不連続な読書日記(2013.01

 


【購入】

●『ユリイカ』1月臨時増刊号[総特集|百人一首──三十一文字にこめられた思い](青土社:2012.12.25)【¥1429

 ダ・ヴィンチの記事(11月号「出版ニュースクリップ」[http://ddnavi.com/news/89986/])によると、「ちはやふる」と「うた恋い。」で時代は空前の百人一首ブーム。ユリイカが和歌の世界をどうとりあげるのか興味津々。(01/03

 最初に読んだ渡部泰明さんの論考は「定家はどうしてこういう歌を選んだか」を考察している(「百人一首歌の謎」)。藤原基俊(もととし)の「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」をとりあげ、表面上の可憐な恋歌の体裁の背後に渦巻く錯綜した現実の多種多様な事情や思念を抉り出す。縁語、歌ことばが複雑におりなす言葉と隠されたイメージの網の目をていねいに解きほぐしていく。

「私たちは、詩歌の抒情というものを、えてして直截さに求める。ストレートに心に響いてくる心情に価値を見いだしやすい。[基俊の]一首は、間違いなくその心理的傾向に逆行する。それならこうしてみよう。この歌が複雑で入り組んだ背景を持っているということ、それこそが一首を秀作たらしめている大きな要因なのだ、といっそ発想を逆転させてみるのである。」(83頁上段)

 そしてその上で、こうした「歌人の現実や人生」と「言葉の相互関係」の両極が奇跡のようにつながる歌とその「現実から言葉がうごめき出し、成長し、やがて麗しいひとまとまりとして結晶するに至るまでの過程」(89頁上段)に対する百人一首の選者の創作者ならではの関心を導き出す。定家にとって「歌を選ぶことは歌を詠むこと」であったと。

●関裕二『百人一首に隠された藤原定家の暗号』(廣済堂文庫:2013.01.04)【¥600

 ユリイカの臨時増刊号を買ったいきおいで。
 なぜ藤原定家は、『百人一首』の駄歌を撰んだのか。冒頭に掲げられたこの問いが成り立つのかどうか。駄歌であることの判定をいかなる方法で下したのか。そもそも和歌が読めていたのかどうか。気になる。(01/03

●片山杜秀『国の死に方』(新潮新書:2012.12.20)【¥720

 『未完のファシズム』が評判だときいたので。
 政治思想史の研究者でクラシック音楽の評論家という経歴が面白い。(01/06

●森川友義『一目惚れの科学──ヒトとしての恋愛学入門』(ディスカヴァー携書:2012.12.25)【¥1000

 進化政治学の研究者で科学的な恋愛学・結婚学の提唱実践者という経歴に惹かれたので。(01/15
 森川総合研究所[http://tmorikawa.justhpbs.jp/]で、政治学者がどうして「恋愛学」を研究しているのですか? の問いに答えていわく、「あえて政治学と恋愛学の接点を述べるとすれば、両者とも「人間の意思決定」の研究である点です。(略)また、政治も恋愛も「かけひき」が重要です。男女間の恋愛のかけひきは、政治家が行っているかけひきに通ずるものがあります。同じ人間ですからね、時と場所と環境が異なるだけで、やることは根本的に同じです。」

●砂原庸介『大阪──大都市は国家を超えるか』(中公新書:2012.11.25)【¥840

 現代思想誌の大阪特集、中沢新一の大阪アースダイバーと、昨年は大阪物がけっこう面白かったので。(01/15

●モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫:2013.01.10)【¥2000

 謎の人・ブランショ。ブランショが謎めいていたのは読んだことがないからだ。ブランショに言及した文章ならいくどとなく目にしたのに、肝心のブランショの文章はまともに読んだ記憶がない。読んでもいないのにブランショの名は蠱惑的に響く。(01/20
 九鬼周造『偶然性の問題』(岩波文庫)、アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言語』(ちくま学芸文庫)と、朝の電車の中でつづけて読破したいきおいで、この『来るべき書物』も3、4週間で一気に読み飛ばせそうな気がする。が、その前に、先日から読み始めたオクタビオ・パスの『弓と竪琴』(岩波文庫)を仕上げなければ。

●丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店:1981.07.15)【¥4000 1200

 『ソシュールを読む』と『生命と過剰』につづき同じ古書店で。買い求めたのは、2003125日発行の第28刷。ポール・ブーイサック著『ソシュール超入門』、前田英樹編訳著『沈黙するソシュール』とあわせて、今年はソシュール(と時枝誠記)を「極める」つもり。(01/21


【読了】

●横山秀夫『64 ロクヨン』(文藝春秋:2012.10.25

 昨年の暮れに一気読み。ギリシャ悲劇を原語で観劇したような、ワグナーの楽劇を休憩なしで通したような、重苦しい読後感が希釈されないままいつまでも後を引いた。読中、誰のものとは知れない呪詛の声が通奏低音のように響いていたことが後になってわかった。(12/31

●篠原資明『空海と日本思想』(岩波新書:2012.12.20

 不思議な味わいをもった書物だ。大著をコンパクトに要約したチャート(海図)のようであり、いまだ書かれていない論考の骨格をなす命題を断定的に書きつけた覚書のようでもある。
 西洋思想の「基本系」(思想の基本的なありようにして変奏されつづける基本モチーフ)をプラトン哲学の「美/イデア/政治」にみいだし、これとの対比のもとで日本思想の「基本系」となる空海の「風雅/成仏/政治」をあぶりだす。この空海思想が西行、慈円、九鬼周造、西脇順三郎、草間彌生、等々によって生きられ、かつ変奏されてきたさまを描き、現代における変奏の可能性を探る。
 このような要約ではこの本の感触は伝えられない。実地に使ってみなければその価値や意義がわからない文法書か工具箱のような書物といえばいいか。
 その意味で応用可能性に富んでいるのが「風雅の四方位論」(4章)だ。水平線で結ばれる「道具」と「物語」(系譜)は小さなものと大きなものとの関係を、垂直線で結ばれる「建物」と「さび」は勢いと無化との関係をあらわす。ここでもまた(著者みずから桂離宮について試みているように)実地に使ってみなければこの理論的枠組みの真価はわからない。 心敬へのたびたびの言及が本書の通奏低音をなしているのも示唆的だ。「‘あるなし間’から‘いまかつて間’への転回」(161頁)の議論がとりわけ興味深い。

