不連続な読書日記(2000.5〜2000.8)



★2000.5

☆竹内薫+SANAMI『シュレディンガーの哲学する猫』(徳間書店:1998.12)
 小林秀雄の「理論物理学的思考」がとりあげられていたので購入し、ハイデガーと小林、大森荘蔵、廣末渉、そしてウィトゲンシュタインの章を拾い読みして、この本のどこが「快挙」(筒井康隆評)なのか理解できずに放置していた。ところが連休の暇つぶしに全体を通読してかなり印象が変わった。竹内執筆分とSANAMI執筆分をそれぞれ哲学ジャーナリズム(あるいは哲学者やその著書との出会いをめぐる私小説的ノンフィクション)とSF的哲学日記として独立させ加筆すると結構面白いものになると思う。

☆小池寿子『死を見つめる美術史』(ポーラ文化研究所:1999.10)
 図版を充実させた色彩鮮やかな美術書のかたちで読みたかった。印象に残った言葉──墓と都市と水(海)。

☆養老孟司+村上和雄+茂木健一郎+竹内薫『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』(徳間書店:2000.3)
 インタビューの部分が過剰なまでに面白い。とりわけ「怒れる養老孟司」が感動的なまでに圧巻(対談時、風邪をひいていたらしい)。科学もまた人なりということ。タイトルに出てくる「VS.」の意味はとても深くて重層的。
 心にとどめておきたい箇所が(無尽蔵といっていいほどに)ちりばめられている。たとえば「遺伝子の研究と精神世界のコーディネーター」を志す村上氏のサムシンググレート論。漫画文化は漢字文化である(絵とふきだしの関係は、漢字に対するルビである)とか、脳という情報系が機能する場は社会であるとか、あるいは、変化してやまない存在と普遍で永続的なものをめぐる二組の対比──脳と表現(繰り返し可能な情報、言葉)、細胞と遺伝子(固定した記号)──を踏まえて、《…僕は最近、人間の脳の進化って、結局そうやって外に出されてきて固定していった表現の総体にアダプトできる脳とアダプトできない脳を、選別してきた過程じゃないかという気がしている。》《脳は、遺伝子から独立しかかっている。》と語る養老氏。
 そして、茂木氏の議論。──人間の心の中には二つの性質の異なる要素がある。一つは「クオリア」という鮮明な質感(赤の赤らしさ)に満ちた世界で、もう一つは抽象的な世界、たとえば時間の流れの感覚は抽象的な感覚であって、これを「志向性」という。クオリアは人間の心の特殊な性質によるものではなく、世の中にあふれている。関係性でクオリアが出てくるなら、ニューロンの関係性でなくてもいいような気がする。クオリアは私の中心にあるのではなくて「私」と外の世界との境界にある。私の中心にあるのは、そして人間に特別なのは志向性の方であり、その志向性はクオリアに向かうだけでなく私の中の無意識(発話プロセス)にも向かっている。クオリア(質感)は「女性」的で志向性(言葉、ロジック)は「男性」的だ。そのほとんどがこれまで繰り返し読んだ著書に書かれていることばかりなのだけれど、そのたびに新たな刺激を受けるし、少しずつ内容が豊かにかつクリアーになっていく。
 養老・茂木の議論と斎藤環氏の議論(たとえば『文脈病』その他での原抑圧と解離の対比、解離型ヒステリーとしての多重人格をめぐる議論、あるいはフロイト−ラカンの心的組織論?)を接続してみるときっと面白いと思うが、これは今後の作業。──変化してやまないもの・繰り返しがきかないもの(脳と細胞)=「隠喩」的な運動(生命)=不連続性=志向性(主観性)。普遍で永続的で繰り返し可能なもの(表現=情報とDNA=記号)=「換喩」的な全体性=連続性=クオリア。(東方的三一論対西方的三位一体論、そして唯名論対実在論とも関係づけることができる?)

