不連続な読書日記(2017.01-03

 



【購入】

●小森陽一『子規と漱石──友情が育んだ写実の近代』(集英社新書:2016.10.19)【¥760】[01/09]《ジュンク堂書店舞子店》
●佐々木閑・大栗博司『真理の探究──仏教と宇宙物理学の対話』(幻冬舎新書:2016.11.30)【¥840】[01/09]《ジュンク堂書店舞子 店》

 今年の初買い。
 昨年評判だった本、たとえば『サピエンス全史』『生命、エネルギー、進化』『蜜蜂と遠雷』『日本史のなぞ』『戦争まで』等々から何か、実物を手に取って 選ぶつもりが、買う前から眼精疲労の前触れが襲ってきて、込み入ったものや長いものは頭と眼が受けつけなかった。
 正岡子規の「研究」を始めようと思って、入門書がわりに一冊。もう一冊は帯の言葉に惹かれた。「人生に生きる意味はない。」

●柳田国男『都市と農村』(原本出版年:1929、原本出版者:朝日新聞社)【¥108】[01/11]《Amazon》
●酒井潔『エロエロ草紙』(原本出版年:1930、原本出版者:竹酔書)【¥0】[01/11]《Amazon》

 国立国会図書館デジタルコレクションのkindle版。
 川田稔著『柳田国男』が面白くなってきて、『都市と農村』と「地方文化建設の序説」についてネットで調べていて「発見」した。酒井潔本は記念にダウン ロードした。

●藤井雅人『定家葛』(文藝書房:2002.12.15)【¥500古】[01/11]《ミルポキ本舗(Amazon)》

 藤原定家と式子内親王の「恋」を題材にして、中世、大正、現代にわたる虚構世界をいつか描いてみたいと夢想していて、その題名も『定家葛』と決めてい た。正岡子規研究と同時に、その参考資料を探していて「発見」した。

●『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』(ちくま学芸文庫:2017.01.10)【¥1000】[01/14]《喜久屋書店》

 『言葉と悲劇』『〈戦前〉の思考』に続く柄谷行人三冊目の講演集。
 「近代文学の終り」と「日本精神分析再考」が現在時点で興味深い。特に後者は「柄谷文字論」の系譜に属する(今のところ)最後の論考。浅利誠著『日本語 と日本思想──本居宣長・西田幾多郎・三上章・柄谷行人』の再読とあわせて、いつか「整理」しないと。

◎「文字の地政学──日本精神分析」(1991、『柄谷行人集4 ネーションと美学』)
◎「ネーション=ステートと言語学」(原題「エクリチュールとナショナリズム」(1991、『ヒューモアとしての唯物論』)、『柄谷行人集4 ネーションと美学』)
◎「文字論」(1992、『〈戦前〉の思考』)
◎「言語と国家」(2000、『日本精神分析』第一章)
◎「日本精神分析──芥川龍之介「神様の微笑」」(1997・2002、『日本精神分析』第二章)
◎「日本精神分析再考」(2008、『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』)

●中沢新一『レヴィ=ストロース 野生の思考』(NHK100分de名著:2016.12.01)【¥524】[01/14]《喜久屋書店》

 昨年暮れ偶然、第一回の放映を観て、今年になってユーチューブで全4回分を繰り返し聴いた。

●ジュリアン・ダール『インヴィジブル・シティ』(真崎義博訳,ハヤカワ・ミステリ文庫:2017.01.15)【¥1200】[01/23] 《Japan Books》

 書店で見つけて衝動買い。

●佐々木論子/綾辻行人『月舘の殺人』上下(小学館文庫:2017.01.18)【¥741+833】[01/25]《喜久屋書店》

 持病の炎症で高熱が続き何も読めなくなって、ネットで加藤典洋の戦後史の講演や中沢新一の出演した「100分de名著」や多磨美・芸術人類学研究所と子 規庵保存会共催のシンポジウム「正岡子規と《写生》の思考―詩と絵のにじみあうところ」を聴いたり眺めたりして数日過ごした後、ようやく何か読みたくなっ てリハビリを兼ねて書店でみつけたのを衝動買い。

