不連続な読書日記(2000.11)




★2000.11

☆エリック・スティーブン・レイモンド『伽藍とバザール』(山形浩生訳,光芒社:1999.3)

 訳者あとがきにあるように、本書は「オープンソース・フリーソフトの基礎文献が、同時にそれ自身オープンソース・フリーソフト的なビジネスモデルの実験となっている」し、翻訳そのものが「バザール方式」での実験によるもので、現にいまでも山形氏主宰の「プロジェクト杉田玄白」で全文公開されている。──オープンソース・ソフトの所有権とコントロールを支配する慣習の根底にある理論がロック式の土地所有権理論と似た所有権概念であること、ハッカー文化とは参加者が時間とエネルギーと創造性をあげてしまうことで名声を競う「贈与文化」であることを分析した第二部がとりわけ面白かった。

☆田口ランディ『アンテナ』(幻冬舎:2000.11)

 これは紛れもない「家族小説」の傑作だと思う。男が男になる「切断」の物語。傷ついた触覚(皮膚)をめぐる快復=「接続」の物語。──父(男)と母(女)と子の三位一体。セックス(生殖)と成長と弔いの物語。「シ」が父を現し、切断を意味する。母を現すのは「チ」で、これは接続を意味している。知(チとも読めるが、動詞形ではシる)と血、死と地、哲学(言語的妄想)と心理学(物質的妄想)。それでは第三の音、子を現す音は何なのだろう。「ガ」?──「じゃあ、僕も兄さんの夢なんだね。」(198頁)夢=妄想(リアリティのある妄想、というよりリアリティとしての妄想)=パーフェクト・ワールド=金魚鉢=家族的無意識の切断、少女の殺戮、そして大海原=世界への帰還。「僕は女性性を取り戻した。だから女性が何をしてほしいのかが手に取るようにわかった」(233頁)。──アンテナ=触角が媒介するもの、声と映像(フラッシュバック)。「声だ、ナオミの声は触覚を刺激する。声が僕に一つになろうと誘惑する。」(235頁)他者のためのメディア(他者を映す鏡)としての顔。「カガミからガを抜くと、カミになる……。」(218頁)そして、皮膚(襞)。冷たい手をもった二人の登場人物、祐弥の主治医とナオミ。「もしかしたらこの世界は同じ物質で作られているのじゃないか。」(223頁)──コンセント(女性性器)、アンテナ(男性性器)ときて、さて次は何だろう。本書で一度出てきた「スイッチ」あるいは「チューニング」あたりだろうか。(両性具有。それとも「モデム」?)

☆桑子敏雄『エネルゲイア アリストテレス哲学の創造』(東京大学出版会:1993.12)

 期待して読み始めたのだが、序文とあとがき、それからイデアとエネルゲイアの関係を論じた第一章やヌースを論じた第八章が印象に残ったくらいで、専門家向けの専門的な議論に終始しているように思えて、読み進めるのにやや難渋した。というよりも、端的な断言を求めて読み流した読み手の姿勢に問題があったのだと思う。

☆津野海太郎・二木麻里編『徹底活用「オンライン読書」挑戦』(晶文社:2000.8)

 休日の午後、何もやる気がおきなくて、寝そべって本書を読んでいると、なぜか元気が出てきた。百五十を超えるサイトが紹介されていて、そのうち利用したことがあるものが五分の一程度。編者の二木氏が「窓をそなえたモナド」という言葉を使っている。これら百五十を超えるモナドたちがそなえている窓とは、パソコンのディスプレイのことなのだろうか。(百眼ならぬ百五十の眼を持つアルゴン。)

☆プラトン『パイドン』(岩田靖夫訳,岩波文庫)

 アリストテレス『心とは何か』の解説で、訳者の桑子敏雄氏は、アリストテレスが心身が一つであるする立場から出発したのは、師のプラトンがピュタゴラス主義的な思想をもち、プシューケーは死後肉体を抜け出て輪廻すると考えていたことにきわめて批判的だったからだと書いている。「プラトンの思想を見るには、『パイドン』を読むとよい」。で、読んでみた。これは読み物としてとても面白く、分量的にもそれこそ一気読みができる。初めて読んだアリストテレスもよかったけれど、やはりプラトンの方が自分には向いている。

