不連続な読書日記(2001.1)




★2001.1

☆サイモン・シン『フェルマーの最終定理』(青木薫訳,新潮社:2000.1)

 フェルマーものはこれまで専門書以外のたいがいの本を読み漁ってきた。本書の評判を目にするたび、いつか手にしたいと思っていた。読み始めたら最後、とまらない。谷山豊、志村五郎が出てくる章は感動的でさえあった。

☆立岩真也『私的所有論』(勁草書房:1997.9)

 序と後書(「おわりに」)、それから目次と全九章の冒頭に掲げられた概要説明を熟読してから、著者の「言いたいこと」「言えること」が書かれている第四章(「他者」)と第五章(「線引き問題という問題」)を中心に本文をざっと読んだ。「本書で行うのは、この社会にあるもの、しかし充分な記述が与えられていないものを記述する試みである」と著者は(第1章で)書いている。それをひとまず、例えば「他者」をめぐって「何かきっと大切なことを述べたらしい」ハイデガーやレヴィナスなどの助けを借りないで、「まず、こういう具合に考えていくとこういうものがあると考えられる」ことを記そうと思う、と。著者の思索の跡を丹念にたどってみたわけではないので軽々に要約などできないし、印象的な文章を引用してお茶を濁すこともしたくない。いつかまた読むことになるだろう。いまはただ、本書のキーワードである(と私は思う)「感覚」という語の含意をまるごと引き受けておく。

☆鶴岡真弓『ジョイスとケルト世界 アイルランド芸術の系譜』(平凡社ライブラリー:1997.3/1993.4)

 私は鶴岡真弓ファンだ。以前、NHKの人間大学(1998年4月〜6月期)で「装飾美術・奇想のヨーロッパをゆく ケルトから日本へ」が放映されたときは毎回かかさず観たものだし、テキストはいまでも大切にとってある。鶴岡氏のケルト三部作と私が勝手に名づけている書物たち──『ケルト/装飾的思考』と本書(岩波書店版の原題は『聖パトリック祭の夜』)と『ケルト美術への招待』──を、刊行された時期を逆行しながら少しずつ時間をかけて読んでいる。
 ラフカディオ・ハーン(第一章「漂白の亡霊」)にジェイムズ・ジョイス(第二章「エグザイル」、第三章「西方[ヒスペリア]の詩学」)、そしてオスカー・ワイルド(終章「女神モリガン」)の三人の文学者を大きくとりあげた本書の圧巻は、やはりウンベルト・エーコの議論に準拠しながらジョイスと「ケルズの書」の関係を論じた第三章だろう。──「『ケルズの書』のように書きたい」と独白したジョイス。どのように書いたらいいのかと問われて「『ケルズの書』を研究したまえ」と答えたジョイス。「…怪獣文字のごとく、「渦巻」「組紐」「動物」という、オーガニシズムを溢れさせ、のたうちまわり、融合し、変化し、無限循環的回転体と化す『ケルズの書』の装飾の奇想天外のイメージを借り」て、フィネガンズ・ウェイクの「カオスモスを疾走」(203頁)したジョイス。
 谷川渥氏が解説(「極大の渦を巻く」)で指摘しているように本書自身がケルトの装飾文字さながらの構成をもち、またアイリッシュの饒舌さながらの文体に彩られている。無限に「再生」するもの、原理としてのケルト。

☆鎌田東二・鶴岡真弓編著『ケルトと日本』(角川選書:2000.12)

 鶴岡真弓ファンの私は、ケルトマニア(予備軍)でもある。老後の愉しみ(?)の種として、少しずつケルト関連の書物と資料を収集している。本書には、名著『宗教と霊性』の鎌田氏の論文が二本(「畏怖する精神」「妖精の国と妖怪の国」)、鶴岡氏の論文が一本(「「ケルト的なもの」はなぜ賛美されたのか──近代国民国家の創造とケルト性」)、両氏の対談(「習合とエグザイルの精神」)が収められている。いずれも力のこもった作品だった。対談のタイトルに出てくる「習合」と「エグザイル」、あるいは鎌田氏の論文に出てくる「モノノケ・ランド」と「フェアリー・ランド」という対語が、ケルトの宗教と日本の神道との比較軸を見事に表現している。そのほか、栩木伸明氏の「W.B.イェイツとたそがれのケルト」と龍村仁氏の「「直観」でつかむケルト」が面白かった。栩木論文の結論部分が印象的だったので、引用しておく。
《イェイツが民族的にケルトであったかなかったということは問題の本質ではない。彼はアイルランドという場所の地霊に感応してケルトになった。ケルトとは場所がもつ磁場に導かれた精神状態のことではないだろうか。だとしたら、ケルトとはつねに発見され、更新されてゆく「生きている伝統」である。それがそもそも「神話」であり「フィクション」であるのなら、「真正」か否かを問おうとする議論はじめから意味をもたない。》

