【購入】
●マーク・グリーニー『機密奪回』上下(田村源二訳,新潮文庫:2017.04.01)【上¥790,下¥710】[04/04]《喜久屋書店明石駅ビル
店》
鮮烈なジャック・ライアン・シリーズ外伝(スピンオフ)。ドムことドミニク・カルーソーの壮絶な単独冒険譚。なんともスリリングな戦闘インテリジェン
ス・エンタメ小説。──以上、「訳者あとがき」から。
●國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院:2017.04.01)【¥2000】[04/07]《ジュンク堂三宮店》
アオリスト、前未来形、四人称、等々、詩的言語のための文法というテーマに取り憑かれている。
●絲山秋子『離陸』(文春文庫:2017.04.10/2014.09)【¥910】[04/24]《喜久屋書房明石駅ビル店》
久しぶりの絲山ワールド。
●北川智子『ケンブリッジ数学史探偵』(新潮新書:2015.08.20)【¥700】[04/29]《ジュンク堂書店明石店》
北川智子をとりあげたテレビ番組(「セブンルール」)を観て、少し心が動いた。
●折口信夫『古代研究X 国文学篇1』(角川ソフィア文庫:1977/2017.04.25改版)【¥920】[04/29]《ジュンク堂書店明石店》
●折口信夫『古代研究Y 国文学篇2』(角川ソフィア文庫:1977/2017.05.25改版)【¥1240】[06/03]《ジュンク堂書店明石店》
シリーズのVとWを飛ばして先に購入。
●永井均・入不二基義・森岡正博『現代哲学ラボ第4号──永井均の無内包の現実性とは?』(MIDアカデミックプロモーションズ[Kindle版])
【¥370】(05/04)
『存在と時間──哲学探究1』の第二部が、なぜか読め進められない。
●三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学──「存在」と「自己」を考える』(二見文庫:2017.05.25)【¥700】[05/15]《梅田蔦谷書店》
この本はNHKブックス版(1997年版)で読んだ。
●貫井徳郎『後悔と真実の色』(幻冬舎文庫[電子書籍版]:2013.01/2009.10)【¥899】[05/15]《honto》
●貫井徳郎『宿命と真実の炎』(幻冬舎[電子書籍版]:2017.05.10)【¥1555】[05/27]《honto》
ときどき硬派の警察小説が読みたくなる。
●長命俊子『文学(リズム)の精神分析とパラノイア──フロイド,ラカン,芭蕉,世阿弥,ダニエル(ダンテ)』(リーベル書房:2003.01.01)
【¥1500】[05/21]《Amazon》
世阿弥×芭蕉で検索して見つけた。タイトルに惹かれて衝動買い。
●イーフー・トゥアン『空間の経験』(山本浩訳,ちくま学芸文庫:1993.11.04/1977)【¥1400】[05/28]《ジュンク堂書店明石
店》
友人がフェイスブックに『モラリティと想像力の文化史―─進歩のパラドクス』を愛読書として紹介していた。
●イアン・コールドウェル『第五の福音書』上下(奥村章子訳,ハヤカワ文庫:2017.05.25/2015)【¥900×2】[上06/05、下
06/14]《喜久屋書店明石駅ビル店》
夢中になって読める小説を探して、勘を頼りに購入した。
面白くなければ途中で放り投げると決めて読み始めた。最初はハズレかと不安にかられたが、題材、趣向が好みだったので我慢して読み進めているうち(夢中
とまではいかずとも)少しずつ作品世界に入っていけた。
●『伊藤静雄詩集 日本の詩人 [Kindle版] 』(古典教養文庫:2013.07.02)【¥99】[06/14]《Amazon》
●伊藤静雄『春のいそぎ [Kindle版] 』(詩刻書林:2013.02.14)【¥100】[06/14]《Amazon》
三島由紀夫の文章(「柳桜雑見録」「古座の玉石──伊藤静雄覚書」)に刺激を受けて。
●加藤典洋『敗者の想像力』(集英社新書:2017.05.22)【¥780】[06/18]《ジュンク堂書店明石店》
『戦後入門』の余韻がまだ冷めない。
●雫井脩介『合本 検察側の罪人』(文藝春秋【文春e-Books】:2017.06.20)【¥1300】[06/20]《honto》