「どのような存在も、宇宙の過去を抱懐した現在なのだ…。どのような存在も、宇宙の原初以来の〈かつて〉の先端に立つ。〈いま〉とは、その〈かつて〉を包む心なのだ。(略)未来というものがあるとすれば、この心の広がりにしか存在しない。」(178頁)
「〈かつて〉を抱懐する〈いま〉、それは、まさにこの世に存在するものすべてのありようにほかならない。」(179頁)
「風雅は、確かに、〈いま〉を新しむことに主眼を置く。しかし、それはあくまで〈かつて〉をさびしむことと一体なのである。芭蕉は「新しみは俳諧の花也」といいつつも、無常観を宗としつづけたのだし、西脇順三郎は、すでに触れたとおり、「新しい関係」の詩学を標榜しながらも、「私は「新しい関係」を発見したとき…(中略)…自己の存在自身の淋しさが押し寄せてくる」としるすのを忘れない。」(184頁)

 いまかつて間の立場から見いだされた新しみとさびしみという二つの極に関して、著者は最後に「さびしみつつ新しむ行為、すなわち成仏」(194頁)と定義する。同じ岩波新書で6年前に刊行された『ベルクソン』(129頁)に「いまかつて間の成仏論」と「ありなし間の昇天論」の対比といった議論があったことを思い出す。ベルクソンと空海が即身成仏論を通じてつながっている!(01/10

●パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』(浅井晶子訳,早川書房:2012.03.25/2004

 読み終えるのに難渋した。いまなお読み終えた気がしない。
 血沸き肉躍るとはとても言えないのに、なぜ最後まで読み終えることができたのだろう。

「人は書かないかぎり、きちんと目覚めることはできない。」(124頁)

 そんな印象的な片言ならいくつでも拾い集めることができるのに、なぜだか読んだ気がしない。
 結局この書物には何が書かれていたのだろう。この書物のいったいどこが「哲学小説」なのだろう。
 グレゴリウスが最後に思い出した『オデュッセイア』第二十二歌終盤にでてくる「リストロン」という言葉(434頁)の意味がわからない。

「いまこの瞬間に体験していることは──(略)──別の現実性を持っているのではないか? 単なる可能性とも、現実化した可能性ともまったく違う別の現実性。それはもっとずっと単純で純粋な現実であり、密度と圧倒的な必然性を持ち、断固として「現実的」であるなにかではないだろうか?」(44頁)

 いま引用を省略した個所──「走る列車の鈍い轟音、隣のテーブルのグラスが触れ合うかすかな音、調理場から漂う腐った脂の匂い、コックがたまに吸う煙草の煙」──にこそ「現実」の感触があり、小説という虚構世界の(そして言葉がもつ)旨味のようなものがあるはずなのだと思う。(01/10

 難渋しても最後まで読み終えることができたのはこの作品だけで、多くのフィクションを「お蔵入り」にした。いま思い出せるものを書いておく。これらは読むのをすこし長く中断するだけで、読み終えることを放棄・断念したわけではない。(保坂和志の『カフカ式練習帳』は継続。この本は「読み終える」のではなく「いつの間にか読み終えていた」というのが似つかわしい。)

 ◎リチャード・パワーズ『われらが歌う時』上(高吉一郎訳,新潮社:2008.7.30
 ◎ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』(中村佳子訳,角川書店:2007.2.28
 ◎柴田元幸翻訳叢書 ジャック・ロンドン『火を熾す』(スイッチ・パブリッシング:2008.10.2
 ◎中村真一郎『美神との戯れ』(新潮社:1989.8.10
 ◎中村真一郎『色好みの構造──王朝文化の深層』(岩波新書:1985.11.20
 ◎中村真一郎『女体幻想』(新潮社:1992.12.10

●アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言語』(荒木亨訳,ちくま学芸文庫:2012.01.10

 暮れから年明けにかけて読み込んだ。なぜもっと早く、できれば翻訳書が刊行された四十年前に読んでおかなかったかと悔やまれる。もしかしたら生き方(進路)が変わっていたかもしれない。
 直立位(二足歩行)によって「自由」になった手と顔が、やがて視覚(図示表象)と聴覚(音声言語)にかかわる言語活動の二つの極をそれぞれ受けもつことになる。

「二つの極のあいだには、あのハレーション効果があって、身ぶりは言葉を翻訳し、言葉は図示表現を注解するのである。
 書字を特徴づける線形図示表現の段階では、手と顔という二つの領域の関係が新たな進化をみせる。空間で音声化され線形化される書き言葉は、時間のなかで音声化され線形化される口頭言語に完全に従属し、口頭−図示という二元論は消滅する。こうして人間は、言語学的に単一のしくみ、つまりこれもますます一筋の推論の糸に論理的に統一されてくる思考を表現し保存する手段を保有するにいたったのである。」(第六章「言語活動の表象」335-336頁)

 こうして「技術と言語活動との地質学的な関係」(26頁)を物語る第一部が終わる。「記憶とリズム」の副題を共有する第二部、そして第三部へ、人類の知的活動と美的創造活動の起源と実質と行く末をめぐる議論へと進む。

「象形行動は、言語活動と切り離すことができない。それは、現実を形象[フィギュール]によって口頭の表象や身ぶりの表象や物質化された表象[シンボル]のなかに反映するという、人間の同じ能力から出ている。もし言語活動が手を使う道具の出現と結びついているなら、象形化[フィギュラシヨン]は人間がそこからものをつくったり象形したりする共通の源と切り離せない。」(第十四章「形の言語」563頁)