☆柄谷行人・中上健次『小林秀雄を超えて』(河出書房新社:1979)
 柄谷の小林秀雄論「交通について」を読み直したくなってほぼ二十年ぶりに再読した。柄谷氏によると、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で「生産」や「分業」とともに戦略的に使用した「交通」(Verkehr)という語は、交易、コミュニケーション、生産関係、戦争を意味している(英訳の intercourse には性交の意も)。──柄谷節を一つ引用しておく。《しかし、パスカルが「私はなぜここにいて、あそこにいないのか」と問うたとき、いいかえれば、事実としてここにいることに驚いたとき、彼は近代物理学の「均質な空間」を前提していたのである。同様に、歴史の一回性・偶然性が驚くべきものとなるのは、歴史を構造論的な組みかえにおいてみるマルクスの視点においてのみである。》
 対談「小林秀雄を超えて」では、中上氏の物語論や関西語の音韻変化、東洋音楽の音階と私小説の文章をめぐる話と柄谷氏の自然科学をめぐる発言──《たとえば、自然科学者にとって、「交通」は当り前のことで、たえず相互的な関係と蓄積の上で仕事をしている。》──が面白い。ちなみに『可能なるコミュニズム』で柄谷氏は次のように発言している。《たとえば、近代科学の特性は知識の公開性にあるわけですね。(中略)近代科学の原則から言えば、人類が獲得した知識は人類が共有すべきであって、それがコミュニズムです。》《…公開的、パブリックであることは権力に対抗する唯一の方法であると思います。》
 任意にノートに書き抜いた断片を、以下、文脈を無視して転記しておく。まず柄谷氏の発言から。──《本を読むのはこちらが考えるためであって、こちらを考えさせないものはだめなんだ。》《…それは「自意識」の問題なんかじゃなくて、言語の問題なんだ。…マルクスは、ドイツ語という世界から出たんだ。文字どおりそこから出たんだよ。》《僕は徹底的に唯物論者です。唯物論しか方法はないんだから。》《…分業と交通のシステムの自然成長的な発展しかない。いうならば、それは分業化(分化・差異化)として自然史をみることであって、先験的に「人間」とか「意識」なんかから出発するかぎり、プラトニズムなんだよ。マルクスの唯物論はそういうもので、ぎりぎりのところから出てきているんです。》《小林秀雄がなぜ夏目漱石を敬遠したのか。夏目漱石は交通を知っており、科学を知っており、唯物論者だったからです。》《武田泰淳の仏教というのは、彼の言葉で言えば物理学だ。》《…メタファーというのはいわばできごとなんだ。文あるいは言述の中でしかメタファーはない。それはできごととしてある。》《それはいつも恣意的なものの必然化なんでね。》《…小林秀雄が、歴史というのは、母親が死んだ子を思い出すことだというのがあるだろう。その反対に、子供の側から見てもらいたいんだよね。》
 中上氏の発言から。──《文学より物語の方が、恐いんですよ。ちょっと考えてみても物語とは肉を斬らせて骨を斬るというように文学すら取り込んでしまうような法、制度でもあるんです。》《…物語というものに批評はあるかと考えれば、批評という物語があるだけで、それは物語をずらす物語という事と一緒になると思うんです。》《…数理とはつまりモーツァルトなんだね…》《…物語を超えるというのは交通しかないんですよ。》《日本語という交通の痕跡の強い言葉があるから、近代になって進歩出来たというパラドックスを小林秀雄は分かっていない。》《親は、その偶然性を必然性であったように存在する。》