☆ジョン・オドノヒュウ『アナム・カラ ケルトの知恵』(池央耿訳,角川21世紀叢書:2000.8)

 ゲール語で「アナム」は魂、「カラ」は友を意味する。(つまり「スプートニク」、旅の連れのこと?)著者 John O'Donohue はアイルランド生まれの詩人、哲学者。訳者あとがきによると、1990年にヘーゲルで博士号を取得し、現在はエックハルトを研究テーマとしている。論文に「石・記憶の殿堂」「水・大地の涙」「火・魂の炉端」「風・神の息」があるという。(いずれも魅力的なタイトルだ。)
 第一章「親愛の神秘」で「人間同士が認識し合い、覚醒を促しあう不変の親和」について考察し、第二章「五感の精神性」では肉体と魂の境目・界面・接点としての感性を語り、第三章「輝ける孤独」では内界の感性である思索が沈黙と孤独の浸透を通じて神秘的な風景を描き出す「内的親愛の技法」を探る。以下、第四章「労働──成長の詩学」、第五章「加齢──内なる収穫の美」、第六章「死──水底の地平」と続くこれら六つの章は、螺旋を描きつつ一つの円環をなし、文字には記されていない第七の隠れた章を取り巻いている、と著者はプロローグで書いている。《古来、人間存在の根底にありながら、形もなく、価値も測り知れない深い神秘がこの隠れた一章の主眼である。つまるところ、本書は詩的な思索の形を借りた友愛現象学の試みであり、ケルト人の精神構造に窺われる叙情的な思弁に想を得ている。…想像力豊かなケルト人と心の対話を交わして、そこに提示される親愛の哲学と精神の主題を展開することが本書の狙いである。》
 だからこの書物を「読み終える」ことなどあり得ない。読むたびに起動され立ち上がってくるもの(アカシック・レコード?)へとつながった、これはそうした種類の書物、つまり叡智の書なのだ。──以下は、断片的な抜き書き。

《我々はあまりにも長い間、豊かな感性に裏付けられた認識と、情愛に溢れる奥深い理念に目をつぶったままだった。アリストテレスは「デ・アニマ(心魂論)に述べている。「認識は仮説上、情愛と感動の一形態である。思考と知識についても同じことが言える。なかんずく、思考は魂に特有の情愛に通ずるところがある」知性と感性が諧和したアナム・カラの考え方は、人と人を永遠の親和で結びつける故にこの上なく崇高である。》(24頁)
《人の顔は数々の神秘を孕んでいると同時に、個々人の生の神秘が露呈する部位である。》(44頁)
《肉体は秘蹟、サクラメントである。》(48頁)
《魂に宿ることで、肉体は感性を魂の門たらしめている。感性が自ら外に向かって開く時、最初に出遭うのが魂である。感覚的であり、また官能的であるということは、その人が自身の魂のうちに生きていることにほかならない。》(58頁)
《詩は沈黙の言葉である。》(64頁)
《詩人は沈黙と言葉が接触する界面の探求者である。その天職をまっとうするために、詩人は自分の声を見つけなくてはならない。》(67頁)
《…音楽は沈黙に遭遇する最良の道である。心して耳を傾けると、音楽が沈黙を美しくちりばめ綾織り、いかにして沈黙の神秘を浮き彫りにするかがわかる。音と沈黙が出遭う界面の繊細な薄膜は杳々と宇宙に谺を響かせる。》(67頁)
《触覚はそれ自体、一つの言葉である。》(69頁)
《もともと魂は裸身をさらけるようにはできていない。》(74頁)
《…古代の考え方では…、肉体は魂に宿る。魂は肉体よりも大きな広がりを占め、同時に肉体と心を満たしているのである。魂のアンテナは意識や自我よりもはるかに感度がいい。》(87頁)
《ケルト人は鋭い直観で精神の複雑さを理解していた。さまざまな属性を持つ神々の存在も信じた。》(88頁)
《人間は心の奥に表現願望を秘めている。魂の最も優れた表現形式の一つが想像力である。想像力は魂の神速の一態であって、敏捷これに優るものはない。》(116頁)
《記憶は最も充実した魂の現実である。》(144頁)
《人生の旅には道連れがある。》(167頁)
《魂は果てもない地平を目指す巡礼である。》(179頁)

