不連続な読書日記(2000.10)




★2000.10

☆『潤一郎ラビリンスXIII 官能小説集』(中公文庫:1999.5)

 二つの中篇、「熱風に吹かれて」(大正二年)と「捨てられる迄」(大正三年)、そして一つの短編、「美男」(大正五年)が収められている。久々の谷崎体験で、これは文学というより文芸、それも文藝と綴りたくなる「文章」を堪能した。「熱風に吹かれて」は漱石の『それから』を意識した作品らしいのだが、太った男、玉置輝雄(「豚の土左衛門」と英子から悪態をつかれているけれど、十七貫というからそれほどのこともない)と、その友人斎藤の愛人で大声大食いの大女、資産家(銀行家)の令嬢太田原英子(こちらは十五貫)との一夏の恋愛譚で、結局のところ、愛人に愛想をつかした英子が手管を弄して男を取り替える、流麗な筆で描かれたどこかのどかな「ユーモア」小説と見ることもできるように思った。これに対して「捨てられる迄」は、妄想癖のある男、山本幸吉と、これまた富豪(医者)の令嬢、植田三千子との技巧的かつ「藝術的」な恋愛譚。駆け引きに敗れた男が女の奴隷になってからかわれ捨てられる話で、あまつさえ男は(心理的にも、その言葉遣いでも)女になってしまう。「三千子さん、どうぞあたしの命をあなたの自由にして下さい。あたしはどんな目に会わされても、あなたに捨てられさえしなければ、仕合せです。幸福な人間です。……どうぞあたしを非道い目に合わせて下さい。出来るだけ泣かせていじめて下さい。あなたの手なら、打たれても、縛られても、殺されてもかまいません。」──この作品もまた一種の滑稽譚、ユーモア心理小説と見ることができそうだ。
 これは「美男」でも感じたことなのだが、これらの作品には物語の表舞台に現れない隠れた世界が設えられている。何か語られていない世界がある。たとえば「熱風に吹かれて」では、英子と斎藤の深夜の会話の中味。もしかすると、両者の間で密かに別れ話が進行していて、斎藤は金、英子は輝雄をそれぞれ手に入れる算段ができていたのではないか。輝雄が英子に惹かれるよう、斎藤も協力していたのではないか。それから「捨てられる迄」では、三千子と嫂との関係がどこか謎めいていて、これもまた深読みだとは思うけれど、この二人はグルになって幸吉を玩具にしていたのではないか。──決して「傑作」だとは思えないけれど、それにしても後々まで楽しめる作品たちだった。

☆ピエール・ルイス『アフロディテ 古代風俗』(沓掛良彦訳,平凡社ライブラリー:1998.1)

