不連続な読書日記(2011.11-12)



【書評】

●切通理作『失恋論』(角川学芸書店:2006.3.8)

《失恋という運命》
 アラフォーの既婚男性が若い女性に恋をして、離婚も辞さない「悲壮な決意」をもって告白するが受け入れられない。その数ヵ月後彼女から「お元気ですか」 のメールが届き、さらに半年が経ち「リセット」後のデートを何度か重ねるがノリが悪い。
 男は失恋という状態を生きるにはどうすればいいかと苦しみ、「あの人」と友だちでも恋人でもない「第三の関係」になりたいと願う。「恋愛感情を通り越し て、でもその人を大切にしたり、一緒にいると居心地が良かったり、その人を通して、この世界の中にどこか憧れていられるものがあるという気持ちは生き延び ている。そんな関係を人と結びたかった。」
 しかしそれは、あわよくばの肉欲を生きるエネルギーの発露とすり替え、若さへの妄執にかられただけのこと。やがて男は餓鬼のようにあさましい己の姿に気 づいて「家に帰ろう」と決意する。
 そんな、決して劇的でも衝撃的でもない失恋譚の顛末が「私小説」のように、恋愛論のケースタディのように綴られる。
 ありふれているけれども稀有の、滑稽だけれども崇高な、類型的だけれども特殊な経験と考察。

《人は必ず失恋する運命にある。…
 なのになぜ恋をするのだろうか。
 それは「運命」に出会うためだと思う。
 美そのものに出会う瞬間。自分がそれまでの人生で築き上げた一人称の世界が解き放たれて空を飛べるように思える瞬間。それは長く続かない。
 それが夢だったと知ったとき、人は知るのである。
 恋を失うことこそが、運命だったのだと。
 人が運命と直に出会う瞬間。流行歌で、テレビドラマで、映画で描かれてきたあの物語が、自分のこととして感じられる瞬間。
 恋以外の場所では、それこそ歴史が変わる瞬間にでも立ち会わない限り、滅多に遭遇しないだろう。》

 後日、「ほぼ日」の「おとなの小論文教室。」[http://www.1101.com/essay/index.html]に山田ズーニーさんの「失 恋論」が4回にわたって連載されているのを読み、感銘を受けた。切通本に通じるところがあるので、そのエッセンスの部分をペースとしてみる。

《人間だけになぜ過酷な失恋の痛みがあるか?

 人は、自分の枠組みの外になかなか飛び出せず、
 予定調和の成長をしていく生き物だ。
 それもいいことだが、
 それだけでは面白くないから、
 ときに、突然変異とも言える進化をひきおこすために、
 長く過酷に続く喪失の痛みを課されたのだと。
 勝手に私は、そう信じたい。

 本当に出逢ってしまったもの、
 失うと生きられないほど大切なものを、
 あなたは何ひとつ失っていない。

 未来に逢える!

 だから、その色の無い、虚しさだけの道を、コツコツと
 進んでいればいい。先へ、先へ、そのまた先へ。

 喪失感こそ可能性である。》


【購入】


●クリスチャン・ガイイ『風にそよぐ草』(河野万里子訳,集英社文庫:2011.10.25)【¥533】
 川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』の三束さんが58歳。『風にそよぐ草』のパレも同年齢。このつながりだけで購入した。(関係はないが、「昼下がり の情事」のゲーリー・クーパーが56歳、オードリー・ヘプバーンが28歳。イギリスの調査で、もう若くないと感じる年は男が58歳、女が29歳。)
 マルグリット・ミュイール「40歳の独身歯科医。自家用飛行機の免許を持っている」。ジョルジュ・パレ「58歳、妻子がいるが、訳ありで仕事には就いて いない」。「大人たちはふいに、いちずに恋に落ちてゆく。」「不器用な紳士、気まぐれな淑女、空からふってきた最後の恋。」アラン・レネ監督で映画化。 12月17日から日本で公開される。

●ジャン=フランソワ・リオタール『言説、形象』(合田正人監修・三浦直希訳,叢書・ウニベルシタス960/法政大学出版局:2011.9.26) 【¥7000】
 言説と形象、ディスクールとフィギュール。中沢新一『狩猟と編み籠』が議論の勘所で本書を引用していた。いつか読みたいと思っていた。貫之論が来年、後 半部にさしかかる。その際の基本文献になると思っていた。その矢先に邦訳本が刊行された。この偶然には意味がある。