●松岡正剛、赤坂真理、齋藤環、中沢新一『「日本人」とは何者か?』(NHK100分de名著:2015.05.31[kindle版])【¥756】 [01/28]《Amazon》

 この番組はテレビかネットの映像で観たことがある。

●折口信夫『古代研究U 民俗学篇2』(角川ソフィア文庫:1975/2017.01.25改版)【¥920】[01/29]《ジュンク堂書店明石店》

 ジュンク堂明石店が開店した「記念」に購入。

●正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫:1955.05.05/2016.09.16第14刷)【¥640】[02/01]《Amazon》

 小森陽一著『子規と漱石』が面白くなってきた。子規の俳論を直に読む機運が高まってきた。

●長谷川櫂『子規の宇宙』(角川選書[Kindle版]:2014.08.15)【¥691】[02/03]《Amazon》

 小森本と併読して子規の世界に浸る。

●正岡子規『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』(岩波文庫:2016.11.16)【¥700】[02/04]《ジュンク堂書店明石店》

 子規俳論は「芭蕉雑談」から始めることにした。

●松岡心平『中世芸能講義──「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』(講談社学術文庫:2015.05.08)【¥880】[02/04]《ジュンク堂書店明 石店》

 思い起こすと、いま取り組んでいる和歌論の起点となったのが松岡心平著『中世芸能を読む』の第三章「連歌的想像力」だった。連歌、俳諧連歌(連句)、俳 句という流れの源をまず押さえようと思い立ってもうかれこれ10年以上も貫之周辺を彷徨している、
 再読への機運がたかまってきたので、前々から気になっていた文庫版を入手した。「能楽と鎌倉仏教と武道『と連歌』はほぼ同時期に、同一のパラダイムの中 で発祥した」という内田樹の仮説の拡張版を論証しておこうと思った。

●正岡子規『歌よみに与ふる書』(岩波文庫:1955.02.25/2013.12.05第37刷)【¥500】[02/06]《蔦谷書店》

 これで岩波文庫で読める子規の俳論・歌論三冊が手元に揃った。

●ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳・注解と論評,講談社学術文庫:2017.02.10)【¥1000】[02/12] 《Amazon》

 予約注文していたのが届く。

●野田又夫『哲学の三つの伝統 他十二篇』(岩波文庫:2013.12.17)【¥840】[02/20]《ジュンク堂書店明石店》

 木岡伸二氏の「無のアナロギア──山内得立における東西の〈総合〉」で言及されていたので読みたくなった。

●村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(新潮社:2017.02.25)【¥1800】[02/24]《Amazon》
●村上春樹『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編編』(新潮社:2017.02.25)【¥1800】[02/24]《Amazon》

 アマゾンで予約していた。

●瀬戸賢一『時間の言語学──メタファーから読みとく』(ちくま親書:2017.03.10)【¥760】[03/11]《ジュンク堂書店梅田店》

 毎日放送ちゃやまちプラザで「ひょうご博覧会」を見た帰りに購入。

●三島由紀夫『古典文学読本』(中公文庫:2016.11.25)【¥700】[03/18]《梅田蔦屋書店》

 韓国からの出張帰りに購入。こんなアンソロジーが出ていたとは知らなかった。

●尼ヶ崎彬『いきと風流──日本人の生き方と生活の美学』(大修館書店:2017.02.01)【¥2200】[03/20]《Amazon》

 新聞の一面下段の広告で見つけた。こんな著書が出ていたとは知らなかった。

●九鬼周造『人間と実存』(岩波文庫:2016.08.17)【¥1070】[03/26]《ジュンク堂書店明石店》

 ひさしぶりに九鬼周造のロジカル・ハイを味わいたくなって。


【読了】

◎井筒豊子「モロッコ国際シンポジウム傍観記」(『中央公論』(1982年4月号)所収)[01/04]