 舞台は、かのクレオパトラの姉女王ベレニケ治下のアレクサンドリア、ガリラヤ生まれで金褐色の髪をもつ娼婦クリュシス(黄金の女)と女王の寵愛を受ける彫刻家デメトリオスの愛と夢と死の物語。著者ピエール・ルイスは、官能性は知性が発達する上での不可欠で創造的な条件だと書いている。《それを愛するにせよ呪うにせよ、肉体の要求をその限界点まで感じたことのない人は、そのこと自体によって、精神の要求するところの全幅をとらえることはできない。魂の美しさが顔全体を照らし出すように、肉体の持つ生殖力のみが脳髄を豊かにするのである。》(序)──しばし陶酔の時を過ごした後、記憶に残った断片を抜き書きしながら余韻に浸ることにしよう。
 クリュシスが七年もの間にわたって快楽の技術を学んだことについて。《なぜとて、音楽と同じく愛もまたひとつの技法だからである。愛は音楽と同じたぐいの情緒を、音楽に劣らず繊細で、同じように人の心を震わせ、時にはそれにも増して激しい情緒を呼び起こすものなのだ。》(第一編)──哲学者ナウタラテスの言葉を二つ。《人間の愛が動物たちの愚かなさかりと違うのは、愛撫と接吻という二つの神聖な作用によってのみなんだ。》(第二編)《宇宙は三つの真理が語られるために創造されたのだ。してわれわれにとって不幸なことに、この真理の確かなることが、今晩から五世紀も前に証明されてしまったのだ。ヘラクレイトスは世界を理解した。パルメニデスは魂の本性を明らかにした。ピュタゴラスは神を測定した。われわれはただ沈黙するしかない。私が発見したのは、エジプト豆がなかなか歯ごたえがあるということぐらいのもんだ。》(第三編206)──デメトリオスがクリュシスにアフロディテを見る場面。《デメトリオスは一種の宗教的な畏れをこめて、女の肉体の中の女神のこの怒り、全身をとらえているこの恍惚状態、自分が直接惹き起こしたこの超人間的な痙攣に、じっと眺めいる。この痙攣を彼は高めたり抑えたりし、それを見て千度も驚く。/彼の目の前で、生命のもつすべての力が、ものを生みなそうとして力を尽くし、偉大さを帯びる。既にして両の乳房は膨らんだ乳首に到るまで、母なるものが持つ威厳を帯びた。女の聖なる腹は、懐妊を成し遂げた……/そしてこの嘆きの声、前もって出産を泣き悲しむこの痛ましい嘆きの声。》(第四編)──デメトリオスがクリュシスに別れを告げる場面。《そうとも、おまえか俺、愛している方がそうなんだ。奴隷になること! 奴隷でいること! これこそが恋の情熱の本当の名なんだ。》(第四編)

☆山口椿エロティシズム・コレクション2『雪香ものがたり』(祥伝社文庫:1999.9)

 文庫版解説「美でもあり、ポルノでもある」で、三枝成彰氏が「この小説はなによりも「細部」がすばらしい」と書いている。確かに。江戸情緒漂う情景描写に竹本、清元、新内、めりやす(独吟の長唄)と随所に挿入される江戸音曲、切ないまでの語りの律動、ある意味で退屈な情愛の反復が様式美を醸し出す文の肌目(テクスチャア)、そして何よりも雪香の尋常を超えた美の描写。何もいうべきことばをもたいないが、雪香にふゆ、花千代に美弥が入り混じっての「芙蓉月(SETTEMBRE)」から旦那の里見の死、そして零落、死の淵を彷徨って、やがて北の地へ向かう終章までが痛切。

☆アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ『ボマルツォの怪物』(澁澤龍彦訳,河出文庫:1999.2/1979)