「語や構文において口頭言語形象は、道具や手のみぶりと等価であって、物質やもろもろの関係の世界にたいする有効な手がかりをひとしく確保することを目指しているのにたいし、象形はそれとは別にリズムや価値の知覚という生物すべてに共通な生物学上の場に基づいているという違いはあるが、道具、言語活動、リズム的創造は同じ過程の連続した三つの側面である。」(同567頁)

 その叙述の力と理論的達成に圧倒された。魅力的な概念(「生理学的/技術的/社会的/象形的(美的)」の四つの表出の水準や、美学と技術と言語活動との関係、等々)が惜しげもなくちりばめられている。

 読み進めながら気になったことが二つ。いずれも類似した語彙をめぐるもので、その一は、「形象・姿」(フィギュール)や「象形化」(フィギュラシヨン)・「具象性」(フィギュラチフ)という語と「書字」(エクリチュール)、「しるし・表徴」(シーニュ)、「表象・象徴」(シンボル)、「像」(イマージュ)との関係。
 その二は、二足歩行に適応した人類の形態(114頁)をしめす際に使われた「形式」(フォルミュル)や「形」(フォルム)と「型」(タイプ)、「様式」(スティル?)との関係。
 後者について、松木武彦著『進化考古学の大冒険』(新潮選書)に出てきた、物の形の三段階の要素──「物理的な機能を担うフォーム=普遍かつ不変の要素(例:衣服)」と「社会的な機能を体現するスタイル=時代や地域によってさまざまな、特定の社会や文化と深く結びついたもの(例:背広、セーター、Tシャツなど)」と「モード=スタイルの形の規則をこわさない範囲での細部の形状やデザインの変化(例:背広の襟の幅、ボタンの数や位置、色など)」──をめぐる議論が参考になる。
 この松木本をはじめ昨年感銘を受けた『ヒューマン──なぜヒトは人間になれたのか』ともども、いずれ機会をみて再読したい。(01/11

●中沢新一『野生の科学』(講談社:2012.08.01

 中沢新一の著作リストには『カイエ・ソバージュ』シリーズや『フィロソフィア・ヤポニカ』のような長編群のあいだに『ゲーテの耳』や『知天使(ケルビム)のぶどう酒』や『ミクロコスモス』T・Uといった美しい装いをもつ小品集がよりそっている。
 『ミクロコスモス』はとりわけ気に入りの書物で、書棚の目に触れる場所に飾り、しばし眺め、時折り手にとって愛玩し、数頁(数頁だけ!)読んではまた元に返すといったことをここ数年繰り返している。いつまで経っても読み終えることはないし読み終えたいとも思わない。
 『野生の科学』は長編、小品集ではなく短編集、序文の言葉でいえば「思考作品」集ということになる。三部に区画された書物空間のうちに、大雑把にくくってしまうと「自然史過程」にそくした学問、現生人類の心の構造に深く根ざした人間科学の変革をめざす、中短あわせて21のエッセイと講演録とインタビューが配置されている。
 『ミクロコスモス』のようには「美しい」とは思えなかった(し、『カイエ・ソバージュ』や『狩猟と網み籠』や『アースダイバー』のようには引き込まれることはなかった)けれど、中沢新一の思考世界を一望することができて面白かった。
 異なる意味をループでつなぎ、その重ね合わせから自由に新しい意味を発生させる喩の機能。「一次過程」と「二次過程」という二つの活動層の統一体としてできあがっている人間の心。生と死、この世とあの世がループ状につながる神話の構造。
 こうした異なる階層を飛躍しながらループでつないでいく「不思議な環」を組み込んだ心的空間が「対称性の知性」である。
 第11章に記された要約をさらに縮約すると、そこでは、@過去・現在・未来が同じ空間に共存する、A事物の意味は全体から分離できない、B知的なものと感覚的情動的なものが一体になって働く、C矛盾したものが(キアスムの論理によって)交差しつながる、Dちがうもの同士が(ホモロジー論理学によって)アナロジカルに結ばれる。
 本書でもっとも興味深かったのは付録の「「自然史過程」について」だった。そこで中沢新一は吉本隆明の「反−反核」の主張にとまどいながら意を決して(?)反論を試みている。
 最初読んだときは説得された。再読すると疑問がふきだし収拾がつかなくなった。それは、この本が(あくまで、『ミクロコスモス』のようには)「美しくない」と感じたこと、「読み終える」のを強要されたように感じたことと関係しているかもしれない。(01/11

●米田彰男『寅さんとイエス』(筑摩選書:2012.07.15
●田村和紀夫『音楽とは何か──ミューズの扉を開く七つの鍵』(講談社選書メチエ:2012.01.10

 速聴の本を買ってきて、毎日3倍速や4倍速で朗読を聴いているうち、本を読んだり文章を書いたりすることが億劫でなくなり、意欲のようなものも湧いてきて、これまで読みかけのまま中断していた本を仕上げておきたくなってきた。読みかけの本、少なくとも読み終えるのを放棄したわけではない本は、ほんの数頁だけで留め置いているものまで数え始めたらそれこそ(意識のうえでは)星の数ほどある。とりあえず手近においてあったものを二つ仕上げた。(01/14

 米田本では、「寅とイエスの両者に共通する逸脱は、他者を生かすための他者への思いやりであり、表層の嘘を暴き真相を露にする、いわば道化の姿である。」(67頁)という言葉が印象に残った。ありふれているようで、よくよく考えたみるとけっこう深く射程範囲が広いと思う。男はつらいよの主題歌とグレゴリオ聖歌のサルヴェ・レジナ(聖母マリアへの賛歌)に共通性があるという話も印象に残った。(115頁)

 田村本では、第7章「音楽はコミュニケーションである」が面白い。そういえば、この章を読むために買い求めたのだった。──音楽の目的は意味世界を叙述することではなく、発信されたもの(感情、気分、魂の状態など)を他者のなかに呼び起こすことにある。音楽の本領は悲しみを描写し聴き手に伝えることではなく、聴き手が悲しみを音楽から読みとり、みずからの内に同じ悲しみを呼び起こすことにある。音楽のコミュニケーションの本質は「同化」にある。「音楽はシンパシーのための道具といえるでしょう。」(205頁)