☆キルケゴール『反復』(桝田啓三郎・岩波文庫)
 その昔、村瀬学著『新しいキルケゴール──多者あるいは複数自己の理論を求めて──』(大和書房:1986)で「二重人格あるいは自己複製論」という副題を添えて作品解読を試みた文章──『反復』はポーの『ウィリアム・ウィルソン』と同じ主題を作品化したもので、その主題とは「二重人格」、それも病理現象としてのそれではなく「自分を複製[コピー]する自分」としての二重性の主題(自己複製論)である、作中人物「青年」は『反復』の匿名の著者コンスタンティン・コンスタンティウス(ポーの作品名と同様に「反復」する名をもつ)の分身[コピー]あるいは創作として描かれている、反復とは写し[コピー]である、等々──に接していたく刺激を受け、いくつもの書店に足を運びようやく訳書を見つけて読んだことがある。実をいうとその時はいま一つ腑に落ちなかった(小説としてはあまり面白くなかった)し、今回十数年ぶりに読み返してみても読中読後の印象はそれほど違わなかったのだけれど、それでも(「思想」を伝達する作品として読んだ場合)いくつか興味深い素材を入手できたと思う。以下、「実験」と「反復」というキーワードに沿って(暫定的に)メモしておく。
 まず、作品の副題「実験心理学の試み」について。訳者によると、ここでの重点は「実験」にある。《ここに実験と言われているのは「伝達形式」のことで、キルケゴール独特の「間接的伝達」の一つである。…著者が読者との間に実験という介在物を置いて両者を引き離し、飛び越えることのできない深淵を設けて直接に理解し合うことを不可能にする。だから伝えられる真実は実験を介して間接的に理解するよりほかに手だてがなくなる。》そして、喜劇的あるいは悲劇的なさまざまな生き方の根底にある心の動き、そういう生き方に表現されている人間心理の種々相すべてが材料として実験(観察)の対象たりうる、というのだ。この訳注に出てくるキルケゴール独特の「間接的伝達」とはソクラテスの魂の助産術、キルケゴールの表現でいえば相手を真理の中へと瞞しこむことをいうのだろうが、これは学位論文『イロニーの概念』で論じられた「ソクラテス問題」とからめて考えなければならない。
 村瀬氏によれば、ある出来事・事件・現象・生成、すなわちある生起X(たとえばソクラテスやイエス、あるいはカフカの「城」)をめぐって、「わたし」(キルケゴール)は今それを「何か」と
して、つまりXを「間接的」にさし示す複数の対象An(たとえばクセノポンが記録した「分別くさい現実主義者ソクラテス」やプラトンによる「イデーを求める哲学者ソクラテス」やアリストパネスの「可能性の中へ浮き上がるソクラテス」、ルカやマルコやマタイの福音書、あるいは測量士Bが手に入れる様々な城の情報A1、A2、A3、…)を介してイメージされる「何か」として感じているのだが、しかしそのような対象Aをいくらつみ重ねても決して生起Xそのものには達し得ない。むしろAの総体(ことば、記号)が在ってはじめてXが在るのであって、Xそのものなんていうものは存在しないというべきなのだが、私たちは歴史上のある時点からXをAに置きかえ、そのAとXを同一視するとりちがえをしてきた。この「とりちがえ」の自覚形態が「イロニー」である。それは「一つの対象[X]のように見えるものが実は常に対象[A1、A2、A3]の複合体であることを問題にする意識形態」をさしており、現代では「差異」という語でもって語ら れる問題意識と共通のものである。ソクラテスとはそのような「一=多」のイロニーを「生身」そのもののあり方として「直接性」において生き、他者に対して自分を一者(X)としてではなく多者(An)として現わした「生きられるイロニー」(無知の知)なのであって、そのような一が多であるような現象を「理解」しようとすると、それは「意識される一と多の関係」を問う弁証法、すなわち「技術としてのイロニー」を発生させる。《『イロニーの概念』は、この弁証法なるものの発生源をしっかりと把握している点においてもすこぶる重要な作品なのである。》
 ここで「X(ソクラテス)−An(プラトン他)−B(わたし)」(あるいは「イエス−聖書−信者」)と定式化される「ソクラテス問題」を「現代の思想界の様々な問題意識」と対比させた村瀬前掲書の表から、任意にいくつかの組み合わせを抜き書きしておく。「イデア−像−(村瀬氏は第三項を空白にしているが、キルケゴールが自らを「イデーに仕えるスパイ」と称したことを踏まえるならば、ここに「スパイ=観察者=実験者」をあてはめることができる?)」「事実−マスメディア−受信者」「現物−記号−受け手」「ゴジラ−物語−読み手」「品物−商品−消費者」「物−広告・売り手−買い手」「実像−伝達−知り手」「真実−媒介−知り手」「真理−解釈−知り手」「世界−教師・ことば−弟子・生徒・聞き手」。──これらを抽象化すれば「生成−媒介(超越)−存在(被造物)」(あるいは「直接性−媒介性−間接性」?)となるのかもしれない。もしこの定式が正しいとすれば、キルケゴール自身の定義によって、ここに出てくる中間項「媒介(超越)」こそが「反復」である。(これは単なる思いつきにすぎないのだが、ヘーゲルの論理学の体系でいえば、「生成−媒介−存在」は「概念論−本質論−有論」になるのだろうか。ついでに書いておくと、「生成」の項に「生きられるイロニー」を代入した場合、正確には「(生成−媒介−存在)−媒介−存在」となるはず。)
 ちなみに、上記の定式で第三項を「存在(被造物)」としたのは、たとえば消費者の頭の中に品物の価値(村瀬氏がいう「何か」)が意識される、といった事態を想定したからで、この価値とは「商品」に媒介されたもの、つまり交換価値=貨幣価値にほかならないのだから、「X−An−B」とは実は「価値形態」のことだったのかもしれない。今日では商品とは大量生産物=複製物すなわちコピーにほかならないのだから、消費者(B)は商品化されたコピー(An)の購入という具体的かつ反復的な交換行為を通じて何かしら普遍的かつオリジナルな価値(X)の存在を(貨幣による媒介作用によって、いわば無意識的に)推論している、などということができるのかもしれない。
 ここでいう「価値」を「意味」におきかえれば、上に述べたことは言語表現に、というより「文字」を媒介とするコミュニケーション過程にそのままあてはまるだろう(「かつて音声によって語られたイエスの言葉−使徒たちによって文字化されたイエスの言葉−信者の魂のうちに反復されるイエスの言葉」)。「文字」は単なる「記号」ではない。だから「コミュニケーション過程」はシャノン流の情報伝達過程ではない。イエスの言葉が担う「意味」はこの世界に属してはいないのであって、イエスの言葉を解読する「コード」というようなものは「コミュニケーション過程」に組み込まれてはいない。ソクラテスの「無知の知」のように、私を私たらしめる根拠や商品の価値や文字の意味などはどこにも存在しない。それらは無意識のうちに、あるいはマルクスが「価値形態」と名づけたものと相同なプロセスを通じてただ伝達されるものなのであって、これが「間接的伝達」の実質にほかならない。
 それでは、本題にもどって『反復』における「実験」とは何だったかを考えてみると、まず作品の構成のうちにその手がかりが示されている。『反復』は、偽名の著者コンスタンティン・コンスタンティウスの手記からなる前半部と「青年」の手紙を中心とする後半部、そして再び偽名の著者による「わたしの親愛なる読者よ!」の呼びかけではじまる後書の三つの部分からできていて、後半部の初めには作品名と同じ「反復」という見出しが、終わりには「この書のほんとうの読者/NNさま/侍史」(訳注によると、NNとは Nomen Nescio [その名をわたしは知らない]もしくは Nomen Nominandum [いつか呼ばれるべき名]の略)と記されている。そして、この入り組んだ構成をもつ『反復』をはさんでキルケゴールと読者(「ほんとうの読者」でも「親愛なる読者」でも、ましてやレギーネでもない読者?)が対峙しているわけだ(「キルケゴール−コンスタンティン・コンスタンティウス−青年」「キルケゴール−『反復』−読者」等々)。
 いまひとつの手がかりは前半部、反復を求めて再びベルリンへ到着したコンスタンティン・コンスタンティウスが長々と繰り出す芝居談義にある。これは村瀬氏も引用している箇所なのだが、たとえば次の(ほとんど多重人格=解離性同一性障害を思わせる)文章。《多少とも想像力をもった青年なら、一度は芝居の魔力にとらえられたことがあるにちがいない。あの人工的な現実のなかへ自分もともにまき込まれて、まるで二重人みたいに、そこでもうひとりの自分自身が動くのを見、語るのを聞き、自分自身を自分自身に可能なだけのあらゆる種類の人物に扮装させ、しかもそのどれもがまた一個の自己であるというふうであってみたいという願いをいだいたことがあるにちがいない。》(54-5頁)
 村瀬氏は、反復されるのは「聖書の出来事」だと書いている。過去のもの(旧訳)であると同時に未来(新訳)でもあるといった二重の性格を負わされている「聖書」は預言(旧訳)であり預言の成就(新訳)なのであって、このように物語(聖書)が地上(現世)にそのままくり返される事態が「反復」だという。そして「聖書」そが媒介=反復だったというのである。そうだとすると、実験とは、それも「実験心理学」とは、聖書の出来事を心的組織(無数の自己=コピーのフラクタルな複合体──プラトンが「国家」と呼んだもの?)のうちに反復させる──まず表徴としてコピーし、その後にオリジナルなものの「受肉」をうながす──文学的な試み(作中人物の創造)のことである、などということができるのだろうか。(ここまで来ると、キルケゴール、ドストエフスキー、ついでたとえばジイドといった系譜をあげつらってみたくなる。)
 最後に「反復」をめぐる若干の定義めいた文章を抜き書きしておく。
《反復と追憶は同一の運動である。ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする。》(8頁)
《反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。近世の哲学に多少とも通じており、かつ、ギリシアの哲学にもまったく無知でない人なら、この範疇こそエレア派の学徒たちとヘラクレイトスとの関係を説明するものであり、誤って媒介と呼ばれているものが、実は反復のことであるのをわけなく理解するであろう。》(44頁)
《エレア学派は「存在」Sein を、ヘラクレイトスは「生成」Werden を主張するのであるから、この両者の関係を、ヘーゲルのように「媒介」でなく「反復」によって説明するということは、「反復」ということが、哲学史におけるもっとも重要でもっとも困難な「存在と生成」の関係を解く鍵であるとキルケゴールが見て、これを解こうと試みていることを示している。》(訳注223-4頁)
《近世哲学は少しも運動をしない、一般に空騒ぎをするばかりだ、そしてもしそれが運動をするとしても、その運動はつねに内在に終始する、ところが、反復は超越であり、またどこまでもそうである。》(116頁)
《「反復」の語は用いられていないけれども、反復の問題は、キリスト教における「贖罪」の問題としてすでに早くからキルケゴールの思索の対象となっていたのであった。》(訳者解説319頁)
 補遺として、塩川徹也氏の「虹と秘蹟」(現代哲学の冒険6『コピー』岩波書店、所収)からの一説を引用。
《旧約聖書によって伝えられる人物、事件、制度などが、やがてキリストの来臨において開示されるより高い「実在」を、あらかじめ象徴としておぼろげに表現していると考えられる場合、それらは表徴[figura,figure]と呼ばれる。(略)表徴は来るべきものを予告する点において、預言と相通じているが、預言は言語による予告なのに対して、表徴は像ないし徴の役割を担う事実による予告である。(略)…表徴論は、イデア論の系列に連なる思想であると言ってよい。しかし祖型的に考えられたイデア論において、オリジナルとコピーの関係は、時空を超えた・非物体的な・永遠の実在であるイデアと、感覚的世界の個物の関係であるが、表徴が写し取りつつ指示するオリジナルは、キリストの来臨によって実現するはずの事態である。オリジナルは論理的観点からすればコピーに先行するが、表徴においては、コピーがオリジナルに時間的に先行する。しかもここでオリジナルとなるのは、時空を超えたイデアではなく、イエス・キリストの受肉によって時のただ中に出来する出来事、その限りにおいて個別的な事柄なのである。》

