不連続な読書日記(2013.03-04

 


【購入】


●唐木順三『日本人の心の歴史』上下(ちくま学芸文庫:1993.04.07)【¥1300×2 :amazon

 井筒俊彦が司馬遼太郎との対談で語った古今、新古今の思想的構造の意味論的研究。その(未完もしくは未着手の研究の)一端を思わせる論述が『意識と本質』にある。これは若松英輔氏の指摘。
 佐竹昭広の論考「『見ゆ』の世界」(『萬葉集抜書』)や白川静の『初期万葉論』に言及しながら、新古今の「眺め」をめぐる井筒俊彦の文章を引く。この若松氏の議論をトレースしているうち、唐木本にいきあたった。
 上巻の目次を見ていると、なぜこれまでこの本を見つけられなかったのかが不思議。(03/06

序論 日本人の感受性の特色―感性の論理

1 万葉集における「見れど飽かぬ」について
2 古今集における「思ふ」について、及び王朝末、中世初期に現はれた「心」への懐疑と否定
3 「思ふ」から「見る」への回帰、及び「見る」ことの深化
4 春と秋といづれまされる
5 季節のよびよせ
6 四季の色どり
7 古今集の四季の部立及び配列の仕方の問題
8 秋への傾斜
9 冬の美の発見
10 冬の美
11 否定の美学
12 新なる季節
13 季節の実相
14 芭蕉の発明
補遺 『撰集抄』の脱体制者たち―その歴史的叙述


●マルティン・ハイデッガー『言葉についての対話──日本人と問う人とのあいだの』(高田珠樹訳,平凡社ライブラリー:2000.08.10)【¥1000 :amazo

 解釈学的循環をネットで調べると、全体の理解と部分の理解とのあいだの循環のことだと書いてあった。そんなことなら仰々しい語を使う必要はない。「存在」と「存在者」とのあいだの「存在論的循環」という言葉があるかと検索していて本書がヒットした。
 なぜそんな語彙の出典を探していたのか。井筒俊彦の和歌論に関係していたはずなのに、購入してから一月以上も経って記録をつけているのでまったく思い出せない。
 戸坂潤の『科学方法論』[http://www.aozora.gr.jp/cards/000281/files/1713_43588.html]に「存在論的循環」の語が2回でてくる。さっそく「青空文庫」から iPhone にダウンロードしておいた。(03/06


●佐竹昭広『萬葉集抜書』(岩波現代文庫:2000.12.15)【¥1200 :amazo

 昨年暮れ頃から近所の図書館で継続、継続で貸し出しを受けてきたが、どうしても集中して読めない。手元に常備して熟読するつもりで、唐木本、ハイデガー本と一緒にアマゾンで注文した。(03/07


●前田英樹編・訳・著『沈黙するソシュール』(講談社学術文庫:2010.6.10/1989.12)【¥1250

 『物質的恍惚』につづいて「朝の読書」のための携帯本として選び、1時間30頁のゆったりしたペースで一週間ほどかけて半分近くまで読みすすめてきたところで、仕事ででかけた彦根への電車のなかに長年愛用してきたブックカバーともどもおき忘れてしまった。
 車中に忘れた本といえば、数年前の『連続性の哲学』(パース、岩波文庫)を思い出す。蛍光ペンでたくさんマークをつけた熟読本だったのでずいぶん力を落としたものの、すぐに買いもどして真新しい頁を開いたとき、なんともいえない新鮮な感じにつつまれた。
 前田本は、パース本ほど入れ込んではいなかったけれど、あのサイボーグが書いたような前田英樹特有の文体(概念が感覚を求めて身もだえし、論述が急角度で方向転換するといえば伝わるだろうか)にからだと頭が馴染みはじめたところだったので、間髪をいれずに買いもどし、なにごともなかったかのように朝の読書はゆったりと続いている。(03/08


●赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社:2012.07.24)【¥1800

 ある人がある講演で、若者と女性に「本を読め」と薦めた四冊の本。若者向けが安部龍太郎の『等伯』と冲方丁の『光圀伝』で、女性向けが三浦しをんの『舟を編む』と赤坂真理の『東京プリズン』。
 どの本にも食指をそそられ、厳選して買い求めたのが赤坂本。冒頭を少し読み、最高の選択だったと確信した。(03/09


●仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』(作品社:2013.03.15)【¥2000

 ちくま学芸文庫から丸谷才一の『後鳥羽院 第二版』が出ているので買い置きしておこうと近くの本屋で探したところ見あたらず、同時に刊行されたカール・シュミットの『政治思想論集』を目にして思わず購入しそうになった。
 かねてから政治哲学や政治思想に関する古典、必読書を系統的に読みすすめたいと企画していて(学生の頃、ほんとうはこの分野を専攻したかったのだと、うかつなことに卒業後何十年も経ってからようやく気がついたので)、ちょうどなにか政治経済にかかわる古典的著作を精読したいと思っていたこともあり、熟慮の結果、とりあえずトマス・ホッブスから始めることに決めたのが昨年の5月。思い切ってまとめ買いした『リヴァイアサン』(岩波文庫)全四巻や、その参考書として買い置きした『甦るリヴァイアサン』(梅田百合香)がまだ読めていない。
 なのにいきなりカール・シュミットはないだろう、それに読むなら『政治神学』が先だろうと、すんでのところで『政治思想論集』の衝動買いは思いとどまったものの、そのすぐ後で見つけてしまったのが仲正本。こうした偶然の出会いには必ず隠された(後になってわかる)意味があるはず。そう思うとかつて、純粋法学のハンス・ケルゼン、そしてその論敵カール・シュミットによせていた強烈な関心が思い出されて、ほぼ確信犯的に衝動買いを敢行した。(03/16


●渡辺恒夫『フッサール心理学宣言──他者の自明性がひび割れる時代に』(講談社:2013.03.21)【¥1800

 『カール・シュミット入門講義』の衝動買いを決めた直後、まさに通りすがりに本書の背表紙が目に飛びこんできた。手にとってぱらぱらと眺めてみて、これは買い、と直感して衝動買いリストに加えた。
 渡辺恒夫の名はかねてから知っていたような気がするが、著書を読むのはたぶん初めて。読書日記を検索してみると、ほぼ10年前に読んだ『彼岸の時間──〈意識〉の人類学』(蛭川立)で渡辺恒夫の「遍在転生観」を知り、つよい関心をよせていた。(03/16

 末尾のブックガイドの最後の項に、「独我論の超越論的問題については、本書ではエピローグでしか触れられなかったが、最初からこの問題に取り組んでいた永井均の『〈子ども〉のための哲学』、『なぜ意識は実在しないのか』が、それぞれ出発点と到達点を示してスリリングだ。」とある。「ちなみに前者には「渡辺恒夫さん」も、チョットだけ登場させられているのが笑える。」とも。
 『〈子ども〉のための哲学』に「渡辺恒夫さん」が登場したことは覚えていない。(これとの関連でいえば、『私・今・そして神』に「新宮一成さん」が一度だけ登場したことは、ありありと覚えている。)

 あとがきに著者のブログのURLが載っていた。「夢日記・思索幻想日記」[http://fantastiquelabo.cocolog-nifty.com/
 渡辺恒夫研究室の秘密のページ、と副題のついたちっとも秘密でない頁もみつけた。「幻想実験室&おもしろ死生学」[http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/
 