 久々の澁澤! 久々のマンディアルグ! この二人の文章は(後者は翻訳で)かつてほとんど読み尽くした。本書も大和書房版で読んだし、所収の「イギリス人」(抄訳)も完全版を(確か白水社版で?)読んだ。「ボマルツォの怪物」でマンディアルグは、モニュメントとは何かと問うている。装飾? 備忘録? いやモニュメントとは異物なのだ。それらは周囲の空間を強制し、狂わせるのだ。マンディアルグの流麗な文章に運ばれて、読者は古代エトルリア人の族長が支配していた首都タルクィニアの古墳群からボマルツォの「残酷」彫刻たちへ、そしてミケランジェロに発する巨像や大建造物の歴史、ボマルツォの来歴をめぐる推理へと案内される。《もっぱら恐怖や感覚の混乱を醸成するために彫られたかに見える、あれらの彫像たちには、装飾というよりも、むしろもっと積極的な役割があったのではなかろうか。こっそりと残酷な行為を演ずるにはまことに打ってつけな、この秘密の場所は、もしかしたら、大きな声では言えないような或る目的のために造られた場所ではなかったろうか。》マンディアルグはこの文章のすぐ後でサドのイタリア旅行にふれているのだが、それは本書に収められた短文「ジュリエット」へとつながり──《もしサドがもう少し唯物論者ではなくて、道徳の代数学あるいは弁証法にみずからを限定していなかったならば、ジュリエットはあの否定しがたい魅力をもった悪の天使であることを越えて、さらに人間によって想像された最も愛すべき魔女としての肉体や顔を具現することができたかもしれない。》──、終章で再び取り上げられるモニュメントの概念をめぐる考察は「異物」「海の百合」へとつながっていく。(編訳者の技の冴え!)いまひとつの短文「黒いエロス」は、私がもっとも好きな文章の一つで──たとえば、とりたてていうほどもない次の一文。《ともあれ、エロティックの空間は暗黒の領土なのである。これだけは私たちにも確信することができる。あるいはむしろ、このことによってしか、私たちはこの空間を想像することができないのであり、この空間はこの精神(色が精神であることは、大洪水以前から知られていた)との関連においてしか、私たちの興味を惹き得ないのである。》──、ここにはかのピエール・ルイスへの言及──《…ピエール・ルイスやポール・アダンの時代には、痩せっぽちの知識人たちが理想的な古代ギリシアを夢みたのであり、そこでは彼らの虚弱な肉体が、サチュロスにふさわしいような壮挙をも自由に為しとげることができるように錯覚されたのであった。》──も見られる。本書を読んで再読したくなった書物。たとえばメリメ短編集『エトルリヤの壺』、デュラスの『タルキニヤの子馬』、ロレンスの『エトルリヤ紀行』、澁澤の『ヨーロッパの乳房』等々。こうして「文章」は「文章」へと(官能的に?)つながっていく。

☆鷲田清一『「聴く」ことの力──臨床哲学試論』(TBSブリタニカ:1999.7)

 随所に挿入された植田正治の写真が実に素晴らしい。これらの写真がたとえ本文と無関係に配列されているのだとしても、読み手はそこに文脈上の関係を探り、本文とのシンクロを感じてしまうのであって、これは読者の「勝手」に委ねられた愉しみだ。著者はあとがきで「執筆の過程で言葉を書き継げぬこともしばしばあったが、そのとき、植田さんのあの写真の横に文章を添えたいという一心でかろうじて言葉を絞りだしえたことが何度かある」と書いている。私はそこに、第一章で紹介されている詩人谷川雁氏の「この世界と数行のことばとが天秤にかけられてゆらゆらする可能性」云々ということばとの響き合いを感じた。文章もいい。「《知識》(グノーシス、knowledge)ではなく《智恵》(ソフィア、wisdom)の粋とされる哲学的な知こそ、経験をくりかえし折り重ねるところではじめて、織り目のように浮かび上がってくるものであって、そういう時間の澱[おり]をたっぷり含み込んだ哲学のことばは、それを哲学研究者がもっとも正しく語るのかといえば、そうではあるまい。」(18頁)など、著者は言葉で遊んでいて、その思索の息遣いが聞こえてくる。(読書もまた臨床の一場面?)

☆養老孟司『臨床哲学』(哲学書房:1997.4)

 オッカムならぬ養老孟司の「カミソリ」(いや時として「雷」か)は「ヒゲ」(「論理化できない決断の集積」としての生)を愛しむ。第一章「臨床哲学」に収められた四つのエッセイはいずれも『季刊哲学』に連載されたもの。《哲学に対する現実からのフィードバックは何か。それが無いという立場もあるかもしれないが、それなら純粋数学の言語版であって、好きにやってくださればよろしい。そういうものを私は純粋脳過程と呼んでいる。ここで議論しようと思うのは、もう少し高級でない哲学の話である。それで、ためしに臨床哲学という題をつけてみた。》──以下、「哲学と脳梁」「ヘッケルの〈真理〉」「個体発生と二つの可能世界」「オッカムとダーウィン」と続く。他に「二つの情報系」も刺激的。再読、三読(以下、無限に続く)されるべき書物。

☆西田幾多郎・香山リカ『善の研究』(哲学書房:2000.7)

