不連続な読書日記(2017.10-12

 


【購入】

●柳田国男『都市と農村』(岩波文庫:2017.09.15)【¥840】[10/08]《ジュンク堂書店三宮店》

 国立国会図書館所蔵版を電子書籍で持っている。でも読みにくいし、文庫版には赤坂憲雄の解説「失われた共産制の影を探して」がついている。

     ※
 解説といえば、ちくま学芸文庫版『風土の日本』(オギュスタン・ベルク)の坂部恵の解説や、同じ岩波文庫版『うたげと孤心』(大岡信)の三浦雅士の解説 を読みたい。大岡本は同時代ライブラリー版をもっていて別に読みにくいわけではないが、解説を読むためだけに買ってもいいかと思っている。

 その三浦雅士の「国民的詩人・大岡信の超早熟っぷりにあらためて驚嘆する」という文章をネットで読んだ。[http: //gendai.ismedia.jp/articles/-/51947]
 大岡20代代の『現代詩試論』と『詩人の設計図』をとりあげて、「大岡はほんとうは小林[秀雄]を超えているのではないか。」と書いている。
 どういうことかというと、「大岡がシュルレアリスムの自働記述に引き付けて論じていたことの射程」が「小林秀雄の画定した文学の領域を大きく超えてい る」というのだ。

《大岡が安東次男、丸谷才一らと語らって始めた連句の会は、『紀貫之』、『うたげと孤心』といった古典論の執筆と並行して進んでゆく。これは何を意味する か。
 大岡が、ミシェル・カルージュを引いて浮き彫りにしたブルトンの自働記述が、じつは根本的な矛盾を孕み、その矛盾がエリュアールによっていわば止揚され てゆくその過程こそ、大岡晩年のアポリア――連句、連詩の焦点に位置するアポリア――を解く鍵になりうることを示唆している。すなわち、大岡が「うたげと 孤心」という概念によって浮き彫りにした集団と個人の摩訶不思議な構造が、どのように止揚されてゆかなければならないかということを示唆しているのであ る。》

 大岡晩年のアポリアとは、たとえば「個人的には良心的としか思われない人間が、集団になったときには想像を絶するような残虐非道をしてしまうのは、なぜ か」といった問題であり、そして、この「「うたげと孤心」の問題こそ、たとえば吉本が「共同幻想論」として展開しようとした問題にほかならなかったの だ」。

●ノーム・チョムスキー他『チョムスキー言語学講義──言語はいかにして進化したか』(渡会圭子訳,ちくま学芸文庫:2017.10.10)【¥】 [10/15]《ジュンク堂書店明石店》

 三浦雅士が『日本文学の発生 序説』(角川文庫)の新版解説「凝視と放心」にチョムスキーのことを書いていて、これが滅法面白かった。「生命現象がすでに文法のかたちを成しているので ある。受身という文法用語ひとつに明らかなように、言語はこの生命の文法の対象化にすぎない。だが、この対象化のためには、一種の突然変異が必要だったと いうのが、たとえばチョムスキーの考え方である。」(385頁)
 その三浦雅士が『群像』に連載していた「孤独の発明」と「言語の政治学」を是非とも入手して読みたいのだが、残念ながら未刊行。チョムスキーを読んで飢 餓感を癒したいと思った。

●松浦壮『時間とはなんだろう──最新物理学で探る「時」の正体』(講談社ブルーバックス[電子書籍]:2017.09.19)【¥1000】 [10/16]《honto》

 貫之現象学の諸相の一つとして、夢とパースペクティヴと時間をめぐる三題噺に取り組んでいる。時間論については、九鬼周造の時間論を軸にして、伊藤邦武 著『九鬼周造と輪廻のメタフィジックス』や真木悠介著『時間の比較社会学』などを参考書とするつもり。本書は、いわば副読本として。

●オギュスタン・ベルク『風土の日本──自然と文化の通態』(篠田勝英訳,ちくま学芸文庫:1992.09.07/1988)【¥1500】 [10/21]《ジュンク堂書店明石店》

 木岡伸夫著『邂逅の論理』を読み返し、清水真木著『新・風景論』をメモをとりながら読み進めているうちに、読んでおきたいという気持が高じてきた。坂部 恵の解説も読みたかった。

●中沢新一『熊を夢見る』(角川書店:2017.10.27)【¥1800】[10/28]《ジュンク堂書店明石店》
●中沢新一『虎山に入る』(角川書店:2017.10.27)【¥1800】[10/28]《ジュンク堂書店明石店》

 中沢本では『ミクロコスモス』T・Uが好きで、いまでも時折読み返している(最近では正岡子規論「陽気と客観」)。というか、いまだに読み継ぎ、読了を 先延ばししている。
 二つの書物に共通する序文の冒頭にこう書いてある。「『ミクロコスモスT』と『ミクロコスモスU』として始まった私の小品集が、動物アレゴリーの名前を 冠する新しいシリーズに姿を変えて、ここに刊行を再開する。」
 四冊の「小品集」の帯の言葉を抜き書きしておく。