●砂原庸介『大阪──大都市は国家を超えるか』(中公新書:2012.11.25

 大阪都構想は「政治的な寓話」(221頁)の域を超えることができるか。
 明治維新以来の大都市をめぐる制度と政治闘争の歴史を、市長対議会、東京対その他の大都市、大都市対全国(農村)の三つの対立軸をもとに詳細にたどり、2010年に提唱された大阪都構想がはらむ古くて新しい課題(強いリーダーシップによる成長か、財政制約のなかでの分権・民営化による効率化の追求か)とそれが提示する選択肢(大都市が国家を超えるような自律性を獲得すべきか否か、220頁)を抽出して、橋下徹という「希有な政治的企業家」(212頁)の登場がもつ意義とその帰趨を見定めるための有益な視点を提供する。
 特に、大阪都構想が、本来トレードオフの関係にたつふたつの論理(成長を追い求める「都市官僚制の論理」と、効率化を志向する「納税者の論理」)を内包しているという指摘が鋭い。

「「都市官僚制の論理」は、重商主義の都市における変奏、あるいは公共の福祉の観点から集権的に都市を作り替える「革新」の発想に近い。すなわち、政治家の強力なリーダーシップのもと、民間企業の手法を用いて大都市の事務を効率化し、都市インフラを整備して大都市の経済的な発展を導くことが強調される。大都市に居住することが住民にとってのメリットとなり、大都市に人を吸い寄せようとする。そして、周辺部に対しては、大都市からのトリクルダウンへの期待と引き換えに協力を求める。
「納税者の論理」は、政府の社会に対する介入を否定する自由主義、あるいは一九八〇年代以降先進国で支配的な新自由主義の発想として理解できる。特別区への分権や事業の民営化によって、大都市が一元的に行っていた事業を細分化し、支出と収入のバランスを強調する。」(205-206頁)

 橋下維新の会は今後、相克するふたつの論理のバランスをどうとっていくのか。そして「日本という国が、ひとつの巨大な都市──言うまでもなく東京である──の後背地であり続けることが望ましいのか、あるいはそれが持続可能なのか」(220頁)という究極の政治選択に対して大阪都構想がどのような役割をはたしていくか。

 興味深い提案があったので記録しておく。
 それは大都市に限定して保育や教育といった「子どものための投資」に関わる国庫補助金(と義務付け・枠付け)を廃止し、その分を地方税の移譲で埋め合わせるというもの。これによって大都市では全国一律の水準を超えて多様なサービスが実施される。(01/16

●片山杜秀『国の死に方』(新潮新書:2012.12.20

 映画「ゴジラ」が封切られた昭和29年11月、日本の政治は死に体だった。造船疑獄、指揮権発動、国会乱闘、警官隊の導入とつづく、政党再編前夜の政治的空白を、水爆大怪獣・ゴジラが襲った。

 政治は空転する。壊れた原発のように大量の放射性物質をまき散らすゴジラ退治を、あろうことか民間の東京電力に委託する。映画の中の日本政府は、防衛力は最小にとどめ、いざというときはアメリカにお任せする吉田ドクトリンを地で行う。しかしゴジラは倒れない。
 古老は言う。竜神ゴジラを鎮めるには島の娘を生け贄に捧げるしかないと。犠牲がなければゴジラの災厄は収まらない。
 だが前年の総選挙で左派社会党は「青年よ、銃をとるな。婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と連呼し、躍進をとげた。日本は「人の命は地球より重い国」になっていた。
 ではどうやってゴジラを鎮めたか。自発的に犠牲役をかってでる一民間人の無償のボランティアによって。

「国家が国民に決して死ねとは言えない国。新たな犠牲の論理を与えられない国。犠牲社会は少なくとも表向きには片鱗さえ存在を認められない。利益社会だけしかない。それはそれで素晴らしい。が、その国にはやはり死せる国体のあとのとてつもない空白がある。」(213頁)

 ──近代国家に死を賜る聖なる海獣(リヴァイアサン)・ゴジラとボランティアの物語。「身捨つるほどの祖国」(寺山修司)喪失の物語。最後の二つの章で語られる迫真の論考が記憶に残る。
 序章でふれられる『ゴジラ』の映画音楽と緊急地震通報のアラーム音とのつながりをめぐる話題とあいまって、本書がどのような問題意識のもとで、またいかなる外的状況と対峙して書かれたか、その外枠をかたちづくっている。
 通奏低音のように短いセンテンスで畳みかける緊迫した文体が、どこかパセティックな響きをともって、第二のゴジラの到来を告げているかのようだ。
 政治思想史の研究者にしてクラシック音楽の評論家。新しい論客の誕生。(01/16

●関裕二『百人一首に隠された藤原定家の暗号』(廣済堂文庫:2013.01.04

 織田正吉(『絢爛たる暗号』)と林直道(『百人一首の秘密』)の先行する論考を踏まえながら、これに著者(関裕二)のかねてからの持論である蘇我氏 vs. 藤原氏の対立構造を重ね合わせて、定家が『百人一首』を編んだ本当の目的を明らかにする。基本的にこの手の本が好きだし、ましてやテーマが和歌なので、いろいろ不満や疑問はあったけれども、とにかく最後まで読んだ。(01/17

 織田本の「言葉の連鎖」の説や林本の「歌織物」の説は、丸山圭三郎の『言葉と無意識』(講談社現代新書、1987年)で、ソシュールのアナグラムに関連づけて紹介されていた(81-85頁)。「歌織物としての百人一首」の仮説を「グラフィック・アナグラム」としてとらえるなど、それはとても刺激的なものだった。