☆柄谷行人編『可能なるコミュニズム』(太田出版:2000.1)
 柄谷行人(『トランスクリティーク』結論部)、西部忠(〈地域〉通貨LETS 貨幣・信用を超えるメディア)両氏の論文を先月読んで、残りを今月になって読み終えた。(この本と、同じく先月その前半を読んだ『エンデの遺言』や 岩井克人氏の新刊『二十一世紀の資本主義』あたりを参考書にして、友人、知人と勉強会を立ち上げることにした。とりあえず「情報・経済文化研究会」と大きく名づけて、情報システムとコミュニティ経済といったテーマで一年間やってみる。すべての根っこにエネルギーありということで──エネルギー生産消費協同組合としてのアソシエーション=社交体?──「エネルギー・精神・情報・経済文化研究会」などといきたいところだけれど、それはまあ今後の話。)
 印象に残ったこと。──その一、夢の思想と夢の作業、あるいは価値実体と価値形態。まず柄谷氏が、フロイトが『夢判断』で夢の思想と夢の作業を分けていることを踏まえて、夢の思想として語られている事柄(尖ったものはペニスの変形だなど)には疑問を感じるけれど、とにかく一定の「思想」を想定しないと、それがどのように変形されるのかという仕組みやプロセス(ラカンのいう圧縮と置換、メタファーとメトニミーなど)が分析できないのであって、価値形態とはいわばそのような仕組み(dream work)のことである、と述べる。これに対する山城むつみ氏の「懐疑」。《価値実体[労働時間:引用者註]は価値形態の結果であって原因ではない、それをあたかも実体が最初からあるかのように思うのは遠近法的倒錯である。ただ実体がまずあるものとして、叙述しないと分析できないからマルクスは叙述の必要上、価値実体論を最初においたのだというようなアクロバティックな読み方はそれはそれで見事だとは思いますが、僕は懐疑的です。僕はもっと素朴な読み方がないかと思います。(以下、略)》(203頁)
 その二、二つの抽象力と無意識。山城氏の論文「生産協同組合と価値形態」に「思考抽象」(意識のレベルで思考が行う抽象)と「実在抽象」(社会的存在のレベルで、すなわち当事者の意識の外部で無意識的に、たとえば商品交換という行為そのものが行う抽象)という言葉が出てくる。これはゾーン=レーテル(『精神労働と肉体労働』合同出版)が提起した概念で、スラヴォイ・ジジェクはこの「実在抽象」という概念からラカン的な無意識の概念を引き出している、のだそうだ。
《マルクスは、価値に交換価値という印を押し、労働に抽象的人間労働という印を押しているものがどこにあるのか、その場所を特定している。交換行為である。交換行為のなかにこそ、価値を使用価値から抽象して交換価値たらしめ、労働を具体的有用労働から抽象して抽象的人間労働たらしめる抽象力が働いている。/それは、当事者が頭の中で意識的に行う抽象ではない。交換するという行為そのものが、いわば手で無意識的に行なう抽象である。》(263頁)

