不連続な読書日記(2016.07-09

 



【購入】

●互盛央『日本国民であるために──民主主義を考える四つの問い』(新潮選書:2016.06.25)【¥1300】(07/01)《紀伊國屋書店・梅田 本店》

「この国では、それについて意見をもつことが特定の立場を支持していることを意味してしまう、そんな問題がたくさんある。」(あとがき)

●市川浩『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』(岩波書店:1990.01.25)【¥2233/古¥34】(07/02)《Amazon》

「中間者は、‘全体’ではなく、欠如であるからこそ全体化を指向し、‘部分’としては過剰であるからこそ全体化を指向する。インテンション(指向=意志) は「断片」である中間者の特徴である。」(あとがき)

●市川浩/中村雄二郎編『身体論集成』(岩波現代文庫:2001.10.16)【¥1200/古¥700】(07/02)《Amazon》

「いうまでもなく市川身体論の特徴は、なによりも〈身〉をはじめとする日本語の表現を自在に駆使して、独自な〈身体論〉を掘り下げ、展開していることにあ る。」(はじめに)

●市川浩『〈私さがし〉と〈世界さがし〉─―身体芸術論序説』(岩波書店:1989.03.)【¥2500/古¥574】(07/06)《Amazon》

「考えというものは、浮雲のように脈絡なく、あちこちに同時発生し、思いがけないものがショートしてつながったり、放電して消滅したり、気ままにあらわれ たり、消えたりするように思われる。」(あとがき)

●市川浩『〈知〉と〈技〉のフィールド・ワーク──現場の思考』(思潮社:1990.04.)【¥2400/古¥350】(07/06)《Amazon》

「断片にとってはプロセスが重要であり、実現された均衡状態としての全体は、死を意味する。…このインタヴュー・シリーズも、断片と断片との出会いを一期 一会とする気持から成り立っている。」(あとがき)

●市川浩『現代芸術の地平』(岩波書店:1985.02.28)【¥3400/古¥180】(07/07)《Amazon》

「文学がもつフィクション性と多次元性ないし多重人格性」「同一性の桎梏をのりこえ、多重の可能的世界を切り開いてみせる文学の試み」「人格の仮面性や多 重性」(あとがき)

●丸山圭三郎『生の円環運動』(紀伊國屋書店:1992.01.31)【¥1465】(07/10)《Amazon》

「百人一首の遊びの中には、視覚的なものと聴覚的なものの融合が見られる。これは能楽の世界にも似て、眼で音を‘聴き’耳で形を‘視る’交感の緊迫と悦び であると言えるのかもしれない。」(「百人一首──動くゲシュタルト」、171頁)

●丸山圭三郎『ホモ・モルタリス 生命と過剰 第二部』(河出書房新社:1992.03.31)【¥2000/古¥792】(07/11)《Amazon》

 死はコトバの産物である(158頁)。ホモ・モルタリス、すなわち「本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖をもつ唯一の動 物」(35頁)。

●丸山圭三郎『欲動』(弘文堂思想選書:1989.09.30)【¥1845/古¥1】(07/11)《Amazon》

「まことに、二十世紀は〈原子〉と〈コンピュータ〉と〈脳〉の世紀であるとともに、あるいはそれ以上に、〈コトバ〉の世紀である。」(はじめに)

●丸山圭三郎『文化=記号のブラックホール』(大修館書店:1987.07.01)【¥900/古¥199】(07/11)《Amazon》

「ところで、ソシュールの言っているアナグラムはまったく文字と関係ありません。音が聞こえてくるというものです。グラムじゃなくて音[アナフォニー]な んです。」(85頁)

●丸山圭三郎『カオスモスの運動』(講談社学術文庫:1991.11.10)【¥718/古¥1】(07/13)《Amazon》

「人間の歴史は、個体・系統の別を問わず、身[み]が言[こと]によって壊されつつこれを再構築する過程なのだ。」「本書は、ニーチェ、ソシュール、井筒 俊彦という三大思想家に導かれながら、著者がコトバと人間存在に思いをめぐらした思想構築のプロセスを示している。」(あとがき)

●加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫:2016.07.01/朝日出版社:2009.07)【¥750】(07/13)《三省堂 書店・京都駅店》

「日本人にとって、「あの戦争」は、いまだ解かれていない問いにほかなりません。」(文庫あとがき)

●テリー・イーグルトン『文学とは何か──現代批評理論への招待(上)』(大橋洋一訳,岩波文庫:2014.08.19)【¥840】(07/13)《蔦 谷書店・梅田》

「本書が初めて書かれたとき、[文学]理論は、ジャン=リュック・ゴダールの新作映画のように、新奇で異国的で謎めいて刺激的だった。」(記念版 [2008年版]へのはしがき)
「たとえどんなに思慮が足りず明晰さを欠くものであっても、とにかく何らかの理論がなければ、私たちは、「文学作品」が何であるのか皆目検討がつかないだ ろうし、「文学作品」をどう読むべきかわからず途方に暮れるだろう」([1983年初版]はしがき)

●テリー・イーグルトン『文学とは何か──現代批評理論への招待(下)』(大橋洋一訳,岩波文庫:2014.09.17)【¥840】(07/19)《蔦 谷書店・梅田》

「現象の死後の生も、その現象の意味の一部である。」(新版あとがき)