貫井徳郎の「真理」シリーズと一緒に読みたいと思っていた。
●折口信夫『日本文学の発生・序説』(角川ソフィア文庫:1975/2017.06.25改版)【¥960】[06/24]《ジュンク堂書店明石店》
●小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎──共鳴する明治の精神』(岩波新書:2017.06.20)【¥840】[06/24]《ジュンク堂書店明石店》
『日本文学の発生・序説』のために書店へ出向き、新聞広告で見つけて気になったいた小林本をセットで購入した。
折口本の新版解説(三浦雅士「凝視と放心」)は素晴らしかった。これを読むだけで元が取れる。(そういえば『古代研究』の新版は安藤礼二の解説が読みた
くて買ったようなものだった。)
●山田哲平『反訓詁学――平安和歌史をもとめて』(書肆心水:2017.01)【¥2200】[06/25]《honto》
「平安和歌史」はこれまで存在していなかった──
貫之から俊成女まで、歌の内在的読解から平安和歌史を構造的に呈示する初の試み
平安和歌を構造的に関係づける観点としての桜の花をめぐる「貫之のカノン」を発見。初めて統一的な視点から描き出した平安和歌史の構造が、平安和歌史の
真の主役は誰であるかを明るみに出す。【帯の文章】
【読了】
●真山仁『バラ色の未来』(光文社:2017.02.20)[04/04]
『騎士団長殺し』よりはドライブ感があって、『機密奪回』より密度が薄い。もっと書き込み、もっと捻らせたら爽快感みなぎる傑作になり得たと思う。
●マーク・グリーニー『機密奪回』上下(田村源二訳,新潮文庫:2017.04.01)[04/11]
継続中の本を全部わきにおいて、一気読み(といっても一週間かかった)。
●川田稔『柳田国男──知と社会構想の全貌』(ちくま新書:2016.11.10)[04/26]
加藤典洋著『戦後入門』に続き、五ヶ月かかって読了。
●北川智子『ハーバード白血日本史教室』(新潮新書:2012.05.20)[05/02]
●北川智子『ケンブリッジ数学史探偵』(新潮新書:2015.08.20)[05/11]
テレビ番組での「数学と歴史は同じ」という発言が気になっていた。その答え(らしきもの)を最後に見つけた。
《数学と歴史は、どちらも「パターンを創造する研究」です。言い換えると、数学の研究も歴史の研究も、今まで見えなかったものを可視化させる仕事です。何
もない真っ白な紙から全ては始まり、無限にある題材から、有限の時間になしうることを試行錯誤しながら綴っていくのです。》(『ケンブリッジ数学史探偵』
163頁)
●永井均・入不二基義・森岡正博『現代哲学ラボ第4号──永井均の無内包の現実性とは?』(MIDアカデミックプロモーションズ[Kindle版])
[05/12]
この三人の議論が噛み合っているのかどうか。なんとなく噛み合っているようなんだが、そうだとするといったいどう噛み合っているのか。
●シシドヒロユキ『シン・ヤマトコトバ学』(光文社新書:2017.02.20)[05/13]
言霊学に天鳥船(あまのとりふね)という術がある。子音を固定し、母音を上下に移動することで、言葉のつながりを探る。カミをカマ、カム、カメ、カモの
ように変換させ、これらを一つらなりの言葉の仲間とみなす。(58頁)
●絲山秋子『離陸』(文春文庫:2017.04.10/2014.09)[05/19]
村上春樹の『騎士団長殺し』と同時進行的に読み始め、先にドライブがかかった。
「離陸」という語は、気づいたかぎりで三箇所に出てきた。一度目は、リュシーと「ぼく」(「水の番人サトーサトー」もしくは「イロー」こと佐藤弘)がフ
ランスに向かって飛び立った飛行機の離陸というかたちで(210頁)。二度目は、「ぼく」と「ぼく」の父がリュシーの葬儀のためフランスに向けて飛び立っ
た飛行機の離陸とリュシーの「離陸」というかたちで(321-322頁)。そして最後に、「ぼく」の昔の恋人・乃緒の静かな「離陸」というかたちで
(407頁)。
謎は少しも解き明かされないまま逸脱もしくは迷走を続け、「奇想」(池澤夏樹)もしくは「女スパイ」(伊坂幸太郎)の物語は静かに終わる。マダム・アレ