☆村上春樹『若い読者のための短編小説』(文藝春秋:1997)
 ここで取り上げられた六つの短編小説は、『神の子どもたちはみな踊る』の六つの連作小説と関連づけて考えることができそうだ。デタッチメントからアタッチメント、ディソシエーションからアソシエーションへ、そして複数世界へ?

☆斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書:1998)
 ひきこもりは悪循環の「システム」である、そこから独力で抜け出そうとするのは靴紐を持って自分を引き上げようとするようなもの(ベイトソン)だという指摘が妙に心に残った。それから成熟をめぐって外傷と感染をパラレルに論じた箇所。──村上春樹が『短編小説案内』で示した「自我−自己−外界」の図と、本書の「個人−家族−社会」の社会的ひきこもり模式図との関係。

☆新宮一成『夢分析』(岩波新書:2000.1)
 実に深いし、新しい思考へのたくさんのヒントがちりばめられた書物。新宮氏の文章はいつも素晴しい。(この書物を映画論として読むとしたら?)

☆アンドレ・ジイド『贋金つくり』上下(川口篤・岩波文庫)
 たとえばゴダールが映画化したら?

★2000.6

☆保坂和志『〈私〉という演算』(新書館:1999.3)
 いつか書いてみたいと夢想していた傾向の作品がおそらくすでに書かれているに違いないという予感があって、気になりながらもあえて入手せず、思わず購入してしまった後も禁欲してほんの一、二篇しか読まなかった。某夜、つい手にとって最後まで読んだ。「思考のかたちとしての九つの小説」とある帯のコピーがすべてを語っていて秀逸。著者が現在『世界』に連載している文章も、いずれ読むことになるだろうと思う。

☆野矢茂樹『無限論の教室』(講談社新書:1998.9)
 暇つぶしに読み始めたら引き込まれてしまった。(もうひとひねりすれば、保坂和志の「思考小説」のポリフォニー版になると思う。この二人の対談を読みなおしておこう。)以下、思いつくまま。──可能無限の立場(有限主義)がこれほどおもしろいものだとは、本書を読むまでうかつにも考えたことがなかった。(そういえばたしか、実無限対可能無限はウィトゲンシュタインに「哲学」を再起動させた問題だった。)──背理法もそうだけれど対角線論法は「時間」をはらんでいる、というか遡及効(今村仁司氏がいうバックワード・エフェクト)をもった論法だ。ところがトートロジーによる証明では時間が生じない。(有限と無限の質的差異を接続するものとしての時間=生命=意識?)──実在しないけれどリアルなもの(実無限の立場に立つ数学者にとって)としての無限。(本書の隠し味として、意識の問題と無限集合論の議論との関係が見え隠れしている。)