◎「はじまりの音学とことばの捧げもの/人類学者[アントロポロジスト]の、小さな花環[アントロギア]」(『ミクロコスモスT』)
◎「夜の知恵と途切れない記憶/耳のための、小さな革命」(『ミクロコスモスU』)

◎「詩とアニミズムの新たな沃野へ/人類学者・中沢新一、最新論集」(『熊を夢見る』)
◎「縄文と現代を結ぶ思考の稜線/思想家・中沢新一、最新論集」(『虎山に入る』)

●石川九楊『日本論──文字と言葉がつくった国』(講談社選書メチエ:2017.10.10)【¥1500】[10/28]《ジュンク堂書店明石店》

 日本語という単一言語はない。漢字語、ひらがな語、未熟なカタカナ語という二・五語の混合体が日本語である。この観点からするもののみが確実にして科学 的な日本論であり、これまでの日本論、日本文化論は多分に趣味的な文学やエッセーにすぎなかった。──この最後の断言が潔い。

●高田大介『図書館の魔女 第一巻』(講談社文庫:2016.04.15/2013)【¥680】[10/28]《ジュンク堂書店明石店》

 北欧ミステリーか国際謀略小説か、それとも滅多に読まないファンタジーかで迷い、ファンタジーに決めてからも「八咫烏」にするか「図書館の魔女」にする かでさんざん迷い、結局、「超スリリングな外交エンターテインメント」という帯の言葉(大森望)が決め手になった。

●磯部忠正『「無常」の構造──幽[かみ]の世界』(講談社新書:1976.11.20)【古¥297】[10/30]《Amazon(二十五年堂)》

 オギュスタン・ベルク著『風土の日本』で言及されていた(241頁〜、256頁〜)。

《自然のいのちのリズムという観念は、われわれの祖先がその定住農耕生活の経験のなかで体得したもので、やがて集団生活を支える「祭り」となって様式化さ れた。…大きないのちの流れに個体の生命が包みこまれ、いのちを更新される手続きの象徴である。/ただし、日本人のこの「無私」の生き方は必ずしも明るい 楽天的な側面ばかりではない。…わたしは日本人の「無私」の生き方のこの両面を、「幽[かみ]」という概念で統合することができるのではないかと思う。そ して、その発想の手がかりをわたしは、富士谷御杖の所説に求めたのである。》(はしがき)

●中野研一郎『認知言語類型論原理──「主体化」と「客体化」の認知メカニズム』(京都大学学術出版会:2017.11.15)【¥3500】 [11/23]《ジュンク堂書店明石店》

 ほぼひと月ぶりの新刊書漁りで気になったのが、大橋力著『ハイパーソニック・エフェクト』(岩波書店:2017.09.22【¥6400】)と本書の二 冊。芸能山城組の主宰者・山城祥二「と頭脳と肉体とを共有する科学者」(37頁)大橋力による前著は近所の県立図書館で借り受け、比較的安価の後著を購入 した。
 再読中の『言語学の教室』(西村義樹・野矢茂樹)とあわせて読むつもり。(できれば、随分以前に購入したままの田中久美子著『記号と再帰──記号論の形 式・プログラムの必然』(東京大学出版会:2010.06.23【¥3600】)もあわせて読みたかったが、これはまた別の機会に。)。

●高田大介『図書館の魔女 第二巻』(講談社文庫:2016.04.15/2013)【¥780】[12/02]《ジュンク堂書店明石店》
●高田大介『図書館の魔女 第三巻』(講談社文庫:2016.05.13/2013)【¥700】[12/02]《ジュンク堂書店明石店》
●高田大介『図書館の魔女 第四巻』(講談社文庫:2016.05.13/2013)【¥1000】[12/02]《ジュンク堂書店明石店》

 血湧き肉躍って、本を措く能わないところまで行ったわけではないけれど、じわじわと術中にはまり、第一巻で終えるわけにはいかなくなった。

●内田樹・安田登『変調「日本の古典」講義』(祥伝社:2017.12.10)【¥1600】[12/04]《honto》

 序文を担当した内田さんが、「安田さんと僕は二人ながら「昔の人の心身のうちに想像的に入り込む」ということの専門家です。」と書いている。安田さんは 後書きで、「この本は、こんな内容の本だった」と人に説明することができないのが正しい本のあり方で、古典と呼ばれる書物のほとんどがそうだと書いてい る。この二つの言葉をつなげると、凄い古典論になる。

●時枝誠記『国語学史』(岩波文庫:2017.10.17)【¥900】[12/09]《梅田蔦屋書店》

 来年前半のテーマは「映画/イメージ/記憶」で、後半のテーマが「やまとことばの論理」になる予定。それに向けた準備体操のために。

●若松英輔『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋:2017.12.10)【¥3000】[12/17]《ジュンク堂書店三宮店》

 この本と安藤礼二さんの近刊(井筒俊彦の英文著書『呪術と言語──発話の呪術的機能の研究』の翻訳書で、かねてから「12月刊行予定」の予告あり)の二 冊で今年を締めくくるつもり。

