不連続な読書日記(2000.1〜2000.4)



★2000.1

☆金沢創『他者の心は存在するか』(金子書房:1999)

 読者の思索を促す豊かな素材と議論に満ちた書物である。とりわけ進化論的な「私」の表現レベルを論じて「今、ここにある感覚情報の宇宙」という根源的存在へ降る最終章が素晴しい。真正の哲学の問題とは自然科学書の最後の頁に記されるものであるとするならば、ここに叙述されているのは出来合いの心身論や意識論、他我論をめぐる退屈な哲学談義ではなく、自らの感覚と直観と生の現実に即した思考の果てにまぎれもない哲学の問題とその言語的表現を見出した者の驚きである。
 このような著者の驚きが読者である私(もうひとつの宇宙)に伝達され理解されさらなる思索を導くことのうちに、他者とのコミュニケーションをめぐる奥深い謎が孕まれている。哲学の問題とはこうした類の謎をかかえて生きる者、生きて行かざるを得ない者をとらえる「哲覚」とでもいうべき感覚にほかならないのであって、それは本来ヒトが自然科学を志す契機ともなるはずのものだ。この感覚の外部に立った哲学的言説や科学理論は、ここでいう外部の設営そのものも含めて死んだモデルにすぎないだろう。
 寺田寅彦はかつて科学者がもつべき要素として、数理的分析能力や実験によって現象を体系化し帰納する能力とともにルクレチウス的直観能力を挙げ、ルクレチウスのみでは科学は成立しないがルクレチウスなしには科学はなんら本質的なる進展を遂げ得ないと書いた。真正の哲学的センスと自然科学的センスが融合した本書は科学的思索の書であると同時に「科学」批判の書であり、哲学的思索の書であると同時に「哲学」批判の書である。
 ところで内容の豊穰はその過剰につながる。第II章から第IV章にかけて多彩に繰り出される方法論的・理論的検討は鋭く示唆に富むが、著者自身の議論との有機的な関係は必ずしも明快ではない。叙述に不足があるのではなく、素材が過剰なのである。また第IV章後半の議論と第V章の議論では問題や方法の次元と質が異なっている。著者が本当に書きたかったのは後者だと思うが、ある意味で本書は第IV章で完結している。ここには構成上の過剰がある。さらにいえば、随所にちりばめられた科学者としての著者の態度表明ともいうべきメタ・メッセージが本論に繰り込まれ明示的に展開されることもない。
 しかし以上の事柄は少なくとも私にとって本書の魅力の一部である。これらの切断面をつなぐことで未だ言語化されていない著者の「宇宙」に迫るスリリングな読後の作業が残されているし、ベイトソンの進化理論=メタローグ説の眩暈的世界を彷彿とさせる本書の構成上の多次元性が私自身の哲学の問題をめぐる思考を刺激してやまないからだ。完成された書物がもたらす陶酔は読者の思考を奪うのであって、本書最終章のテーマに即していえばそれは失敗したコミュニケーションの残香にすぎないのである。