☆瀬名秀明監修『「神」に迫るサイエンス─BRAIN VALLEY 研究序説─』(角川文庫:2000.12/1998.3)

 『BRAIN VALLEY』初版の三か月後に刊行され、同時に文庫化された。「心の遺伝子」(山本大輔氏)が新たに収録され、各章(脳科学・澤口俊之、人工生命・佐倉統、霊長類学・金沢創、脳型コンピュータ・山田整、UFO・志水一夫、臨死体験・瀬名秀明)に「文庫版のための補追」が付されている。森山和道氏による解説にも有益な情報が盛り込まれていてとても重宝。科学の最先端の分野を扱う書物にとって、数年単位での文庫化の意味は大きい。
 本書で印象に残ったのは、「文学で科学する──こんな小説は、今までなかった」と『BRAIN VALLEY』評を述べ、「生命現象とはすなわち情報のパターンである」(生命の本質はその物質的な側面にはない)とする「人工生命のセントラル・ドグマ」を認めるなら、神も文化も人間の知識体系も「生命体」(進化することができるシステム)であり情報システムである、つまり「神は情報体である」と議論を進める佐倉氏の文章。それから、チンパンジーは(ニホンザルのように)ただ黙々と課題をこなす実験動物ではなくて、「ただそこにいるだけで、どうしてもかかわり合いをもってしまうような存在であった」と、はじめてチンパンジーの心理実験を行った日の記憶を語り、我々が「死の観念」をもつのは「他者の死」を通してであり、他者の身体(コミュニケーションをしかけてくる身体)がただの細胞の塊(物体)に化す瞬間に失われる「ある統合」、それを魂とよぼうと情報処理システムとよぼうとどちらでもよいと述べる金沢氏の文章だった。
 その他にも記録しておきたい素材はたくさんあるのだが、ここでは一点だけ。──澤口氏が、「ある特別な心・意識には、ある特別な脳活動が「対応」することをはっきりと指し示している」データを紹介したあとで、それが「あくまでも、「対応関係」であることは注意すべきだが、「因果関係」に関してもきちんとしたデータがいくつもある」と述べている箇所を読んで、これは澤口氏の同様の主張に接するたびにきまってそうなのだけれど、それ以上議論についていけなくなった。対応関係云々のところまではとてもよく分かるし、ついでに書いておけば、私もいまのところ臨死体験については瀬名氏が拠る「脳内現象説」に賛成なのだが(特段の論拠や証拠があってのことではない)、それはあくまで「ある特別な脳活動」(「脳内」現象=情報システムとしての生命過程?)と「ある特別の心・意識」(脳内「現象」=情報システムとしての精神過程?)との間になんらかの対応関係があることは科学的事実だろうと推測するからだ。しかしそこから先に行くためには、因果性をめぐるより大きなシステム(複数の観察者の観察行為を組み込んだ?)を構想しなければならないと思っているのだが、門外漢の駄弁(自分が語っていることの意味をたぶん分かっていない)は控えておこう。

☆佐々木正人『知覚はおわらない──アフォーダンスへの招待』(青土社:2000.10)