☆多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫:2000.6)
 最近、映画のことが気になってきて、読み直さなければと思いはじめていた矢先に出版された。こういうときは勢いで読んでおかなければ、せっかく向こうから送られてきたサインを見落とすことになる。で、今回の収穫は、触覚的と視覚的という二つの知覚の対比。

☆小泉義之『ドゥルーズの哲学』(講談社新書:2000.5)
 とりわけ『差異と反復』をめぐる第1部がすばらしい。反生命主義的生命論の摘出?──それにしても、小泉氏の文章にはつねに過剰なもの(ルサンチマン?)がある。

☆野町啓『謎の古代都市アレクサンドリア』(講談社現代新書:2000.2)
 フィロンのことが書いてある第5章を読みたくて買っておいたもの。アレクサンドリアはほんとうに魅力的な場所だ。

☆富岡多恵子『ひべるにあ島紀行』(講談社:1997.9)
 ジョナサン・スイフトをめぐる文章と、冬の国(ひべるにあ)の西の島(アラン島)での滞在記(ケイあるいはK、ケルトの紋章=生活の象徴化をデザイン・ソースにするハンナとの語らいなど)、架空の国ナパアイのこと、浪之丞やらユリオやらアメ太郎とのこと──およそ四つの世界が、それこそケルトの文様のようにからまり、ユーラシア大陸の極東と極西、過去と現在が、それこそケルトの組紐のようにあざなわれていく。(しかし、ただ、それだけのこと。最初のうちはよかったのだけれど。)

☆養老孟司編『脳と生命と心』(哲学書房:2000.4)
 養老孟司教授と有限会社養老研究所主催の第1回養老孟司シンポジウムの記録。養老孟司のまえがきとあとがきだけでも十分に価値がある。対談では、茂木健一郎vs.澤口俊之の応酬と郡司ペギオ幸夫の「わからなさ」をめぐるやりとりが面白かった。──「書評」を書いたので、添付しておく。
 脳や生命や心をめぐる現象と認識について考えるとき、「from soup to nuts」という語句が威力を発揮するのではないかと思う。たとえば、茂木氏の志向性の概念を「from 〜 to 〜」と、クオリアを「〜」とそれぞれ対応させ、計見氏のいう肉体もしくは内臓(「こころ」とその枕詞である「むらぎも」の語源がともに内臓の意をもつことから)や団氏の「物質の雑音状態」等々を「soup」に、そして郡司氏、池田氏が論じている記号(郡司氏の場合はサインでなくシンボル)や団氏の「生命=安定状態」等々を「nuts」に関連させることで、本書全体のラフな見取図が描けそうだ。
 あるいは、質料から形相へ、可能態から現実態へ、普遍性から個別性へ──そしてギリシャ語の「ヒュポスタシス」(サブスタンスにつながる「実体」の意味とともに「固体と液体の中間のようなどろどろしたもの、濃いスープ」の意味をもつ)からラテン語の「ペルソナ」へ(坂口ふみ著『〈個〉の誕生』参照)──などと読み替え、これを、素粒子は豆を煮たスープのようなもので、それを観察すると煮る前の豆に戻る云々と天外伺朗氏が語っていたこと(茂木氏との共著『意識は科学で解き明かせるか』)と組み合わせることで、天外氏の比喩がもつ遡言的かつ反エントロピー的な含意も含めて、本書のもう一つのテーマである「物質の問題」(松野氏)を考える上で欠かせない視点が導かれる。
 さらにいうと、その経験の確立に時間を要し、つまり再現性が弱く、いいかえれば一回性や個人性の要素が強く、したがって同一性の特定が困難な触覚的知覚を「soup」に、本来触覚との協働を抜きにしては考えられないにもかかわらず、いったん成立すると身体性から抽象され、無時間性や再現性や反復可能性や公共性が強くなる傾向をもつ視覚的知覚を「nuts」にそれぞれ置き換えてみることで、分量・内容ともに本書の骨格をなす茂木氏と郡司氏の二つのセッションを架橋する軸をしつらえることができそうだし、本書のハイライトの一つ
である澤口氏と茂木氏の応酬がもつ意味を解き明かすヒントが得られそうに思う。もっとも、編者による簡潔にして要を得た総括が示されているのだから、これ以上、言葉遊びに類する駄弁を重ねるのは控えたい。
 それにしても養老氏の「まえがき」と「あとがき」は感動的なまでの刺激に満ちたもので、討議を終えて興味をもった根本的な問題として氏が綴る文章──「たえず変化していくものとしての生物というシステムと、それ自体は変化しないという性質を持つ情報とが、どのようにして関係しているか」──の含蓄を吟味し玩味するためにこそ、本書は熟読されるべきである。(これは私の直感が語らせる蛇足にすぎないのだが、養老氏がいう根本的問題は「神」や「聖性」の問題へとつながっていくのではないだろうか。)