●藤田正勝『九鬼周造──理知と情熱のはざまに立つ〈ことば〉の哲学』(講談社選書メチエ:2016.07.10)【¥1600】(07/23)《ジュン ク堂書店・舞子店》

「『文芸論』のなかで九鬼は、押韻の美を味得するためには「音に対する切な憧憬」がなければならないこと、そして「天体の運行に宇宙の音楽を聴いた霊敏な 心耳と、衣ずれの微韻にも人知れず陶酔を投げる鋭敏な感覚とを有たなければならない」ことを語っている。」(あとがき)

●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社選書メチエ:2016.07.10)【¥1550】(07/23)《ジュンク堂書店・舞子店》

「…現象学とは、本書での定義をくりかえすと、「体験世界を、その内側に身を置いて観察し研究する学問」だ…。」「…体験世界とは、脳だのコミュニケー ションだのによって説明されたり、社会によって意味を与えられたりするようなものではない。それ自体の原理と構造と意味と価値とを内部に秘め、解明される ことを待っている謎[エニグマ]なのだ。」(あとがき)

●蓮実重彦『伯爵夫人』(新潮社:2016.06.20/2016.07.10四刷)【¥1600】(07/24)《リブロ明石店》

「表層を覆う官能小説風の装いは手の込んだ擬態。既成のポルノグラフィーが、中心に向かって突き進み、発砲によって相手を征服したと錯覚し、しかる後に萎 えて「無条件降伏」状態に陥る物語にすぎないことを、伯爵夫人はせせら笑う。」(斎藤美奈子「官能の奥に戦争へのまなざし」、朝日新聞 2016.07.24)

●ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』(佐々田雅子訳,文春文庫[電子書籍版]:2016.05.20)【¥1200】(07/26)《楽天》

「『ホワイト・ジャズ』──わたしのバイブル。」「呪文──エルロイは自らの妄念を世界中にばら撒くために、それに相応しい呪文を産みだした。なんという 作家、なんという妄念。」「エルロイは特別なのだ。泣きたいぐらい特別なのだ。」(馳星周「解説──血をまき散らせ!」)

●バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー──つなぐ技術としての人間意識』(高山宏訳,産業図書:2006.07.10/1999) 【¥3200】(08/06)《honto》

「電脳的・ネオマニエリスム」「「ちがう」と言う時代に「同じ」をさぐる 電脳に蘇れ愛[エロス]」「「意識の生物学」で美術史一変」「懊悩を癒せ魔[マギア]!」(腰巻)

●佐藤公治『音を創る、音を聴く──音楽の協同的生成』(新曜社:2012.07.25)【¥3200】(08/10)《楽天》

「足りないのは言葉や対話する力ではない。細くなり弱くなっているのは私たちの身体が感じること、身体と身体で感じる人との関わりとその体験である。言葉 を支えているもの、言葉の裏に存在しているものを共に持てない時には言葉は死んでいく。」(はじめに)

「沈黙、声にならない感動は人を支え、人を動かす。沈黙せざるを得なかったものを表現して形あるものにしたいという衝動を抑えることができない。人を表現 へと向かわせるものである。沈黙せざるを得なかったものを表現しようとするこの欲求、この人の心にあるもの。これが人間の根源としてあるものだろう。」 (はじめに)

●マーク・グリーニー『暗殺者グレイマン』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2012.09.25)【¥940】(08/21)《喜久屋書店明石駅ビル 店》

 朝日新聞の読書欄で、池上冬樹が「世界最高の冒険小説である暗殺者グレイマン・シリーズ」「ぜひ第一作から」と書いていたのに誘惑された。マーク・グ リーニーはトム・クランシーの共作者。

●睦月影郎『とろり蜜姫・掛け乞い──睦月影郎傑作選』(講談社文庫[電子書籍版]:2015.05.08)【¥713】(08/27)《楽天KOBO》

 ポイントの有効期限を知らせるメールに急かされ適当な買い置き用電子書籍を物色していて文豪・睦月影郎の名が浮かんだ。ほんとうは『欲情の文法』を入手 したかったが電子化されていなかった。ネットのランキングでこの本を第一位に推すのがあったので購入しておいた。

●矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』(集英社インターナショナル:2014.10.29/2016.08.06第10刷) 【¥1200】(09/10)《ジュンク堂書店・神戸さんちか店》

 加藤典洋が『戦後入門』で「目を開かせてくれた」(498頁)と書き、「またとない重要性をもつもの」(501頁)と書いていた。池澤夏樹が朝日新聞の 連載コラム「終わりと始まり」で「ラディカルな、つまり過激であると同時に根源的な問題提起の本だ」と書いていた(2015.04.07「主権回復のため に 左折の改憲 考えるとき」[http://kenpou-eiga.com/?p=1485])。

●マーク・グリーニー『暗殺者の正義』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2013.04.15)【¥1040】(09/12)《喜久屋書店明石駅ビル店》
●マーク・グリーニー『暗殺者の鎮魂』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2013.10.21)【¥1100】(09/16)《喜久屋書店明石駅ビル店》
●マーク・グリーニー『暗殺者の復習』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2014.05.20)【¥1140】(09/16)《喜久屋書店明石駅ビル店》
●マーク・グリーニー『暗殺者の反撃』上・下(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2016.07.25)【¥920×2】(09/19)《喜久屋書店明石駅 ビル店》