 著者が「あとがき」に書いている言葉がとても印象的だ。《一つの思考を自分のものにすることは、一輪車に自在に乗れるようになったり、キノコの味がわかってくるといった経験に類比できると思う。何度も繰り返しているうちに、まず少しは変わったかなという程度の感覚が得られて、ますます止められなくなる。私と生態心理学との付き合いもその手のものなので、つたない「アフォーダンスのお稽古」に付き合っていただくのはどうかと思った。》
 これはある意味で本書のエッセンスを示すメタ・メッセージになっていて、だから「お稽古」をはじめるどころか、まだ稽古場を外から眺めているにすぎない私としては、ただ、アフォーダンスとは「行為することで現れてくる環境にある意味」である(42頁)とか、知覚が知覚行為と環境の二重性をもつ(ジェームス・ギブソン)──「知覚とは環境についての見えであると同時に、知覚者の行為についての見えでもある」(83頁)──ように想起も過去と現在の二重性をもつ(エドワード・リード)のであって、「現在進行中の環境との接触は、この二種の二重性のせめぎあう場である。というか知覚はいつも活動しているわけであるから、「想起の二重」が、「知覚の二重」に介入する機会をいつもうかがっている」(84頁)といった叙述を記憶にとどめ、繰り返し反芻してはいつかその含意を自分のものにできる日の来ることを夢見るしかない。
 というのも、アフォーダンスをめぐる議論は頭では分かった気になれるし、なにがしかの衝撃のようなものさえ受けるのだけれど、何度読んでもいまひとつ「自分のもの」にできたとは思えないのだ。大森荘蔵氏は『時間と存在』(青土社:1994)の「はじめに」で次のように書いていた。《正直に言って、昔、物理学の学生であった私は、自然科学的世界の空性という自分で出した結論に納得がゆかない。これまでも度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考えに馴れるのにかなりの年月が必要だろう。》──まして他人の脳が出した結論に納得するためには、進化論が適用される程度の年月が必要なのかもしれない。(これは余談だけれど、ここで大森荘蔵の名を想起したことには何か「深い」関連がありはしまいか。)

 以下、本書を読んで強烈に印象に残った箇所をいくつか引用しておく。──その一、アフォーダンスと脳、情報のスープ、大きなシステムなど。《いままでの心理学は、脳にとらわれすぎていた。「アフォーダンス」はそれを決定的なかたちで転倒させました。大事な情報は脳のなかにあるんじゃなくて、むしろ世界のほうこそ情報の濃厚なスープなんだと。要するに、無尽蔵にある情報のスープから、僕らは生きるため、有用性のフィルターを通して、必要な情報を部分的に引き出すわけですね。》(51頁)《脳障害の事例などでも明らかですが、中枢神経系というか、神経の特殊な構築物である脳が、外界にある意味を特定するような〈情報〉と、そこに住む動物の〈行為〉を〈協調〉させるために、重要な役割を果たしていることはおそらく間違いない。ただ、意味は脳で「作られる」というよりは、脳をも組み込んだ大きなシステムによって「発見」される。というか、環境にある意味=〈アフォーダンス〉を特定する情報を組み込んだかたちで動物の行為がある〈組織化〉をするのだと思う。》(110頁)
 その二、ギブソンの生態光学。《包囲光がギブソンによって「発見」されるまで、光はあくまで点から発する線だった。視覚の科学は焦点の集合である「像(イメージ)」を基礎にしていた。「像」は、人間が環境にあることを何かのサーフェスに書きつけた結果にすぎない。それはおそらく人間の行為の結果であり、視覚の根拠ではありえないのにである。/ギブソンは重力や熱や振動と同じに光がミーディアムに満ち、私たちを取り囲んでいることを認めた。点と線の光ではなく、包囲する光から視覚を考えると、像はいらなくなる。では像に変わって何が視覚の根拠になるのだろう。/想像を越える速さでサーフェス間を往来し、空中で散乱し、ミーディアムを完全に「密」に満たす光は、ミーディアムのどの場所もすべての方向から包囲する。環境はミーディアムとサブスタンスとを分けるサーフェスのレイアウトである。》(202-203頁)
 その三、ギブソンとプラグマティズムの伝統。《また、このような考え方[サーフェスのレイアウトが視覚の根拠であるとする考え方]へと彼を促したアイデアが二つあったと思います。一つは、「意味」はあるものではなくて、発見されるものだということ。最初にカテゴライズされた意味があるのではなく、意味というのは多様に発生する。ここにはプラグマティズムのチャールズ・サンダース・パース(一八三九〜一九一四)の存在についての定義の影響がみられます。二つめは、そういう「意味」の〈同時性〉。私たちは一つのことを考え、ひとつのことを見ている動物じゃなくて、つねにたくさんのものに包囲されていて、同時にそれらを見ているものだということ。これはウィリアム・ジェームズの「意識の流れ」に影響を受けていると思う。(中略)プラグマティズムの発想のコアになっている多様性を肯定する「意味」の理論と、〈同時性〉を主張する「意識」の理論。それらが〈サーフェスのレイアウト〉、境界がなくて、なおかつ意味の発生と探求を同時に認める〈入れ子〉の理論へと接続していく転換になったと思います。》(108頁)
 その四、ギブソン「視知覚への生態学的アプローチ」(邦訳、『生態学的視覚論』)の佐々木訳から、「異所同時性」をめぐる文章。《……動き回る観察者は世界をどの観察点からも見ていないこと、したがって厳密にいえば事物の遠近法になんか気づくことができないということは真実なのだ。これが意味することは根本的だ。移動する観察点で世界を見る、十分に広がった路のセットを十分に長い時間をかけて見ることで、世界を、まるで世界のあらゆるところに同時にいるかのように、すべての観察点から見はじめる。何も隠されることなく、すべての場所に同時にいるということは、神のようにすべてを見えるものにすることである。どの物もすべての方向から見え、どの場所もそばにある場所とのつながりとして見える。世界は遠近法でながめられない。変化する遠近法構造から基底をなす不変構造が創発してくる。》(218頁)