☆夏目漱石『三四郎』(新潮文庫)/再読

☆『ボルヘス、オラル』(木村榮一訳、水声社:新装版1987/1979)/再読
 病気見舞いに訪れた三四郎の退屈を慮って、広田先生は一冊の書物を貸し与える。その題名は「ハイドリオタフヒア」。十七世紀英国の医師サー・トマス・ブラウンが著した「壷葬論 Urn Burial or Hydriotaphia」のことで、以下は『三四郎』に引用されたその末節。
《朽ちざる墓に眠り、伝わる事に生き、知らるる名に残り、しからずば滄桑の変に任せて、後の世に存せんと思う事、昔より人の願なり。この願のかなえるとき、人は天国にあり。されども真なる信仰の教法より視れば、この願もこの満足も無きが如くにはかなきものなり。生きるとは、再の我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願にもあらず、望にもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横たわるは猶埃及の砂中に埋まるが如し。常住の吾身を観じ悦べば、六尺の狭きもアドリエーナス[ハドリアヌス]の大廟と異なる所あらず。成るがままに成るとのみ覚悟せよ》
 三四郎が「ハイドリオタフヒア」を返しに訪れると、昼寝から覚めた広田先生が夢の中で再会した女性の話を始める。大きな森の中を歩いていると、生涯にたった一遍逢っただけの十二三の女が二十年前見たときと少しも変わらぬ顔と服装と髪でじっと立っていた。
《そうその時は何でも、むずかしい事を考えていた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物の外に存在していなくてはならない。──覚めて見るとつまらないが夢の中だから真面目にそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に逢った。(略)僕がその女に、あなたは少しも変らないというと、その女は僕に大変年を御取りなすったと云う。次に僕が、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから、こうしていると云う。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だという。それなら僕は何故こう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った》
 広田先生が一種の臨死体験を、というより死者もしくは〈魂〉あるいは純粋記憶もしくは「再の我」との「再会」を果たした森は、深層意識のシンボルであり死者の霊魂が息づく場所であると相場が決まっている。だから俗流夢分析は程々にしておいて、ここでは『ボルヘス、オラル』に収められた「不死性」から関連すると思われる素材をいくつか蒐集しておく。──ボルヘスは「死ぬ時は完全に死にたい、つまり肉体だけでなく魂も死にたいと考えている」と語っている。自我などは取るに足らぬもの、あらゆる人間のうちに内在する共有物である。だから「個人的」な不死性(「地上の出来事を記憶していて、他界にいても地上のことを懐かしく思いだす魂」)ではないもうひとつの「一般的、全体的」な不死性こそが必要なのであり、私は宇宙の不死性を信じていると。
《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。(略)重要なのは不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。(略)音楽や言語に関しても、それと同じことが言える。言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の詩を迎えた後もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》
 この最後の言葉を口にするまでにボルヘスは霊魂と肉体、不死性をめぐる哲学の歴史を手短に振り返っていて、そのなかでインドの「前生」の思想を取り上げている。われわれの生が前生に依存しているとすればその前生はもうひとつ前の生に依存しており、以下無限に過去へと遡行してゆくことになるけれど、時間がもし無限であるとすれば無限にあるもののひとつがどうして現在にまで辿りつけたのか説明できない。このパラドクスに対してボルヘスが与えた回答は、無限の空間に関してパスカルが述べたと同様のものだ。すなわち、時間が無限ならばその無限の時間はすべての現在を含むはずであり、したがってわれわれはいかなる瞬間においても時間の中心にいることになる。
《…今この瞬間は背後に無限の過去を、無限の昨日をひきずっており、その過去もまた今この現在を通り過ぎていると考えられる。空間と時間が無限であるとすれば、いついかなる瞬間にあっても、われわれは無限の線の上の中心に位置しているはずであり、無限の中心のどこにいようとも、空間の中心にいるはずである。》
 それにしても『三四郎』は興味尽きない作品で、広田先生の夢に出てきた「画」と「詩」をめぐる会話ひとつとってみても「パーセプション」と「コンセプション」の関係に準えて、あるいは小説の最後に出てくる文字通りの「画」とそのタイトル(「森の女」とマタイ伝由来の「迷羊(ストレイシープ)」)をめぐっていくらでも妄想をたくましくすることができそうだ。そもそも題名からしてあれこれ深読みが許されるのではないかと(半ば本気で)思いを巡らせている。たとえばここに出てくる「三」と「四」は中沢新一氏が『バルセロナ、秘数3』(中公文庫)で述べた西欧思想史の二つの流れ、すなわちプラトン、デカルト、ニュートン、アインシュタインなどの「3の信棒者(トリニタリアン)」とピタゴラスやカント、ゲーテ、ショーペンハウアーといった「4の信棒者(クォータナリアン)」との「ねじれ」た関係を反映しているのではないか。(そして、富士山をめぐる広田先生の議論や三四郎を取り巻く三つの世界、野々宮君の「光の圧力測定実験」等々の数々のエピソードは、都市と自然、西洋と東洋の関係、物理的リアリティと身体の関係といった問題群を示唆していたのではないか?)
《トリニタリアン的思考は「否定」の機能を(+、−)の対立として、考えようとする。つまり対立を、極性―対立(polar opposites)としてとらえ、論理表現化しようとするのだ。これにたいしてクォータナリアン的思考は、論理における否定の機能を相補的対立(complementary opposites)と考える。運動量(p)と位置(q)のふたつを同時に確定することができないように、おたがいが相手を内包しながら否定しあっているような関係である。/「否定」の機能(これは最終的には、言語の象徴機能の問題である)には、はっきりとふたつのタイプが存在して、思想におけるふたつの流れをつくりだしてきたのだ。古典科学やその方法をバックアップしたデカルト的合理論は、その表現のなかに(+、−)タイプの対立だけを認めようとした。これにたいして、量子力学は別のタイプの「量子論理」にしたがって、物理的リアリティを表現しようとしてきた。(略)/量子論理(Quantum Logic)は、通常の(+、−)論理に比較すると、おそろしく複雑な構造をもっている。これは量子論理が、アリストテレス的論理学の因果律(Causality)にしたがうことなく、たがいに内包しあう否定機能にもとづく「縁」の関係にあるリアリティを論理化しようとこころみていることに関係がある。その意味でも、これは東方的な超論理学(中観仏教、聖グレゴリオ・パラマスによって大成されたギリシャ正教神学、イスラムの天使学など)と、深い内在的関係をもっているのである。》
 明快な図式化はかえって物事の精妙な実相を見えなくする危険を伴うのだが、中沢氏の議論は少なくとも漱石が考えていた科学と文学の問題を解くための有効な切り口になるものだと思う。ついでに付言すると、これも鎌田東二著『身体の宇宙誌』(講談社学術文庫)の「まえがき」で仕入れた知識なのだが、出口王仁三郎は「ひ」(一、日、火、霊)が増殖・成長して「ふ」(二、増、殖)となり「み」(三、身)となり「実」をみのらせ「よ」(四、世、節)を形成すると語った。そうすると『三四郎』の「三」は「身」に「四」は「世」に通ずることになりそうだし、さらに悪乗りを重ねるならば「三」は「産」に「四」は「死」に通じ、いずれも「父母未生以前本来の面目」の問題(『門』)あるいは「生命記憶」の問題につながる?