 第一作がすごかった。『暗殺者の反撃』まで全五作の一気読みに挑むことにした。

●藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する』(春秋社:2016.09.25)【¥1800】(09/27)《三省堂書店有楽町店》

 永井均さんのツイッター、9月20日の記事。「今年は3カ月おきに4冊の本が出ることになりそうだと前に書きましたが、3月の『存在と時間』と6月の 『改訂版・なぜ意識は実在しないのか』に続き、本日9月予定の『鼎談・仏教3.0を哲学する』も予定通りに出ました!(12月予定の『マクタガート時間の 非実在性』も原稿はほぼ完成しています。)」


【読了】

●市川浩『精神としての身体』(講談社学術文庫:1992.04.10/1975)(07/01 再読)

 伊藤亜紗著『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(この本のことは三浦哲哉著『映画とは何か』(63頁)で知った)を読んで「錯綜体 (Implexe)」の概念に惹かれた。「我が国でも市川浩の著作によってヴァレリーの専門家以外にも知られるところとなった」(234頁)とあり、註に 『精神としての身体』が挙げられていた。この『精神としての身体』と『〈身〉の構造』はたしかその昔、『チベットのモーツァルト』や『構造と力』(ともに 1983年刊)などと相前後して読みこんだ記憶がある。ほぼ三十年ぶりに強い郷愁を感じながら二冊同時に再読して、ここには汲み尽せない(汲み尽せていな い)鉱脈が眠っていると確信した。

 「ニューアカ」には軽薄な響きがあってあまり口にしたくない言葉だが、便利なので符丁として使うと、あのニューアカ・ブームを「下支え」した1930年 代生まれの著述家・思想家の一人に丸山圭三郎(1933−1993)がいる。この丸山と市川浩(1931−2002)が「身分け」と「言分け」をめぐって 深い関係を切り結んでいた。悪い癖で、関心が高まると関連資料をすべて手元に集めたくなる。Amazonで古書を漁りそれぞれ五冊ずつ(#)注文した。

★市川浩
『精神としての身体』(1975)
『人類の知的遺産 ベルクソン』(1983)
『〈身〉の構造──身体論を超えて』(1984)
『現代芸術の地平』(1985)#
『〈私さがし〉と〈世界さがし〉―─身体芸術論序説』(1989)#
『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』(1990)#
『〈知〉と〈技〉のフィールド・ワーク──現場の思考』(インタビュー集、1990)#
『身体論集成』(中村雄二郎編、2001)#

★丸山圭三郎
『ソシュールの思想』(1981)
『ソシュールを読む』(1983)
『文化のフェティシズム』(1984)
『言葉と無意識』(1987)
『文化=記号のブラックホール』(1987)#
『生命と過剰』(1987)
『欲動』(1989)#
『言葉・狂気・エロス──無意識の深みにうごめくもの』(1990)
『カオスモスの運動』(1991)#
『生の円環運動』(1992)#
『ホモ・モルタリス 生命と過剰 第二部』(1992)#
『言葉とは何か』(1994)

●清水徹『ヴァレリー──知性と感性の相剋』(岩波新書:2010.03.19)(07/04)

「女好きで、ときには狂おしいまでに心を痛める恋愛を生涯に四度も経験して…愛人たちに、身辺雑記を含めておそらく三千通以上の恋文を送っ」たヴァレリー (あとがき)。たとえば「最後の愛」の相手ジャンヌとの関係をめぐって。「「官能的」であることと「知性的」であることが合一するようなひとつの「比類な い語彙」を求めるような姿勢が、彼らの文通なのである」(152頁)。
 ヴァレリーの胸像を制作したルネとの報われぬ愛がもたらす「内面の嵐」からの脱出という「作品制作の動機そのものを、作品化」(124頁)したのが『固 定観念──あるいは海辺の二人』。「錯綜体」の概念はこの(舞台で上演されたとき会場が爆笑に包まれたという「落語的な対話」で構成された)作品に登場す る。「たとえば、ちょうどそのころフランスで流行しはじめたフロイトの理論を好まなかったヴァレリーは、それをあざやかに茶化しているし、そのかわりにフ ロイト的な《無意識》に対置されるべき観念として《錯綜体》、implexe という造語を呈示して、それをめぐっていろいろとおかしな議論を重ねる。」(125頁)

●市川浩『〈身〉の構造──身体論を超えて』(講談社学術文庫:1993.04.10/1984)(07/05)

 著者は「原本あとがき」に「一言でいえば、身体の問題は、皮膚の限界を超える超身体の問題へと拡大する」と書いている。「精神としての身体/身体として の精神」から「身(み)」へ、「現象としての身体」から意識に現われない潜在的な次元の身体を含めた「構造(はたらき)としての身体」つまり「錯綜体」の 問題へと進んできた市川身体論は、機械や制度や言語によって「仲だちされた錯綜体」の概念を経て、表面性を「上へ(スーパー)」「横へ(トランス)」「下 へ(インフラ)」と超出する「超−身体」の概念へと向かう。そして「原本あとがき」の最後に「身体は全体を内蔵しない〈断片〉である」と書いてあるよう に、第三の「生成(運動)としての身体」とでも表現すべきテーマに即してさらに拡張されていく。
(著者は本書で二度「本歌取り」に言及し(121頁、201頁)、枕詞にも一度言及している(201頁)。このことはしっかりと記憶に刻んでおこう。)