●堺屋太一『「維新」する覚悟』(文春新書:2013.01.20

 近代日本の歴史のなかで、国家予算の全支出に占める税収の割合が5割を割ったことが三度ある。一度目は幕末、二度目は太平洋戦争の敗北の時、そして三度目が現在。つまり、総支出に対して税収が4割しかないのは敗戦の時なのである。現在、われわれは第三の敗戦を迎えている。
 第一の敗戦に遭遇した日本は、開国、版籍奉還、廃藩置県、新貨条例、学制(教育改革)の五大改革で維新を成し遂げた。このうち最も重要なのは版籍奉還、すなわち武士身分の廃止(身分社会から職能社会への転換)である。第二の敗戦からの復興でこれに相当するのが公職追放であった。
 こうした歴史に学ぶならば、第三の復活を成し遂げるためにまずなすべきことは公務員制度の改革であり、次に中央集権体制の打破である。「自分のお金を使うときは他人のお金を使う時よりも利巧だ」という「ニア・イズ・ベター」の原則のもと、官僚独裁・東京一極集中の国のかたちを地方自立(究極は地域主権型道州制)に改める。その上で、教育改革(自由化)、開国(TPP参加問題)、エネルギー(原子力発電の存廃、エネルギー自給)、財政再建と社会保障といった課題に取り組むこと。
 以上が本書に書かれていることのおおよその概略。
 集権・集中の戦後体制の分析や事例、たとえば大阪に本部事務局を置いていた繊維業界に対し通産省(当時)が圧力をかけ東京へ移転させた等々、官僚・閣僚経験者である著者ならではの思い(執念という語を使いたくなる)がこめられた文章が印象に残る。(01/25

●オクタビオ・パス『弓と竪琴』(牛島信明訳,岩波文庫:2011.1.14

 オクタビオ・パスの文章は野性的で甘美だ。知性の経糸が荒々しく分離した断片を官能性の緯糸が繊細に縫合し結合する。夢を見るようにして『弓と竪琴』を読み終えたいま、この巨大な書物からいくつかの美しい文章をきりだして書きとめる以上のことが私にはできそうにない。

 宗教(聖なるもの)と詩と愛(エロティシズム)の関係をめぐる論考「詩的啓示」のなかで、オクタビオ・パスは「愛の喜びは存在の啓示である」(255頁)と定義し、「女の出現」=「愛の突然の〈現存[プレセンシア]〉」とともに「すべてが輝き始め、意味を獲得する」さまを次のように叙述している。
(愛の喜びは存在の啓示である! この断定が本書のもうひとつの魅力で、かつて読んだ『二重の炎―─愛とエロティシズム』にも、「エロティシズムとは肉体の詩であり、詩とは言語による性愛である。」や「詩的イメージは対立する現実の抱擁であり、押韻は音声の交接である。」等々の忘れがたいものがあった。)

《地中深く湧き出る水のように、また浜辺をおおう海のように、諸々の〈現存〉は表面に帰ってくる。すべて見たり、触れたり、感じたりすることができるものである。存在と外見は一にして同じものである。何ひとつとして隠れているものはなく、すべてそこに在って輝き、それ自体によって充満している。存在の潮。存在の波に運ばれて、わたしは君に近づき、君の胸に触れ、肌を撫で、その目を深くのぞきこむ。世界は消え去る。もはや何もなければ誰もいない──事物と、その名前、その数、そしてその記号は、われわれの足下にくずれ落ちてしまう。もはやわれわれはことばを持っていない。われわれは自分の名前を忘れてしまった、そしてわれわれの代名詞は混同し、からみ合ってしまう──わたしは君であり、君はわたしである。投げ上げられたわれわれは、上昇する。そして、互いにしがみつきながら落ちでくるが、一方、名前や形態は流れ出し、消滅してしまう。君の顔は、川を上に下に逃げてゆく。〈現存〉は足場を失い、深みにはまって、自らの中で溺れてしまう。肉体は肉体を失う。存在は虚無の中にとびこむ。存在は無である。無が存在である。わたしは目を開ける──異質な肉体。存在はふたたびその姿を隠し、諸々の外見がわたしを取り囲んでいる。その瞬間、問いが湧き上がってくるが、それは、このどうしようもなく異質な〈現存〉の向こう側には何があるかを知るための拷問である。この問いは、愛にあらゆる絶望を包含している。なぜなら、この〈現存〉の虚無から、存在が起き上がってくるのである。
 愛は死に流れこむ。しかし、われわれはその死から誕生に向かう。愛は死であり、生誕である。マチャードは「女は存在の表面である」と言う。純粋な〈現存〉たる女の中において、存在は顕在化し、現前するようになる。そしてまた、彼女の中に沈潜し、隠れる。このように、愛は存在と虚無の同時的啓示である。それは受動的な啓示、つまり演劇のような、われわれの眼前で現われたり消えたりするようなものではなく、そこにわれわれが参加するような、われわれがわれわれ自身のために作るような何かである──愛は存在の創造である。そしてその存在はわれわれの存在である。われわれ自身が、われわれを創る時にわれわれを絶滅させ、われわれを絶滅させる時にわれわれを創るのである。》(257-259頁)

 またエピローグ「回転する記号」には、次の叙述がでてくる。
(引用箇所に先立つ文章には「詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」という究極の定義がでてくる。正確に抜き書きすると、「詩的想像は発明ではなく、実在するものの発見である。散乱した断片として現われているものの中に、世界のイメージを発見すること、ある‘もの’の中に他の‘もの’を知覚することは、言語に本来の比喩力──他者を実在させる力──を戻すこととなろう。詩とは他者の探求、〈他者性〉の発見である。」(440-441頁))