☆桜井哲夫『戦争の世紀』(平凡社新書:1999)
 第一次世界大戦の本質はいまだ解明されていない。ある書物にそう書かれていた。桜井哲夫氏も『戦争の世紀』(平凡社新書)でこの戦争はヨーロッパ社会に根底的な変化をもたらし「精神の危機としての二◯世紀」を生み出したのであって、われわれを拘束し続ける今日の政治的問題へとつながる決定的な出来事であったにもかかわらずそもそも誰もが納得しうる戦争勃発の決定的要因ですら定まっていないのが実情だと書いている。《つまり、諸国間が織りなしている様々な関係の網の目が、いつしか機能不全となって切断されるに至ったのだ、と考えるほかはないということだろう。誰もがこれほどの惨劇が生み出されることなど、考えてもいなかった。そして、おそらく、この事態を生み出した要因の一つは、二◯世紀が生み出した「速度」だと見なすことも可能である。》
 桜井氏はまた機関銃の出現が生み出した塹壕戦こそが第一次世界大戦で姿をあらわした近代戦の姿であり、《塹壕体験は新たな共同体(戦士の共同体)体験となり、その一体感(崇高なる沈黙の共有)が戦後のファシスト運動の基盤となってゆくのである》と指摘し、ひとり、この戦争が何を失わせたのかを的確に論じた人物がいた、それはヴァルター・ベンヤミンその人であるとして──ジョルジュ・ソレルとベンヤミンという二人の思想家の出会いの意味を「二◯世紀の政治的にして神学的問題をめぐる二つの傾向の対決の先取り」であったと規定した今村仁司氏(『ベンヤミンの〈問い〉』第三章,講談社)の議論を念頭におきながら──1933年に書かれた「経験と貧困」を取り上げている。
《「経験」の崩壊は、世代間の断絶を生み、人と人との間の関係を変化させ、「経験」や「文化的遺産」から切り離された無機質な文化を生み出し始める。第一次世界大戦は、国民総動員の名のもとに、どこを切り取っても等質で、固有の経験や文化を喪失した「国民」、すなわち、オルテガ=イ=ガセットの言う「大衆」、ハイデガーの言う「ダス・マン(世の人)」を生み出した。/かくて第一次世界大戦は、それ以前の社会や文化から世界を切断してしまった。以後の世界を特徴づけるのは、「痕跡」を消した文化である。ベンヤミンは、バウハウスの建築や作家シューアバルトが描いた移動可能なガラス住宅は、人が住んだ痕跡を消してしまうことに注目する。人の住んだ歴史(痕跡)が、一切残らない住居。それこそは、二◯世紀という、無機質な科学技術文化を発展させ歴史意識(経験)を消し去ろうとしてきた時代の象徴とも言えるかもしれない。/なればこそ、ベンヤミンは、歴史のなかで打ち捨てられてきた廃物、屑を収集し、死者の叫びを共有化する道を歩むことになる。おそらく、彼はそこに、第一次世界大戦における膨大な死者たちの存在を意識していた。だが、彼は、ドリュ=ラ=ロシェルやマルセル・デアとは異なって、塹壕共同体の「死者への崇拝」から政治的崇高性(民族と祖国のために死ぬ)へと向かう回路を切断し、民族や国家を越える(「法を越えて」)、つまり近代国家を越える道を模索し続けることになるだろう。》