 市川浩の二冊の主著をめぐる内田樹の論考が素晴らしい。「哲学的身体論の射程──比較身体論ノート(1)」(神戸女学院大学『論集』第40巻第2号, 1993年12月)[https://kobe-c.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main& active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1314&item_no =1&page_id=33&block_id=148]
 内田は「〈見分け〉とはききなれない言葉である。このネオロジスムは丸山圭三郎が使い始めたものである」と書いているが、市川によると「〈見分け〉とい うのは、身による世界の分節化≠ニ同時に“世界による身の分節化”を意味します。丸山圭三郎さんは、この〈見分け〉ということばを使ってくださって、さ らにその上にシンボルを使う領域として〈言分け〉というレヴェルを立てられたわけです」(『〈身〉の構造』140頁)。

●市川浩『身体論集成』(中村雄二郎編、岩波現代文庫:2001.10.16)(07/15)

 単行本未収録の論考が二つ(いずれも「〈身〉の現象学」にかかわる)、『〈中間者〉の哲学』と『現代芸術の地平』の収録論文が二篇ずつ、『〈私さがし〉 と〈世界さがし〉』から四篇と、計十篇の論文が収められている。主著『精神としての身体』と『〈身〉の構造』を読み終えたあと、その後の市川浩の仕事を効 率的に概観するのに便利なアンソロジー。
 と、そう思って購入したところ、編者・中村雄二郎の解説に、「市川さんの数ある〈身体論〉のなかで、かねてから私がとくに感心し、高く評価しているもの に──今回の『身体論集成』には収録することができなかったが──「他者による顕身──鈴木忠司の演劇的思考」(『現代芸術の地平』所収)がある。」など と書いてあったものだから、無性に『現代芸術の地平』を入手したくなり、そうこうするうち思いが高じてとうとう入手できるかぎりの市川本を購入することに なった。

 まだ三冊しか読み終えていない段階で総括めいたことを書くのはどうかと思うが、私の個人的な関心に照らして言うと、市川身体論は、「私は現実的統合と可 能的統合、およびそれらの背後に潜在する系列をふくめた一種の遍統合体をも広義の錯綜体と呼びたい」(『〈身〉の構造』199頁)という文章にほぼ尽きて いる。(ここに出てくる「統合」と「系列」は、イェルムスレウの表現では、それぞれ「統合」=「顕在的な連立(あれもこれも共に成り立つ)」、「系列」 (ソシュールの「連合」)=「潜在的な交替(あれかこれかいずれか一方が成り立つ)」となる(195頁)。)
 このあとは、たとえば『現在芸術の地平』に収められた「パースペクティヴについて」や「身体による世界形成」(『〈中間者〉の哲学』、『身体論集成』) などで補強し、拡張していく作業が残っている。と、そのような見通しと見取り図を、未読の論攷群を読み込むことでどう覆していくか。

●鎌田茂雄・上山俊平『仏教の思想6無限の世界観〈華厳〉』(角川ソフィア文庫[電子書籍版]:2014.06.15)(07/15)

 中国での華厳宗の成立や華厳教学の展開、西田幾多郎とのかかわりなど、知らなかったこと、曖昧だったことの多くがクリアになったのはいいが、肝心の華厳 思想の中身になると、(手っ取り早く実質をつかみたいという読み手の姿勢に問題があったにせよ)、だんだん雲行きが怪しくなり、とうとう最後には腹が立っ てきた
 一即多、多即一、等々、深遠かつ深甚な響きを伴いながら実はいたって初歩的なロジックと、なんでもかでも十の分類を立てずにはおかない強迫観念めいたも のにかられ、大仰かつ面妖な漢語を並べ立てる叙述のスタイルが鼻についてくる。悪気がないのは判るが、サービス精神は皆無。

 かつてヘーゲルの長谷川宏訳をめぐって、ノスタルジックに長谷川以前の古訳の難解さを称揚し、元来輸入品である哲学的概念の外来性を明示する訳語を支持 する議論があったと記憶するが、(長谷川訳の画期を否定する気も根拠も持ち合わせていない私も、その昔武市健人訳で大論理学に挑んだ経験から、この説に一 票を投じたいと思った)、それとこれとはわけが違う。
(『禅の教室』で、伊藤比呂美が「説明してください」とか「ふう、だんだんわかってきました」(21頁)とか、隠語、符牒の類を使わずに「シッダールタが 言いたかったことを表現したい」(27頁)と言っていた。言葉にできる言いたいことが先にあり、それを後から言葉で説明されて理解する。そんなこと(極論 すれば、辞書的な語義をめぐる薄い経験)だったら、わざわざ師をたてて学ぶことなどなかろうにと、反感めいたものを感じていたのだが、ただ、問題はその 「言葉」であって、伊藤比呂美が、「縁起」や「因果」が日本語としてすっかり日常語になっていて、「ほんとはわかってないのに、スッと通り抜けてしまっ て、本当の意味が伝わってこない」(17頁)と言っているのは正しいと思う。)