《〈他者性〉の体験は、物理学から生物学までの、存在のあらゆる発現に見られる、分離と結合という、ひとつのリズムの両極端の音を包含している。人間にあっては、そのリズムは沈下、つまり見知らぬ世界における孤立感として、また結合、つまり全体との調和として表現される。われわれは例外なく、瞬間的には、分離と結合の体験を持っているはずである。真実の恋におちいり、その瞬間が永遠であると感じたあの日。われわれ自身の無限の中に沈潜し、時間がその内部をさらけ出す中で、自らを消えゆく顔として、また無効になることばとして眺めたあの時。野原の真ん中で樹を眺めながら、今では思い出すことはできなくても、木の葉や、空のゆらめきや、夕日の最後の光を受けた白い壁の反射がささやくことを感得したあの夕暮れ。草の上に横たわって、植物のひそかな生命の鼓動を聞いたある朝。あるいは、大きな岩の間に沸きあがる水を見ていた夜に。一人で、あるいは他人と一緒になって、われわれは〈存在〉を見たのであり、また〈存在〉がわれわれを見たのである。それは〈もうひとつの生〉であろうか? それこそが日々の生、本当の生なのである。(略)わたしの関心をひくのは、あの世の〈もうひとつの生〉ではなく、‘ここ’の生である。〈他者性〉の体験が、まさしく‘ここ’における、〈もうひとつの生〉なのである。詩は人間に対し、その死を慰めることを目的とするのではなく、生と死は不可分であること──全体をなしていること──をかいま見せようとするのである。個々の具体的な生を回復することは、生=死のペアを結合し、他者のなかに自分を、わたしのなかに君を取り戻すことであり、かくして、分散した断片のなかに世界の形姿を発見することになるのである。》(454-455頁)

 オクタビオ・パスは続けてマラルメの『骰子一擲[とうしいってき]』にふれ、「来るべき詩にとってきわめて重要なこのテキストについて、これまで書かれた最も濃密な、最も輝かしいエッセーのひとつにおいてモーリス・ブランショは、『骰子一擲』はそれ自体の読みを包含していることを指摘している。」(460頁)と書いている。
 個人的な記録。そのブランショの文書を収めた『来るべき書物』こそ『弓と竪琴』につづけて読もうと準備していた書物だった。(01/28

     ※
 補遺の一。書名はヘラクレイトスの断片に由来する。
 鎌田雅年氏の「Eleutherion」[http://homepage2.nifty.com/eleutherion/]に掲載されている[http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/gp/node3.html#SECTION00012010000000000000]。

「いかにして相違しつつ和合するかを彼らは理解しない。それは逆に張り合うことによる調和なのだ──あたかも弓やリュラ[竪琴]のそれのように」(断片51

 本書には(たしか)二度ヘラクレイトスの名がでてくる。
 一度は「ヘラクレイトスのポレミックな存在論──宇宙は弓や竪琴の弦のような、緊張状態にある」(341頁)のかたちで。オクタビオ・パスはこれを「人間の神秘性は、人間が宇宙の秩序の一歯車、大協奏曲の一和音でありながら、同時に、自由であることに存する」(341-342頁)と敷衍している。
 二度目は本論の最後の文章のなかで。

《ヘラクレイトスによるひとつのイメージがこの本の出発点であった。その終わりにあたり、そのイメージがわたしの前に現われて来る──人間を聖化し、かくして彼を宇宙に位置づける竪琴、そして人間を彼自身の外に向けて発射する弓。あらゆる詩的創造は歴史的なものである。あらゆる詩は、連続を否定し、永続的な王国を樹立しようという願望である。もし人間が超越、つまり、自己を超えるものならば、詩はその継続的な自己超越の、永続的な自己想像の、最も純粋な記号である。人間はイメージである。なぜなら彼は自己を超越するから。おそらく、歴史意識と歴史を超越する必要性とは、常に自己から分離している、そして常に自己を探求している人間存在という、この古い、そして永続的な分裂に対して、今われわれが与えている名前に他ならないであろう。人間は自分の創造物と一体化し、自身と、そして仲間と結合すること──自身であり続けながら、世界となること──を希求する。われわれの詩は分離の意識であり、分離したものを結合しようとする試みである。詩において、存在と存在に対する願望は、果物と唇のように一時的に和合する。詩、瞬間的和解──昨日、今日、明日、そして‘ここ’と‘そこ’、そして君、わたし、彼、われわれ。すべてが存在している──それは、現存となるであろう。》(479-480頁)

     ※
 補遺の二。断片、断章つながりでもう一つ書いておく。

 ドイツロマン主義の詩人たちは本書では重要な位置づけがあたえられている。とりわけノヴァーリスの名は特権的な場所をしめていて、その断片も再々引用されているので、ドッグイアをたどって気がついたものを孫引きしておく。見落としがあるかもしれない(とくに「実体のないことば」の章の405頁以降)。

「女性は至高の肉の食物である」(226頁)
「心が自らを感じ、あらゆる個別的で現実的な対象から解放されて、それ自体の観念的対象となる時、そこに宗教が生まれる」(235頁)
「矛盾律を破壊することは、おそらく高等論理の最も高度な仕事であろう」(282頁)
「詩とは野生の状態におかれた宗教のようなものであり、宗教は実践的な詩、生きられ、そして行為となった詩にすぎない」(パスの間接引用、283-284頁)
「詩は作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」(パスによる修正版、286頁)
「宗教とは実践的な詩に他ならない」「詩は人類の本源的宗教である」(400頁)
「自分が夢見ているのを夢見る時、覚醒は近い」(506頁)

●ポール・ブーイサック『ソシュール超入門』(鷲尾翠訳,講談社選書メチエ:2012.12.10

 この作品は一篇の小説なのではないか。読み進めながらそんな感想をもった。たとえばソシュールの言語思想を主人公とする新趣向のビルドゥングスロマン。あるいは新しい聖体(ラング)の探求を描いた血湧き肉躍る冒険譚。

