不連続な読書日記(2000.9)




★2000.9

☆浅田彰『映画の世紀末』(新潮社:2000.4)

 ヴィム・ヴェンダース(「奇跡の映画」)は2本、ジャン=リュック・ゴダール(「映画の奇跡」)は4本、ストローブ・ユイレ(「唯物論」)はたぶん未見、ピエル・パオロ・パゾリーニ(「墓碑」)は3本か4本。映画体験をめぐる記憶能力に著しく欠けるため、もしかしたらもう少し見ているかもしれないけれど、本書で取り上げられた監督たち――「映画の前線を考えるにあたって絶対不可欠と思われる何人かの映画作家」(後書き)――の作品にはほとんど接していない。『ショアー』も『スペシャリスト』(「政治」)もまだ断片的な映像しか見ていないけれど、そんなこととは関係なく楽しめたし、確かに「書物として書き直せば数冊分にもなるであろうアイディアが盛り込まれている」と思う。
 収められた短文や講演記録、四人のゲストとの対話中で、「政治」と題されたパーツでの鵜飼哲との対話が面白かった。鵜飼氏による「記憶と歴史」というテーマの提示(記憶=『シネマ』のドゥルーズ、歴史=『映画史』のゴダール、等々)を受けて、浅田氏はゴダールは「映画だけが歴史を語れるのだとさえ言うわけです」と述べている。「映画だけが、固有の技法としてのモンタージュ――ただし既存の用法をはるかに超えた高次元のモンタージュによって、同時進行する複数の系列の遭遇と分岐としての歴史を語ることができるのだ、というわけです。」(242頁)
 ついでに同じ対話から、印象に残ったその他の断片(いずれも浅田氏の発言)を引用しておく。「…ドゥルーズが『シネマ2』の第七章でとつぜん映画におけるカトリシズムということを言い出す。いまやわれわれは、それ自体が悪しき映画のようになってしまったこの世界を信じられなくなってしまった。この世界をふたたび信じること、とくに身体を通じて信じることが、現代の映画の重要な問題なのだ、と。それで、、ゴダールがまさにそれをやっているんだ、と言うんですね。」(234頁)「映画というのは、物語以前に、とにかく現実が映ってしまうというリュミエール兄弟的な驚きから始まる。」(254頁)――「墓碑」での四方田犬彦との対話に出てくるパゾリーニの「自由間接主観ショット」の概念も刺激的。

☆小柳公代『パスカルの隠し絵』(中公新書:1999.12)

 パスカル最初の物理学作品『真空に関する新実験』で報告された八実験はいずれも、一七世紀中頃のヨーロッパの哲学者や学問愛好家の大きな関心事「真空問題」(真空の存在証明)をめぐる叙述を装いつつ「空気の柱」(大気圧)の存在を暗示した思考実験だった。――なぜパスカルは実験報告を現在形で書いたのか、一七世紀のルアンに一五メートルのガラスの管をつくる技術が本当にあったのか、等々を詳細に分析した著者はこう断言している。「キリスト教信仰への導きの書である『パンセ』が高度のテクニックを駆使した文学作品であるように、彼の物理論文もまた、文学作品として読まれるべきなのである。」(はじめに)
 ところで、トリチェリの実験で作り出された真空(といってもそれは水銀分子の充満した空間なのだが)を「心」に、実験装置を「脳」に、そして空気の柱を「神」(別に神でなくてもいいのだが)にそれぞれあてはめて何か、たとえばスコラ哲学的な真空への嫌悪やパスカルの「身体空虚化」への恐怖(アンジュウー「パスカルにおける真空の概念の誕生」)の意義などについて考えてみることはできないだろうか。(あまり意味はないか。)

☆クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』(下中直人・平凡社ライブラリー:2000.8)