 正確なタイトルは『能動知性5 実在と自己 西田幾多郎 善の研究』で、 叢書能動知性第一期全十巻中の第五巻。能動知性とはアリストテレスの『霊魂論』に由来する二つの知性の一つ(他の一つは受動知性もしくは可能知性)で、坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店)第八講によれば、能動知性を個人に属すると見るか「超個人的な宇宙霊魂のごときもの」と見るかをめぐって古代ギリシャ以来解釈が分かれていて、「普遍者が個に宿る」という西欧中世における考え方のひとつの原型が能動知性の個人への内属という考え方に見られるのだそうだ。いまもっともクールな(私にとってという意味)言葉を冠したこの叢書はとても魅力的で、とりわけ第七巻「茶の本 岡倉天心+養老孟司」とか第十巻「文明論之概略 福沢諭吉+大澤真幸」などはいずれ手にすることになりそう。しかもこれが第一期というのだから、先が楽しみ。哲学書房の本は造本も装丁も紙質もすべていい。本書もそうだったけれど、全頁が毅然かつ丹念に「編集」されている。新しく「哲学文庫」が刊行されるそうで、これも楽しみ。
 本書の予想外の収穫は、表紙にその名が挙がっていない山内志朗氏の文章「解題:『善の研究』という書物」にめぐりあえたこと。短いものだけれど、実にたくさんの刺激と着想に満ちたものだった。たとえば、山内氏は、木村敏「リアリティとアクチュアリティ」(『講座 生命 '97』所収)を踏まえて次のように書いている。《リアリティは、木村敏が述べるように、公共的な認識によって客観的に対象化され、ある共同体の共有規範としてその構成員の行動や判断に一定の拘束を与えるものだ。……問題なのは、リアリティは、リアリティそのままでは流通しないことだ。リアリティは貨幣と同様に、個人において再認され、実感され、同化されなければならない。木村敏はそれを「アクチュアリティ」と言う。個体化されたリアリティがアクチュアリティだと言ってもよいだろう。》山内氏は続けて、西田哲学の特徴は本来結びつき得ない概念や言葉を「絶対矛盾的自己同一」や「個物即一般」といった一つの語句に閉じ込める凝集力・強度(intensity)にあるのであって、この「強度」は木村氏のいう「アクチュアリティ」やドゥンス・スコトゥスの「このもの性」に、さらに椎名林檎の世界へとつながっていくという。そして、アクチュアリティの希薄な現代にあって、椎名林檎に代表される「現代の表現者」のように、概念的思惟の鈍重な歩みを嫌い、無媒介的・直接的な「天使的飛躍」が生み出す眩暈や快楽(幻想としてのアクチュアリティ=強度の昂進)によるのではなく、これと同じく直接的で具体的なものを舞台とし直観を重んじつつも、西田幾多郎のように直接的・具体的なものを「一般者」として捉え、個体と普遍の相即するものとして個体化を捉えること、つまり公共性としてのリアリティを内在化したアクチュアリティを問題にすることが必要なのではないか(リンゴからキタローへ)と示唆しているのである。
 『善の研究』は黙読してもたぶん面白くないだろう。若干の簡潔な命題に要約してしまうことができるに違いないその単純な内容よりも、リフレインと変奏と語り口(文体)のリズムがこの書物の生命だと思う。うまく乗れればこれほど読みやすくかつ豊穣な文章はなくて、それはほとんど交響曲を聴いているような読書体験だ。実際、第四編は最初から最初まで音読して楽しんだ。

☆山内志朗『普遍論争』(哲学書房:1992.11)