 今年の初読み。たっぷりと時間をかけて読み込んだ。「一期一会の、無時間の無色の心」。

●カンタン・メイヤスー『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也他訳,人文書院:2016.01.20)[01/11]

 135億年前に物質とエネルギーが現れ、45億年前に地球が形成され、38億年前に生命が出現した。『サピエンス全史』の冒頭に掲げられた「歴史年表」 にそう書いてある。この見てきたような記述の「正当性」というか「根拠」はいったいどこにあるのか。「汝われに答へよ 地の基を我が置たりし時なんぢは何處にありしや」(ヨブ記38章)。
 刺激的な論考だったが、まだ十分咀嚼できていない。

●エトムント・フッサール『内的時間意識の現象学』(谷徹訳,ちくま学芸文庫:2016.12.10)[01/18]

 訳者・谷徹による(本文と分量的に同程度の)詳細な註と解説を読み、本文を参照する。最後はそんな読み方になった。
 たとえば第一部第三章第四三節、目の前にある灰皿をめぐる議論。このたった半頁ほどの文章に、4箇所の「補い」(〔…〕)と13箇所の訳注がついてい る。
「その灰皿は、持続している事物的な存在として、現にそこに立っている。反省してみると、二つのものが区別される。一方に、〈知覚〉それ自体(略)、他方 に、〈知覚されるもの〉(略)である。その〈知覚されるもの〉は、同時に、〈思念されるもの〉でもある。〈知覚する〉のなかに〈思念する〉が「生きてい る」のである。その様態における知覚統握は、反省が教えるように、それ自体、〈なにか内在的−時間的に構成されるもの〉であり、これは〔…〕〈思念される もの〉ではないが、〔…〕現在性の統一性のなかで現にそこに立っている。〔…〕それ〔…〕は、今位相たちおよび把持たちの多様性によって構成されてある、 のである。」(333-334頁)

●佐々木閑・大栗博司『真理の探究──仏教と宇宙物理学の対話』(幻冬舎新書:2016.11.30)[01/18]

 超弦理論の話(因果律の破れが縫合される話)のあとに大乗仏教の起源をめぐる話(宗教としてのタガがはずれて、釈迦の教えとは異なる多様な教義が仏教と して認められるようになる話)が続く。
 断然、物理学者の話の方が面白かった。──ブラックホールの二次元の表面にある情報が実体で、私たちが暮らす三次元世界は(ホログラムで映し出される三 次元映像のように)幻想にすぎない、ブラックホール表面の二次元世界には重力が存在しない、重力が関わらないと決して情報は失われず、原理的にはすべての 情報は復元可能である、重力の基礎となる時空は量子もつれから生まれる、等々。

◎井筒俊彦「事事無礙・理理無礙──存在懐胎の‘あと’」(『コスモスとアンチコスモス』所収)[01/18]

 井筒俊彦の文章を読むたび思うこと。この人は結局一つのことしか語っていない。でもその一つのことは井筒俊彦にしか言えない。他の人でも言えるのだが、 井筒俊彦のようには言えない。(この感覚は、中沢新一の文章を読むたび思うことと似ている。)

●中沢新一・小澤實『俳句の海に潜る』(角川学芸出版[電子書籍版]:2016.12.26)[01/18]

 中沢新一の子規論「陽気と客観」(坪内祐三編『明治の文学 第二十巻 正岡子規』解説、『ミクロコスモスU』所収)を読み、芸術人類学研究所のシンポジウム「正岡子規と《写生》の思考―詩と絵のにじみあうところ」での中沢や 小澤實の発表をネットで眺め、そして本書を読んで、中沢新一の俳句論、子規論が、けっこう深いところに根ざしていたことを知った。

●赤瀬川原平・山下裕二『日本美術応援団』(ちくま文庫:2004.03.10/2015.04.10第五刷/2000.02)[01/18]