☆金子勝『日本再生論 〈市場〉対〈社会〉を超えて』(NHKブックス:2000.11)

 『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書:1999)を読んで以来、金子氏の議論から目を離せない。「福祉政府」や「債務管理型国家」など、神野直彦氏との共同作業によるオルタナティブの政策提言はきわめて「現実的」なものだし、グローバリズムに基づく市場原理主義や日本的同調・無責任体質(共同体主義)へのラディカルな批判に根ざした社会経済時評の舌鋒は小気味いいものなのだが、金子氏の真骨頂は、何といっても「制度とルールの問題を軸にして、現実社会の仕組みを解き明かしてゆくポリティカル・エコノミーの視点」(本書19頁)の一貫性と、「弱い個人」の仮定を起点とするその理論的考察の明快さ──たとえば、自己決定権と社会的共同性の相補関係の問い直しによる、弱者救済の制度から社会全体でリスクを分担する仕組みへのセーフティネット概念の更新──にあると思う。
 これまでの言説・論考の集大成にして総索引の意義をもつ本書の序章で、著者はまず、市場対政府もしくは小さな政府対大きな政府といった「冷戦型政策思考」の無効性を宣告する。そして「新しいリスク」──発生する確率は低いがいったん起きると社会全体に極めて大きな被害を与えるリスク、一人ひとりでは負えないリスクのこと。著者は、自然災害、科学技術・システムに由来するもの、因果関係を特定しがたい「社会病理」の三つのリスクを示しているが、これらは宇沢弘文氏による「社会的共通資本」の三つの範疇、すなわち自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本(教育、医療、金融システムなど)とおそらく関係していると思う──と「新しい格差」──OSやネットワークなどルール・知識の掌握による winner-take-all 現象、あるいは所得と世代と学歴の三つの複合化された格差──を踏まえた「新しい政策課題」として、「リスクシェア、公共性の論理に基づく社会的責任制度の構築」と「ルール・知識の共有による格差解消、平等・多元的生き方の確保」を示している。
 以下、国際会計標準や金融ビッグバン、IT革命をめぐる「国際的な争い」に関する議論を経て、財政赤字や格差をめぐる日本の政策課題へと向かう本書の叙述は説得力と示唆に富んだ指摘──たとえば、本当に実現すべき政治改革は代議制民主主義と直接民主主義の関係を問い直すことである──に満ちている。なかでも、終章で論じられた「共有という思想」の知的革新や「自己なるもの」の所有をめぐる議論がとりわけ刺激的だった。──後者の論点について、村上龍との対談での著者の発言を以下に抜き書きしておく。(そういえば本書でも村上龍の名がたしか三度出てきた。)
《ぼくは最近、マルクスと逆のことを言っているんです。自己なるものを所有する、その所有そのものを再建しなければならないと。マルクスが言うこととは逆なんですよ。所有を廃棄するとかじゃない。簡単にいうと、資格制度や年金を一元化して参加できるものを提言しているんです。(中略)マルクスのいうような個体的所有でもない。多元的な価値が保たれた共同体を作らなければならないのですが、ヒントになりうるのは、ドイツのマイスター制度みたいなものですね。(中略)履歴書に学歴を書かないかわりに、多様な個性を認める資格をたくさんつくることですよ。(中略)市場主義は才能があればいいっていうけれど、結局、才能というのは、自分の才能を発見する能力なんです。あるいは我慢できる能力なんです。》(村上龍×金子勝「多様化社会の条件」,『大航海』No.35[2000.8])