 読者は第一章で最終講義の聴講生となり「メンドリが孵したアヒル」(139頁、233頁)のような言語の非合理性に向き合うソシュール教授の「不安や悲しみ、当惑」(67頁)を直に体験する。
 続く三つの章ではパリ時代の「すさまじく優秀でカリスマ性を備えた若き学者」(82頁)の相貌やジュネーヴ帰郷後の「異言[グロッソラリア]、伝説、アナグラムといった、周辺的だがひじょうに言語学的な現象」(115頁)に魅了される「紳士的言語学者」の端正な外見と内面の格闘をかいま見る。
 第五章から第七章までの理論篇ではできあがったソシュール言語学の解説に学ぶのではなく、ソシュールが悪戦苦闘しながら(言語を歴史ではなく科学の対象としてとらえる)一般言語学の理論を、すなわちラング(システムとしての言語)とパロール(使用されている言語)、聴覚イメージと観念(概念)、シニフィアンとシニフィエ、恣意性、価値と意味作用、共時態と通時態といった概念を構築していく過程を生々しい産みの苦しみとともに追体験する。
 そして第八章で「ソシュール作と称して吟じられたラプソディーのような」(211頁)テクスト『一般言語学講義』の没後出版にまつわる顛末を知り、第九章でソシュールの死後の生に思いをはせる。
 その最後の節でブーイサックは英語圏におけるソシュール思想のもっとも重要な紹介者(ただしソシュール理論を支持しているわけではない)ロイ・ハリスの次の言葉を引用する。「ソシュールをめぐる歴史はまだ終わっていない」。
 そしてジュネーヴやパリの学者サークルのように無条件にソシュールを礼賛し文化的ヒーローに祭り上げるよりも、「不本意ながら」学究生活の大部分をソシュール研究に捧げたハリスの愛憎半ばする態度のほうがソシュールの重要性を的確に反映していると書く。

《ソシュールは「言語学のアインシュタイン」などではない。そもそも、そんな人物はまだ現れていない。厳しい探求を通して、ソシュールは言語という大きな謎に正面から取り組み、ときに戸惑った。しかし、答えぬままに終わった疑問は、おそらくあれだけの知性と誠実さを備えた思想家だからこそ問うことのできた、最良の類の疑問だった。ソシュールの未完の仕事はかけがえのない遺産であり、考察を重ねていくべき問題だ。》(237頁)

 この結末に万感の共感を覚えるとき、このソシュールの未完の仕事をかけがえのない遺産として生成途上のなまの姿で受領し、現在なお進行中の言語探求の旅に加わることを慫慂し、促し、誘惑する読者参加型の小説(小説とは本来読者参加型のものなのだから同語反復だが)は完成する。

 ラングやパロール、シニフィアンとシニフィエ等々、そんな概念のことならよく知っている。またソシュールの思想が弟子たちの手になる(ソクラテス以前の哲学者たちの断片集のような、203頁)偽書によって誤って、もしくは不十分に伝えられ、そうであるにもかかわらずプラハ言語学サークルやその主要メンバーであったニコライ・トゥルベツコイ、ローマン・ヤコブソン、さらにルイ・イェルムスレウやミハイル・バフチンによって受け継がれ、やがてモーリス・メルロ=ポンティやクロード・レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャック・デリダ等々のフランス現代思想の綺羅星のごとき担い手たちに引き継がれていったこと(ブーイサックいわく「ソシュール思想の哲学的濫用」229頁)もよく知っている。
 そんな聞きかじりの知識をいっぱいためこみ、もうとうにソシュール入門を果たした気になっている(この本を読む前の私のような)読者こそ、周到な企みと工夫が凝らされたこの超入門書をひもとき、「ラングをつくっているのは言語記号、つまり、聴覚イメージと概念の分離不可能な結合体なのだ」(192頁)とか、共時態の視点から見た言語とは「複雑な差異のネットワークを通して単語のアイデンティティや意味を決定する関係性のシステム」(198頁)であり「言語記号はお互いに虚定的[ネガティヴ]な関係によってアイデンティティをもつ」(236頁)のであるとか、「ソシュールは言語における本質は時間だ、と主張していた」(232頁)といった整理された言い方ではけっして汲み尽くせない「ラング生誕」の物語の底知れない深さを体験すべきなのだと思う。(01/29

     ※
 補遺の一。「ソシュール思想の哲学的濫用」について、ラカン、デリダに言及した箇所が(皮肉が利いていて)印象深いので抜き書きしておく。

《ラカンは『一般言語学講義』とプラハ学派の概念を二、三借用し、独自の趣のある用語を組み合わせて新しいフロイト派のパラダイムを提示し、長くパリのインテリたちに影響を及ぼし続けている。言語の変化は無意識的なものだというソシュールの主張の微かなつながりを手がかりにして、ラカンはフロイトの言う無意識も言語のような構造をもっており、「圧縮」や「置き換え」はヤコブソンの言うメトニミー(換喩)とメタファー(暗喩)の二項対立に翻訳することができる、と主張した。フロイトとソシュールの概念体系を融合したラカンの主張は、翻訳不可能でこじつけのようなフランス語の言い回しを体系的に使っており、わざわざひじょうに不明瞭な言説をつくりだしている。
(略)言語学については表面的な知識しかもっていなかったデリダは、手のこんだ詭弁を弄して、ソシュールの言語学の土台、すなわち話し言葉が書かれた言葉に対して優位だとするヒエラルキー的関係をひっくり返し、逆説的に書かれた言葉が話し言葉に対して絶対的に優位性をもつと主張した。
 面白いことに、デリダもバルトも、ソシュール主義の特徴と思われるものを拾い上げ、その偽りを象徴的に暴くというスタイルで名声を築いたのだった。しかし、彼らの『一般言語学講義』の読解はバイアスがかかっており、都合のよいところだけを選択的に取り上げていたし、この本が出版されら特殊な状況もまったく考慮していなかった。とはいえ、彼らの偶像破壊的態度そのものが、逆に、フランスの知的地平にソシュールの思想がつねにつきまとい、没後五十年以上経って英語圏にまで波及したことを物語っている。》(227-228頁)

     ※
 補遺の二。本書付録2の「引用されるべきソシュール」に次の断片が収録されている。「言語の本質(「ラング」)の基本的性質とその関係は数学的に表現される。このことが理解される日がきっとくるだろう。」(247頁)
 ソシュールは「一つの言語という、複雑な記号システムを構築している多次元的かつ抽象的な関係を表現する適切な手段としては、代数しかない」と確信していた(175頁)。ここでブーイサックがいう「代数」とはハミルトンの「四元数」のことである。
 また、ソシュールによれば共時態と通時態を説明するには(垂直・水平の二つの座標軸によるよりも)三次元のほうがふさわしいとブーイサックは書いている。「言語記号のシステム[あるラングを形成する共存的関係のすべてを示す平面]が、時間軸に沿って無数の時点ごとに積み重なっているようすをイメージすると、多数の層がかさなった六面体[キューブ]ができあがる。その一つ一つの層において、一つのラングがフルに機能しているのだ。」(186頁)
 これらの記述を読みながら私はノヴァーリスの断片を想起していた。じっさい次の言葉はノヴァーリスについて語られるものと読んでさしつかえないと思う。「ソシュールの手稿そのものは、ソシュール自身と同じく、[本書第五章、第七章の解説より]はるかに豊かで複雑だ」(230頁)「何千枚もの手稿とそこに書き残した図形から見えてくる、より複雑なソシュールが存在する」(240頁)。