●小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫[電子書籍版]:2013.05.03)【¥940】[12/18]《楽天kobo》
●小林秀雄『学生との対話』(新潮文庫[電子書籍版]:2017.07.21)【¥583】[12/18]《楽天kobo》

 坂部恵著作集で、「「罪と罰」についてU」に次の文章があるのを知った。
「そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフといふ人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、さういふ一切の人間 的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据えられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感 覚を経験するのである。」
 学生の頃、文庫本で読んだような気がする。

●中井正一『美学入門』(朝日選書:1975.02.20)【古¥1】[12/21]《Amazon(六畳ブック)》

 「美学入門」とあわせて収録されている「日本の美」が読みたかった。石川九楊著『日本論』で言及されていた。

●田中優子・松岡正剛『日本問答』(岩波新書:2017.11.21)【¥】[12/24]《ジュンク堂明石店》
●カズオ・イシグロ『夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄訳,ハヤカワepi文庫:2011.02.15)【¥780】 [12/24]《ジュンク堂明石店》

 今年買いそびれた新書から一冊選んだ。他に、『ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環』(鶴岡真弓)、『脳の誕生』(大隅典子)、『脳の意識 機械の意識 ──脳神経科学の挑戦』(渡辺正峰)など。これらもいずれ手に取ることになると思う。
 あわせて買った「ノクターン」は、単行本刊行時から気になっていた買いそびれ本。文庫化されたのを機に購入するつもりだったのが、二重に買いそびれてい た。

●石川淳『狂風記』上下(集英社e文庫:2000.10.20)【¥699×2】[12/27]《楽天kobo》

 その昔、文章修行のため石川淳の『夷斎筆談』を書き写していたことがある。学生時代に読んだ心に残る本の中にも石川淳の短編が含まれている。また読みた くなった。
 書き写したことがあるのは、その他に谷崎潤一郎の「陰影礼賛」、開高健の「白いページ」シリーズや澁澤龍彦のエッセイ。


【読了】

●安田登『能──650年続いた仕掛けとは』(新潮新書:2017.09.20)[10/04]

 本を作るのは編集者だ、と安田師は語っていた。けっして否定的に語っていたわけではないが、本書を読んで、あれは安田師の無意識が言わせた怨み節だった のだと理解した。
 たしかに読みやすくてとても勉強になる、いい出来の啓蒙書に仕上がっていると思うが、安田ワールドのテイストが薄くて面白くない。豆から本格まで知識は たくさん仕込めるが、そんなことなら別に安田師の本でなくてもよい。
 もちろん、安田師の本でないと目にすることができない洞察や知見や仮説がちりばめられているが、それらは断片的に綺羅星の如くちりばめられているだけ で、つながっていかない。編集者によって殺されている?
 もっと過激にもっと逸脱して、このあたりはたぶん書き手の身心がブッ飛んでいたんだろうな、と読み手に気づかせる痕跡が拭いがたく滲み出てくるようでな いと、安田師の本を読む値打ちはない。
 こんなに毒づく予定ではなかったのに、書いているうち何かが降りてきた。(繰り返しになるが、啓蒙書としては出色の出来栄えだと思う。)

●弘兼憲史『黄昏流星群54』(小学館ビッグコミックス:2017.06.04)[10/01]
●波津彬子『鏡花夢幻』(朝日新聞出版[電子書籍版]:2016.03.04)[10/08]
●かわぐちかいじ『空母いぶき1』(小学館ビッグコミックス:2015.10.05)[10/09]

 弘兼本とかわぐち本は予想(期待)どおり。かわぐち本は『沈黙の艦隊』などと比べて絵的な部分が増量された感じ。大型本か彩色版で読むと迫力が増す。
 『鏡花夢幻』は電子版では不満が残る。9月末から10月上旬にかけて、金沢21世紀美術館の茶室で「鏡花夢幻」原画展(波津彬子が描く泉鏡花の世界、舞 台「天守物語」関連プログラム)が開催されていた(らしい)。見たかった。

●清水真木『新・風景論──哲学的考察』(筑摩選書:2017.08.15)[10/17]

「風景の経験とは、現地に身を置くことにより、地平だったものを地平だったものとして、いわば「完了形」において語ることであり、「見えないもの」へと向 けられた非反省的なまなざしにより、私たち一人ひとりの存在の根源へと還帰することである」(221-222頁)。

●ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 吊された少女』上下(吉田奈保子訳,ハヤカワ文庫:2017.05.15)[10/18]

 途中でグレイマン・シリーズの最新作を挟んだので、特捜部Qの世界にうまく入れなかった。それが影響したのかどうか、前二作と比べやや冗長な印象。この 作品でも最後に関係者がバタバタと死んでしまうのに不満が残る。「わらの犬」の衝撃のラスト、みたいな結末を求める荒んだ精神状態で読んだものだからこん な感想になった。

●ノーム・チョムスキー他『チョムスキー言語学講義──言語はいかにして進化したか』(渡会圭子訳,ちくま学芸文庫:2017.10.10) [10/20]