 スピノザまで、というよりデカルト以前の西洋哲学史を「復習」しておこうと思って、全15章を逆に、つまりマイスター・エックハルトやニコラウス・クザーヌスから始めてソクラテス以前の自然哲学者へと遡って読んでいった。ここに記されている事柄はいずれも中途半端に聞き知っている、というよりどこかで読んだ覚えのあるものばかりで、だから概説書を読むときに必要な慎重さを欠き、十分な時間と手間(参考文献による補足など)をかけずに一気読みしてしまったものだから、二千年に及ぶ哲学史をめぐる極めて散漫で断片的なな印象しか残っていない。それでもスピノザとの比較という「読書軸」がまがりなりにもあったので、いくつか有益な手がかりが得られたように思ったのだけれど、それも記憶の彼方に消えてしまった。(どういうわけか、たぶん同時進行的に読んでいた『映画の世紀末』の読後感が混在してのことなのだろうが、表象不可能なものの記憶と表現不可能なものの歴史、といった語句が本書を読み終えたばかりの頭のなかでとぐろを巻いている。)
 旅行者はあらかじめ持ち合わせていたものしか持ち帰らない。たしかそんな格言があった。ヘラクレイトス(からストア学派へ、そして…)とパルメニデス(からゼノンを経て原子論者へ、そして…)、ネオプラトニズムと東方キリスト教父、世界霊魂の説を唱え因果的決定論と自由意思論の矛盾を孕みやがて新プラトン主義に「吸収」されていったストア(柱廊)学派への関心など、どれもこれも以前からくすぶっていたものばかりがあいかわらず疼いている。本書を読んで、アウグスティヌスとドゥンス・スコトゥスあたりを(それから気は進まないけれど、やっぱりアリストテレスとトマス・アクィナスは)いつかきちんと押さえておかなければいけないのだろうと思った。(でも、何のために?)

☆ジョン・ホーガン『続・科学の終焉』(竹内薫・徳間書房:2000.4/1999)

 本書のエピローグに心の科学への「文学的アプローチ」の話題が出てきて、これだけでも十分な収穫だった。「ハワード・ガードナー[ハーバード大学の心理学者で教育学の教授]やクリフォード・ギアーツ[プリンストン高等研究所の人類学者]たちは、心の科学を厳密に科学的な営みではなく、文学に近いものとして見ることを奨めた。」まず、その「お手本」であるオリバー・サックスが著者に語った言葉の紹介、「自分は、本というものは一般化されたものではなく「実例」からなるべきだ、というウィトゲンシュタインの格言に従うようにしているのさ」。次いで『妻を帽子とまちがえた男』からの引用、「われわれは事例を物語のレベルにまで深めなくてはならない」。そして「事例研究の大御所」フロイト――ギアーツが「実在の人たちについて、実在の場所について、実在の時間について、想像的に書くもの」と定義した「ファクション」そのものである「事例史」の大御所、あるいはガードナーが著者に語った言葉によれば「心の最も深い秘密を扱うことが要求される種類の文学的心理学の達人」(いずれも本書第2章「フロイトが死なない理由」から)――に言及した後で、ホーガンは次のように書いている。「心の科学者の大半は、自分たちの結果を文学的な表現に置き換える才能に欠けている。もしかしたら、彼らは、自分たちのことをエンジニアだと割り切ったほうがいいのかもしれない。…エンジニアにとって大事なのは「究極の答え」ではない。絶対的で最終的で確固たる真実に用はない。…エンジニアは、究極の答えではなく、一つの答えを探すのである。身近な問題を解決したり状況を改善するのに役立つものなら何でもいい。」
 ここで、唐突に想起したのがスピノザ『知性改善論』(畠中尚志訳)85節に出てくる一文、「ただ彼ら〔古人〕は、私の知るところでは、ここでの我々とは違って、精神が一定の法則に従って活動しいわば一種の霊的自動機械〔『スピノザ──実践の哲学』の訳では「精神的自動機械」〕であるということを決して考えていなかっただけである。」その他、印象に残った箇所をいくつかいま覚えている限りでメモしておく。チョムスキーが進化心理学について述べた言葉、「ちょっぴり科学的な味付けをした心の哲学」(第6章)。本書のハイライトだと思う1994年のツーソン会議(「意識の科学的基盤に向かって」)を紹介した第8章に登場するブライアン・ジョセフソン。エピローグの最後に出てくる「心を変容させる物質」や心を「拡大する」薬――神経学者で「イルカ研究と感覚剥奪法の草分け」ジョン・リリーのケタミン(ヴィタミンK)――の話、そして「説明」と「啓示」。

☆小岸昭『十字架とダビデの星』(NHKブックス:1999.3)