ゴリこと乃緒の息子・ブツゾウが別れ際に告げた「ムッシュ・サトー、あなたはみんなに繋がっている。」という言葉に救われる(402頁)。
●貫井徳郎『後悔と真実の色』(幻冬舎文庫[電子書籍版]:2013.01/2009.10)[05/27]
●貫井徳郎『宿命と真実の炎』(幻冬舎[電子書籍版]:2017.05.10)[06/04]
『後悔と真実の色』──ネットで指摘されていたように、真犯人は途中でわかってしまうが、たぶん作者はそれを計算している。読み終えてすぐに続編へと読
み進んでいった。
『宿命と真実の炎』──まったく関係はないが、ダーティ・ハリー3を思い出した。
●長命俊子『文学(リズム)の精神分析とパラノイア──フロイド,ラカン,芭蕉,世阿弥,ダニエル(ダンテ)』(リーベル書房:2003.01.01)
[06/09]
これは何かの間違いか冗談かと思える文章(らしきもののの断片)が脈絡なくつづく。出来損ないのAIがネット検索で蒐集した累々たる観念のガラクタを脈
絡なくパッチワークして仕上げた論文擬き。
でも大したもので読み続けていくうち(なにしろ本のタイトルに騙されて金銭を費やしてしまったのだから元をとらないと)これはこれで常人には書けない新
趣向の文章表現なのではないかと感心している自分がいる。
思わず笑ってしまう文章の組み立てや論理の展開がつづくなか、ダンテがリスペクトした数学者にして吟遊詩人のダニエルが発明した詩形・セスティーナの音
韻構造と芭蕉の俳句、世阿弥の謡曲(松蟲)との比較論や共感覚への言及など、ハッとさせられる魅力的なテーマが断続的にとりあげられている。
異なる時間と場所に属する文章、思考の破片を組み合わせ強引にセンテンスにしたてるその力業に一種の「藝」すら感じる。いつかこんな「作品」を書いてみ
たいと思った。
◎渡部泰明『中世和歌史論──様式と方法』(岩波書店:2017.06.15)[06/10]
◎笹公人『ハナモゲラ和歌の誘惑』(小学館:2017.04.10)[06/10]
◎穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社:2007.12.30)[06/10]
◎鷲田清一『「ぐずぐず」の理由』(角川選書:2011.08.25)[06/10]
図書館で借りてグダグダ読み進めていたのを、休日の午後、一気に読み飛ばした。
森まゆみ『子規の音』も同時に読み終えたかったが、この本はユックリと腰を据えて味わいたい。
渡部本と鷲田本は、序章や終章、結びの文のコピーをとった(穂村本に収録されていた「〈読み〉の違いのことなど」もコピーした)が、時が来たらまた借り
て(それとも購入して)腰を据えて再読する。
●森まゆみ『子規の音』(新潮社:2017.04.25)[06/11]
で、結局、猛スピードで読み終えた。サイズを圧縮して(ダイジェスト版を勝手に編集して)読んだ。
ネットワークとフットワーク(旅)の人・子規への愛と、子規ゆかりの人たちや土地(場所)への著者の肩入れが、つかず離れずの節度を保った文章からジワ
リと染み出るようにして伝わり、どんどん子規が好きになっていった。
こんど東京に行く機会があれば、子規庵に寄ってみる。
●イーフー・トゥアン『空間の経験』(山本浩訳,ちくま学芸文庫:1993.11.04/1977)[06/14]
濃い叙述。咀嚼できない塊が残った。「経験のパースペクティヴ」と「時間と場所」の章が印象に残った。
●三島由紀夫『古典文学読本』(中公文庫:2016.11.25)[06/14]
何が書いてあるのか読解するのに難渋した。だから三島由紀夫の真意が知りたいと思う題材(たとえば古今集、定家)にかかわる文章は、何度も何度も繰り返
し読み返した。
随分久しくこんな「文学的文章」を読むことがなかった。何度精読してもその都度味わえる(精読しないと味わえない)文章。
●永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10.20)[06/15再読]
何度読み返しても凄い。アクチュアルなものが頁を繰るたびに初めて立ち上がってくる。毎頁連続的創造!