☆宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書:2000.11)

 本書第1章で著者は、社会的共通資本(Social Overhead Capital)の考え方について三つの説明を与えている。その一。社会的共通資本とは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(4頁)を意味する。具体的には、自然環境(自然資本)、社会的インフラストラクチャー、そして制度資本(教育、医療、司法、行政、金融制度など)の三類型があり、都市や農村も複合的な社会的共通資本である。その二。社会的共通資本は、「分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件」(4頁)であり、ジョン・デューイのリベラリズムを思想的根拠とするソースティン・ヴェブレンの「制度主義」(Institutionalism)の考え方を具体的な形に表現したものである。その三。社会的共通資本は、「それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるもの」であって、政府や市場の基準・ルールにしたがっておこなわれるものではない。《この原理は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary:受託・信託)の原則にもとづいて、信託されているからである。》(23頁)
 以下、農の営みとコモンズ(共有地:著者は「社」もしくは「農社」という訳語をあてている)をめぐる議論、ル・コルビュジエの「輝ける都市」批判とジェーン・ジェイコブスに準拠した「最適都市」(Optimum City)の提唱、さらに、「本来的な意味でのリベラリズムの理想」(3頁)が実現された「ゆたかな社会」の基本的条件としての学校教育と医療の制度、脆弱な制度資本である金融システム、そして最終章での地球環境問題(著者はそこで宗教やスピリチュアリティ、文化的伝統の問題と経済学をリンクしている)へと、著者積年の学問的探求と社会政策的思索の蓄積に裏打ちされた議論が続いていく。静かな知的興奮とともに読み終えて、社会的共通資本としての大学の意義は何か、あるいは専門家としての経済学者(たとえば新古典派)が管理運営する社会的共通資本とははたして何なのだろうかと考えた。

☆金子郁容『コミュニティ・ソリューション ボランタリーな問題解決に向けて』(岩波書店:1999.5)