 まともに読んだことのないチョムスキー言語理論への入門書かと思って入手した。でもそんな柔な本でも血湧き肉躍る本でもなかった。
 「岡ノ谷(一夫)」の名が二度ばかり出てきたのが嬉しかった(164頁、185頁)。「結論としては、鳥の歌は発話のモデルにはなっても、言語のモデル にはならない。」(183頁)
 それでは「人間の言語」はどのように規定されるのか。本書では、次の三つの要素が繰り返し述べられる。

《第一の要素は、言語のCPU≠ナあり、基本的な合成演算である併合≠ナある。残りの二つ、感覚−運動システムと概念−意図システムへのインターフェ イスは、併合で組み立てられた構造から外在化≠ニ内在化≠フシステムに写像する。外在化には形態音韻論、音声学、プロソディ、その他、話し言葉や身ぶ り言語の実現、音声言語や手話の統辞解析のすべてを含む。内在化は併合によってできた階層構造を推論、計画などと関連付ける。》(146-147頁)

 併合によって組み立てられる構造が「階層性」をもっていること(「線形性」は外在化のシステムにかかわること)を強調し、人間が言語を獲得したわけ、す なわち言語が発生する原動力となったのは「コミュニケーション」ではなく「内的思考」であったこと(145頁、214頁)を追加すれば完成する。

●カズオ・イシグロ『日の名残り』(土屋政雄訳,ハヤカワepi文庫:2001.5.31/1989)[10/25]

 ある時期、カズオ・イシグロの作品を集中的に読みかけたことがあった。もともとは短編集『夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』が読みたかっ た。素直に読めばいいものを、その前にひととおりそれ以前の作品を読んでおこうなどと企てて、『遠い山なみの光』『浮世の画家』と読み進め、すっかりは まったと思ったのに、なぜだか『日の名残り』の途中で中断してしまった。調べてみるともう八年も前のことになる。
 ノーベル賞受賞でそのことを思い出し、おもむろに続きを読み始めたら、これがとにかく面白い。何がどう面白いのかは、それこそ小説を読む面白さとしか言 いようがない。「わたしは、男がこんなに哀れ深く泣くイギリス小説を、ほかに読んだことがない。」丸谷才一の解説で言い尽くされている。

●松浦壮『時間とはなんだろう──最新物理学で探る「時」の正体』(講談社ブルーバックス[電子書籍]:272017.09.19)[10/27]

 岩波新書の『物理学はいかに創られたか』(アインシュタイン,インフェルト)や『物理学とは何だろうか』(朝永振一郎)や『数学入門』(遠山啓)やその 他諸々の啓蒙書、入門書の類をかつてどれほど読み漁ったことか。あの頃の(かれこれ四十年近く前の)知的興奮の片鱗か残り香のようなものは漂いかけたけれ ど、やはり紙の本でないとダメだった。結局、時間とはなんだったのだろう?

●中山裕木子『会話もメールも 英語は3語で伝わります』(ダイヤモンド社:2016.10.14)[10/28]

 2か月かけて少量ずつ毎日服用した。英語表現力は実地に試さないと向上したかどうか分からないが、(日本語での)思考力は確実に身についたような気がす る。

●清水栄司『大人の人見知り』(ワニブックスPLUS新書:2017.06.25)[10/28]

 森田正馬(まさたけ)が「対人恐怖症」と名づけ、今では「社交不安症」(Social Anxiety Disorder:SAD)と呼ばれる症状の予備軍が「大人の人見知り」。ずいぶん濃く深い内容をもった書物。『英語は3語で伝わります』と同時並行的に 読んでいた。

●オギュスタン・ベルク『風土の日本──自然と文化の通態』(篠田勝英訳,ちくま学芸文庫:1992.09.07/1988)[10/30]

 イーフー・トゥアン著『空間の経験』に続き、今年二冊目の地理学系翻訳本。歴史性(時間)と風土性(空間)のうち、風土系の書物は気持ちが入らず、これ までは歴史系に偏りすぎていた。
 最後の3節(35〜37節)が圧倒的。特に、文化における主体の問題を扱う「35 主体はさまよってもいい、ただし理性の眼差しのもとで」が圧巻。──「懸け言葉」のメカニズム、「型」という概念、坂部恵のフランス語論文「メタファと主 体の問題」[https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action= pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id =40578&item_no=1&page_id=28&block_id=31]が取り上げた「連歌」、「通態」的論理と 「場所」の論理の同等性、時枝誠記の「場面」と西田幾多郎の「場所」と「風土[milieu=中間]」の同等性、古論理、言語(langages)と言葉 (verbe)、等々。
 中味が濃すぎて、とても消化できない。以下は、最終節の冒頭。