☆神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館:1999.2)

 再読、三読、熟読玩味されるべき書物だ。著者愛用の「既読感(デジャ・リュ)」に似たものにつきまとわれながら、私は本書を読み終えた。いや、この世には読み終えることなどできない書物がある。窓を穿つべきモナドたち、多世界へと向かう接線群に満ちた豊穣な書物。

☆神野直彦『地方自治体 壊滅』(NTT出版:1999.12)

 著者の静かな怒りと熱い思いがひしひしと伝わってくる。《地方財政の破綻は、行き詰まった古いシステムを破壊すれば、新しいシステムが湧いてくるとでも思っているようなヴィジョンなき改革の結果として生じている。本書ではまず、われわれが生活する身近な政府(=自治体)の財政破綻が、社会崩壊の到来を告げる晩鐘となっていることを明らかにしたい。》(プロローグ「社会崩壊の序曲」)──実に怖い本だ。ワークフェア原理に拠る地方税制のグランドデザインの提唱をはじめ、社会的セーフティ・ネットの張り替えをめぐる著者の議論には、盟友金子勝氏の議論ともども、いまもっとも説得力を感じている。

☆瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店:2000.10)

 タイトルに惹かれ、装丁・装画に惹かれ、そして瀬名秀明の新作だということで安心して、中身を確認せずに購入。旅先で若干の睡眠時間を挟み一晩で読み終え、そのあと人にやってしまい手元に残っていないので、物語の細部や登場人物の名前などは記録できないけれど、タイトルと装画から連想し期待していた通りの読後感がいまでも心の深いところに残っている。
 ある空間をリアルに復元すると、それはかつてあった現実の空間と「同調」する。この、本書に出てくる「どこでもドア」の原理を準用するなら、ある時間をリアルに再現(想起)すると、それはかつてあった現実の時間と「同調」する。つまり「永劫回帰」する。本書が湛える静かな感動(喪失感をともなった未来感覚とでも?)は、そのような物語の奇蹟とでもいうべきものの力によってもたらされる。
 いろいろ趣向と工夫が凝らされた本書を簡単な言葉で括ることはできないと思うし、もしかしたら作者は私が迂闊にも見逃してしまった伏線を張り巡らせていて、たとえば本書を読み終えた読者はその時点で一つの物語世界に入り込むことになっているといった大仕掛けが用意されていたのかもしれないのだけれど、とにかくこれはとてもよくできた最後の夏休みの物語なのだ。(本書を読み終えて、大長編ドラえもん、たとえば『のび太の魔界大冒険』を読み返したくなった。)

☆松浦理英子『裏ヴァージョン』(筑摩書房:2000.10)

 読み始めたら止められなくなった。ソレルスの『黄金の百合』を思わせる作品の趣向、というか仕掛けについては、いくつかの書評を読んで承知していたので、いきなり「ステーヴン・キングまがいのホラー」や「アメリカのレスビアンSMを描いた」短編群に接してもうろたえなかったのだが、家主の磯子こと鈴子(読者)の「質問状」と居候の昌子(作者)の応答を屈折点として「ホモセクシャル・ファンタジーを愛する日本の女」たちの物語、そして「詰問状」と「果たし状」をはさんで「本格的な私小説、さもなきゃ自伝小説」やら実録議論(喧嘩)小説と、読者と作者が変形されたかたちで登場する連作風の短編群が変幻自在に繰り出される後半部を読み進めていくうち、語りのうまさに舌を巻きながらも、なぜ著者はかくも込み入った構成を設えなければこの作品を仕上げることができなかったのか、そしてその構成、というより構造がどうして成功していると私は思うのか、そのあたりのことが気になって仕方がなかった。
 ただ一人の読み手との小説契約にもとづいて書かれた物語群とそれをめぐる作者と読者(批評家)の交わり(時として役割交代)が同じ空間のうちに繰り込まれたメタフィクション、そしてフィクションとメタフィクションを区画する関係の枠組みそのものに言及し変換しつつそこに不変の構造を痕跡のように残していく、そのような複雑な組み立てをもってしてはじめて「性」をめぐる語りの場が設えられていく。いまのところ私はまだ、そんな借り物の言葉を使った生硬で難解な言い方しかできない。「ここにいるわれわれはすでに空に書かれたテクストの中にいる。かれ[作者]がもはや書かなくてもいいところ。」――この第十四話の冒頭に引用されたウィリアム・バロウズ『夢の書 わが教育』(山形浩生訳)からの一文がヒントになるのだろうが、それもまた作者の仕掛けた罠なのかもしれない。