 サービス精神は皆無だけれど、次の二つの文章は心に深く刻んでおこうと思った。
「師と弟子とが感応道交する、心の触れ合い、心の通い合いこそ、融通無礙を表わす事実にほかならない。この事実を直視したならば、華厳で説く融通無礙とい うことはけっして荒唐無稽な思想ではないことがわかるであろう。」(第一部「華厳思想の本質」(鎌田茂雄)三章「華厳思想の至境」2「融通無礙はなぜ可能 か」)
(華厳の法界縁起の真相を説明しようとした六相円融の説をめぐって)「この思想の背景には実践的要求が秘められている。すなわち……修行論を離れて華厳の 至境は成立しないのである。どこまでも宗教的実践の論理化であることに注目しなければならない。」(第一部「華厳思想の本質」(鎌田茂雄)三章「華厳思想 の至境」3「現象円融論」)

●大岡信『萩原朔太郎』(ちくま学芸文庫:1994.04.07/1981.09)(07/16)

 今年のはじめに『詩人・菅原道真──うつしの美学』を読み、その後『紀貫之』『うたげと孤心 大和歌篇』『詩の日本語』と読み継いだ。『萩原朔太郎』を もって一応の仕上げとする。(大岡本では、あと『正岡子規―─五つの入口』と『岡倉天心』は読んでおきたい。)
 本書は、「みちゆき」(「夜汽車」と改題)以前の短歌作家時代から初期の「愛憐詩篇」時代を経て『月に吠える』『青猫』『氷島』へといたる詩人・萩原朔 太郎の評伝。私の個人的な関心はそこにはなかったのだが、それでも、十年以上に及ぶ短歌制作の結果到達した虚構性や物語性の要素、雰囲気をめぐって、「萩 原朔太郎は、『古今集』以来(いや、『万葉集』以来と言ってもいい)の和歌の歴史が大切にしまいこんできたこの要素に、独力で気づいてこれをわが習練のた めに利用しているのである。この点を見のがしてしまえば、朔太郎の短歌はついに三流にとどまるという評価のみで通りすぎるほかない。」(41頁)と書かれ ていたことや、『詩の原理』について、「古代以来の日本の詩歌史上はじめて、実作においても一流の詩人によって書かれた体系的・原理論的な詩学の書であっ たところに大きな意味がある」(186頁)と評されていたことなどが印象に残った。

●鈴木康夫『天女[アプサラ]たちの贈り物[マーヤー]』(ぷねうま舎:2015.05.22)(07/18)

「…この世というのは、自分の思いが直接実現される世界なのだ!」(118頁)
「実はいま・ここで感じていることの中にすべてがあるんだ。」(197頁)
「思いの実現というのは、思われたそれがわたしと無関係であると知ること、その意味で思いが不要になることなんだよ。」(236頁)
「わたしの思いがいつの間にか完璧に実現しているのがこの世界なんだ。」(300頁)

◎ポール・ヴァレリー「身体に関する素朴な考察」(松田浩則訳,『ヴァレリー・セレクション 下』(平凡社ライブラリー:2005.04.06)所収)(07/17)
◎ポール・ヴァレリー「固定観念──あるいは海辺の二人」(恒川邦夫訳,『ヴァレリー集成 Y 〈友愛〉と対話』(筑摩書房:2012.07.20)所収)(07/18)
◎ポール・ヴァレリー「外科学会での演説」「『カイエ』より(抜粋)」(山田広昭訳,『ヴァレリー集成 W 精神の〈哲学〉』(筑摩書房:2011.11.20)所収)(07/19)

「わたしたちの一人ひとりに、「現実の身体」と呼ぼうが、「想像上の身体」と呼ぼうがたいした変わりのない「第四の身体」とでもいうべきものがある」 (「身体に関する素朴な考察」251頁)
「あなたの〈錯綜体〉は、つまるところ、…単純明快に、〈無意識〉あるいは〈潜在意識〉と…同じものではありかせんか?/あなたは私に海に放り込まれたい んですか?」(「固定観念──あるいは海辺の二人」148頁)
「錯綜体とは、結局のところ人間ないし自我の概念のなかに含まれているが、現在化していないもののことである。」(「『カイエ』より(抜粋)293頁」)

●丸山圭三郎『カオスモスの運動』(講談社学術文庫:1991.11.10)(07/23)

 丸山圭三郎の著書はどれも最高品質の読書ノートを思わせる。心に残る音曲、噺を繰り返し聞き流す心地よい疾走感に酔い痴れる。本書は『ソシュールの思 想』から『ホモ・モルタリス』刊行前までの丸山理論が凝縮されている。とくに「W 言語と世界の分節化」と「X 深層意識のメタファーとメトニミー」が役に立つ。

《ギリシア人が考えたように「カオスがコスモス化する」のでは‘なく’、「コスモスとともにカオスが生じる」のである。S・フロイトが考えたように「エス が自我化する」のでは‘なく’、「自我がエスを生み出した」こと、「無意識が意識化する」のでは‘なく’、「意識が無意識を生み出した」ことと同様であ る。つまり、動物には存在しないカオスやエスや無意識が人間においてのみ発生したのは、コスモス(=〈言分[ことわ]け構造〉)が生じて‘自我’や‘意識 ’を生み出し、〈身分[みわ]け構造〉を破壊した瞬間からであった。この、コスモスと‘共起’するカオスの両者を一つの連関現象とみなして〈カオスモス〉 と呼ぼう。》(「W 言語と世界の分節化」114-115頁)