 マステクトミー(乳房切除)の手術を受けた六人の半裸のユダヤ人女性の写真の紹介から始まる序文も、アシュケナージ(中東部ヨーロッパ出身のユダヤ人)の血筋を引く「半ユダヤ人」アドルノやプルーストのマラーノ性への言及とブラジルやインド(ゴア)へ離散した改宗ユダヤ人の足跡を追う旅の記録からなる第一部も、そしてベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を執拗低音としつつポルトガルのベルモンテ(美しい山)に「最後のマラーノ」を訪ねる旅を叙述した第三部も、それぞれ独特の陰影をたたえた文章で綴られた「(記憶をめぐる)フィールドワーク文学」とでもいうべき手触りを与えてくれたのだが、本書でもっとも興味深かったのはやはり、自由の人スピノザを中心に据えつつ(レンブラントもからませながら)十七世紀の「寛容都市」アムステルダムにあって「マラーノの自由思想」への不寛容主義をもって臨まなくてはならなかったユダヤ人共同体の実相を論じた第二部だった。スピノザの「内在の哲学」への、つまり大著『スピノザ 異端の系譜』(イルミヤフ・ヨベル)への格好の導きの書。

☆エディット・シュタイン『現象学からスコラ学へ』(中山善樹・九州大学出版会:1986.12)

 ユダヤ人家庭に生まれ、フッサールに学び、現象学的研究を通じてカトリック信仰へと導かれ、カルメル会シスターとしてオランダ、エヒトの修道院で十字架のヨハネやディオニシウス・アレオパギータの研究に取り組み、アウシュヴィッツのガス室で生涯を終えた。編訳者によると、エディット・シュタインは「哲学の本来の主題は、第一の真なる存在であり、それを根源的な仕方で探求するためには、哲学は神学によって、理性は信仰によって本質的な仕方で補完されなければならない」との確信をもっていたという。本書に収められた五つの論文のうち「フッサールの現象学と聖トマス・アクィナスの哲学、対決の試み」「マルチィン・ハイデッガーの実存論的哲学」「神認識のさまざまな道──ディオニシウス・アレオパギータと彼の象徴神学」の3編を概観した。以下の抜粋は『存在と時間』における「現存在」とは何かを論じたくだりから。
《人間が身体を持っていることは論議の余地がない。それについては詳しく論じられない。それに対して「魂」という語について語られる場合には、それは殆どこの語の背後には、明確な意味がないということ以上のことを意味していないとされる。このことは、ここには唯物論的な見解が伏在しているというふうに誤解されてはならない。反対に、「霊魂」(これは勿論、使われてはならない言葉なのであろうが)に或る優位が認められていることは、明確に表明されている。〔著者註:ハイデッガーが現存在の空間性について言っていることを参照せよ。〕現存在の分析が、かつていかなる霊魂論も到達しえなかったほどの明晰性を与えるのは明らかであろう。》(117頁)

☆金子務+荒又宏『アインシュタインの天使 はじめに落下ありき』(哲学書房:1991.4)

 金子氏の発言から。17世紀の哲学者ヘンリー・モアが「幽霊は四次元生物」だととなえたこと。科学史上の二つの奇跡の年、1666年と1905年。「アインシュタインが求めているのは、スピノザ的世界、いわば神の物理学なのです。」
 荒俣氏の発言から。アリストテレスの第五元素「エーテル」を宮澤賢治が「光素」と呼んだこと。エルンスト・ヘッケルの万有一元論とエルンスト・マッハの感覚要素論の「あやしい」関係。真空中の落下をめぐるガリレオの「純粋」思考実験と無重力状態をめぐるアインシュタインの(自由落下するエレベーターを使った)思考実験。「二十世紀というのは変な時代で、科学の影響が、いろんな表現に及んだ時代だと思います。無重力状態というのは、フロイトなんかが問題になってくるのですが、夢の中で人々が浮遊する。もっと一般的によく見ることができるのは映画です。」
 その他。アインシュタインが「私の仕事にとってマッハとヒュームの研究が非常なたすけになった」と書いていること。マッハとヒュームとスピノザ。ベルクソンは特殊相対性理論の理解は間違えていないようだが、彼は空間に比して時間に重きを置きすぎている、とアインシュタインが日記に書いていること。「アインシュタインの四次元時空の世界、あるいは一般相対性理論の世界は、全く視覚的ではない、と私は思います。視覚ではなくて触覚の世界なのです。触って行くとデコボコする。」(金子)「一方ベルグソンの世界は、劇場でものを見ているようだ、というイメージがありますね。たぶん考え方のベースが生物的宇宙観ですから。」(荒俣)

☆スピノザ『知性改善論』(畠中尚志・岩波文庫)