 大阪で山下祐二さんの講演を聴き「若冲展」の図録を記念にいただく機会があった。その「縁」で本書を手にした。この本はできれば大型本で常備しておきた い。

●佐々木論子/綾辻行人『月舘の殺人』上下(小学館文庫:2017.01.18)[01/25]

 漫画でしか味わえない世界。

●中沢新一『レヴィ=ストロース 野生の思考』(NHK100分de名著:2016.12.01)[02/01]

 『野生の思考』は夢中になって読んだ。血肉化していると思っていた。とても汲み尽くせない豊饒なものがまだまだたくさん残っていた。
 第4回「「野生の思考」は日本に生きている」がとりわけ興味深かった。『月の裏側』を図書館から借りてきて全文複写した。

●蓮実重彦『伯爵夫人』(新潮社:2016.06.20/2016.07.10四刷)[02/01]

 うまく言葉にできないが、作者の意図、企みはとてもよく理解できたように思う。

◎浅田彰「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ──戦後啓蒙の果てに」(聞き手|東浩紀、『ゲンロン4』(2016 November)所収)[02/05]

 軽薄な語り。そよとも心が動かない。それなのに、最後まで読み通せる。

●小森陽一『子規と漱石──友情が育んだ写実の近代』(集英社新書:2016.10.19)[02/08]

 子規のことはほとんど何も知らなかった。子規の「叙事文」は感動的だった。

●古橋信孝『日本文学の流れ』(岩波書店:2010.03.25)[02/11]
●多田一臣『古代文学の世界像』(岩波書店:2013.03.27)[02/11]

 休日午後の拾い読み。
 古代から現代までの日本文学を一気通貫で叙述する古橋本の試みは意欲的で面白いが、やや薄味。多田本は個別の論考は興味深いが全体像が朦朧としている。 (薄味も朦朧も読み手の側の気の入れ方の問題だろう。)

●『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』(ちくま学芸文庫:2017.01.10)[02/13]

 いくつかの刺激的なテーマが脳髄に残る。柄谷文字論。イソノミア(無支配)とアジール(無縁の場、過去と未来の間)。交換様式論の歌論・俳論・芸論の類 への応用(伝導体の様式論)。

●ジュリアン・ダール『インヴィジブル・シティ』(真崎義博訳,ハヤカワ・ミステリ文庫:2017.01.15)[02/13]

 じっくり丁寧に読み込むといい味が出てくる。忘れがたい読後感が残る。よく出来たミステリー小説を読み終えた後の失墜感がない。謎解きの面白さはない が、それがかえって作品の出来の良さにつながっている。。

●山内得立『ロゴスとレンマ』(岩波書店:1974.09.10)[02/17]
◎木岡伸夫「無のアナロギア──山内得立における東西の〈総合〉」(『哲学論叢』第41号(2014年))[02/14]

 ノートをとりながら『ロゴスとレンマ』を通読(素読ならぬ粗読)。西田幾多郎の弟子にして山田晶や梅原猛の師。『随眠の哲学』や『旅する人 芭蕉にふれて』なども興味深い。
 木岡論文[http://repository.kulib.kyoto- u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/200731/1/ronso_41_001.pdf]は参考書として読んだ。秀逸。引き 続き『〈あいだ〉を開く──レンマの地平』を読む。

●長谷川櫂『子規の宇宙』(角川選書[Kindle版]:2014.08.15)[02/20]

 即時の句。事(現実)に当たってそのまま(ありのまま、あるがまま)を詠んだ俳句。子規が「即事」によって排除しようとしたもの、それが「月並み」。
「写生が単に俳句の方法であるのに対して、即事とは死を覚悟した人の人生に対する姿勢にほかならない。目前に迫る死を前にして人は何ができるか。あるいは 何をすべきか。それは即事しかないというのが子規の答えだった。」

●ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳・注解と論評,講談社学術文庫:2017.02.10)[02/22]