●坂田英明・小山悟『難聴 聞こえがクリアになるCDブック』(マキノ出版:2011.10.28)【¥1429】
 最近、人の言葉が意味をなさずに流れていくことが多くなった。目で見る文字についても同様。

●サリンジャー『フラニーとゾーイー』(野崎孝訳,新潮文庫)【¥476】
 映画「小説家を見つけたら Finding Forrester」で、ショーン・コネリー演じる小説家ウィリアム・フォレスター。スコットランド生まれ。1953年、23歳で20世紀を代表する処女 作「AVALON LANDING」を書き、その後隠棲。最後の作品は「SUNSET」。
 そのフォレスターが16歳の黒人少年に文章の書き方を伝授する。「考えるな。考えるのは後だ。第1稿はハートで書く。リライトには頭を使う。文章を書く 時は考えずに書くこと。」(No.No thinking.That comes later.You write your fiest draft with your heart and your rewrite with your head.The first key to writing is to write.Not to think.)
 『ナイン・ストーリーズ』の濃密な読後感がよみがえってきて、たまらなくサリンジャーが読みたくなった。(「フラニー」を読み、事情があって中断。)

●竹田青嗣『恋愛論』(ちくま学芸文庫:2010.5.10/1993)【¥1100】
●宮竹貴久『恋するオスが進化する』(メディアファクトリー新書:2011.10.31)【¥740】
●渡辺淳一『男というもの』(中公文庫:2001.1.25/1998.1)【¥552】
●『kotoba』2012年冬号[特集|男と女、死ぬまで恋したい。](集英社)【¥1333】
 切通理作『失恋論』が竹田青嗣の『恋愛論』をとりあげているのを読み、前々から興味があったので。ついでに関連本をまとめて。

●盛田隆二『夜の果てまで』(角川文庫:2004.2.25/1999.4)【¥743】
●盛田隆二『ささやかな永遠のはじまり』(角川文庫:2011.1.25/2007.10)【¥705】
●盛田隆二『きみがつらいのは、まだあきらめていないから』(角川文庫:2011.10.25)【¥629】
●盛田隆二『ありふれた魔法』(光文社文庫:2008.10.20/2006.9)【¥619】
●盛田隆二『あなたのことが、いちばんだいじ』(光文社文庫:2010.6.20/2005.10)【¥514】
●盛田隆二『身も心も』(光文社:2011.6.25)【¥1200】
 春先の絲山秋子に続き、とつぜん盛田隆二にはまった。

●『BRUTUS』2012年1月1・15日号[特集|世の中が変わるときに読む本。](マガジンハウス)【¥600】
 誰が読んでも面白い小説ガイドで、23ジャンルの115冊が紹介されているのを眺めて、一冊も興味を惹かれなかったことに愕然とした。聴力と視力の解像 度が落ちていることの影響か。

●西川アサキ『魂と体、脳──計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社選書メチエ:2011.12.10)【¥1800】
 ひさしく心脳問題から離れているので、リハビリを兼ねて。

●富樫倫太郎『堂島物語1 曙光篇』(中公文庫:2011.8.25/2007.12)【¥667】
 いま堂島川を見下ろす場所で働いているので、記念に。あわせて経済の勉強のために。

●シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(田辺保訳,ちくま学芸文庫:1995.12.7)
 今年最後に買った本。枕頭の書の候補として。ハンナ・アレントの『過去と未来の間』(生涯最高級の愛読書の候補)の再読とともに、年の初めに読む本の候 補として。


【読了】

●ツベタナ・クリステワ『心づくしの日本語──和歌でよむ古代の思想』(ちくま書房:2011.10.10)
 きちんと「書評」を書くべく準備しているうちに、とつぜんの疾風怒濤にまきこまれてアイデアが雲散霧消。この本はいずれまた読み返すことになると思う。

●クリスチャン・ガイイ『風にそよぐ草』(河野万里子訳,集英社文庫:2011.10.25)
 パレはなぜ仕事をしていないのか。妻子との関係はどうなっているのか。そもそもいついかにしてマルグリットはパレを相手に恋に落ちたのか。読み急いだか らか、それとも「軽妙洒脱」な語り口についていけなかったからなのか、とにかく訳が分からないまま物語は進み、なんの感銘もないまま勝手に終わってしまっ た。映画であらためて観てみたい気がする。

●吉行淳之介『子供の領分』(集英社文庫:1993.9.25)
●梨木香歩『からくりからくさ』(新潮社:1999.5.20)
 吉行本はこれでいったん区切りをつける。梨木本は思わぬヒット。