《ソシュールのアナグラムが示唆する最も重要な点は「差異化は‘起こす’のではなく‘起きる’」ということ、その活動の主体はアノニムであること、さらに はこの動きが一切の合目的性をもたないことであったし、ニーチェの永遠回帰も、「すでに複数形に拡散してしまった、もはや自我ではないもの」(P・クロソ ウスキー)によって起きるものであった。井筒俊彦氏にあてた書簡の中で、J・デリダが「解体=構築は批判でも方法でもありません。行為や操作でさえないこ とをもはっきりさせるべきでしょう。解体=構築は起きるのです」と言ったころも、同じ観点から解釈されるべきであろう。》(「Z コトバと権力と生の円環運動」254頁)

●丸山圭三郎『文化のフェティシズム』(勁草書房:1984.10.15)(07/24)

 丸山圭三郎の本を読んでいるとデジャヴュ体験におそわれる。同じ文章の使いまわしなのか、それとも何度でも同じセンテンスが「いま・ここ」に回帰してく るのか。
 備忘録、本書前半(第一章と第二章)から。宗教、経済、心理にわたるフェティスズムの定義(36-42頁)。コトバと言葉と言語の定義(63頁、107 -113頁)。図と地の分節(70頁)から「身分け構造」と「言分け構造」の二重分節へ。「身分け構造」と「言分け構造」のはざまに見出される時間すなわ ち「イントラ・フェストゥム」=「永遠の現在」(88頁)。
 後半から、二つの文章を抜き書き。

《[ソシュールが「現前の記号学」に対して行った五段階の解体構築(デコンストラクション)のうち]第五段階の解体によって、私たちははじめて一切の二元 対立以前の運動、‘意識的’主体なき動き、〈コードなき差異〉発生の現場にひき戻される。(中略)この運動の場にあっては「読む」行為と「書く」行為をも はや切り離すことはできない。何故ならばすべての表出行為が初源的な空間・時間的差異化作用であるのと同時に、「読む・聞く・触れる・感じる・見る」行為 も、能動/受動の二元論的対立に先立つ‘動き’だからである。そもそも古代日本語に表わされた心性をふりかえれば、「読む」は「呼ぶ」に通じ。声を立てて 「数えること」つまりは連続的な波のうねりを、fur sich なものとして一つ、二つと数え、波頭に差異化することであった。(古事記、上「(白兎曰く)いましは、そのともがらのありのまにまに、ことごと率[ゐ]て 来て、この島より気多[けた]の埼まで、皆並み伏しわたれ。すなはち、あれ、その上を踏みて、走りつつ‘読み’わたらむ。」万葉集、四の五一〇「白栲[し ろたへ]の袖解き更へて、還り来む月日を‘数みて’、往きて来ましを。」)「読む」ことはまた「創る」ことでもあり(「和歌を‘詠む’」)さらに「呼ぶ」 とは「名づける」こと(「この動きを生と‘呼び’、あの停止を死と‘呼ぶ’」)であるとすれば、「名づけられてはじめて存在する」一切の文化現象の発生を も説明してくれるように思われないでもない。》(第四章「フェティシズムは超えられるか」243-244頁)

《[百人一首二十余首中に現われた]「思う」は‘分別智’としての論理的思索でも合理的思考でもない。それは「ねがい」であり「憂い」であり「恋い慕うこ と、いつくしむこと」であり〈来し方・行末〉をめぐる追憶と予見・想像でもあって、さらには理性/感性といった二分法以前の身体的パフォーマンスとしての ‘顔の表情’でもある。「おもへり」なる大和ことばは面貌を意味し、「おももち、おもかげ」とともに「思ふ」と同根と聞く。(万葉四「物悲しらに思へりし 吾子の刀自を……」)。》(第四章「フェティシズムは超えられるか」253頁)

●バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー──つなぐ技術としての人間意識』(高山宏訳,産業図書:2006.07.10/1999) [08/12]

 高山宏の「訳者あとがき」に、「我々のロマン派イメージやアレゴリー観を必ずや一変、というより覆滅してしまうはずの「コンテンツ」も凄いが、なにより も凄いのはあざといばかりの百学連環パフォーマンスである。」(226頁)と書いてある。この本の感想はこれに尽きる。高山宏でさえ「覆滅」されるのだか ら、安心して翻弄されていい。(ただ、読み手のせいか訳文のせいか判らないが、論述のつながりが「連環」していない。ドライブ感がない。)
 アナロジー対アレゴリー。協和対差異。そのエッセンスが、任意に拾った次の文章に凝縮されている。

「ライプニッツ的な多声[ポリフォニック]な世界劇場が…硬ばって、二元論の詩学に、また断片の美学に化した。撞着とアイロニーの構造がノヴァーリス、 コールリッジ、ボードレール、ニーチェの書くものを支配している。その誰もが、今や全体など手が届かず、宇宙はばらばらという思いにとり憑かれて欝々とし ている。デリダのいわゆる脱構築哲学が、かつてイェナのロマン派が断ち割ったイデアと現象界の割け目をさらに深くしてしまった」(12頁)。