 中世哲学が晦渋で暗い論理を駆使しているといったステレオタイプ化したイメージは、スコラ哲学を知りつくしていたルネサンス期のフマニストたち(エラスムスほか)の「戦略的」罵詈雑言が今日まで影響を及ぼしているからであって、中世哲学と近世哲学とは実は連続している、あるいは「ルネサンス=光」「中世=闇」の通俗的図式は信用できない(ブルクハルト的図式「ルネサンス=中世+人間」に対するジルソンの図式「ルネサンス=中世?神」への共感)、そのことを、普遍論争の表層を覆う化粧・仮面(「中世哲学においては、普遍が名称なのか事物なのかをめぐって、数世紀の間激しい論争がなされた」といった記述)を剥がして、その深層にある「見えるもの」(身体的なもの、地上的なもの、有限者、偶有性、現前、…)と「見えざるもの」(精神的なもの、天上的なもの、無限者、実体、非現前、…)という図式をてがかりとして見通してみたい。──これが著者の目論見で、それは十分達成されていると思う。明快な語り口をもった書物。(九十頁に及ぶ「中世哲学小辞典」が付録についていてとても便利。常備し折にふれ再読したいが、六千九百円はちと高い。)なお、本書は「中世哲学への招待」第一巻で、第二巻では、存在の一義性とアナロギアの対立や個体性の原理、精妙博士(Doctor subtilis)ドウント・スコトゥスとオッカムの対立といった話題が扱われるという。

☆榎並木重行『ニーチェって何?』(洋泉社新書y:2000.5)

 序「少女と覆い」と第一章「認識」まではコクがあって結構よかった。第二章「真理」第三章「道徳」第四章「意志」でちょっとダレて(著者の語り口がハナについてしまったのだ)、後語「槌(ハンマー)とハエ」でイキをふきかえした。気にいらないところも多々あったけれど、後語に出てくるいくつかの話題、たとえば「ニーチェは多様な声で語る」とか、哲学は覆いをはがすことではなくて、『偶像の黄昏』の副題にあるように槌(ハンマー)を持ってすることだ──《つまり、ニーチェって打検士なんだね。普通は輸入缶詰など叩いて、その音とか振動から中身の状態を察知する打検士、ニーチェが叩くのは人間や真理といった価値だけど、どちらも音を聴くより、音を立てる仕事である点で一致する。/ただ、缶詰なら中身が問題なんだけど、人間や真理については仮面とか、皮膚とか、覆いとか、むしろ表面で起こっていることこそが、とらえられる必要がある。》──云々だけでも、そして(カントを中間において、スピノザとの関係で)ニーチェへの関心を高めてくれた刺激剤として、読む「価値」はあった。本書の、というよりニーチェのキーワードは「生存条件」なのだと思う。(ところで本書の章建ては、どことなく『善の研究』の構成、第一編「純粋経験」第二編「実在」第三編「善」第四編「宗教」を思わせるところがあると思う。が、これはハズレか。)
 いまひとつ、これだけは引用しておきたい箇所。──「科学の発展は…知られていないものを知られているものに還元しようとする本能から発している」というニーチェの言葉を受けた著者の議論。《例えば、生命は分子で書かれた設計図によって伝えられている、なんていう。でもそれは、生命のほうがすでにある既知のものとしてあるから、分子水準で書かれている、計画─設計[プログラム]されているみたいなことがいえるんで、じゃあ、計画─設計から生命が説明できるのかというと説明できない。(略)脳科学でも同じこと。例えば、脳の局所性──、脳のどこが刺激されるとこういう反応が起こるというんだけど、結局それも、われわれが脳でやっていると思っていること、つまりは、われわれが感覚、認知、感情、思考、そして精神一般について知っているもの、慣れ親しんできたが故に知っていると思っているものを、脳の部署に振り分けて、神経と化学物質の記号法で語り直しているにすぎない。(略)もし、われわれがわれわれの精神について知っていること、要するに慣らされていてわれわれの不安を呼び起こさないものが、誤謬、あるいは偽りだったら、どうなる? すくなくとも、脳の科学研究から、この疑いが出てこない限り、当然、答えも出てくることはない、ということだ。》(37-9頁)
 

☆高山宏『奇想天外・英文学講義』(講談社選書メチエ:2000.10)