《私には確実と思われるのだが、日本語で文法上の主語がはっきりしていない、あるいは必要ではないということと、日本固有のある傾向の間には何らかの繋が りがあるようだ。その傾向とは、主体を環境に溶かし込み、人間と事物の一体化を尊び、言葉によるコミュニケーションを貶め、他の言語活動langages を尊重し、理性の働きよりも感受性を高く位置づけ、自然や自然的なものや気分や雰囲気や風土を讃美するというものであり、これは要するに人格の個別化を排 斥し、共同的な一体性を称揚するという傾向である。》(370-371頁)

●磯部忠正『「無常」の構造──幽[かみ]の世界』(講談社新書:1976.11.20)[11/09]

 理論篇(第2章「日本人の神観念──富士谷御杖の思想」、第3章「「あはれ」と「無常」」)のうち、富士谷御杖の神観、言霊論を通じて、「顕」の立場か らみた「幽(かみ)」の世界の実質、すなわち「大自然のいのちのリズム」に到達するその理路。実証篇(第4章「無私の倫理の系譜」、第5章「漱石と賢 治」)のなかでは世阿弥の、「花は心」の「幽」の思想をめぐる前後の叙述。この二箇所が本書の読み所。

《もちろん、ここに言う「花は心」の「心」は、演能者のこころであって、観客のこころではない。演能者があらゆる年齢と、役割と演出に即してつくり出す 「態[わざ]」すなわち型によって表現するこころであり、それが同時に観る者のこころに花を感ぜしめることになる(西尾実氏は『中世的なものとその展開』 において、紀貫之が『古今和歌集』の序に「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と言って、人のこころが種となりその花として歌が 生まれるという考え方と、この世阿弥の「花は心」の考え方とはこころの位置づけが転換している点を指摘し、これを芸術の中世的展開であるとして重視してい る)。
 ここまでくると、真の花はこころであり、この花を咲かせるために、眼に見える花や形や、耳に聞こえる音のすべてが動員されるということがわかる。能とい う芸術はが色や形や音を動的に組みあわせて成り立つものであるだけに、それらがすべて色や形や音のない、その奥にあるこころを表現することを目的とすると したら、これこそ「幽」の芸術と言わなければならない。》(153頁)

 抜き書きした文中、括弧書きの貫之歌論と世阿弥能楽論との対比のところがとくに面白い。ただ、ここを最初に読んだときは自然に読めたのに、書き写してみ ると文章の結構がおかしい。これは話し言葉で書かれている。途中で文章の次元が一段高くなっている。話し言葉に特有の感覚。

●湯浅泰雄『身体論──東洋的身心論と現代』(講談社学術文庫:1990.06.10/987)[11/17]

 文庫解説をトマス・P・カスリスが書いている。同時に読んでいた『思想としての言語』(中島隆博)にカスリスの名前が出て来る。この偶然の一致に、何か 意味があるのだろうか。再読・常備本。

 序 説 研究の目的と問題の概観
   1 近代日本哲学
   2 二元論の実践的克服
   3 修行の歴史と理論
   4 身体論四現代科学
 第一章 近代日本哲学の身体観
  一 和辻哲郎の身体観をめぐって
    (1) 人と人の間における空間と身体
    (2) 時間・空間経験の把握にみられる東西の思考様式
    (3) 心身の一体性について
  二 西田幾多郎の身体観をめぐって
    (1) 行為的直観における身体の両義的性格
    (2) 時間意識と空間意識の身体に対する関係
    (3) 有の場所から無の場所へ
    (4) 意識における二重の層
    (5) 場所的経験における直接的な明証ということ
    (6) 行為的直観の二重の構造
    (7) 西田哲学の方法についての問題点
  三 東洋思想研究の態度と方法
    (1) 方法論的反省の必要
    (2) 東洋の形而上学と深層心理学
 第二章 修行と身体
  一 修行とは何か
    (1) インド仏教における戒律
    (2) 中国・日本における戒律観念の変化
    (3) 日本仏教における戒律と修行の関係
    (4) 修行の意味内容
  二 芸道論
    (1) 歌論における稽古と修行
    (2) 和歌陀羅尼観
    (3) 世阿弥における「わざ」と「心」
    (4) 無心と心身一如
  三 道元
    (1) 禅の実践的性格は何を意味するか
    (2) 修行による日常的な存在理解の転回
    (3) 参禅における心身関係のとらえ方
    (4) 日常的次元からの脱落
  四 空海
    (1) 中国仏教の特性と密教のインド的性格
    (2) 十住心教判と修行
    (3) 身体と性の問題
    (4) マンダラにみられるエロスの昇華
    (5) クンダリニ・ヨーガの瞑想との比較
    (6) 即身成仏における心身関係
    (7)  修行における身体の両義性の克服
 第三章 東洋的身心論の現代的意義
  一 現代の哲学的心身論とその問題点
   1 ベルクソンの運動的図式
    (1) 知覚と記憶の相互浸透の底にあるもの
    (2) 脳の役割と身体の運動的図式の想定
   2 メルロ=ポンティの身体的図式
    (1) 感覚・運動回路と身体的図式
    (2) 内部知覚の問題
    (3) 習慣的身体の層における実存的指向弓
    (4) メルロ=ポンティの身体論への一般的評価
   3 情動の問題
    (1) 感覚・運動回路の底にあるもの
    (2) 情動の二つの方向
  二 心身関係の二重構造
   1 表層的構造と基底的構造
    (1) 生理心理学的にみた身体と心の二重構造
    (2) 心身相関性の生理心理学的研究と東洋思想
    (3) 心身論研究の発展とその哲学的意義
   2 心身関係の日常的理解の逆転
    (1) ベルクソンの仮定の再評価
    (2) 直観と無意識
  三 東洋的瞑想の領域
   1 心理療法と修行の比較考察
    (1) 心身医学における疾患と治療の意味
    (2) 心理療法と修行の共通点と差異点
    (3) インド的瞑想にみられる心身関係のメカニズム
   2 形而上学と心身論
    (1) 東洋的形而上学への通路としての心身論
    (2) インド・中国医学の身体観の特異性
    (3) 直観と人間性
    (4) 超感覚的認知の問題
 結 論