☆坂口ふみ責任編集『「私」の考古学』宗教への問い3(岩波書店:2000.10)

 本書第一部を構成する坂口ふみ「〈個〉のアルケオロジー―自我の祖型をたどる」が実に芳醇な刺激と思想的「倍音」に満ちていた。坂口氏はこの論考で、形而上学的・自然学的な「個」ではなく、おきかえのきかない「ひとりしかいない自分」という意味での〈個〉の体験の祖型を西欧思想の古層にたずねている。私の内なる深みの探求と大宇宙を統べる共通なる原理の探求の両者が実は車の両輪の関係にあるという「ヘラクレイトスのモチーフ」のその後の「変奏」をプラトン、アリストテレス、プロティノス、アウグスティヌスの思索のうちにたどり、ロゴスという概念の「おどろくべき多義性と柔軟性」に東西思想の対話と歩み寄りのための大きな示唆を見出すその叙述はスリリング。
 第二部に収められた五つの論考(彌永信美「魂と自己―ギリシア思想およびグノーシス主義において」、熊田陽一郎「姉なる魂 宇宙霊」、桑子敏雄「同一性の宗教空間―宇宙へと分散する「わたし」」、金学鉉「飯と天と人と―東学の思想」、山本ひろ子「霊魂の形態学―中世神道の「発生」をめぐって」)も興味深いものだった。とりわけ彌永氏の文章は素晴らしくて、存在と生成の二元論からストア派・ネオプラトニズム的三元論(プネウマ・ダイモーン・パンタシアあるいはヌース・プシューケー・ソーマ)へといたる「ギリシアの魂の物語」の叙述を経て、グノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験や『トマスによる福音書』の記述から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと向かうその筆の運びに私はすっかり酔ってしまった。桑子氏や山本氏の論考も面白かったし、聖霊・魂・気・義・霊示の各セクションに分割された「アンソロジー」(第三部)もとても便利。

☆小田亮『レヴィ=ストロース入門』(ちくま新書:2000.10)

 かつて『悲しき熱帯』と『野生の思考』を読んだときの濃密な読後感が甦ってきた。レヴィ=ストロースはいまだ汲み尽くされてはいない。本書を読み終えて、あらためてそう思う。

☆ジル・ドゥルーズ『原子と分身 ルクレティウス/トゥルニエ』(原田佳彦・丹生谷貴志訳,哲学書房:1986.11)

 本書に掲載された二つの文章──「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」(丹生谷訳)、「ルクレティウスと模像」(原田訳)──はいずれも『意味の論理学』の「付論」に収録されている。第一の論文では「他者なき世界」の三つの意味をめぐる議論、第二の論文ではアトムの結合体に由来する「流出」「摸像(シュミラークル)」「幻像(ファンタスム)」の三種の二次的な結合体をめぐる議論が刺激的だった。

☆氷上英廣『ニーチェの顔』(岩波新書:1976.1)

 達意の文章で綴られた、ニーチェをめぐる九つのエッセイ集。軽やかな叙述と深い陰翳に彩られた、これは忘れがたい書物だ。

☆今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫:2000.11)

 人間の存在について、あるいは人間存在の時間的構造について、別の考え方を提出すること。──「歴史の概念について」第九テーゼの「歴史の天使」をめぐる解釈の中で示された今村氏のこの指摘が、ベンヤミンの仕事の本質を衝いている。本書で著者は「仮説的解釈」をまじえながらベンヤミンの「難解なテクスト」への接近を試みたという。それはたとえば小林秀雄の中断されたドストエフスキイ論やベルクソン論に見られる「祖述」(『文学のプログラム』での山城むつみ氏の言葉でいえば「原作を反復的に創作する」こと、もしくは「創作」=「批評」)とはまったく異なる態度なのだが、今村氏のベンヤミン読解には圧倒的な透明感がある。別の言葉でいえばそれはそう解するしかないのではないかと思わせる説得力があって、これはある意味でとても危険な書物だと思う。