●切通理作『失恋論』(角川学芸書店:2006.3.8)
 ありふれているけれども稀有。滑稽だけれども崇高。類型的だけれども特殊。劇的でも衝撃的でもない失恋譚の顛末が「私小説」のように、恋愛論のケースタ ディのように綴られる。
 後日、「ほぼ日」の「おとなの小論文教室。」[http://www.1101.com/essay/index.html]に山田ズーニーさんの「失 恋論」が4回にわたって連載されているのを読み、いたく感銘を受けた。切通本に通じるところがある。

●中本征利『男の恋の分析学──恋の哲学とテクニック』(蝸牛新社:2001.2.1)
 過日、大阪府立中之島図書館に立ち寄った際、開架式のビジネス資料室3を散策しているうちふと目にとまり、妙に気になったので手に取り、椅子に座って2 時間ばかりかけて読み耽った。「恋は陰茎亀頭陰核膣粘膜の疼き動揺爆発であり同時に新しい精神や社会の望見だ。」「恋愛呪術の道具は五つ。言葉・遊び・眼 差し・肉体・琴線の五種。」
 副題の「哲学」の部分と「テクニック」の部分とのミックスが絶妙で実に面白い。思わぬ掘り出し物だった。著者には他に、『存在と性──精神分析学的考 察』(勁草書房、1984年)や『源氏物語の精神分析学』(蝸牛新社、2002年)といった著書もある。

●盛田隆二『夜の果てまで』(角川文庫:2004.2.25/1999.4)
●盛田隆二『ささやかな永遠のはじまり』(角川文庫:2011.1.25/2007.10)
●盛田隆二『ありふれた魔法』(光文社文庫:2008.10.20/2006.9)
●盛田隆二『きみがつらいのは、まだあきらめていないから』(角川文庫:2011.10.25)
●盛田隆二『あなたのことが、いちばんだいじ』(光文社文庫:2010.6.20/2005.10)
●盛田隆二『身も心も』(光文社:2011.6.25)
 最初の三つの長篇小説は息をつめて読んだ(だれかが不倫三部作と名づけていた)。つづく二つの短篇集は吉行本に匹敵するかと思われた(作品世界の感触は まるで違うのに)。

●竹田青嗣『恋愛論』(ちくま学芸文庫:2010.5.10/1993)
●宮竹貴久『恋するオスが進化する』(メディアファクトリー新書:2011.10.31)
●渡辺淳一『男というもの』(中公文庫:2001.1.25/1998.1)
●香山リカ『I miss me.──新しい自分を見つける42章』(青春出版社:2000.9.25)
●山川健一『リアルファンタジア──2012年以降の世界』(アメーバブックス新社:2008.10.25)
 恋愛論や失恋論にかかわる本(だけではない)をつづけて読んだ。盛田隆二の不倫三部作と同時進行的に。

●佐々木健一『美学への招待』(中公新書:2004.3.25)
 今年最後に読み終えた本。偶然、竹田青嗣の『恋愛論』につづけて読んだ。この、なんのつながりもない二冊の本をあわせ技で論じてみると面白いと思った。



【ブログ】

★11月13日(日):和歌における思想的構造の意味論的研究

 井筒俊彦への関心が高まっている。
 司馬遼太郎との対談で、「私は、元来新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」と語って いるのを目にして以来のこと(『十六の話』文庫版の附録「二十世紀の闇と光」)。

 慶應義塾大学出版会の特設サイト「井筒俊彦入門」に収められたエッセイ「新古今和歌集」[http://www.keio- up.co.jp/kup/sp/izutsu/doc/x1y4.html]で、若松英輔氏が先の井筒の発言を踏まえて次のように書いている。

《和歌における思想的構造の意味論的研究、この分野は、今にちも未だ黎明期である。万葉集を対象に佐竹昭広、あるいは白川静が論考を書き、それぞれ秀逸な 成果を残しているが、古今集さらには新古今集まで領域を広げると、ほとんど着手されていないといってもいいのではあるまいか。》

 若松氏によると、佐竹・白川が注目したのは、「万葉集における「見ゆ」の世界、古代人における「見る」の意味論」で、「それは神との交わりと神への賛美 と神が遍在する世界への祝福を意味した」。
 これに対して、古今、新古今では、「眺め」という語彙がキーワードになる。