●中島隆博『思想としての言語』(岩波現代全書:2017.09.21)[11/23]

 素材はとても蠱惑的。「やまとことばの論理」に取り組む際の参考書。

  第一部 日本における思想としての言語──普遍に向かって
 第一章 空海の言語思想
 第二章 『古今和歌集』と詩の言語
 第三章 本居宣長と夏目漱石の差異
  第二部 近代における思想としての言語(一)──救済の場所
 第四章 時代に切線を引くには──ヴァルター・ベンヤミン、竹内好、戸坂潤
 第五章 日本的基督教と普遍──内村鑑三
  第三部 近代における思想としての言語(二)──垣間見られる秘密
 第六章 ローカルな精神性と近代──日本近代文学から
 第七章 神秘をめぐって──井筒俊彦と老荘思想
  結論にかえて

●『坂部恵集5──〈日本〉への視線、思考の文体』(岩波書店:2007.3.28)[11/25]

 毎日少量(少頁)ずつ、声に出して読み進めた。
「遠い遥かな波のような、きっと折口さんが心の底に隠している水流のようなもの、文体になりきれない文体のようなもの」「この奇妙な感じ、逸脱でもなし、 なんというのでしょうか、二重水流のような感じ、熱い水と静かな水が一緒に、あるいは高い空気と低い空が……一緒になって、……」
 吉増剛造の「折口信夫ノート・2」の文章を引き写し、まるで折口=吉増の詩心に「ふれ」、「うつり」あうようにして「どちらが「かげ」か、どちらが「か たち」か、もはや分明でないようなおもいの飛躍、二重飛翔。」と言葉を継いでいく「風の通い路」をもって著作集は閉じられる。
 つづけて第四巻を読む。第5巻と同様、朗読しながら、少しずつ読む。

●西村義樹・野矢茂樹『言語学の教室──哲学者と学ぶ認知言語学』(中公新書:2003.06.25)[12/01再読]

 メトニミーとメタファー、言語の創造性をめぐる後半の議論は何度読んでも興奮する。再々読本。

●尾畑雅美『パーソナル・フレンド──情報に生きる』(未来をひらく日本委員会発行[非売品]:2017.09.29)[12/01]

 著者はNHKの元専務理事。縁あって恵贈いただいた。本書は「自叙伝」というか「武勇伝」。これを原作にして社会派ドラマができたら(たとえば「ハゲタ カ」を放映した枠で)きっと面白い、血湧き肉躍る作品になると思う。

●高田大介『図書館の魔女 第一巻』(講談社文庫:2016.04.15/2013)[12/02]

 スタジオ・ジブリの宮崎駿監作品を音声抜きで観ているような不思議な感覚。文章が上質の蒸留酒のように端麗。
 政治、外交は言語の技である。だとするならば、これは言語学者が書いた言語学ファンタジーであり、外交・政治ファンタジーである。

●石川九楊『日本論──文字と言葉がつくった国』(講談社選書メチエ:2017.10.10)[12/02]

 日本語という単一言語はない。日本語とは漢字語とひらがな語、これに未熟なカタカナ語を含めた混合言語である。このような日本語の構造を視覚的にあらわ しているのが尾形光琳の「紅白梅酢図屏風」の斜めの構図であり、また日本人の美意識を体現する「寸松庵色紙」の分かち書きである。日本とは「文字と言葉が つくった国」なのである。

●内田樹・安田登『変調「日本の古典」講義』(祥伝社:2017.12.10)[12/10]

 京都のた丸善で、刊行記念と銘打って開催され「講演会&サイン会」に参加した。怪しい二人の怪しい公開トーク。
 安田さんが古事記に関して述べたある仮説が印象深かった。いずれ刊行される古事記論で確認しよう。(私の怪しい仮説。文字の起点は、薬物や性交や瞑想に よる陶酔を通じて浮かびあがった抽象的な線である。)

●高田大介『図書館の魔女 第二巻』(講談社文庫:2016.04.15/2013)[12/15]