●テリー・イーグルトン『文学とは何か──現代批評理論への招待(上)』(大橋洋一訳,岩波文庫:2014.08.19)[08/13]

 第三章「構造主義と記号論」が佳境に入ったところ──「ヤコブソンはまた、ソシュールにおいて明確化されなかった、隠喩的なものと、換喩的なものとの区 分を重視する。」──で紛失した。(人とぶつかって、ホームと車両の隙間から線路に落ちていった。)図書館で単行本を借りて続きを読んだ。やはり読み損ね たところが一番面白い。特にソシュール対バフチンのところ。
「ソシュール言語学に対するもっとも重要な批判者の一人は、ロシアの哲学者であり文学理論家のミハイル・バフチンだ。(中略)バフチンは、ソシュールの 「客観的=対象的」言語学に激しく反発しながらも、「主観的=主体的」言語学に対しても批判的だったから、その関心を、抽象的体系である〈ラング〉から、 個々の社会的コンテクストにおける個人の具体的な発話へと移行させた。言語は、本質的に「対話的」なものとみなければならない。」(単行本180-181 頁)

●鎌田東二『世阿弥──心身変容技法の思想』(青土社:2016.04.15)[08/14]

 粗削りな原石(個人的体験)と磨きぬかれた宝石(普遍的概念)の坩堝。豊饒と混沌。
 面白かったのは「能のもっとも神秘的な部分」=「能を能たらしめる象徴的な響き「ひしぎ」」をもたらす能管と、その起源(ではないかと著者は言う)とな る「石笛」の話。第一章第四節「能管の創造──石笛の再現としての「のど」の考案」(54-65頁)と、第七章(281-282頁)、第八章(306- 307頁)にも記述あり。
 そのほか、古代=近代、中世=現代の「スパイラル史観」(序章)、岡本太郎とシャーマニズム(第六章)、「こころは嘘をつく。が、からだは嘘をつかな い。しかし、魂は嘘をつけない。」の「心身魂関係」(286頁)や「幽の技法」(318頁)、「わたしは世阿弥と折口信夫に同質のサウンドを聴く。」(あ とがき、342頁)など多数。一箇所だけ抜き書する。

《ミルチャ・エリアーデ以降、シャーマニズム類型は、脱魂型(ecstasy type)と憑依型(possession type)に二類型化されることが多いが、「身心変容」ないし「身心変容技法」という観点から、わたしは「鳥シャーマニズム」と「蛇シャーマニズム」の二 つに分類している。鳥のように空を飛ぶ垂直変容。蛇のように地を這い、水の中を泳ぐ水平変容。鳥人と蛇人。天界飛翔と海底あるいは地底潜行。垂直軸と水平 軸。その交点で起こる心身変容。
 超越性を持つ垂直軸から見ると、人間は霊と心と体の三層構造として措定できる。世俗性を持つ水平軸から見ると、人間は個と共同体と社会の三相構造として 措定できる。
 また、いくつかの対極的な軸を設定できる。それを、インドア(内向性)とアウトドア(外向性)、籠りと歩き、座りと走り(踊り)などの対極として措定で きる。
 そうした対極軸から「身心変容技法」を見ると、瞑想・止観などの内観的集中はインドア的身心変容技法であり、修験道の山岳跋渉などはアウトドア的身心変 容技法の典型であるといえる。インドア的身心変容が起こる空間は「洞窟」で、その暗く狭い空間において内観的な内的集中が強化され、暗黒の中で暗黒を突き ぬけて光を見る閃光体験や光明体験を味わう。暗闇はそこから光明を発生させる。
 アウトドア的身心変容技法は、天台千日回峰行や吉野熊野修験道の奥駆け、羽黒修験道の秋の峰入りなどにおける歩行や走行から、羽根が生え鳥や烏や天狗や 孔雀王や不動明王に変身していくようなトランスフォーメーションを生み出す。
 このインドア的身心変容とアウトドア的身心変容の両方が同時に生起する実験的な空間が地球重力から解放された宇宙空間である。人類はすでに地球大気圏か ら宇宙に飛び出しているが、今後宇宙空間においてどのような「身心変容」が起こり、地球重力圏とは異なるいかなる「身心変容技法」が編み出されるか、興味 津々である。突然変異や進化を含め、未来の人類史においても、「身心変容」および「身心変容技法」は看過することのできない重要課題となり、テーマとなる だろう。》(第四章、161-162頁)

 本文には図が示されていて、下方から上方へ向かう「身(体)−心−霊(魂)」の垂直軸と、左方から右方へ向かう「個−共同体−社会」の水平軸が「心=共 同体」で交わる。「霊(魂)」と「個」で区画される空間に「インドア系身心変容」=「洞窟」が、「身(体)」と「社会」で区画される空間に「アウトドア系 身心変容」=「海・山」」がそれぞれあてがわれている。

●加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書:2015.10.10)[08/24]
●加藤洋子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫:2016.07.01/朝日出版社:2009.07)[08/25]
●互盛央『日本国民であるために──民主主義を考える四つの問い』(新潮選書:2016.06.25)[08/26]