☆本村凌二『ローマ人の愛と性』(講談社現代新書:1999)
 可視的な都市国家から不可視的な世界帝国への拡大と空前の平和が、ローマ帝国の市民に自己の「内なる世界へのまなざし」を芽生えさせ、「人間における心、魂、精神の発見」をもたらし、「道徳の内面化・普遍化」を結実させ、やがてキリスト教の受容をもたらすに至った経緯を述べたくだりから。《そもそも小さな部落として成立したローマは、都市国家の形態を整え地中海世界の制覇をめざした。都市国家規模の共同体は、まだ目に映り想像しうるものである。この可視的な共同体が守られ安全であれば、そこに生きる人々は心安らかに暮らすことができる。それゆえ人々の意識は、共同体の安全という、目にしうる外在の世界にとどまっていればよかったのである。しかし、ローマは地中海世界を支配下におさめ、都市国家を超えて世界帝国となった。しかも、はてしなく広大な地域に空前絶後ともいえる数世紀にわたる長年の平和をもたらしたのである。もはやそこに生きる人々にとって世界は目にしうるものではなく、想像しえないほどの彼方にあった。この不可視的な世界には、それを危険にさらす外敵の脅威すら感じられないのである。このような不可視的な世界の平穏な拡がりを感じるとき、人々の心はさまようことになる。もはや、意識はよりどころのない外界に向かうよりも、生きることの支えを求めて内なる世界を目指すのである。》

☆岡野玲子・夢枕貘『陰陽師1』(白泉社:1999)
 最近、平安的なもの、になぜか心を惹かれている。

★2000.2

☆夏目漱石『こころ』(新潮文庫)/再読
 数十年ぶりに再読したのだが、この作品の構成はかなりいびつだ。こんな初歩的な問題はその筋の人々の手でもって論じつくされているに違いないと思うが、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成はどう考えてみても一つにはまとまらない。もともと漱石は『心』という総題のもと短編をいくつか書くつもりだったらしくて、確かに「上」「中」「下」はそれぞれ独立の作品として読んだ方がむしろ味わいがある。しかし、ここで考えてみたいのは、それらがまとまって一つの作品世界をかたちづくっているとした場合に見えてくるもののことだ。その際、注目すべきは、一つは手紙=遺書というフィクショナルなものとリアルなものを架橋する文学的装置の機能だと思うし、いま一つは『こころ』全篇に出てくる複数の死──Kと先生の自殺や「私」の父の死、明治天皇の死(「明治の精神」の死)や乃木大将の殉死、等々(あるいは身体の死と精神の死?)──がもつ機能である。これらの装置や道具建てを使って、そして『こころ』というタイトルのもと、漱石はいかなる種類の「実験」を試みたのか。

☆松岡正剛著『言語物質論 詩を読む』(工作舎:1979)/再読
 これもまた数十年ぶりに再読したのだが、結構いける。

☆木田元著『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫:2000)
 『存在と時間』第二部の再構築作業を経て「ハイデガーの念頭には、〈存在=現前性=被投性〉と〈存在=生成=自然〉という、少なくとも二つの存在概念があった」云々という同第一部第三篇「時間と存在」の再構築をめぐる議論へと至る、本書の佳境ではないかと思われる箇所から。《存在という視点の設定は、ある範囲内で自由にゆだねられている。その視点の設定の仕方によって、その視点のもとに見られる存在者全体のあり方が変わってくる。〈存在=現前性=被投性〉という視点のものとに見られれば、存在者の全体が作られたもの、あるいは作られうるものとして見えてくるであろうし、自然も死せる物質として見えてくる。〈存在=生成=自然〉という視点のもとに見られれば、存在者のすべてが生きて生成するものとして見えてくる、というわけであろう。同じことだが、世界の世界としての組織のされ方も変わり、つまりは文化形成の仕方も変わってくることになろう。むろん一人や二人の人間が本来性に立ちかえり、その存在了解を変えたからといって、どうなるものでもない。だが、なにかの加減で一つの〈民族〉全体がそうするとなると話は変わってくるにちがいない。『存在と時間』の第一部第二篇第五章「時間性と歴史性」で、ハイデガーが「共同体つまり民族の出来事[ゲシエーエン]」としての「共同的運命[ゲシック]」といったことを言い出すとき、彼はそんなことを考えていたのかもしれないし、数年後彼がナチスに加担したのも、ナチスの文化理念に自分の考えていた文化革命の夢を托してみるという気持ちがあったからのような気がする。》