今回は、私的言語の可能性を(その必然性と不可能性の観点から)論じた第三章を中心に読むべく手にとったが、ライプニッツ原理とカント原理、開闢原理と
持続原理の相互包摂、入れ子構造を描いた第二章に引き込まれ、また神の仕事や神の階梯の議論がでてくる第一章に心安らぎ、肝心の第三章の議論が腑に落ちな
いまま終わった。
続きは次回へ。
●伊藤静雄『春のいそぎ [Kindle版] 』(詩刻書林:2013.02.14)[06/16]
●『伊藤静雄詩集 日本の詩人 [Kindle版] 』(古典教養文庫:2013.07.02)[06/19]
電子書籍で詩集を読む。初めての経験。
●イアン・コールドウェル『第五の福音書』上下(奥村章子訳,ハヤカワ文庫:2017.05.25/2015)[上06/14、下06/21]
ミステリの読後感とは違う。一気読みの陶酔はないが、よく出来たミステリに特有のあの白々とした感じもない。微量の幸福感が漂っている。
仕事でトリノに行ったとき日程の都合で最初からあきらめていた聖骸布はやっぱり見ておきべきだったか。
●三浦俊彦『改訂版 可能世界の哲学──「存在」と「自己」を考える』(二見文庫:2017.05.25)[06/22]
●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社選書メチエ:2016.07.10)[06/22再読]
三浦本の旧版は読んでいる。結構面白かったと記憶している。今回、渡辺本とあわせて読み返して、可能世界論と夢の現象学とがつながっていると感じた。
(ネットで検索すると、この二人は「人文死生学研究会」を主宰している。)
渡辺本はなんど読み返しても面白い。でも読み返すたびに明快さが薄れていく。読みが深くなる(?)につれて、渾沌としていく。
●正岡子規『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』(岩波文庫:2016.11.16)[06/24]
子規の文語体の散文が脳脊髄液に染みていく。
●國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』(医学書院:2017.04.01)[06/24]
依存症から抜け出すのは本人の努力しだい。誰かから強制されたわけではないのだから、あとは本人の自由意思の問題。そんな「能動態/受動態」(あるいは
「自由意思/強制」)のパースペクティブで物事を考えるようになったのは比較的最近のことで、かつては、(たとえばホメロス神々と英雄の物語を朗誦し、海
月なす漂へる時に葦牙の如く萌え騰る物によりて神が成った頃には)、「中動態/能動態」のパースペクティヴが基本だった。
著者はバンヴェニストやアレントの議論を参照し、途中に言語と思考の関係、言語(文法)の歴史といった興味深い議論を挿入しながら、失われた中動態の世
界を探求していく。ハイデガー、ドゥルーズ、そしてスピノザの思考の根本に中動態的なものを見出し、メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』の解をもって書物
を閉じる。
豊饒な中身をもった魅力的な著書。読後、物の見方(パースペクティヴ)ががらりと回転する。
●加藤典洋『敗者の想像力』(集英社新書:2017.05.22)[06/26]
文芸評論家・加藤典洋の藝を堪能した。
ゴリラ映画をめぐる論考が面白く(「シン・ゴジラ」論の中にさり気なく吉本隆明の「全体的な喩」という概念が使われていた(118頁))、多田道太郎へ
の肩入れに興味を覚え、宮崎駿と手塚治虫の比較論に唸った。ただ、大江健三郎をめぐる論考には説得力を感じなかった。
一気に読み終えたので、読後の印象が一気に薄れてしまう。
●藤井雅人『定家葛』(文藝書房:2002.12.15)[06/29]
三島由紀夫の定家小説を読みたいが、それは世に実在しない。ならばいっそ自分で書いてしまおう。作者はそう思い立ってこの作品を書いた。