 キリヒトの素性が明らかになる辺りから俄然面白くなってきた。──なぜキリヒトの先生はキリヒトに文字を教えなかったか。文字は留(とど)まる、文字は 止(と)まるからである。

《──かつてお前に教えたように言葉は時間と共にある。時間の中にしかない。だがなるほど文字は時間を超える。ここに文字の背理がある。文字、そして書 物、そして図書館。本性を時間の中に置きながら、仮象において時間を超えているもの。時間の中で留まり続ける、時間を超えて在り続けるもの、ずっと在り続 けるもの、継続するもの、続くもの、残るもの、それが私の関心の範囲だ。私の守るものだ。だがお前は違うものを追っていたんだね。お前は運動の中に身を置 いている。消え去るもの、時間を逃すことの出来ないものをめぐって教育を受けていたんだね。
 お前が学んできたものは、瞬間の中に存していて、流れる時の中にしかなくて、止めてしまうことが本質的に意味をなさないようなものだったんだ。
「つまり?」
 キリンがマツリカの韜晦に焦れて結論を急かす。
 ──そうだね。たとえば音楽かな。いやむしろ演奏。あるいは舞踏。
 はぐらかすマツリカにキリンは不満を隠さない。キリンが想定していた答はもちろん‘武術’だったのだ。》(239頁)

●中沢新一『熊を夢見る』(角川書店:2017.10.27)[11/26]
●中沢新一『虎山に入る』(角川書店:2017.10.27)[12/16]

 深甚な思想を記録した古代文書か高純度の短編小説のような仕事を集録した書物。『ミクロコスモス』と並ぶ常備本。

●真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫:2003.08.19/1891)[12/20]

 形式美が実質をともなった魅力的な書物。応用力に富んだ刺激的な考察。再読本・常備参照本。

 序 章 時間意識と社会構造
   一 〈死の恐怖〉および〈生の虚無〉
   二 〈現在する過去〉と〈過去する現在〉
   三 具象の時間と中小の時間
 第一章 原始共同体の時間意識
   一 「聖と俗」──意味としての過去
   二 共同時間性・対・共通時間性
   三 サマニの解体──意味としての未来
 第二章 古代日本の時間意識
   一 神話の時間と歴史の時間
   二 氏族の時間と国家の時間
   三 世間の時間と実存の時間
 第三章 時間意識の四つの形態
   一 時間意識の四つの形態
   二 ヘレニズム──数量性としての時間
   三 ヘブライズム──不可逆性としての時間
 第四章 近代社会の時間意識──(T)時間への疎外
   一 〈失われた時〉──カルヴァンの地獄
   二 〈見出された時〉──自我の神話
   三 時間への疎外と時間からの疎外
 第五章 近代社会の時間意識──(U)時間の物象化
   一 内的な合唱と外的な合唱
   二 時計化された生──時間の物神化
   三 時間のニヒリズム──時間意識の疎外と物象化
 結 章 ニヒリズムからの解放

●ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史──文明の構造と人類の幸福』上下(柴田裕之訳,河出書房新社[電子書籍版]:2016.09.15) [12/21]

 昨年買いそびれ、読みそびれた本。ちょっとした時間ふさぎに少量ずつディスプレーを眺め、ほぼ三ヶ月かけて読み終えた。
 上巻の認知革命、農業革命のあたりにもともと強く惹かれていた。読み進めていくうち、科学と帝国と資本主義が手を携えて突き進む近現代が面白くなって いった。

●中野研一郎『認知言語類型論原理──「主体化」と「客体化」の認知メカニズム』(京都大学学術出版会:2017.11.15)[12/23]

 抜き書きノートをとりながら毎晩読んだ。「やまとことばの論理」に取り組む際の起点。

  第1部 「客観」という名の主観
 第1章 本書の目的と理論的背景
 第2章 言語類型論における「客観」主観の限界

  第2部 言語における「客体化」論理:英語を中心に
 第1章 言語類型論における文法カテゴリの諸問題:
     「格」・「主語/目的語」の類型論における非普遍性
 第2章 「客体化(objectification)」の認知メカニズム:
     「類像性」と「認知Dモード」

  第3部 言語における「主体化」論理:日本語を中心に
 第1章 「日本語[やまとことば]」の論理@:
     「認知様態詞(形容詞)」と「認知標識辞」の「が/ga/(由来・契機)」
 第2章 「日本語[やまとことば]」の論理A:
      認知標識辞「は/wa/・が/ga/・で/de/・を/wo/・に/ni/」
 第3章 「日本語[やまとことば]」の論理B:
     「態」及び「時制」の不在
 第4章 「日本語[やまとことば]」の論理C:
     「音=意味」による「主体化」と「主体化」論理の拡張及び変容

  第4部 言語のグレイディエンス:
      英語の中の「主体化」論理と日本語のアクロバシー
 第1章 英語における「主体化(modalization)」現象:
     「中間構文」・「構文イディオム」・「場所主語構文」・「再帰構文」
 第2章 日本語のアクロバシー:「造語」と「脳内処理」
 第3章 「認知言語類型論」が予測する世界の言語のグレイディエンス分布