☆米本昌平『知政学のすすめ』(中央公論社:1998)
 要約。社会的脅威に対する政治的対応、たとえば地球環境問題や地震対策も含めた広義の安全保障対策を有効に講じていくためには、「知」と「政」の一体化を図り、社会的道具としての国家=公権力の活用による理想社会の実現をめざすこと、すなわち科学研究と広義の政治的課題を一体化させ、政治的課題・問題解決のために人類の知的貯蔵庫を組み立て直し活用する「知政学」が確立されなければならない。しかるにわが国の現状を見ると、明治以来の政治とアカデミズムの分離(「ダーティ」な政治と世俗にかかわらないことを旨とする「象牙の塔」の分離)や、冷戦時代のイデオロギー的二分思考(「体制」派と国家=巨悪説に立脚する「反体制」派の対立)の影響もあって、政策立案作業の官僚独占とそれを支える国民的信念とからなる「構造化されたパターナリズム」が蔓延している。
《政策立案は中央官僚(お上)の専管事項とするイデオロギーが、日本全体を覆ってきた。霞ヶ関には優秀な人間が集まっているという神話と、あたかもすべての監督責任が中央省庁にあったかのような了解の上で、何かことが起こるとただちに、政府は何をやっている! と批判し要望をぶつける社会的態度が蔓延したのである。そして、大学アカデミズムも含めて、霞ヶ関以外には具体的な政策提案を行う能力はどこにもなく、また霞ヶ関以外のものはこれをすべきではない、という社会解釈が共有されている。私は、このような権力観を「構造化されたパターナリズム(structural paternalism)」と呼んできた。》
 こうした「構造化されたパターナリズム」から脱却し、21世紀へ向けた「知政学」を確立していくための戦略は、次の通りである。まず、?行政機構は自分たちが活用すべき社会的道具であると見定めて、個々人がそれぞれの問題意識と関心にそってともかく調査や研究を開始し、知的な主体として自らを築いていくこと。そのためにも、?大学アカデミズムを解体再編し、たとえば国立大学の自治体への移管により、医療・福祉・環境といった地域レベルの知的課題に関する研究センターとしてこれを再編し、調査研究と行政サービスの融合、行政とアカデミズムの交流を図るとともに、?その研究活動の一般市民への解放、いいかえれば「消費としての研究」(公共的課題に即した生涯学習)を支えていくこと。

★2000.3

☆川端裕人『リスクテイカー』(文藝春秋:1999)
☆佐々木譲『屈折率』(講談社:1999)
☆柄谷行人『倫理21』(平凡社:2000)
☆金子勝『市場』(岩波書店:1999)
☆宮本光晴『変貌する日本資本主義』(ちくま新書:2000)
☆金子郁容・松岡正剛・下河辺淳他『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社,1998)
☆坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店:1997)
☆G.ドゥルーズ/A.クレソン『ヒューム』(合田正人・ちくま学芸文庫:1952/2000)
☆保坂和志『季節の記憶』(中公文庫:1996/1999)
☆ゲーテ『ファウスト第二部』(池内紀・集英社:2000)
☆天外伺朗・茂木健一郎『意識は科学で解き明かせるか』(講談社ブルーバックス:2000)

★2000.4

☆立花隆『脳を鍛える』(新潮社:2000.3)
 東大講義人間の現在シリーズ第1巻。著者の自己発見の書。あるいは一種の教養小説?

☆山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社:1999.12)
 極論の書。極論のイノチは論理と価値体系にある。この「価値体系」を著者は「教養」と呼ぶ。教養なき輩の言説や表現や翻訳は断じて無価値である。(著者との対談で宮崎哲弥氏は「OSとしての教養」について、それは「いろんな事物の背後に抽象的な原理や本質をみてとる思考」のことで、数学もしくは数理的思考、広い意味の哲学だと語っている。)
 第1章(人間・情報・メディア)で教養の意義を述べ、第3章(文化)で論理の一旦に触れ、返す刀で日本文化の「ローカル」性を撃ち、第5章で価値体系の端緒は「おもしろさを伝えること」にあると語る。第2章(ネットワークと経済)と第4章(社会システム)はその応用篇。
《もしあなたがこの現実の虚構性などというものを本気で信じているとすれば、それは単にあなたが他人との接触の薄い生活感の欠如した卑しい抽象的な生を生きているというだけのことだ。》(フィリップ・K・ディック『死の迷路』あとがき,1989.12)