あり得たかもしれない三島版定家にかなり肉薄していると思うが(ただ、三島なら定家と西行、後鳥羽院、そして式子内親王との思想的・政治的・性愛的なか
らみをもっと濃厚かつ執拗に描いたのではないだろうか)、三島由紀夫云々にかかわらずこの作品は独自の世界を構築している。
その端正な文章の重ね合わせにしばし陶然とする。
「この乱世にあって、わたしはそれが存在しないかのような生活形式をまもった。わたしの本当の願いは、虚無をうつす歌の鏡として、そのような外的な生活を
超えて在ることだった。」(30頁)
「清らかな月に一瞬照らしだされ、澄明な姿となった生を映しとる鏡──それが歌であるならば、歌がしめす生の姿は、現実よりも真実なのではないか。」
(141頁)
作品の発端と終末にでてくるこれら二つの述懐があたかも合わせ鏡となって定家の生涯の物語を浮かび上がらせる。
歌の心の化身、あるいは歌の精・式子内親王との最期の抱擁のシーンに痺れる。
●村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(新潮社:2017.02.25)[06/03]
●村上春樹『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』(新潮社:2017.02.25)[06/29]
村上春樹の『騎士団長殺し』は歴史修正主義と対決する小説だった。そんな見出しの記事をネットで読んだ。[http://lite-
ra.com/2017/05/post-3157.html]
それが本当なら(村上春樹が歴史修正主義を批判するためにこの作品を書いたのだとしたら)、こんなほのめかしではなくはっきりとそう書けよ! もったい
ぶってイデアやらメタファーやらをもちださず真っ向から勝負しろよ! とつっこみたくなる。
もちろん村上春樹がそんな政治的メッセージを(ノベール文学賞の選考委員向けに?)発するために書いたとは思わないし、これと矛盾するようだが、もし仮
に真実はそうだったとしても構わない。けれどもそれだけのことで仕上げられるほど『騎士団長殺し』はヤワな作品ではない。
村上春樹の描写力や構成力はとんでもないことになっている。もうなんだって書けるのではないかと思う。ただ経験を積んで技量が爛熟した分、過去の作品に
比べて躍動感や新鮮味に欠ける。想像力を刺激する力、というか読者の心の中にリアルに生き続ける物語世界を植えつける力が薄まっている。
それは逆にいうと、一つの作品ですべてを完璧に叙述しきることなどできない、そんな域に達しつつあるということではないかと思う。
だから『騎士団長殺し』の最後、物語をたたんでいく後日譚風の叙述のなかに萌す悪と(これに拮抗する)善なるものの気配は、長編小説を閉じる余韻を超え
ていて、たとえば「消失するシンボル編」や「甦るアレゴリー編)といった(決して書かれることのない)続編を予告しているように読めてしまう。
それは『ノルウェイの森』の続編とは意味が違うはずだ。
●小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎──共鳴する明治の精神』(岩波新書:2017.06.20)[06/29]
面白そうな趣向だったので期待して読み進めていった。
父親との確執、交友関係、禅や漢文、出版資本主義とのかかわりなどの共通項を軸に論じられる前半の叙述に期待は高まっていったが、第5章、戦争やグロー
バリズムのテーマになると、漱石と西田を並べて論じることの意義があまり感じられなくなった。
これは趣向倒れの失敗作だ、詳しくは『憂鬱なる漱石』や『西田幾多郎の憂鬱』を読めという自著PR本だ、と決めつけ(て放り出し)そうになったが、でも
最後の第6章は面白かった。
漱石、西田は共に新しい文章、新しい言葉を求めた。漱石にとっては告白文、西田にとっては西洋哲学を言い表わす新しい日本語の創出。この論点だけにし
ぼって、最初から書き直してほしいと思った。