 これから、急ぎ足ではあるが、ぼくが三十年かけて考えてきた「英文学」について記す。──プロローグに出てくるこの一文を目にしたからには、もはや素通りすることはできない。まして、あとがきならぬ「口上──傲慢謝辞」に、英文学にはもう飽きたのでキリをつけ、しばらくは視覚文化論の方に歩を進めてみたいと思っている、などと書いてあっては、何をおいても読まねばなるまいと気が急いてしまう。二日間の「喋りおろし」(カバーには「機略縦横、傍若無人の英文学しゃべりたおし!」とあって、思わず快哉)をもとにまとめられた高山流「超」英文学史。文献案内「超える本たち」もとても便利だし、随所にちりばめられた六十数葉の図版もいい。
 著者はプロローグでまず、「観念史派」を率いたマージョリー・ホープ・ニコルソンの仕事に言及しつつ、ニュートンの『光学』(1704)が十八世紀以降の英文学に与えた影響──動詞中心の「形而上学の詩」から「ニュートン詩人」たちの形容詞、副詞を多用した形態描写の精緻化へ、美術館めぐり(グランドツアー)による風景の発見を経てピクチャレスク、ロマン派へ──を概観する。第一章「シェイクスピア・リヴァイヴァル」では、山口昌男著『本の神話学』(1971)が著者にもたらした「衝撃」から説き起こして、「言葉」と「物」の関係に決定的な断裂が起き、それらを人為的につなぐ「リプリゼンテーション(表象)」がうまれ精緻化していくこととなったフランスの一六六○年代(フーコー『言葉と物』)と同じことが、フェルメール(やスピノザ)が活躍したオランダとイギリス(王立協会が勅許を得たのが一六六六年)でも起きていたこと、そして十七世紀初めのアンビギュアス(両義的)な文学の富を一九二○年代、東・中欧の知性が発見し、それを一九六○年代(たとえば、ヤン・コット)がリヴァイヴァルしたこと、つまり文化史の視点からいえば、二十世紀はこの二つの十年を「ヤマ」にした「表象批判の知の世紀」ということになると結ぶ。以下、第七章まで「ハズミがついたように五世紀もの話を一気呵成に」読み切って、しばしタカヤマ・ワールドを満喫。

☆ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(松永美穂訳,新潮クレスト・ブックス:2000.4)

 まず書き出しの数ページが素晴らしい。それこそが傑作の徴で…、などといまさら絶賛するのも気恥ずかしくなるし、評言を繰り出すのが嫌になる。言葉によって汚染される感動。だから、ここではハンナのためにミヒャエルが朗読した書名を記録するだけにしておこう。《朗読がぼくの通儀であり、彼女に対して話しかけ、ともに話をする方法だった。》──十五歳のミヒャエルが朗読したもの、『エミーリア・ガロッティ』(レッシング)、『たくらみと恋』(シラー)、『のらくら者日記』(アイヒェンドルフ)『戦争と平和』、ミヒャエルの父(第三帝国下の大学の哲学講師だったが、スピノザの講義をすると予告したことで職を奪われた)がカントについて書いた著書。ハンナの服役後八年目から恩赦が認められるまでの十年間、カセットに録音してミヒャエル(法史学の研究者になっている)が刑務所に送ったもの、『オデュッセイア』、シュニッツラーとチェーホフの短編、ケラーやフォンターネ、ハイネやメーリケの作品、カフカやフリシュ、ヨーンゾンやバッハマン、レンツ、ミヒャエル自身の著書、シュテファン・ツバイク、ゲーテ。(起訴状と判決文も朗読されるが、これはミヒャエルによるものではない。)
 本書を読みながら、グレン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』を聴いていた。四回、聴いた。いま五回目を聴きながら、本書の三部構成がとても気になってきた。生と歴史の反復(と変奏!)の形式としての三部構成?──《なんて悲しい物語なんだろう、とぼくは長いあいだ考えていた。(略)いまのぼくは、これが真実の物語なんだと思い、悲しいか幸福かなんてことにはまったく意味がないと考えている。(略)傷ついているとき、かつての傷心の思い出が再びよみがえってくることがある。自責の念にかられているときにはかつての罪悪感が、あこがれやなつかしさに浸るときにはかつての憧憬や郷愁が。ぼくたちの人生は何層にも重なっていて、以前経験したことが、成し終えられ片が付いたものとしてではなく、現在進行中の生き生きしたものとして後の体験の中に見いだされることもある。ぼくにはそのことが充分理解できる。にもかかわらず、ときにはそれが耐え難く思えるのだ。ぼくはやっぱり、自由になるために物語を書いたのかもしれない。自由にはけっして手が届かないとしても。》