 豊富な事例分析を踏まえた、理論と実践への導きの書。以下、思い出せる範囲で、本書から抽出できる「命題集」を作成しておこう。──コミュニティ・ソリューションとは、メンバー間の密接な情報共有とアクティブなインタラクションによって「情報と関係性の共有地(コモンズ)」を作り、お互いを相互編集することで問題を解決することである。(15頁)──自生したルールとロールを尊重する人々の範囲がコミュニティの境界線を形成する。(24頁)──ベネディクト・アンダーソンが「コミュニティはイマジナリー・メモリーによって維持される」といった、そのようなイマジナリーな情報の共有と共同利用によって形作られてきたコモンズを基礎とするのがコミュニティ・ソリューションである。(24頁)──ボランタリー・コモンズの形成と運営をめぐるキーワードは、「ルール=自生した規則性」「ロール=自発的にわりふられた役割性」「ツール=コミュニケーションのための道具性」「弱さの強さ」「相互編集プロセスと編集者」の五つである。(39頁)──信用とは情報の情報(メタ情報)である。(112頁、270頁)──政府・権限による「ヒエラルキー・ソリューション」や市場による「マーケット・ソリューション」は、自発的で他の情報とつながることで本来の力を発揮する情報を扱うことが不得意である。どちらも個人と問題とを切り離して問題を解決しようとするからだ。第三の選択肢としての「コミュニティ・ソリューション」は、関係に依存して問題を解決しようとする。関係に依存することは自己完結できないことであるが、その弱さを強さに編集しなおすことがコミュニティ・ソリューションの極意である。(112頁、160-163頁)──阪神淡路大震災は、日本のボランタリー・ムーブメントの原点であり、現代におけるコミュニティ・ソリューションの発祥である。(117頁)──「ソーシャル・キャピタル」とは、関係性のメモリーがコミュニティに蓄積されたものである。それはコミュニティの文化遺伝子(ミーム)であり、それによって運ばれる感動と人間性に対する信頼性の伝染がコミュニティ・ソリューションの秘密である。(171-172頁)
 その他面白かった話題をめぐる備忘録、というよりキーワードの羅列。──ソーシャル・キャピタル(168頁〜)、社会的なものと経済的なもの(170頁)、インターネット社会の、というよりネットワーク的社会環境がもたらす二つの方向性(グローバル指向とコミュニティ指向)を軸としたコミュニティ・ソリューション・マップ(第二章)、結・講・座という「一セットのコミュニティのソーシャル・キャピタル構築のノウハウ」の研究から導き出された「コモンズの相互編集と関係のメモリーの蓄積の仕方」をめぐる基本型(五つの関係編集パターン)(211頁〜)、ヒューマン・サービスとしての農業(268頁)、等々。
 本書を読んで、一つだけ分かりにくい事柄があった。それは、『ボランタリー経済の誕生』(松岡正剛・下河辺淳他との共著)でも感じたことなのだけれど、「編集」という概念の内実とその射程である。たぶん「ボランティアが経験する不思議な力」(143頁)といった言い方で著者が表現しようとしているものが鍵になるのだろうと思う。(編集とは、やってみなければ、手でこねてみたり体を動かしたり人と話し合ってみなければわからない概念の一つなのだろう。)また、たとえば次の文章など、ずいぶん誤解を招きやすい表現だと思う。──ここに書かれているのは、もちろん中世や近世に帰れということではない。事実としての「共同体」と「共同体主義」の違いに似た、ある微妙な、しかし決定的な取り違えが起こりやすいクリティカル・ポイント。問題は、どれだけ「現在」にリアリティを感じていられるかということ。
《われわれは、いま、数百年に一度という大きな社会の変革期の真ん中にいる。その変革は、ある意味では近代に最盛期を迎えた社会システムの解体をもたらしているという側面がある。そんな中で、コミュニティ・ソリューションが代替案ではなく、まさに、問題解決の中心であった近代以前の時代を振り返り、伝統的社会のコミュニティにおける関係性の相互編集とそのメモリーの蓄積としてのソーシャル・キャピタル構築に関する知恵を参考にすることも悪くないであろう。》(202頁)

☆柄谷行人『原理』(太田出版:2000.11)