《古今の時代、「眺め」は、折口信夫のいう通り、春の長雨のとき、「男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思い」を意味した。
 しかし、新古今の時代になると様相が一変する。「眺め」とは情事を示す一語に留まらない、存在論的な「意味」を有するようになる。現象界の彼方を「眺 め」ようと試みる歌人、現象的には詩人だが、精神史上の役割においては、彼らはむしろ「哲学者」だった。
 「彼は天稟の詩魂を有つ詩人であることによって、ギリシア形而上学の予言者となった」と井筒俊彦が『神秘哲学』でクセノファネスを論じていった同じ言葉 が、新古今の歌人たちにむけて発せられたとしても、驚くに当たらない。
 「眺め」とは、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった」とき、「事物の『本質』的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情 趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度」であると井筒俊彦はいう。
 「眺め」ることが即時「存在」との応答になる。「一種独得な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わり」となるというのである。》

 若松氏はつづけて、風巻景次郎の『中世の文学伝統』に対する井筒俊彦の評を紹介する。
「日本文学史の決定的に重要な一時期、『中世』、への斬新なアプローチを通じて、文学だけでなく、より広く、日本精神史の思想的理解のために新しい地平を 拓く。」
(1987年の『図書』のアンケート、岩波文庫「私の三冊」に答えたもの。ちなみに、他の二冊は『善の研究』と関根正雄訳『旧約聖書 創世記』。)

★11月14日(月):和歌における思想的構造の意味論的研究・承前

 引き続き、若松英輔氏の文章から。

《井筒豊子は俊彦の妻でもあるが、独立した一個の思索者である。小説集、複数の訳書もある。しかし、彼女の業績のなかで最も注目するべきは和歌における 「思想的構造の意味論的研究」である。
 成果は「言語フィールドとしての和歌」、「意識フィルールドとしての和歌」(雑誌「文学」岩波書店)そして「自然曼荼羅」(岩波講座 東洋思想『日本思想』岩波書店)の3部作に見ることができる。私たちはそこに井筒俊彦が畏怖と深甚な感動を覚え、蠱惑的と感じた世界へ単独で進んでいった 一人の女性を発見するのである。
 井筒俊彦がこれらの論考を評価していたことを書いておきたい。井筒豊子については、改めて別稿で論じることになるだろう。》

 井筒豊子をめぐる別稿は、見あたらないが、若松氏の著書『井筒俊彦 叡知の哲学』の第六章「言葉とコトバ」に「和歌の意味論」の項があり、その254頁 以下でわずかながら言及されている。
 いま手元に、井筒豊子の三部作がそろっている。若松氏の著書とあわせて読むことで、私なりの、和歌(古今、新古今)における思想的構造の意味論的研究に 取り組みたい。

◎井筒豊子「言語フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻1号、1984年1月)
◎井筒豊子「意識フィールドとしての和歌」(岩波書店『文学』52巻12号、1984年12月)
◎井筒豊子「自然曼荼羅」(『岩波講座東洋思想16 日本思想2』1989年3月)

★12月30日(金):今年読んだ本

 今年読んだ本のなかから、心に残ったものを拾ってみた。●印がベストテン、◎印が次点、といったところ。

●中井久夫『私の日本語雑記』(岩波書店:2010.5.28)
●佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』(中公新書:2010.9.25)
●内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫:2011.9.10/)
●吉本隆明『初期歌謡論』(ちくま学芸文庫:1994.6.7)
●安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社:2010.7.29)
●丸谷才一『樹液そして果実』(集英社:2011.7.10)
●絲山秋子『ばかもの』(新潮文庫:2010.10.1/2008.9)
●川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社:2011.10.12)
●盛田隆二『ささやかな永遠のはじまり』(角川文庫:2011.1.25/2007.10)
●杉田圭『超訳百人一首 うた恋い。2』(メディアファクトリー:2011.4.29)

◎前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社:2007.4.20)再読
◎ツベタナ・クリステワ『心づくしの日本語──和歌でよむ古代の思想』(ちくま書房:2011.10.10)
◎山折哲雄『愛欲の精神史3 王朝のエロス』(角川ソフィア文庫:2010.3.25)
◎佐々木中『定本 野戦と永遠──フーコー・ラカン・ルジャンドル』上下(河出文庫:2011.6.20/2008)
◎小田切徳美『農山村再生──「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレット:2009.10.6)
◎村上春樹『1Q84 BOOK3〈10月─12月〉』(新潮社:2010.4.16)
◎川端康成『みずうみ』(新潮文庫:1960)
◎吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫:1982.5.25/1978)