☆アラン・ソーカル/ジャック・ブリクモン『「知」の欺瞞』(田崎晴明他・岩波書店:2000.5)
 ソーカルたちが本書で企てている二つのこと──つまり人文・社会科学系の著者たち(というよりポストモダンの思想家たち)の数学や科学的概念の濫用の指摘と認識的相対主義批判──は、実のところまったく別の事柄なのではないか。(ついでに書いておくと、曖昧な文章への批判もこれらとはまた別の次元の話だと思う。)ソーカルたちが本当に試みたかったのは「エピローグ」にあるポストモダニズム批判なのであって、そのためにこれほど延々と引用と揶揄を重ねる必要はなかったのではないか。(ついでに書いておくと、数学や物理学の概念が間違って引用されているとしても、そのことと文章が意味不明あるいは無内容であることとは、これもまた別の話だと思う。)そして「はじめに」に記されている著者たちへの批判はほとんどあたっているのではないか。これに対するソーカルたちの反論にはあまり説得力がないのではないか。付言すると、パロディであろうが贋作であろうが、いったん公にされ読者に受容された論文はもはや著者の思惑を超えたものだ。たとえ、後になって『知の欺瞞』に書いたことはこれもまたパロディだったとソーカルたちが明かしたとしても、だからといってこの書物の価値が減ずるわけではない。
 と、否定的な書きぶりに終始したものの、最終的にはソーカルの努力に一票。(だからといって、たとえばドゥルーズやガタリの面白さがいささかなりとも減ずるわけではないし、精神とトポロジーにはなんの関係もない等々とソーカルたちが論証もなく決めつけているのに対しては、岡潔がかつて語ったという、数学は自然科学の粋ではない、精神科学の粋なのだ云々という言葉がいやがうえでも重くかつすがすがしいものに思えるとだけ遠吠えておこう。)

☆松岡正剛『知の編集術』(講談社新書:2000.1)
 出版後すぐに購入したもので、ようやく読む時間がとれた。松岡正剛さんの本はほんとうはどれも凄いのだけれど、なぜかいずれも一見凡庸な形でこの世にあらわれる。本書で印象に残った言葉(使えそうだと思った言葉)を一つだけ記録しておくと、ステレオタイプ(典型性)とプロトタイプ(類型性)とアーキタイプ(原型性)。──これらと古代ギリシャ劇の三つの技法、アナロギア(類推)・ミメーシス(模倣)・パロディア(諧謔)とは関係するのだろうか。

 
★2000.7

☆中沢新一『バルセロナ、秘数3』(中公文庫)
 ある時期から中沢氏の熱心な読者ではなくなってしまったけれど、それでも時折、いま何を考えているのか気になることがある。1990年の刊行だからずいぶんと前の本で、これが出た当時はほとんど関心をもてなかった。10年経って読んでみて、空虚で明晰でどこか幼児的な情緒を懐胎した青空、といった語彙が浮かんできた。

☆奥本大三郎『博物学の巨人アンリ・ファーブル』(集英社新書:1999.12)
 気持ちのいい読後感。世の中には昆虫少年と鉱物少年がいて、と感想を書き初めてはみたけれど、後が続かない。集英社新書創刊10冊の中から「記念」に買っておいた二冊のうちの一冊。(他の1冊は佐藤文隆著『物理学の世紀』で、これは昨年のうちに読んだ。)

☆斎藤茂太『脳を鍛える50の秘訣』(成美文庫:1997.4)
 ここ二月ばかり、何かと気ぜわしく、体力も気力も枯渇して、まともに本が読めなかった。そこで、がちがちに固まった頭をほぐすため読んでみたのだけれど、期待以上によくできた本だった。品川右脳俳句以来。

☆ウィン・ウェンガー『頭には、この刺激がズバリ効く!』(渡辺茂・三笠書房)
 ここに書かれていることはほとんど、以前(確か別冊宝島のシリーズで)読んだ記憶がある。延髄=魚類の脳=一次元知覚、橋脳=両生類の脳=二次元知覚、間脳=爬虫類の脳?(小脳=磁気誘導能力をもった鳥類の脳)=三次元知覚、大脳皮質=ヒトの脳=四次元知覚、という対比は何かに使えそう。(悪い癖で、では零次元脳などというものはありうるのだろうか、などと考えてしまう。)

★2000.8

☆ハーラン・コーベン『カムバック・ヒーロー』(中津悠・ハヤカワ文庫)
 ミステリーを読むのはずいぶんと久しぶり。とても気持ちのいい書きだしで、主人公もその友人たちも魅力的で文句はないし、優れた作品だと思うけれど、真犯人がつきとめられるあたりで疲れてしまった。

