生の知的生活が、断片的な記述のなかから生き生きと甦ってくる。「明治大正文化研究家」としての著者の「シブい」好みがうかがえる前半が新鮮。

☆福田和也『悪の対話術』(講談社現代新書:2000.8)

 モラリスト福田和也が語る、社会人ならぬ「社交人」のための方法序説。モラリストとは、いってみれば「人が悪い」類の人種で、たとえば彼は、人間の基本感情は嫉妬と虚栄心であるなどと喝破する人間通なのである。
 福田氏によると、対話とは「表現出来ない、伝えられない、理解されない、という挫折と錯誤を前提として、なお発話するというタフネスを必要とする行為」(177頁)なのであって、何を話題にするか、どう演出するかということについて徹底的で細やかな検討が必要になる。こうした意識、あるいは作為が人間にとっての悪、つまり「無垢からの脱出の第一歩」(201頁)なのである。

《大人であるということは、意識していないこと、意識したくないことについて、明確な認識をもとうと試みること、そのような意図のもとに、自己と他者と世間を見つめることです。無自覚であること、自分の立場や位置について認識が甘いということは、それだけで恥ずかしいことであると銘記する勇気と緊張こそが、大人である証しなのです。》(93頁)

☆中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社:2001.3)

 これはまえまえから思っていたことなのだが、中沢新一氏には「語り部」の才能がある。人文系ノンフィクションライター、というか人文系の「読物作家」としては、得がたい書き手だと思う。(CDジャケットのような意匠をこらした書物、音楽のような語り。中沢氏にとっては、造本作業こそが「概念創作」の現場なのかもしれない。)
 本書第一部「種の論理──来るべき哲学」でのドゥルーズを下敷にした田邉哲学(多様体の哲学)の解読、第二部「「場所」の精神分析」でのフロイト‐ラカンの精神分析学との対比による西田哲学(欲望の哲学)の読解、第三部「最後の田邉哲学」でのプラトンの「コーラ」から「絶対無」へと到る西田・田邉の二つの「日本哲学」の軌跡の叙述。それらを、とりわけ第一部を私はとても面白いと思ったし、結構気を入れて読んだのだけれど、結局のところ、そこでは何も語られてはいない。一座の者を聞き入らせるのだが、語り終わると何も残らない純粋な語り。そのねらいが、読者に田邉元の文章を読んでみたいと思わせることにあるのだとしたら、それは見事に成功している。現に、私はしばらく古本屋通いをした。
 「現代生物学は、いまやプラトンを再発見しつつある」とか、「原腸形成」や「鏡像段階」をめぐる話題など、本書を読んで印象に残った事柄は多々ある。極め付きは、やはり「日本哲学」(日本原産の哲学=非哲学あるいは非モダンの哲学)をめぐる著者独自の議論だろう。その是非、意義を見定める作業はここではしない。ただ、次の文章を引いておく。

《ホモサピエンスにおける大脳の知的過程が、文化や人種の違いによらない普遍性を持っていることを、彼らは前提にしている。つまり、諸概念を結びつける「結合法則」は、どこでも普遍的に妥当することを認めたうえで、おおもとの概念の成り立ちの違いに、彼らは注目したのである。西欧哲学の場合には、「有」と「同一性」の概念の、アプリオリな真理性のまわりに、諸概念が組み立てられてきた。「日本哲学」はその一点だけを否定する。なぜなら、それは東洋文化において「みんなが知っていること」と違っているからだ。……「日本哲学」と呼ばれるものはこの「無」と「差異性」の概念だけを土台として、マテーシスの論理を創造しようとした。》(339頁)

☆池田晶子編・著/永沢まこと絵『2001年哲学の旅』(新潮社:2001.3)

 池田晶子ファン必携本。『事象そのものへ!』『考える人』『オン!』『魂を考える』。ちゃんと読んだり買ったりしたのはこの四冊くらいで、まさか自分が池田ファンだとは思っていなかったのだけれど、書店で本書を手にしたとたん、瞬発力でレジに向かっていたのだから、もしかしたら相当な隠れファンだったのかもしれない。
 中欧三カ国やギリシャ、トルコの哲学者ゆかりの地を訪ねる「聖地巡礼紀行」での、まるでモデルかタレントのような池田晶子の写真入り文章もなかなかよかったし、ガダマー、藤澤令夫、永井均の三人の哲学者や、スーパーカミオカンデ(戸塚洋二)や京大ウィルス研(畑中正一)、国立がんセンターでの科学者へのインタビューも面白かった。とくに、永井均対池田晶子の対談(「なぜ善いことをするのか 〈私〉の論理と「魂」の論理」)は、どうしてこれまで実現しなかったのかと思う組合せで、読ませる。

☆松岡正剛『日本数寄』(春秋社:2000.6)

 「日本の意匠」「神仏のいる場所」「数寄と作分」「江戸の人工知能」の四つのパートに分類された26のエッセイで編集されている。松岡正剛が父のことを語り、自らの生い立ちを語る。現代の幸田露伴(?)の現時点での到達点が示されている。
 とりわけ、能楽と茶の湯にことよせて日本文化の編集知を語る「能とコンピュータ」という文章が面白かった。《大事なポイントは、第一に、言葉の情報構造を多重に取り出せるしくみが必要だということ、第二に、物語が入れ子型に再生できるような構造を設定しておくこと、第三に、「情報のトポス」と「そこでロールプレーをすること」と「知識を得ること」とが互いに相同関係になるように工夫しておくこと、この三点である》(90頁)
 日本の編集文化の原点には「意味のふくみあい」を成立させている「場の構造」がひそんでいたのである(283頁)とする「編集文化数寄」や三浦梅園を取り上げた「江戸の人工知能」も面白かった。

☆浅田彰・田中康夫『新・憂国呆談 神戸から長野へ』(小学館:2001.1)

 田中康夫は昔から好きになれなかった。というか、関心がなかった。最近、テレビでよく顔を見、声を聞くようになって、やはり肌が合わないと確信した。その田中康夫と浅田彰との結びつきがいまひとつピンとこなかった。案の定、といっても、読む前にそれと予想を立てていたわけではないけれど、本書での浅田の発言は切れが悪い(と思う)。でも、構えず、勝手放題しゃべる浅田彰もなかなかよかった。田中康夫はやっぱり好きになれなかった。(好きにならなければ、その文章が読めないというわけでもないけれど。)