●保坂和志『カフカ式練習帳』(文藝春秋:2012.04.20

 昨年四月の刊行以後、ほぼ一定の進度で読み継いできた。
 おもしろいと思うところとそれほどでもないところが交互にでてきて、そのこともふくめて総じてとてもおもしろいと思った。できればいつまでも読み続けたいとも思った。
 ただ、ペチャやジジやマーちゃん、等々の猫の話だけはどうにも苦手で(なんというか保坂和志の「臆面のなさ」のようなものが遠慮なくストレートにでてくるので、そわそわ落ち着かず直視できなくなる)、最後はとうとう読み飛ばすようになった。
 あとがきに「おもしろいと思うところを拾い読みしてくれればいい」と書いてあるので、そんな読み方でいいのだろう。あとがきにそう書かれていなくてもそんな読み方をして楽しんでいい小説はきっとあるだろうとは思う。
 あとがきには「変わった形式」という言葉もでてくるが、別に変った形式の本だとは思わない。
 もっともっと実験的な書き方をしてもいいのではないかと思ったが、実験的な書き方をされていたらきっと早々と飽きてしまったことだろうとも思う。
 本書のちょうどなかほどに収められ「ここでキルケゴールの警告は注目に値する」と書き始められる文章にピンチョンの『逆光』を読んでいるという話がでてきて、そこで「読み終わらない本はいい」と保坂和志は書いている。
 これはそのまま私の『カフカ式練習帳』にたいする感想になる。
 カフカのような断片を書きとどめようと思ったことの理由が語られ、「小説は書いているかぎり終わらない」(270頁)や「小説は読んでいる時間の中にしかない」(271頁)といった保坂式命題がでてくるこの文章(「ここでキルケゴールの警告は注目に値する」という書き出しの文がそのままタイトルになった文章)はこの本の芯になると思った。
 もちろんそんなことを思いながら読むのも自由だし思わないのも勝手だ。(01/29

●池谷裕二・中村うさぎ『脳はこんなに悩ましい』(新潮社:2012.12.20
●森川友義『一目惚れの科学──ヒトとしての恋愛学入門』(ディスカヴァー携書:2012.12.25
●春木豊『動きが心をつくる──身体心理学への招待』(講談社現代新書:2011.8.20

 池谷・中村本(01/26)と森川本(01/27)をつなぐのはオキシトシン、テストステロンとエストロゲン、右手の薬指と人差し指の比率、PEAといった体内ホルモンやホルモンにまつわる話題。
 森川本と春木本(01/30)は、恋をしているからドキドキするのではなくドキドキしているから恋をするのだという吊り橋効果と、人は悲しいから泣くのではなく泣くから悲しいのだというウィリアム・ジェームスの説でつながる。
 脳と体と心、それに言語を加えた四つの項の関係。宇宙と数学(感覚)と音楽(感情)と記号(情報)の関係。この二つの問いがつながるかもしれない。そんなことを考え始めると眠れなくなる。

    ※
 音を鳴らしてから餌を与えることを繰り返すと、音が鳴るだけで唾液が分泌されるようになる。パブロフの犬のこの反応をレスポンデント反応(反射)という。
 音を鳴らしてから電気ショックを与え、回避行動をとると音も電気ショックも停止する。この実験を繰り返しているうち被験者(白ネズミ)は音が鳴っただけで、電気ショックが与えられる前に回避行動をとるようになる。これは単なる反射ではなく意図的な反応であり、オペラント反応と呼ばれる。
 この白ネズミの行動は「音→不安→回避行動→音が消えて不安がなくなる→反応の持続」と要約することができる。ここに成立する「情動」(不安)と「予期」と「選択」は心の現象の原初的な姿である。「最初から心があって、回避反応を起こしたのではなく、状況に対して動いた結果、心らしきものが形成された」のであり、「記憶の内容(心)は末梢の動きの結果なのである」(39頁)。
 著者はこの二つの反応、反射(無意志的反応)と意図的反応(意志的反応)の両方の性質をもつものを「レスペラント反応」と名づけている。呼吸、筋反応、表情、発声、姿勢、歩行、対人空間(距離)反応、対人接触という筋骨格系の反応がそれである。
 「体」的性質をもつレスポンデント反応(反射)と「心」的(=意志的)性質をもつオペラント反応が二重になっているレスペラント反応(反射/意志的反応)は、心身一如の経験、すなわち西田幾多郎の純粋経験につながっている。──以上、春木本から、忘備録として。

     ※
 春木本は去年、最後のしあげのところだけ読まずに残しておいた。大切な本になるにちがいないと直感したからで、あらためて通読してみて確信にかわった。ほぼ同時期に読んだいくつかの関連本とあわせて、できればなにかまとまった書評か感想文を書いておきたいと思う。せめて関連本をリストアップしておく。

 ◎石川幹人『人間とはどういう生物か──心・脳・意識のふしぎを解く』(ちくま新書:2012.1.10
 ◎石川幹人『人は感情によって進化した──人類を生き残らせた心のしくみ』(ディスカヴァー携書:2011.6.15
 ◎代々木忠『快楽の奥義──アルティメット・エクスタシー』(角川書店:2012.4.15
 ◎山鳥重『言葉と脳と心──失語症とは何か』(講談社現代新書:2011.1.20
 ◎岡ノ谷一夫『さえずり言語起源論──新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー:2010.11.25
 ◎平田オリザ『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書:2012.10.20