☆マイケル・D・ガーション『セカンド ブレイン』(古川奈々子訳,小学館:2000.3/1998)

 副題が「腸にも脳がある!」で、本書の内容はこの一言で尽きている。著者は、セロトニンが腸神経系の神経伝達物質であることをつきとめた神経生物学者。「腸の脳」が神経症にかかることだってあり得るし、パーキンソン病やアルツハイマー病は脳だけではなくて腸神経系をも冒すのだと著者はいう。また、身体のデザイン原理を一言でいえば、「人間は中空」(T・S・エリオットの言葉)であり、このチューブは口に始まり、肛門に終わる。(このくだりを読んで、イナガキ・タルホを想起した。)その他、「腸は体表面が体内を通り抜けるトンネルなのである」とか「のどから奥は自動機械」など、あれこれ妄想をふくらませるヒントがちりばめられていた。養老孟司氏の「紹介と解説」もついていて、休日の午後をのどかに過ごすにちょうどいい読み物。

☆村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』(文春新書:2000.10)

 少し前から翻訳をしてみたいと思うようになっていた。たとえばロレンスの短編などを休日の午後、たっぷりと時間のあるときに楽しみながら翻訳することで、他人の脳を使って遊んでみたいと考えるようになっていた。その思いが少しずつ高まり、私の英語力に見合った「手頃な」素材を物色しかけた矢先、本書にめぐりあった。初級編、中級編、上級編と段階的に進んでいく(?)二人の翻訳名人の芸談義と競訳(村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳す)を憧憬と陶酔をもって読み終え、思いがますます嵩じてきた。

☆荒俣宏『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書:2000.10)

 もう何年も前、プロレタリア文学に取り組みたいと著者が語っている記事を読んだ記憶がある。ずっと心待ちにしていた。着々とやっていたのだと思うと、あれは空耳だったのかとほぼあきらめていた私としては実にうれしい。かつてプロレタリア文学の総本山をめざした平凡社の「食客」荒俣宏の(物足りなさすら感じさせる)外連のない淡々とした語り口からつむぎ出される世界は、音楽や映画とまだ未分化だった頃のエンターテインメント文学の猥雑なまでの「破天荒」さを視覚的に示しているように思った。《或る意味からすれば、プロレタリア文学とは「公共的な変態小説」「公共的なポルノ小説」「公共的なホラー小説」のことでもある。公共とは、人前でも展示し得るようにモザイクを入れたもの──処置済みの有毒物件、という意味に受け取ってもらってよい。》(223頁)

☆斎藤貴男『カルト資本主義』(文春文庫:2000.6/1997.6)