☆足立恒雄『無限のパラドクス』(講談社ブルーバックス:2000.1)
 著者の数学啓蒙書はすべて読んでいる。それらに比べて本書はやや刺激に欠けた。それでも冒頭に出てくる数学的無限・物理学的無限・形而上学的無限の分類、数学=実験科学論やプラトン主義をめぐる議論、中世の無限論(第3章)までは面白かった。
《カントルのような実在感は程度の差こそあれ、数学者ならだれもが共有する感覚である。私自身こういう実在感を否定するものではない。しかし、実在するとはどういうことを意味するのかと考え始めれば、実在感がその対象の実在を証明しているとまでは主張する気になれない。》(27-8頁)

☆松岡正剛『日本流』(朝日新聞社:2000.3)
 本書を読んで解ったこと。松岡正剛が「編集職人」であったこと。名人の域に達した職人が語る言葉は読者のスペックに応じて深くもなれば表層を流れもする。だからこれはとても怖い書物なのではないかと思う。この読後感は先々月読み返した『言語物質論』のそれをより洗練させて凄味を増した感じ。変な言い方だが、二十年以上も前から松岡正剛は松岡正剛だったのだ。──続けて読みかけのまま放置していた『知の編集術』(講談社現代新書,2000.1)を仕上げておこうと思っていたけれど止めた。勢いで読み飛ばしてしまいそうだったから。

☆今村仁司『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書:1994.9)
 少し前から「金属的想像力」と‘ from soup to nuts ’という二つの言葉が気になっていた。前者は『サイアス』(2000年4月号)に《ここでは金属を、金属結合という様式で原子が結合している物質である、と定義する。金属結合は、イオン化した原子が「自由電子の海」の中に浸っているような状態である。理想的な金属結合は方向性がなく、電子は自由に物質の中を移動できる。》(増子昇/千葉工大教授)と書いてあるのを読んで、バシュラールの物質的想像力が扱ったテトラ・ソミアに「金属」を加えるならば(これでは五行説になってしまう?)何かしらまことしやかな議論を展開することができはしまいかとふと思いついたもので、後者は先月読んだ『意識は科学で解き明かせるか』で天外氏が《素粒子というのは、…粒子と波動の両方の性質を持っている。これは豆を煮て作ったスープのようなものだと考えるとわかりやすい。豆を煮てスープを作ると、もう豆は見えなくてドロドロのスープの状態になる。素粒子は普段はスープの状態なわけですが、それを観察すると煮る前の豆に戻ってしまう。…つまり、観測をすると豆になる。観測をしないときにはスープの状態です。これが素粒子の非常に不可解な現象です。》(26-7頁)と語っているの読んで、この言葉──‘ from soup to nuts ’──を手がかりにすれば中世普遍論争の意味を解き明かすことができはしまいかと突然閃いたもの。
 前置きがアンバランスなほどに長くなってしまったけれど、貨幣経済に関する書物をまとめ読みしようと思ってまず手に取った本書がはからずもこの二つの言葉にリンクを張っていた。まず著者がここで論じているのは素材としての貨幣ではなく形式(媒介形式)としての貨幣(=墓=供犠=文字)なのだが、ここでいう素材の典型はいうまでもなく、十九世紀の金本位制から二十世紀の管理通貨制度へ、というときの「金」属のことだ。そしてジンメルの『貨幣の哲学』に準拠しつつ著者が示す「関係の結晶化」の定式(「無媒介なもの=渾沌」〜「媒介形式=境界」〜「差異関係=社会関係」)はまさに‘ from soup to nuts ’でもって表現できるものなのではないだろうか。
 これ以外にもたまたま今読んでいるジッドの『贋物つくり』の分析(貨幣小説論)など、本書は当方の現在の関心事とあまりに合致しすぎていて、うっかりすると思考を決定的に規定されてしまいそうになる。こういう時は要注意。(それでなくとも本書の論述は少しできすぎているように思った。)