 ネットで「渡辺恒夫×永井均」を検索すると面白い。
 たとえば『SHORT TWIST 佐々木淳子作品集』(幻冬舎コミックス )。
 「表題作の素晴しい思索は漫画で書かずに論文で書けば、慶應大卒日本大学教授永井均や京大卒東邦大教授渡辺恒夫クラスの哲学者として日本の歴史に残っただろう。」「京大卒東邦大哲学教授渡辺恒夫(讀賣新聞のナベツネとは同姓同名の別人)の遍在転生論と同じ事を考え付いた表題作は、ハインラインの「夏への扉」や広瀬正の「マイナス・ゼロ」を越える時間SFの傑作だ」[http://news.livedoor.com/article/detail/5666581/

 そういえば、永井均さんの『マンガは哲学する』が佐々木淳子の短編集『Who!』に収録された作品を四つとりあげていた。いつか読みたいと思っていた。アマゾンで中古品が出品されているが高価。楽天でやや安価で出品されていたので入札するかどうか悩んでいる。


●濱嘉之『列島融解』(講談社文庫:2013.03.15)【¥676

 濃くてリアルな政治経済小説が読みたくて。真山仁さんの新作『黙示』が面白そうだったけれど、電車の中で読める文庫本を選択した。この著者ははじめて。(03/19


●『カント「視霊者の夢」』(金森誠也訳,講談社学術文庫:2013.03.11)【¥680

 坂部恵集(岩波書店)の第1巻「生成するカント像」に、「それまで前批判期の準備的労作とのみ見なされがちであった『視霊者の夢』を、自我の解体・崩壊を前にしてのカントのいわば自己救済のドキュメントとして新たな目で読みなおす」という記述がある。それを目にしていらい、いつかこの書物を読みたいと思っていた。(03/22


●丸谷才一『後鳥羽院 第二版』(ちくま学芸文庫:2013.03.10)【¥1500

 折に触れ何度もくりかえし眺めかつ拾い読みをしてきた。文庫化されたので、記念に。(03/22


●鴨長明『無名抄』(久保田淳訳注,角川ソフィア文庫:2013.03.25)【¥1143

 『正徹物語』『中世歌論集』につづき文庫本で読める歌論書のコレクションとして。(03/30


●佐々木淳子『SHORT TWIST──佐々木淳子傑作選』(幻冬舎コミックス:2011.03.24)【¥750

 永井均さんが『マンガは哲学する』でとりあげた作品ではないが、せめてその香りのようなものを味わいたいと思って。(03/30


●飯尾潤『現代日本の政策体系──政策の模倣から創造へ』(ちくま新書:2013.03.10)【¥900

 すべての有権者必読! という帯のキャッチフレーズにうながされて。(03/30


●ナボコフ『ロリータ』(若島正訳,新潮文庫:2006.11.01)【¥857

 先月書いたブログの記事『ナボコフの文学講義 上』[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20130304]にコメントを寄せてくれた方が読書リストに加えるよう薦めてくれたので、さっそく読むことにした。以前、映画を観た。スタンリー・キューブリック版だったと思うが、自信はない。(04/01


●『考える人』2013年春号[特集|小林秀雄 最後の日々](新潮社)【¥1429

 河上徹太郎との対談「歴史について」のCDがついている。この付録がほしかったので。(04/04


●與那覇潤『中国化する日本──日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋:2011.11.20)【¥1500

 衆議院選挙の無効判決をとりあげた朝日新聞(4月10日朝刊)のオピニオン欄(耕論)に「一票の格差より「みそぎ」」というインタビュー記事が載っていた。新鮮だった。こんな見解にはこれまで接したことがなかった。與那覇潤(よなは・じゅん)という若い歴史学者に興味をもった。この本がベストセラーになっているとはまったく知らなかった。(04/11

 ※ ネット[http://eibitochuu.blog53.fc2.com/blog-entry-732.html]に全文引用してあったので、ペーストしておく。

