不連続な読書日記(2000.12)




★2000.12

☆古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』(講談社選書メチエ:1998.4)

 こういう本が読みたかった。著者は意表を衝く「変化球」(たとえばプラトン哲学を身体論として読む)を織り交ぜながら、文字通り「ギリシア哲学」の「現代(思想)性」(アクチュアリティ)を、いや「別のはじまりとしての」あるいは「来るべき哲学」としてのギリシア哲学を説得力ある叙述で描ききっている。少なくとも私にとって、本書は無尽蔵といってもいい刺激に満ちた第一級の「啓蒙の書」だ。

☆藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』(岩波新書:1980.7)

 世界や自然をめぐる自然科学的思考とは別の哲学的世界観の原型を求めて、著者はプラトンの「プシューケー」(ハイゼンベルクはヘラクレイトスの「火」を「エネルギー」で置きかえたが、著者はむしろ「プシューケー」のほうがふさわしいという)や「コーラ」、アリストテレスの「エネルゲイア」(ソーマの「運動の論理」であるキーネーシスとの対比において、つまりプシューケーの活動としての)にその可能性を見出している。

☆クリスチャン・デカン『フランス現代哲学の最前線』(廣瀬浩司訳,講談社現代新書:1995.7)

 フランス哲学とは実は「多様性の総体」なのであって、哲学と人類学と文学がしばしば混じりあっていることがフランスの豊かさなのだ。──このような「序」の規定を受け、以下、十章にわたって、歴史学・人類学・地理学、美学、社会学・法学、科学、等々との交通、ギリシャ哲学やアングロ・サクソンの思想やドイツ哲学との関係をまじえながら、綺羅星のごとき固有名をちりばめた渦巻星雲を、たとえばドゥルーズやデリダのほぼ全業績をそれぞれ二十頁弱で要約しきるといった猛スピードで叙述している。一読後、軽い眩暈に襲われた。

☆ジル・ドゥルーズ『差異について』(平井啓之訳,青土社:1989.7)

 平井氏も書いているが、ドゥルーズの文章はほんとうに「音楽的」だ。精緻な構築物の実在を感じる。純粋概念の躍動。力のこもった訳者解題もいい。

☆田中久文『日本の「哲学」を読み解く』(ちくま新書:2000.11)

 本書が試みているのは、一九三○年代の社会的・思想的状況のなかで「窮余の一策」として生まれた「無」の哲学がもっていた「大いなる可能性」の救済の方向を見極めることだ。著者によるとそれは「独断的な形而上学的原理」を前提とせずに「無」や「空」や「偶然性」の哲学を成り立たせることだという。(私自身は、和辻や九鬼と文学のかかわり、三木の歴史哲学に可能性の種子を見出せはしまいかと思ったし、何より西田がもっていたという「デモーニッシュなもの」に関心がある。あるいは、哲学と体質の関係。)

☆ポール・オースター『空腹の技法』(柴田元幸/畔柳和代訳,新潮社:2000.8)

 70年代、無名時代のオースターが書いた十九本の短い批評と、やや長めの「二十世紀フランス詩」を含む七本の序文、そして小説家デビュー後の四つのインタビューを収めた三部構成。オースター熱が再発しそうだ。

☆養老孟司『毒にも薬にもなる話』(中公文庫:2000.11/1997.10)

 1993年から1997年にかけて『中央公論』に掲載された文章(社会時評)と、1991年から1993年に『アステイオン』に発表された文章(臨床諸学に関する論考)が収められている。「臨床時間学」に始まって「臨床歴史学」に「臨床経済学」、「臨床哲学」から「臨床生物学的歴史学」、はては「臨床中国学」やら「臨床歴史学的実在学」を経て「臨床政治学」で終わる後者の文章群が抜群に面白い。《「人間の考えることは、いずれにせよ脳の機能である」。そういう観点から諸学を見れば、学問はどう見えるのか。この作業を一般化して、臨床学と呼ぼう。》
 そういう観点から社会の出来事を見れば、それはどう見えるのか。その作業を一般化して、臨床社会時評と呼ぶことができるのではないか。何か事あれば「解剖学者の養老孟司さんに聞いてみよう」、そうすれば必ず「ああ、やっぱり」と思う答えが返ってくるだろう。このリフレイン(リトルネロ)あるいは「養老節」がたまらない。ああ、やっぱりと思わせるのはそこに一貫した「方法」があるからで、それは実は大変なことなのだと思う。

☆中村雄二郎『精神のフーガ 音楽の相のもとに』(小学館:2000.6)

 収められた十五の文章を、著者はそれぞれ三箇月に一度というペースで調べ物をしながら書き継いでいったのだそうだが(1995年から1999年にかけて刊行された小学館版『バッハ全集』全十五巻に連載)、そこに流れていた時間と脈打っていたはずの律動に身を添わせ、丹念に少しずつ行間を埋めながら読み進めていくうち、たとえはまずいけれど、発酵しきった漬け物、それでいながら素材の新鮮さが失われていない漬け物が、読み手の脳髄のなかで読み手の懐の深さと大きさに応じて熟成していくとでもいえばいいのか、とにかくとても濃密な読書体験を味わった。

☆小沼純一『サウンド・エシックス これからの「音楽文化論」入門』(平凡社新書:2000.11)

 読者の力量に応じて、というより読み手の側の音楽体験の広がりと深度(震度というべきかもしれない──魂の震え=律動の度合いといった意味で)に応じて、深くも浅くも(面白くも面白くなくも)読み解くことができる不思議な書物だ。文章は平明かつ平易なのだが、そこで展開されている議論はきわめて高度だと思う。

☆八木雄二『中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために』(平凡社新書:2000.12)

 カバー裏に「“精妙博士”ドゥンス・スコトゥスの哲学を軸にしてヨーロッパ的思考を理解するための要をさぐる、アクチュアルな中世哲学入門」と印刷されている。そもそもヨハネス・ドゥンスの哲学を新書で読めること自体、快挙というほかなくて、私はただもうそれだけで感激してしまったのだが、本書を読み進めていくうちにその感激は興奮に変わっていった(とりわけ最終章「時間と宇宙」は秀逸)。濃密な刺激に満ちた読書体験を堪能したあとでは、あれこれ「書評」めいた繰り言を弄するのはいやになる。

☆矢萩貴子『仮面舞踏会』(幻冬舎アウトロー文庫:2000.6)
☆藍川京『華宴』(幻冬舎アウトロー文庫:1999.11)

 こういう本も(いまでも)たまに読む。『華宴』は秀逸。

☆フリーマントル『報復』上下(戸田裕之訳,新潮文庫:1998.2/1993)
☆馳星周『漂流街』(徳間文庫:2000.9/1998.9)

 久しぶりにチャーリー・マフィンを読み、その勢いで馳星周をはじめて読んだ。