●九鬼周造『人間と実存』(岩波文庫:2016.08.17)[12/25]
 
 来年は九鬼周造に沈潜してみようと思っている。

 一 人間学とは何か
 二 実存哲学
 三 人生観
 四 哲学私見
 五 偶然の諸相
 六 驚きの情と偶然性
 七 形而上学的時間
 八 ハイデッガーの哲学
 九 日本的性格

●山田哲平『反訓詁学――平安和歌史をもとめて』(書肆心水:2017.01)[12/25]

 この著者の本性がつかめない。気になる。「貫之のカノン」という本書のテーマに惹かれるが、掴めない。

 第一章 平安和歌史概観
 第二章 日本はいかにして中国から離脱したか
 第三章 貫之と永遠
 第四章 伊勢 怒涛と超出
 第五章 復古歌人としての崇徳院
 第六章 式子内親王 隣接の孤絶
 第七章 須磨・明石 貫之から俊成女へ
 第八章 俊成女 月
 第九章 俊成女 桜と梅
 第十章 俊成女 仏法と桜
 間 章 出会わない眼差し
 第十一章 俊成女 昇華と超越
 第十二章 二つの建物と「忘れがたき節」

●松本紘『改革は実行──私の履歴書』(日本経済新聞出版社:2016.05.18)[12/25]

 縁あって二年連続、日経新聞社主催の講演会で理化学研究所理事長としての著者の話を聴く機会があった。本書にも書いてあるが(201頁)、日本でイノ ベーションを起こすためには、「基礎研究をじっくりする研究者」と「イノベーションデザイナー」(社会のあるべき姿を考え、アイデアを出し、夢を示し、社 会のビジョンを呈示するだけで、実行しなくてもいい)と「研究をマネジメントする目利き」の三者が足並みを揃えるようにしなければならない、という主張に 感銘を受けた。
 そのあたりのことをじっくり知りたいと思い、講演会で配布された本書を読んだところ、肝心のイノベーション論は最後の第10章にまとめて少し書いてある だけだったが、それまでの著者の生い立ち、研究生活、京大副学長・学長時代の話が滅法面白かった。
 本書に刻まれた叡智の言葉をいくつか。「学問とは、真実をめぐる人間関係である」(164頁)。「人間の力は四つのガクリョクからなる」。「学力」、 「額力」(前頭葉の力、人の気持ちを感じ取り思いやる能力)、「楽力」(何事も楽しめる能力)、そして「顎力」(議論、対話のコミュニケーション能力)だ (193頁)。

●高田大介『図書館の魔女 第三巻』(講談社文庫:2016.05.13/2013)[12/25]

 外交小説((c)東えりか@文庫解説)の面白さがいよいよ前面に出てきた。第四巻へ、一気読みの趨勢。
 興味深いのはマツリカの言語哲学的世界。物語にとっては余分(少なくとも過剰)なのかもしれないけれど。

「お前は言葉の夢って見るかい?(略)声でも字でもない。もっと抽象的な言葉そのものが溢れて、溺れる……形を持たぬ言葉で頭がいっぱいになって、息が詰 まる……言葉から形も音も意味も削ぎ取ってしまって、それでも残る言葉の核のようなものが膨れあがって私の内側を充たしてしまう……苦しくても眼は覚めな い。」(172-173頁)

《マツリカにとって言語というものは原則としてしごく透明なものだった。
 その一方でマツリカには、よく知っているはずの言葉がまるで得体の知れない不定形の怪物のように思えることがある。この世界を分節して整序するはずの言 葉が、図書館の各階層に行儀良く収まって整理されているはずの言葉が、どうかすると、その正体を失ってしまうように思えることがあった。
 論理や分別を突きつめたその先で、音と意味とを、あるいは手指運動と意味とを結びつけていた神秘的な紐帯がほどけて、意味と形をはぎ取られた裸形の渾沌 が言葉の核に姿を現す。その渾沌の引力が意味や形をひとかたまりの言葉として呼び集めて、理性の道具となる言語を形作っていくはずなのに、この渾沌そのも のはおよそ非知的な、およそ非理性的なものに感じられるのだ。言語の核に、なにか言語によっては辿り着きえない闇が隠されている。
 その闇が意識の表層に滲みだしてくると、マツリカは言葉の世界での方向感覚を見失ってしまい……戻れなくなってしまう、そんな気がする。》(177- 178頁)

●高田大介『図書館の魔女 第四巻』(講談社文庫:2016.05.13/2013)[12/26]

 最終巻は、一日で読み終えた。外交小説にして武闘小説、工学小説にして純愛小説。「図書館の魔女は月冴える海原の夢を見ていた。」この最後の文章が清冽 だった。
 本巻のマツリカの言葉。「言葉は何かを伝えるためにあるんじゃないよ。言葉そのものがその‘何か’なんだ。言葉は意思伝達の手段なんじゃない。言葉こそ 意思、言葉こそ「私」……(略)私が死んでも。私が滅しても、私の言葉はまだ滅びない。」(589頁)