 この本を読んでから『存在と時間──哲学探究1』の後半に挑むことにしていた。でも、いざ読み始めてみると躍動感がわいてこない。永井均の語り口に飽き たのかもしれない。たぶん読み手の側の哲学的感度のようなものが錆びついていたのだと思う。それでも心(頭?)に響くところはあった。
 それは、第三部「付論」の「U 矛盾はどこにあるのか」の「3、端的な現在は語りうるか」の「神の見地」(神のパースペクティヴ?)から見れば云々に始まって、カントの可能的な百五ター レルと現実的な五百ターレルにいたるあたりの議論を読んでいたときのことだったと記憶している。言葉にするとたぶん次のようなことを考えて(感じて)い た。

 ……いま脳裡に蟠っているこの一種独特な思考の感触というか身体の生理に根ざした哲学的感覚(哲覚)は、言葉で表現することはもちろんこの書物のどこか 特定の文章に傍線を引いたり頁の角を折ることでその所在を示すこともできない。だから誰か他の人や数日後の自分自身にさえ「それ」や「これ」として伝達す ることもできないだろう。その意味では特定の事象内容をもたない思考、「無内包の現実性」をともなう感覚といってもいいものだ。
 学ぶことも保存(記録)することも伝達することも再現することも忘れることさえもできない「現実性」。永井均が人称・時制(・様相)における「私」や 「今」(や「現実」)の問題について繰り返し繰り返し手を変え品を変えて論じているのは、「リアリティ」(事象内容)の内包においては表現されない差異、 つまり「アクチュアリティ」(無内包の現実性)を立ち上げるため、というか常に既に立ち上がっている「アクチュアリティ」に圧倒されてのことだ。……

 いやたぶんそんなことを考えて(感じて)いたわけではなかったと思う。いま書いたのは後から言葉で考えて組み立てたことでしかないだろう。

 以下、組み立てることができなかった断片、というか残骸をそのまま記録しておく。

【一と多】多の中の一であり、かつ、多がそこにおいて成立するところの一。

【パースペクティヴ】全体を外から一枚の絵を見るかのように客観的に眺める「外的な視点」と、内側から素直に世界を見る「内属的視点」=「独在的視点」 (251頁)。

「変化を構成する複数の現在を対等なものと見なす見地と、そんなことはありえず、必ず一つの現在だけが現実の現在であらねばならないと見なす見地との(矛 盾を含む)両立…。言い換えれば、変化の両項を対等に眺める超越的見地(「かつ」が成り立つ見地)と、どちらかの現実性に固執する内在的見地(「かまた は」が成り立つ見地)を津叔父にもつこと」(223頁)

【二種類のリアリティ】
「無内包の現実性を内化する」(252頁)
 アクチュアリティ⇒リアリティ
「「無内包の現実性」自体を内包化する(事象内容の内部に組み込む)こと」(260頁)

●松岡心平『中世芸能講義──「勧進」「天皇」「連歌」「禅」』(講談社学術文庫:2015.05.08)[03/03再読]

 『能楽と連歌と鎌倉仏教と武道』

 「内田樹の研究室」(2017年1月12日)の記事「能楽と武道」[http: //blog.tatsuru.com/2016/12/24_1132.php]を読んだ。
 ここで論じられているのは、もう何度も繰り返し接してきた事柄(「いつもの話」)なのに、読むたび新鮮で、何かしら新しい「気づき」がある。
 今回の「気づき」というか「思いつき」は、次の「仮説」に関係するものだった。
 
「能楽と鎌倉仏教と武道はほぼ同時期に、同一のパラダイムの中で発祥したというのが僕の仮説です。これは、たぶん日本では僕しか言っていないことだと思い ます。何の学術的根拠もない、誇大妄想的な思弁ですけれど、僕自身は、これはかなりいけるんじゃないかと思っています。」