☆トマス・ハリス『ハンニバル』上下(高見浩・新潮文庫:1999/2000.4)
 下巻(第三部)で明かされる六本指の怪物ハンニバル・レクター博士の過去と実体。──リトアニア生まれで十世紀に発する貴族の息子。かのバルテュスのいとこ。ナチ戦車隊の砲撃で両親を失い、妹ミーシャを飢えた脱走兵たちに喰われるという経験を幼少期にもつ。広壮で堅固な「記憶の宮殿」を築き(第六部でレクターはクラリスと宮殿の部屋を共有する、さながら逆しまのレダと白鳥のように、“肉”を超えて?)、ミーシャの乳歯を糞便の穴の中から復原しこの世にミーシャのための場所を確保すること、つまりエントロピーの逆流(時間の逆流)を望み、高等数学の方程式や天体物理学と素粒子物理学の記号を駆使して数式の計算に没頭しひも理論を何度も検証する。
 最初はこうした生物学的・心理学的なレクター像に異和感を拭えなかった(いっそSF的・進化論的な超人類として描く方が面白いと思った)し、そして“組織小説”の定石を超越した結末にやや不満が残った(スパイ物、警察物、サスペンス物、ハードボイルド物等々の面白さの大半はその組織対個人の図式にあると思う)のだけれど、やがて「ハンニバル−ミーシャ」と「メイスン−マーゴ」の二組の兄妹の際立った対比(「人喰い・精神医学者」対「やわらかな肉・記憶の中の乳歯」と「人工呼吸器を装着した骸骨」対「レスビアンのボディビルダー」、あるいは「復活=反復」対「復讐」)や“行動する天使=戦士”クラリス(明晰な光)の“成長譚”といった物語の骨格に思いをめぐらせていくうち、これはもしかすると前人未到の小説世界を拓くまったく新しいタイプの作品なのではないかと思えるようになった。(言語によって編集された虚構世界=精神世界からの帰還を読者に許さない小説?)
 本書のもう一つの骨格。フィレンツェ(第二部)と新世界(第四部)との、あるいはレクター博士の「記憶の宮殿」とコンピュータ・ネットワークとの対比。──メイスン・ヴァージャーはおそらく電子メディアを通じて出現した(あるいは電子メディアを駆使する)怪物で、これに対するもう一人の怪物を特徴づけるのは味覚と嗅覚。この二つの感覚(レクター博士はクラリスに「この二つは人間にとって最も古く、精神の中核に最も近い感覚だ」と語っている)に密接に関連する本書のキーワードが“肉”で、それは、夢に出てくる肉は失われた幼年期の自己の存在価値の等価物である(新宮一成氏が『夢分析』でそう書いている)こととおそらくは関係するだろうし、そして「記憶の宮殿」が構築されるのもハードディスク上ではなくてやはり“肉”のうちなのであって……と、一気に読み切ってどんより疲れた頭の中を整理のつかない思考の細片がいくつも去来している。
《よろしい、そのフライパンを覗き込んでみたまえ、クラリス。その上にかがみ込んで、見下ろすのだ。もしそれがきみの母親のフライパンなら──おそらく、そうだろうけれども──それを構成する鉄の分子中には、その前で交されたすべての会話の波動が含まれているはずだ。そう、さまざまなやりとり、他愛のない苛立ち、恐るべき告白、淡々と災厄を告げる声、唸り声、そして愛の詩の波動が。/テーブルの前にすわるのだ、クラリス。そしてフライパンを覗き込みたまえ。よく手入れされているフライパンなら、それは黒い深淵のように見えるはずだ。ちがうかね? それは井戸を見下ろすのに似ている。(中略)われわれは炭素が複雑に複雑に進化した存在なのだよ、クラリス。きみも、フライパンも、いまや地中でフライパンのように冷たくなっているきみのパパも。すべては依然としてそこにあるのだ。聞くがいい。本当の二人はどういう声を発して、生きたのか──懸命に闘っていたきみの両親のことだ。きみの心をふくらませているイメージではなく、具体的な記憶に耳を傾けたまえ。(中略)正直な鉄を透視して、答えたまえ。……きみは自分の望みしだいで、いくらでも強い人間になれるのだ。/きみは戦士なのだよ、クラリス。敵は死に、赤子は救われた。きみは戦士だ。/最も安定した元素は、周期律の真ん中、ほぼ鉄と銀のあいだに現われるのだ、クラリス。/鉄と銀のあいだ。まさしくきみに相応しいではないか。》(上巻59-61頁)