 一票の格差問題は、法曹関係者の熱意の高さに反して、多くの人は「言われてみれば問題かも」という程度にみえます。官民の給与格差などに比べて怒りの度合いが低い。民主主義の根幹を揺るがす問題に、なぜ当の有権者が関心を寄せないのか。
 日本史の観点からは、日本という国の内実は今も、前近代的ムラ社会の連合体に過ぎないような印象を受けます。地元や勤務先など、自分が暮らす小集団の内側で生活世界が完結しているから、国全体を見た際の「不平等」に目がいかないのでは。
 議会政治と言っても「自分たちのムラ、選挙区から代表が出ていれば満足」というレベル。一票の格差をなくすには全国一区の比例代表制が最善ですが、それが支持されないのも、自分のムラの代表を自分たちだけで選べなくなるからでしょう。
 法への感覚も江戸時代と同水準です。法の支配とは本来、権力の暴走を法で縛るという意味ですが、自民党のベテラン議員は裁判所の選挙無効判決に「立法府への侵害だ」とかみついた。大岡越前のような行政官が裁判官を兼ねていた時代の、「司法は庶民を法律に従わせるのが仕事」という感覚なのでしょう。為政者こそ法に縛られることに納得できないのです。
 政治学者の神島二郎や京極純一も、民俗学的な伝統社会の言葉で日本の政治を理解しようとしました。どうも私たち日本人は、社会を自分たち自身でつくる人工的な制度ではなく、ある種の自然的秩序と感じているらしい。世相が乱れるのは、秩序のどこかに汚点があったり、社会で祭司の役割を担うべき政治家に落ち度があったりするからで、選挙とはその「ケガレ」を祓い清める祭祀、儀式としか捉えられていないのではないか。
 スキャンダルにまみれた政治家が再選されると「みそぎは済んだ」と胸を張る。あれは政治家の単なる方便ではなく、私たち有権者の身体感覚でもある。世の中がうまくいかないと、選挙という祭祀で政治家にお灸を据えるが、それが済めば社会は清められたので、無関心に戻る。ずっとその繰り返しです。
 原発事故のような大災害さえ、選挙で民主党を敗北させるという「お祓い」が済んだ結果、過去のものとされつつあります。今回の違憲判決はそれに比べれば小さなケガレだから、区割りを変える程度の儀式で十分、ということでしょう。
 社会とは人為的な創作物だという前提を認めて初めて、よりよい創作に向けた改革への意思が生じる。本来、新憲法の制定はそのためにこそ議論されるべきものなのに、安倍首相の改憲論は「みそぎ民主主義」のままです。米国に占領されたという歴史上のケガレを、祓い清める儀式を求めているとしか思えない。近代社会への道は遠いなと思います。


●永井均『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎:2013.03.12)【¥2400

 この本のサイズ、180mm×128mm、をなんとよぶのか知らないが(B6変型判?)、いかにも内容と合っていると思った。というより、永井均さんの論考やエッセイを、この教典や詩集にふさわしいと思える判型の本で読むのはどんな感じだろうか、きっと眼と手と頭にしっくりくるのではないか、そんなことを思った。
 紙の質や色合い、表紙のデザイン、厚さ、手触り、重さ、等々の本の造り方がとてもいい。 馬上、枕上、厠上のそれぞれに一冊ずつ常備しておきたいくらい。(04/13


●村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋:2013.04.15)【¥1700

 朝日新聞の読書欄で佐々木敦氏が「謎めいたタイトルは、この小説の内容をきわめて端的に表していたのだった」と、物語の骨組みや肌触り、そしてあとをひく読後感にふれていた。「痛ましさと優しさに彩られた真実と、それでも解かれることのない、おそらくは解かれるべきでもない謎が、幾つも浮かび上がってくる。」
 最後をこうしめくくっていた。「そう、過去はどこかに存在し続けている。だからいつかは必ず、勇気を出して、それに向かい合わなくてはならない。たとえそれが悲嘆と絶望、解けない謎に満ちていたとしても、そうしなくてはならないのだ。村上春樹は、おそらくそう言っている。」
 痛ましさと優しさ、勇気、悲嘆と絶望、解けない謎。そういった語彙でしか表現できない世界があることは知っている。いつ読むか、いつその世界に向かい合うかを決めかねていた。極上の紹介文が背中をおした。(04/14