 この仮説の起点が、鎌倉仏教の発祥をめぐる、鈴木大拙『日本的霊性』の議論である。

「鎌倉仏教の基本的な態度は「大地を踏みしめて立つ」ことだと大拙は言います。これは平安時代の殿上人がついに経験したことのないことです。田畑の泥濘を 踏みしめる。その足裏から大地の霊が立ち上ってくるのが感じられる。その大地の霊で全身を満たす。そのときに初めて日本的霊性が発動する。大拙は、日本的 霊性とは鎌倉武士が泥濘に足を膝まで浸からせて、足裏からこの「大地の霊」を吸い上げた時に生まれたという非常に感動的なフレーズを書き残しています。そ の実感は能楽の稽古を通じて僕が感じたことに非常に近い。」

「[能の]すり足というのは、大地に対する感謝と畏怖の念を表現したものではないかと僕は思います。足裏で大地と交感するという所作は、巨大な力を持つも のが大地の下に潜んでいるという信憑があってはじめて生まれるものです。すり足という能の基本動作が鎌倉仏教における「大地の霊」の発見と同根のもので す。」

「武道的な考え方が西洋近代とうまく噛み合わないのは、武道では人間の身体は「力の通り道」だと考えるからです。巨大な自然のエネルギーが、調えられた身 体を通って発動する。エネルギーは自分から出るわけではありません。源は外部にある。それが自分の中を通過する。(中略)本来の武道修行とは、野生の巨大 なエネルギーが通過しても傷つかないように心身を調えることにあります。人間の外部にある力を、人間の身体を通して発動し、それを制御する。その技術のこ とだと思います。」

 大地から立ち上がる野生の巨大なエネルギー(霊性)が、一種の導管(力の通り道)となった全身を満たす。この身体感覚に根ざして、鎌倉仏教と武道、そし て少し遅れて能楽が発祥する。
 私は、この「内田樹の仮説」にいま一つの項を付け加えたいと思う。それは「連歌」である。
 すなわち、能楽と鎌倉仏教と武道「と連歌」はほぼ同時期に、同一のパラダイムの中で発祥した。

 そうは書いてみたものの、私がもつ「連歌」の知識というかイメージは、ほぼ松岡心平著『中世芸能を読む』(文庫化されて『中世芸能講義』)に依拠してい る。
 
●野田又夫『哲学の三つの伝統 他十二篇』(岩波文庫:2013.12.17)[03/04]

 京都学派の流れがとても気になっている。

●瀬戸賢一『時間の言語学──メタファーから読みとく』(ちくま親書:2017.03.10)[03/22]

 最後の章の「時間形態の歴史的変遷とその意義」(真木悠介『時間の比較社会学』)をめぐる議論が面白かった。

●松岡正剛、赤坂真理、齋藤環、中沢新一『「日本人」とは何者か?』(NHK100分de名著:2015.05.31[kindle版])[03/25]

 第1章 日本人の美意識 九鬼周造『「いき」の構造』/松岡正剛
 第2章 日本人の感受性 折口信夫『死者の書』/赤坂真理
 第3章 日本人の心理  河合隼雄『中空構造日本の深層』/斎藤 環
 第4章 日本人の宗教観 鈴木大拙『日本的霊性』/中沢新一

●亀井勝一郎『日本人の精神史 第一部 古代知識階級の形成』(講談社文庫[電子書籍]:2003.12.12)[03/30]

 時間つぶしにiPhoneで少しずつ読んでいるうち、塵も積もればでとうとう読み終えた。

●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社選書メチエ:2016.07.10)[03/31]

 『フッサール心理学宣言』と同程度かそれ以上に面白かった。

●木岡伸夫『〈あいだ〉を開く──レンマの地平』(世界思想社:2014.10.31)[03/31]
●木岡伸夫『風景の論理──沈黙から語りへ』(世界思想社:2007.07.20)[03/31]

 山内得立著『ロゴスとレンマ』の副読本として軽く読み流すつもりが、すっかり木岡哲学にはまった。