☆鎌田東二『神道とは何か』(PHP新書:2000.4)
 高校生にもわかってもらえる本を書きたいと思いつづけてきたと著者は書いていて、その意図は成功していると思う。確かに高校生にも「わかる」だろう。しかしそれではいったいどれくらいの人が本書を通じて「神道とは存在感覚である」(80頁)という著者の主張を、そして「この大気そのものの中に何かがある」(ラフカディオ・ハーン)といった「センス・オブ・ワンダー」(レイチェル・カーソン)を「実感」できるだろうか。
 あるいはまた本書は次の方法論的宣言を自ら実証しているだろうか。《…伝承されてきた神話や物語や儀式を外側から観察し調査し、それを分析するだけでなく、私たち自身の内側に起こってくる感覚の変容、あるいは身体の変容そのものをも、現象学的な研究の対象として考えていくべきであると私は思う。/折口[信夫]の言葉を使って言えば、実感と実証を結びつけるという作業が必要なのである。とりわけ神道のような伝承的宗教や信仰体系においては、この実感を基にした考察、洞察は不可欠であると思われる。》(33頁)
 本書が失敗作だといいたいのではない。それどころか旺盛な執筆活動を展開してきた著者の現時点での集大成ともいうべき水準を示す著書だと思う。──たとえば《神は存在世界の存在論である。仏とは人間世界の実践論であり、認識論である。》(190頁)とか《神道が神主(神がかりする者)だとすれば、仏教は審神者[さにわ](神がかりを正しく査定し位置づける者であ》る(210頁)といった指摘は「深い」。
 結局のところ言葉のありようなのだろう。語り得ないもの(聖なるもの、超越的なもの、ハレ、非日常等々だけではなくて、そもそも言葉の意味も)をいたずらに神秘化して「示す」よりは、本書のように「高校生にもわかってもらえる」平易で日常的な言葉を使って記述する方がはるかに「生産的」だ。というのも、永井均流にいえばマンガという表現形式にともなう約束事(「ふきだし」の中では実際に発音されたせりふも文字で示される)と同様、言葉の「意味」はもともとこの世界に属していない(表現=記述=伝達できない)のだから、そしてそれが「語り得ない」ものの実質なのだから。──《マンガの世界に、文字はあるが音声はじつはないのと同様に、われわれの世界には、言葉は存在するが言葉の意味はじつは存在しない(言葉の意味を語ることができない)。だからわれわれは、言葉の意味するところを言葉で語ることが──究極的には──できない世界の中に閉ざされているのである。》(永井均「哲学への懐疑」,別冊『世界』「この本を読もう!」(第675号,2000年5月)所収)
 本書にもし「不満」があるとすれば、《出口王仁三郎や折口信夫や宮沢賢治が大正十年に述懐したことは、言葉がどこかかなたから来訪し、自分の口や手を通して次から次へと溢れ出てくるというシャーマニズム的な体験である。彼らはシャーマンや霊媒のような立場に立って、向こう側からやってくる言葉を取り次ぎ、この世の言葉に翻訳し語り伝えているというわけである。》(176頁)といった文章にうかがえる無媒介的かつ直接的で透明な“生命論的言語観”(?)をつきぬける視点がないということ──それが、本書で(おそらくは意図的に?)言及されていないユダヤ・キリスト教的な言語観(使徒的言語観? 言語=物質論?)と関係するのかどうかは解らないけれど──なのだが、もちろんこれはないものねだりでしかない。(ちなみに『情報の歴史』では大正十年の年表に小川未明や野口雨情の「童詩」が記載されている。これは松岡正剛著『日本流』で取り上げられていたものだ。)
 著者が本書の姉妹篇の筆頭に挙げている『宗教と霊性』が本棚に眠っている。ときおり断片的に読んでは刺激を受けているのだが、そろそろ読み通してみようと思う。

☆村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社:2000.2)
 雑誌掲載時に読んで、単行本が出てまた読んで、少しだけ読まずに残しておいたところを時間をおいてまた読んで、そのたびにこれまでと何か違うと感じた。朝日新聞(2000年3月6日付夕刊)の「単眼複眼」で「伸」という匿名氏が《震災地への想像力や記憶がはるかな求心性を帯びて物語を織りなす。それぞれが心に空洞を抱え、家庭に欠落を持つ人々であり、運搬・流離譚・父親探し・祓いの旅・冥界下りなど「移動」の物語を経て、あるべき場所から遠く隔たってしまった「生」をかみしめる。》と書いている。少し言葉が踊っているようにも思ったけれど、確かに「想像力や記憶」「移動」は本書のキーワードなのだろう。(「移動」というより「反復」?)