●梅原猛『人類哲学序説』(岩波新書:2013.04.19)【¥760

 齢九十をまじかにした著者による日本文化論の集大成、五十年におよぶ梅原日本学の到達点をあますところなくしめす書物かと思っていたら、あとがきに「今後、本格的に西洋文明、特に西洋哲学を研究し、より正確でより体系的に論じた著書を書かなければならない。その書が「人類哲学」の本論になるはず」だと書いてある。(04/27



【読了】


 二月にとばしすぎた反動がきた。読んでも書けないし、書けないから読めない。悪循環。書かないから読んでも読んだ気がしない。朦朧として中途半端な読後感。読み終えて一か月も経つと、印象が霧散してしまう。
 感想や、まして書評めいた文章など書けない。せいぜい断片的な抜書きや個人的な備忘録を書き残すだけにとどめおく。


●赤坂真理『東京プリズン』(河出書房新社:2012.07.24)(03/16
●ウラジミール・ナボコフ『ナボコフの文学講義 下』(野島秀勝訳,河出文庫:2013.01.20)(03/20
●前田英樹編・訳・著『沈黙するソシュール』(講談社学術文庫:2010.6.10/1989.12)(03/23
●濱嘉之『列島融解』(講談社文庫:2013.03.15)(03/24
●マルティン・ハイデッガー『言葉についての対話──日本人と問う人とのあいだの』(高田珠樹訳,平凡社ライブラリー:2000.08.10)(04/01


●飯尾潤『現代日本の政策体系──政策の模倣から創造へ』(ちくま新書:2013.03.10

 帯に「すべての有権者必読」とある。けっして誇大ではない。(04/11


●村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋:2013.04.15

 物語にひきこむ力は尋常ではない。ひきこまれる心地よさも尋常ではない。もうそれだけでいい。いくつかの謎が未解決のまま残されているが、それはそれで構わない。(04/19


●與那覇潤『中国化する日本──日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋:2011.11.20

 にわかには信じられない。が、いったん受け入れると「目から鱗」の連続で、史観と同時に世界観まで更新される。ほんとうは読み物として楽しんでいてはいけない本なのだと思う。むりやりにでも批判の虫をたちあげて、これでもかこれでもかと苛めぬいて、そのうえで解除条件付きで受容すべき本なのだと思う。(04/26

◎「明治維新は中国化である」
 どうして中国や朝鮮は近代化に失敗したのに、日本だけが明治維新に成功したのか?
 この問題設定は「学問的に不毛なだけでなく、政治的にもしばしば有害な(しかしなぜか日本史上の最重要課題だと誤って信じられている)」(137頁)愚問である。

◎「漢字とコーランこそ、人類史上最古にして最強のモジュール製品」
 ものづくりのモジュール化はイスラム的である。「ヨーロッパの宗教改革が、俗語版聖書の刊行によって中世ラテン語世界を複数の国語共同体に分割してゆく作用を持ったのに対し、イスラームは神の言葉はアラビア語だったという信念から、経典『コーラン』だけは何人の信徒だろうと、アラビア語で唱え続けるわけですね。/つまり、居住地域がバラバラで、口語レベルでは全く異なる言語をしゃべっている人々を、コーランを唱えるときだけは共通のフォーマットで統一する。米国・台湾いずれのメーカーのPCでも、ウィンドウズで動いているのと同じです。/というか、さらに遡るとこれは中国も同様で、北京語と広東語は発音が全く違うのですが、しかし漢字という文字が共通しているがゆえに、口で喋る言葉がまるで異なる多様な人々を統合できたのが中華文明のユニークさだ、とは宮崎市定の指摘したところでした。」(237頁)