 その昔、マキアヴェリとトクヴィル、ケルゼンを「素材」にして、政治思想を論じてみたいと夢想していたことがある。スピノザがマキアヴェリを高く評価し、その全集と『君主論』の単行本を所蔵していたことを知って、素材が一人増えた。──ところで『知性改善論』は退屈だった。京都の古書店で700円で購入して、一気に読むには読んだのだけれど、すこぶる退屈だった。この退屈さはどこから来るのだろう。スピノザはわれらの同時代人なのであり、だからこの未完の著書の新しさをもはや感受できなくなっているのではないかという解釈が一つ。いま一つは、これと裏腹な関係にあるのだが、スピノザが設えた世界のうちにすむ人間には、たとえていえば進化の段階を一つ上った生物には、もはや以前の記憶は復元できないといったこと。(ちょっと違うように思うが、うまく書けない。『知性改善論』が退屈なのではなくて、この世が退屈なのだ、とでもいえばいいのか。あるいは、スピノザは「オマエハ一個ノ機械ナノダ」と告げている?)

☆中井久夫『西洋精神医学背景史』(みすずライブラリー:1999.12)

 カバー裏に「ユニークにして驚嘆すべき幻の書」とある。その一語一文が折り畳まれ濃縮された意味の坩堝で、若き著者(中山書店「現代精神医学体系」シリーズに本稿が収録されたのは1979年で、中井氏の生年は1934年)はおそらく石に刻むようにして執筆されたのではないか。一行の裏に一つの論文、一冊の本を込めようとしたとあとがきに記されている。「ギリシアは二つの顔をもっている。きわめて独自な面と、古代オリエント世界の二次的派生物という面である」に始まり、ドッズの『ギリシャ人と非理性』に準拠しつつ「被支配階級の治療が次々に支配階級の治療となる」古代ギリシャ・ローマ世界における精神治療の系譜を論じ、「最後にキリストとその使徒がローマ世界の最下層民の悪魔祓い、治療者として出現し、競合する治療神との闘争に打ち勝ち、ついにローマ帝国の国教となる」で終わる冒頭がまず素晴らしい。張りつめた緊張は最後まで持続し、巻末に付された「一九九九年の追記」──そこには「西欧医学の対抗医学としての「東洋医学」の主張者はしばしば声高に心身一元を語るが、彼らといえども「こころ」と「からだ」の二語を廃してたとえば「こらだ」のような一語をもって替えることはできないだろう」とか「結局、私たちは精神医学あるいは心理学の対象を指す単純明快なことばを持っていないのかもしれない」といった印象的な文章がちりばめられている──も含めて、これは実際、驚嘆すべき書だ。

☆大沢在昌『新宿鮫 風化水脈』(毎日新聞社:2000.8)

 三年ぶりのシリーズ第7作。絶品。組織と個人をめぐる苦渋に満ちた男たちの物語、歴史編。鮫島と晶(とママフォースのママ)が真壁と雪絵(と雪絵の母親)に、桃井が大江に重ねられ、そして深見(こと仙田あるいはロベルト・村上)が王と対比させられ、新宿の歴史の地下水脈が40年前の殺人事件を浮かび上がらせる。単品としても、またシリーズ物としても完璧な構成。とりわけ大江と鮫島とのかかわりを通してもう一つの組織と個人の関係を語らずして語る手法は秀逸で、シリーズに深みを与える。強いていえば、王をめぐる叙述にやや物語的感興が欠け、晶の出番の少ないのが瑕か。

☆ジョナサン・ラブ『ミネルヴァのふくろうは日暮れて飛び立つ』(野村芳夫・文春文庫:1999/‘The OVERSEER’by Jonathan Rabb 1998)

 COS(国務省管理委員会)工作員サラ・トレントとコロンビア大学教授で政治学者のアレクサンダー・ジャスパースとの出会いから、16世紀のベネディクトゥス会修道士によって書かれた手稿を求めてフィレンツェへ、ロンドンへと向かうあたりまでは、結構いい味が出ていたように思ったのだけれど、物語としての興奮と陶酔にやや欠けた。後半、ちょっと飛ばして読んだからかもしれない。月並みな言い方だが、悪と組織を描くのはやはり難しい。訳者はあとがきで「イアン・フレミングとウンベルト・エーコを巧みに融合した」作品とする書評を紹介し、自らは「ユニークな政治哲学ミステリーになっているのではないだろうか」と書いている。もう少しコクとヒネリが要るだろうし、肝心の政治理論がつまらいと思う。文庫本673頁中67頁の分量で、エウセビウス・アイゼンライヒ著/アレクサンダー・ジャスパース訳『至上権論』(1531)が掲載されている。訳者の「一部の方には巻末は読まないようにお願いしたい。あまりにも危険な書だから」という助言に従って読まなかった。(ひょっとすると、この「マキアヴェリを超える、究極の支配マニュアル」の中にコクとヒネリが凝縮され、作品が完結するといった趣向が凝らされているのかもしれない。)