 ソニーの超能力研究と猿股修二をはじめ永久機関に群がる人々を題材とした第二章まで、読み物としての面白さと素材の組み立てのうまさは感じたものの、本書の意図がいまひとつ鮮明ではなかった。京セラの稲盛和夫を呪術師ととらえた第三章あたりから、著者の主張が明確になってくる。以下、科学技術庁のオカルト研究やEM(有用微生物群)、オカルトビジネスのドン船井幸雄、ヤマギシ会、そしてアムウェイ商法と続く「八つの物語」の叙述を通じて著者が警告を発しているのは、そこに従業員の内面まで管理しようとする徹底した企業の論理や民族主義、全体主義をもたらす道筋が見え隠れしているということだ。バブル崩壊後の閉塞状況下における日本の企業社会を特徴づける新たな「価値」体系は、ニューエージ・ムーブメントや新霊性運動といった世界的な潮流の地域的現象なのであって、わが国の歴史風土はそうした潮流と実に相性がいい。著者はそれを「カルト資本主義」と規定し、人々を思考停止へと誘うその「方便」性(それはたとえば映画『のび太のねじ巻き都市[シティ]冒険記』に出てくる得体の知れないデープ・エコロジーの「神様」へとつながっていく)を憂慮し戦慄する。
 著者の批判は全面的に正しいものだと思う。しかしその正しすぎる正しさは無力で底が浅い。この無力と底の浅さは、著者もまたその中にいる「わが国」のジャーナリズムやマス・メディアが「カルト資本主義」に拮抗しうる対抗軸や深さの次元を提示できないまま、ステレオタイプな言説を繰り返すしかないことの現れである。第一、本書の論法がそっくりそのままジャーナリズムやマスコミ産業への批判にも使えることへの「反省」が著者には一切うかがえない。そもそも「わが国」だとか「わが国の歴史風土」だとか、そんな粗雑な無定義語でもって著者はいったい何を語っているのか、私にはさっぱりわからない。ジャーナリストの生命はその「歴史観」にあると思うのだが、それはあるカリスマ的人物の人脈や経歴や隠蔽された意図などを暴いてみせることとは何の関係もない。端的にいってたとえ偽善者の欺瞞性やスキャンダルを暴いたところで、その偽善者が事実としてもつ力を無効にすることはできない。
 今日、書店で『意識が拓く時空の科学』(徳間書房)という新刊書を立ち読みした。本書でも名の出てくる湯浅泰雄氏が顧問、猿股修二氏が組織委員長を務め、ジョセフソンがオープニング・レクチャーを担当した「第2回意識・新医療・新エネルギー国際シンポジウム」(平成10年11月、早稲田大学井深大記念ホール)の記録で、茂木健一郎氏も登場する実に面白そうな書物だった。私はもともとこういう話題が好きなのだ。好きだから、本書『カルト資本主義』をこき下ろしたのではない。好きだからこそ、本書のような批判はとても大切だと思う。だからこそ、その叙述力と構成力と取材力の高さを損なう知的水準の低さが残念なのだ。志が低いのではない、「ハイテク企業に所属する科学者」が「世間でオカルトと形容されている」分野に取り組むことを「ギャップ」ととらえるその問題設定の水準が低いのだ。

☆信原幸弘『考える脳・考えない脳 心と知識の哲学』(講談社現代新書:2000.10)
☆津田一郎『カオス的脳観 脳の新しいモデルをめざして』(サイエンス社:1990.10)
☆アリストテレス『心とは何か』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫:1999.2)
☆心の科学研究会G.N.C/ひるます『オムレット 心のカガクを探検する』(広英社:1999.1)

 心は脳と身体と環境からなる大きなシステムである(信原)。脳とは「大規模ではあるが有限であり、しかも個々の要素が強く相互作用し合い歴史性を背追っているような生命情報システム」である(津田)。心とは「可能的に生命をもつ自然的物体のいわば形相」であり、「自己自身のうちに運動と静止の原理をもつ物体」すなわち身体(ソーマ)の「エネルゲイア」である(アリストテレス)。――要約してしまうとそんなところだろうか。ひるますのマンガはとてつもなく刺激的で、いきなり虜になってしまった。

☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師2 朱雀』(白泉社:1999.7)

 全十二巻が完結してから一気読むするつもりで九巻までとっておいたのに、つい手にして引き込まれてしまった。陰陽師だから面白いのか、岡野玲子だから面白いのか、マンガが面白いのか。