 與那覇潤著『中国化する日本』を読み、東島誠・與那覇潤の共著『日本の起源』を読んで、歴史学の先端の仕事に瞠目・驚愕し、かつ歴史や歴史観というもの がまるで判っていなかったこと(たとえば歴史的事実と歴史(認識)とは違う次元の問題であること、それはマクタガートのB系列とA系列ほど違う、あるいは 時間そのものと「いま・ここ」ほど違うといったこと)に愕然となり、また白井聡著『永続敗戦論』を読んで、戦後政治をめぐる通時的な出来事の錯綜と共時的 なロジックの錯綜に気づかされ、そしてそれらのことを自分自身の軌跡(事実問題)や生き方・理念にかかわる事柄(権利問題)と重ね合わせて考えなければな らないことを痛感させられ、以来、広く歴史書に関心を深め、とくに戦後政治史や憲法問題を扱った書物を意識して継続的に読みようになった。
 この三冊はどれも巻を措く能わずの出色の出来栄えで、でも実際はかなり時間をかけ丁寧に読み込みでいったものがほぼ同時に読了の時を迎えた。(あいまに 五百旗頭真・中西寛編『高坂正堯と戦後日本』(中央公論新社:2016.05.25)を拾い読みしていた。この書物はいずれ、『宰相吉田茂』ほかの高坂本 や『現代と戦略』その他の永井(陽之助)本の読み込みとあわせて再読することにしたい。)戦後を考え、戦争を考え、政治を考え、そして歴史を感じ、自分自 身を考えるための基軸となる思考を、これらの書物は豊富な事実と素材とロジックをもって促してくれる。

 抜き書きしておきたいたくさんの事柄が記憶の中でひしめいている(加藤(典洋)本と互本とは憲法問題を中心にオーバーラップし混線している)が、ここで は一つだけ。
 歴史とはこういう身体感覚に根ざしているものなのではないか(歴史とは上手に思い出すことだ、というのも同根なのではないか)と思わせられた記述が、加 藤(洋子)本にあった。(著者は、ここに書かれた憑依体験を「幸福感」と呼んでいる。)
「原稿を書きながら、時々不思議なイメージが頭に浮かぶ瞬間がありました。原稿を書いているのは私の頭ではなく、近現代という「時代」そのものが霊媒師・ 鈴木さん[編集者]を呼び止め、そして私の身体[からだ]を用いて「歴史」を書かせているとのイメージです。」(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 477頁)

●テリー・イーグルトン『文学とは何か──現代批評理論への招待(下)』(大橋洋一訳,岩波文庫:2014.09.17)[09/07]

第5章「精神分析批評」がツボにはまった

@「鏡像[ミラーイメージ]という「メタファー的」世界は、言語という「メトニミー的」世界へと道を譲ったのだ」=(「エディプス・コンプレックスという 苦難の道を幼児がうまく通り抜け」、「母親の身体つまり現実を「くまなく」想像的に所有している状態から,言語という「空虚な」世界へと追放され」たこ と)(96頁)

A「間[ビトウィーン]」に存在する無意識
《ラカンの仕事を記述する方法のひとつとして、無意識は私たちの「内側」にある荒ぶる渾沌としての私的領域といったようなものではなく、私たちの相互関係 の効果であることを私たちに認識させてくれたと語ってもいいだろう。いうなれば、無意識は、私たちの「内側」にあるのではなくて「外側」にある──もっと 正確に言えば、私たちの人間関係がそうであるように、私たちの「間[ビトウィーン]」に存在する。無意識がとらえどころがないのは、なにもそれが私たちの 精神の奥深くに埋没しているからではなく、それが、広大な、錯綜とした一種のネットワークとなって私たちを囲繞し、私たちを刺し貫ぬき、それゆえに決して 定着できないからだ。私たちの外にあり、しかも私たちを作り上げているネットワーク。それをもっともよくあらわすイメージは、ほかならぬ言語である。事 実、ラカンにとって無意識とは、言語の特殊な効果、差異によって始動する欲望のプロセスであった。》(109頁)

B作品自体がかかえる無意識
《…「サブテクスト」とは、両義性を帯びたり、言い逃れが生じたり、過度の強調がおこなわれたりする「徴候的な」個所によって明らかになる作品のなかにあ るもうひとつのテクストであり、たとえ小説のなかではなにも書かれていなくとも、読者としての私たちが「書く」ことのできるテクストをいう。あらゆる文学 作品は、このようなサブテクストをひとつないし複数ふくむ。したがってそれを、作品自体がかかえる「無意識」だと語ってもあながち間違いではあるまい。》 (120頁)

●マーク・グリーニー『暗殺者グレイマン』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2012.09.25)[09/12]
●マーク・グリーニー『暗殺者の正義』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2013.04.15)[09/17]
●マーク・グリーニー『暗殺者の鎮魂』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2013.10.21)[09/21]
●マーク・グリーニー『暗殺者の復習』(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2014.05.20)[09/28]
●マーク・グリーニー『暗殺者の反撃』上・下(伏見威蕃訳,ハヤカワ文庫NV:2016.07.25)[10/01]

 仕事を忘れて読み耽った。『ミレニアム4 蜘蛛の巣を払う女』以来のこと。