☆田口ランディ『コンセント』(幻冬社:2000.6)

 手元の本は9月5日付けの第11刷。三月遅れで読んだ。今さら言うほどのことでもないけれど、これは紛れもない傑作だ。──と、半分ほど読んだところまでそう思っていて、その後ちょっと違うかなと一瞬だけ躊躇しかけたけれど、読み終えてやっぱりこれは凄い小説だと唸った。感動した。深い。物語の文法をきっちりと踏まえている。手放しで絶賛することの喜びを味わわせてくれる小説にめぐりあえたのは久しぶりだ。(カバーの写真もデザインも秀逸。)──途中の逡巡は、アカシック・レコードやらシャーマンやら霊視やらといったオカルトっぽい話題のせいではなくて、それは断固違っていて、むしろそういった事柄を小説の題材として織り込みながら、これほどの「リアル」が表現できるのは相当の筆力だと舌をまいている。(第一、感応は官能だなんて、そんな科白でもって読者を、つまり私のことだが、納得させてしまう力量の持ち主はざらにはいない。)そうではなくて、謎めいた兄の死の意味を探っている主人公(朝倉ユキ)の意識の矢がいつか自分自身へと向かっていくその転換点、本書のキーワードの一つを使えば「変換」の瞬間を見逃してしまっていたからなのだと思う。もしかするとこれは、あの『シックス・センス』みたいに、ネタをばらすわけにはいかない種類の作品なのかもしれないのだけれど、友人の本田律子がユキに「コンセントは、あんた自身なんだよ」と言うあたりでやっとそのことに気がつくという迂闊さ。
 読後、すこし冷静になって(別に冷静になどならずともよかったのに)ふりかえってみると、本書には過剰がある。たとえば、いずれもユキが好感を抱く三人の男たちのこと。「他人にとって仏様は物です」と語るプロの葬儀屋と「人間の体って、死なないんですよ」と語る清掃会社の美しい青年、そしてどこか機械を思わせるところがあって「未来は過去の相似形や」と(なぜか関西弁で)語る精神科医山岸峰夫。あるいは、ユキの職業が金融機関のフリーライターであること。ハードディスクやOSといったコンピュータ用語が頻出するのは解る。が、なぜ株、相場なのか。「よく聞かれる質問だ。株って面白いの? 面白いに決まっている。この世界の裏側を動かしているシステムなのだ。」「相場って動かしているのは男なのに、ヒステリックな女みたいに感情的なの。」(4頁)──「世界は感情でできている。」(257頁)──「ずっとヒステリカルな動きを示していた相場が、だんだんと、ある全体性をもち始めているような気がした。…お金の世界が変わりつつある。それは人間が変わりつつあるということと同義なんだろうか。/人間の心のヒダに分け入って、過去のトラウマを分析している人はもちろんこんなことを知らない。…/世界はパラレルに存在している。どこかで、誰かが世界を支えている。何らかの役割を担って。いや、違うのかもしれない。誰もがどこかの世界に属し、何らかの力を発揮して、それぞれに世界を支えているのかもしれない。ある者はお金で世界を支え、ある者は魂を送ることで神話的世界を支えているのだ。」(207-8頁)

☆黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ:2000.9)

 著者は──第一版での、悟性(自発性)にも感性(受動性)にも属さない「第三のもの」としての構想力の位置づけを決定的に変更した──『純粋理性批判』第二版から最晩年の『オプス・ポストゥムム』にいたるカントの道は「思想的退化」であったと書いている。《カントは…『純粋理性批判』で開示した力動的(ダイナミック)な真理観の展開をとざし、再び、固定的な体系による真理観へと退歩していったのである。》
 著者は続けて、ニーチェの文章──《真理とは、それなくしては特定の種類の生物が生きることができないような一種の誤謬である。》(『権力への意志』)──に即して次のように書いている。《ニーチェによれば、生物としての人間が安定した生を営むためには、世界は生成変化しているものであってはならず、固定的で堅固なものとして表象されなければならない。しかし、このように表象するのは、生にとって有益であるからであって、それそのものが「真理」だからではない。/ニーチェの表現は多分に生物学主義的ではあるけれども、カントがかいま見、そこから退避しなければならなかった〈新たな〉真理の本質を明確に表現しているように私には思われる。》