 柄谷氏が「私自身にとって「希望の原理」である」という「NAM(New Associationist Movement)の原理」は、五つのプログラムと三つの組織原則からなる。すなわちNAMとは、第一に「倫理的─経済的な運動」であり、第二に「消費者としての労働者」による資本と国家への外側と内側からの対抗運動(内側からの抵抗・内在的闘争とはたとえばボイコットで、外側からの対抗・超出的闘争とは、地域通貨経済の形成と生産消費協同組合による資本制企業の非資本制的企業形態への組み替え)であり、第三に資本制貨幣経済と国家の廃棄を「非暴力的」にめざし、第四に参加的民主主義の保証などその「組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する」ものであり、第五に情報資本主義的段階への移行がもたらした社会的諸能力(たとえばインターネット)によって現実の矛盾を止揚する「現実的な運動」である。またその組織は、第一に個人の「地域」(地理的空間としての地域と関心と社会的階層からなる)への交差的・多次元的所属と、第二にくじ引きによる代表者やセンター(代表者評議会)の構成、第三に自主的で開かれた互酬的交換を支えるLETS(地域交換取引制度)の導入によって運営される。
 私は本書を読んで、小学生の頃の「結社ごっこ」を思い出した。数人の仲間で「**団」を結成し、秘密の隠れ家で組織の運営方針やルールとその解釈、将来に想定される諸問題の解決方法を詳細に協議し、団のシンボル・マークや合言葉まで決定して、そこまでは楽しくてとても充実していたのだけれど、さて結局何をやるのかという「ビジョン」をよく練っていなかったため、いざ行動という段になって興奮は一気に冷めてしまった。──「一定数以上のメンバーがいれば、NAM**と名乗ることができる」。「組織が大きくなったときに、今存在しないような権力の問題が出てくるだろう。そして、それらに対して理論的に備えていないようなら、運動を始めるべきでない」。NAMの原理は「決してわかりやすいものではない。また、そこからどのような具体的なビジョンが出てくるかといえば、さらに難しい」。
 茶化しているのではない。「**団」はアソシエートするためのアソシエーション、つまり純粋アソシエーションの媒体でありながら、それ自体が一つのアソシエーションであるという不思議な「遊具」だったのだ。(高度な抽象力、つまり原理的な認識力に裏づけられた純粋な遊戯としての「結社ごっこ」。)その「運動」の原理はたぶん団員を増やし続けることにあったのだろう。だから、具体的に何をやるのか、どのようなビジョンを描くかといったことにかかずらわるよりも、クラスの全員をたとえば簡単な宣誓でもって仲間に迎え入れること、クラスという「公式組織」に対する純粋社交体としての「非公式組織」をこっそりつくりあげることに徹すれば、「結社ごっこ」は長続きしたのだと思う。
 柄谷氏がいう「原理」とは「組織原理」のことである。そして、それは実は「NAMの原理」を提唱した時点ですでに現実のものとなりえている。現に柄谷氏もこう語っている。「われわれの運動は、それ自体NAMの原理の実験でもある」。「運動は、すでに各地で起こっている。われわれはそれをNAMの支配下に置こうと考えているわけではないし、そう考えるべきでもない。ただ、そのような運動は明確な原理を持っていなければ、必ず潰れる。あるいは、資本とネーション=ステートに回収される。それははっきりしています。だから、原理的な認識が不可欠なのです」。プログラムの第三に出てくる「組織形態自体において、この運動が実現すべきものを体現する」云々とはそういうことを言っているのだと思う。(それはたとえば「エネルゲイア」もしくは「エンテレケイア」としての、つまり実現態もしくは終局態としての組織であって、目的に対する手段としての運動の論理に根ざした「キーネーシス」ではない。)そしてプログラムの第五に出てくる「情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的諸矛盾を、他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えること」云々は、とくにその後段はそれこそ「遊び」の常套手段だ。──廃墟となった国家や資本制の機械、しかしまだ稼動する部品を使った遊び。それはたしか笠井潔氏が語っていたアナーキズム国家(?)を思わせるし、私の年来の友人で経営学者の太田肇氏(『仕事人の時代』)がいう「インフラ型組織」にも(趣旨は異なるが)通ずるところがあるように思う。
 くどいが、けっして茶化しているのではない。このことは何度でも繰り返しておく。私がいいたいのは、NAMの原理にもし現実的有効性があるとすれば、それはいま述べた点(プログラムの第四と第五に表現されている事柄)につきると思えるのだが、しかしそれはプログラムの第二や第三に記されている事柄とは相容れないのではないかということだ。あるいは組織原則の第二や第三、特に第三の原則は遊戯性の維持にとってとても有益な方法だと思うのだが、それが何かの手段として意識されたとたん駄目になってしまう脆さをはらんでいるのではないか。
 それにしても柄谷氏の議論はいつもながら刺激的で、今回読んだなかでは、交換の三つの原理(収奪・再分配=封建国家=ステート=平等、贈与・互酬=農業共同体=ネーション=友愛、貨幣交換=都市=資本・市場経済=自由)とその三位一体による近代国家(capitalist-nation-syate)成立プロセスの分析、そして第四の型(アソシエーション)の提示へといたる箇所がとりわけ面白かった。

☆藤原正彦『心は孤独な数学者』(新潮文庫:2001.1/1997.10)
☆北村薫『リセット』(新潮社:2001.1)

 休日の朝、雨の降る冬の薄日の中、二冊続けて気持ちのいい本を読み終えた。『数学者』は達者な筆運びの「評伝紀行」で、ニュートン(「神の声を求めて」)、ハミルトン(「アイルランドの悲劇と栄光」)、ラマヌジャン(「インドの事務員からの手紙」)の三人の天才がとりあげられている。ヒューモアのうちにいつしか痛切なものが漂ってくる忘れがたい文章。『リセット』は「時と人」三部作の第三作。完結してから順に読もうと思っていたが、先に読んでしまった。どこかしら太宰を思わせる語り口で始まる冒頭から、いきなり北村ワールドがひらけてくる。丹念に綴られる日常が──正確に読書中の感覚を書いておけば、やや退屈なところもある叙述が、クライマックスでくっきりと生きてくる。円熟した芸を感じさせる作品。ラストシーンは絶品。