☆村上龍『希望の国のエクソダス』(講談社:2000.7)
 で、久しぶりに小説らしい小説(?)を読みたくなった。──2001年6月から2008年9月(だったかな?)にまで叙述が及ぶ章立てのない長編小説。この作品は三つのパーツに分けることができるだろう、そうすることに何か意味があるのかどうかは別にして。「ナマムギ」の発見からテツ(本編の話者)と中村君との出会い、ポンちゃんの登場までの発端部。(いつも思うことだけれど、村上龍は物語の発端部の書き方が実にうまい。とはつまり小説世界の造型力に秀でているということ。優れた小説家がもつべき当然の資質。)円圏・アジア通貨基金構想の実現とその直後の通貨危機から2002年6月、サッカーのワールドカップ開幕一週間前の衆議院予算委員会でのポンちゃんの「答弁」で終わるハイライト。(「インタビュー小説」とでもいうべき趣向が面白かったし、何よりもテツと由美子が懐石料理を食べながら経済を語る場面は秀逸。)そして、ASUNAROの北海道野幌市への移住と地域通貨イクスの発行による「独立国」化への軌跡が描かれたやや長い後日談。(小説的虚構世界の文法を大きく逸脱しているのではないかと思ったけれど、読んでいてここが一番面白かった。この部分を書くために村上龍は物語世界を造型したのではないか。)あとがきがまたいい。「この小説は、著者校正をしながら、自分で面白いと思った。そんなことは実は初めてで、なぜ面白いと思ったのか、いまだにわからない。わたしの情報と物語が幸福に結びついたのかも知れない。」(ここに出てくる三つの語彙、情報・物語・幸福、は村上龍の小説世界のキーワードである。)メディア批判と教育、経済。これらは著者がJMMでいままさに取り組んでいる問題群そのもので、だからこの小説が面白くないわけがない。

☆妙木浩之『フロイト入門』(ちくま新書:2000.7)
 フロイトの謎めいたドラマティックな生の軌跡と精神分析学という「思想」の誕生をめぐるそれこそ精神分析学的な叙述。なぜ精神分析をはじめるときフロイトから入るのか、なぜフロイトの人生なのか、それは「精神分析は文脈の科学だ」からであると著者はいう。これは入門書ではないし、決して読みやすい本ではない。悪文とも思える見通しのききにくい文章(誤植と見まがいかねない不器用で不自然な言葉遣いが散見されたし、本物の誤植も一箇所はみつけた)を通して、著者の熱いこだわりのようなものが感じられるとても力強い書物だ。こういう文章を書く人は信用できる。

☆ジル・ドゥルーズ『スピノザ──実践の哲学』(鈴木雅大・平凡社:1994/1981)
 8月になってから『エチカ』や『知性改善論』といった著書をはじめスピノザ関連の書物をつまみ食い的に読み漁っていて、これはめずらしく最初から最後まで一気に読み通した。スピノザ入門書としてとても役に立つ本だし、ドゥルーズへの入り口としても最適。なにより(『スピノザと表現の問題』と比べて)読書の愉しみすら味わわせてくれる。「訳者あとがき」も含めて、繰り返し読むことになるだろう。

☆工藤喜作『スピノザ』(清水書院:1980)
 清水書院のセンチュリーブックス人と思想シリーズは、八木誠一著『イエス』『パウロ』などを例外として、たいがい弛緩した文章と平板な叙述に終始する駄本が多い(ように思う)のだが、これは役に立ついい本だった。──ドゥルーズとの関連で(あまり関連はないかもしれないけれど)一つだけメモしておくと、スピノザは『政治論』(9章14節)で「オランダ人たちは、自由を確保するために伯爵をしりぞかせ、国家という身体から頭を切り取るだけで十分であると考え、新しい国家を改革するとことについては考えなかった。むしろ彼らは、いっさいの肢体を、それらがまえに組織されたままに放置したので、オランダの伯爵領は、あたかも頭を欠く身体のように伯爵を欠き、統治形態そのものが、何とも名づけようのないものにとどまってしまった」(16頁)と書いている。

☆尾崎彰宏『レンブラント工房』(講談社選書メチエ:1995)
 レンブラントとバロックの精神に関連させて『エティカ』と『千のプラトー』に言及した箇所──「自然には無限の多様性があり、個々の様相が全体の部分であると同時に全体でもある」云々(173-4頁)──を読みたくて、結局全部読んだ。17世紀の国際商業都市アムステルダムが面白い。

☆B.クズネツォフ『アインシュタインとドストエフスキー』(小箕俊介・れんが書房新社:1985/1972)
 まず思想と行動の関係をめぐるハムレットの問いがある。そして「個人の運命を無視しない世界調和」(道徳的調和)の概念をめぐるドストエフスキーの問いがある。これらは科学の二つの基準「外的確証」と「内的完全性」にそれぞれ関連づけることができる。芸術家ドストエフスキーは「実験的リアリズム」あるいは「実験詩学」と著者が名づける方法でもって、神的調和への伝統的な「ユークリッド的」信仰から「非ユークリッド的」調和(イワン・カラマーゾフによって見出された個人の運命を無視する調和)へ、そしてさらにいっそうパラドキシカルな非ユークリッド的調和へと向かっていった(と著者はいう)のだが、それはスピノザの神を信じ、三十数年の熾烈な努力を統一場理論にかけたアインシュタインの軌跡と一致する。少なくとも「アインシュタインからドストエフスキーへの変換の不変部分」というべきものがある(と著者はいう)。──「現代科学は、巨視的概念の導入なしには、すなわち粒子の巨視的行動を定義することなしには、超微視的過程を現実のものとして扱うことはできない。道徳的調和の現代的概念は、個人的実存が、集団的運命にたいしてもつその重要性によって規定されるべきことを要求する。」(これはたんなるアナロジーにすぎないのだろうか。)