不連続な読書日記(2011.10)



【書評】

●中沢新一『日本の大転換』(集英社新書:2011.8.22)

《文明のインターフェイスとしての思想家》

 最近、友人との会話のなかで、原発と自動車は同じかどうかが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するのとは同じことだという意見 に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、何がどう「違う」かは自分でもよく分からなかった。
 その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから 云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。
 後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが 電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも技術的にも未知の 領域が多すぎる)の三点だった。
 第二、第三の点はあまり自信がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波と原発』のもとになっ たラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという『日本の大転換』 を読んでみた。
 中沢新一さんはこの150頁ほどの小さな書物のことを「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「緑 の党みたいなもの」の立ち上げを宣言した著者がそこで約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。

 ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。
 たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的交換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネーによる 「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってありますから、ここ では多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。
 そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文明がもつ 「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。
 また本書で始めて、マルクスやバタイユやハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提唱されて いるのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネルギー革命は一神教か ら仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。
 そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、中沢新一 のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。

 それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
 それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではな かったからである。
 この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者・中沢新 一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。

《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生まれ変わり への道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前方に向かって、エ ネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。
 もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆けて自覚的 に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に基づくそれを第七 次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に、大きな転換をもたらすの である。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》

 最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インターフェイス の構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。


【購入】


●内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫:2011.9.10/2001.12 せりか書房刊)【¥743】

 「文庫版のためのあとがき」で著者自身が驚いているように、「まさかこんな硬い本が文庫化される」とは、しかもレヴィナス三部作の第一作(本書)と第二 作(『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』、これは名著!)が同時刊行されるとは思いもよらぬことで、とすると知らぬ間に三部作は完結していたのかと 思いきや、この二冊「の次にもう一冊『時間論』を書く予定でいます」とあるので、もしかすると「こんな硬い」シリーズがいきなり文庫で完成するという前代 未聞の大仕掛けが目論まれているのかもしれないと思い、かつて図書館で借りてぱらぱらと眺めただけであまり印象に残らなかったのはきっと性根を入れて読ま なかったからに違いないと猛省し、しばらく出張がつづく車中の旅の道連れにと思って購入し、読み始めたらもうとまらない。

●阿部泰郎・錦仁編『聖なる声 和歌にひそむ力』(三弥生書店:2011.5.16)【¥3000】

 東京で時間つぶしに松丸本舗に寄り、なにか文庫か新書でも「記念」に購入しようと思い物色しているうち、ふと目にとまり、書名やブックデザインや出版社 名に何かいかがわしいものを感じて一瞬たじろいだものの、松岡正剛のめがねに叶ったものしか陳列されていないはずと思いなおし、それになにより書名やブッ クデザインや出版社名に感じたいかがわしさに惹かれるところもあり、中身をろくに確認もせずに買い求めて、帰りの列車の中で序文と後書をつらつら眺め、こ れはヒットだったかもしれないと安堵し、『和歌とは何か』(岩波新書)の著者・渡部泰明氏の「歌合の〈声〉──読み上げ、詠じもしたる」を読み始めた。

●ツベタナ・クリステワ『心づくしの日本語──和歌でよむ古代の思想』(ちくま書房:2011.10.10)【¥860】

 かねてから著者の『涙の詩学──王朝文化の詩的言語』を読んでみたいと思いながらいまだその機会をつくることができないでいたところ、三連休最終日の 10月10日、なにかサクサクと読める本を買い求めたいと思って書店をのぞき、リオタールの『言説、形象』の翻訳が刊行されているのを知って興奮し(定価 7千円は衝動買いを思いとどまらせた)、こういう時はきっと「こんな本を読みたかったのだ」と気づかせてくれる本に出合えると確信し、文庫・新書の新刊 コーナーで本書を見つけて「やっぱり!」と(心のなかで)快哉を叫んだ。
 エピローグにある次の文章を読み期待が高まった。(まだよくは分からないが、これまで読んだなかで「和歌」=「日本独自の表現方法・哲学的議論のメディ ア」、「心」=「古代日本人の存在論の基本概念・形而上学的概念」と明確に規定した文章は知らない。)
《古代日本人は、古代中国の哲学を自分の経験を通して認識し、その認識を日本独自の表現方法、すなわち和歌を通して発展させていった。その結果、和歌は哲 学的議論のメディアとなり、「心」は古代日本人の存在論の基本概念として定着した。言い換えれば、もともと、とらえどころのない「心」は、古代中国の思想 を特徴づける「あいまいさの哲学」と関連づけられることで、形而上学的概念として定着したのである。》(247頁)

●吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫:1982.5.25/1978)【¥362】
●吉行淳之介『子供の領分』(集英社文庫:1993.9.25)【¥476】

 ある若い人が最近、吉行淳之介の文体に惹かれるものを感じたので読んでみたいと思っていると話してくれた。
 吉行の作品は学生時代のある時期、かなり熱心に集中して読んだことがあった。題名はほとんど忘れたけれども長中短篇の小説の世界には孤独や憂愁や寂寥の 気分が濃く立ちこめていてその極上の読後感の余韻が今でも幽かに残っている。
 社会人になってから吉行の文章を読むことは絶えた。思い起こせば就職した年に刊行されたのが『夕暮まで』だった。まずこの(流行語を生んで評判になっ た)未読の作品から読んでみることにした。
 『子供の領分』はその若い人が読んでいるというので。ここに収められた短篇はもしかしたら読んでいるかもしれない。

●中沢新一『日本の大転換』(集英社新書:2011.8.22)【¥700】
●田口ランディ『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書:2011.9.10)【¥760】

 吉行淳之介のことを話してくれた人との会話のなかで原発のことが話題になり、『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだし原子力 を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだと我ながら訳の分からない話をした。
 『大津波と原発』のもとになったラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始 められたのが『日本の大転換』。
 中沢新一さんは「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「「緑の党」みたいなもの」の立ち上げを宣 言した著者が最後に約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。
 田口本は中沢本を買おうと思っていた日の朝、新聞広告でふと目にとまったので併せて購入した。
 ひと頃は「好きな作家は?」と問われれば「村上春樹と保坂和志と田口ランディ」と答えることに決めていた(一度だけ聞かれたことがある)。しばらく遠ざ かっていたものの、最近関心が高まってきていた。

●グレッグ・イーガン『プランク・ダイヴ』(山岸真編訳,ハヤカワ文庫SF:2011.9.25)【¥900】

 『祈りの海』(2000年12月)、『しあわせの理由』(2003年7月)、『ひとりっ子』(2006年12月)に続くグレッグ・イーガンの日本オリジ ナル短篇集第4弾。かねてから「イーガン哲学」(坂村健)なるものの実質を究めたいと企画していた。そういえば『ひとりっ子』が(7篇中3篇で)中断した ままになっている。川端康成、吉行淳之介、エリオット、その他、その他の読みかけ本や待機中の本が山積みになっているなか、どう時間をやりくりするか。

●蛇蔵&海野凪子『日本人なら知っておきたい日本文学──ヤマトタケルから兼好まで、人物で読む古典』(幻冬社:2011.8.25)【¥900】

 こんな本が出ていたのを知らなかった。『うた恋い。』のときと同じだ。「古典作品のマンガ化ではなく、作者のひととなりをキャラっぽく紹介するマンガで す。昔の日本人、面白いですよ!精一杯勉強し、咀嚼して心を込めて描きました。よろしくお願いします!」(蛇蔵さんのブログから)

●川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社:2011.10.12)【¥1600】

 この作家のことはずっと気になっていた。永井均つながりがあるものの、それだけではなくとにかく気になる作家だった。「パンドラの匣」の竹さん(やっと るか、やっとるぞ、がんばれよ、ようしきた)がよかった。いつか読もうと思いつつ「川上未映子の純粋悲性批判」[http: //www.mieko.jp/]でお茶を濁していた。毎日新聞の今週の本棚・本と人の欄(10月23日)[http: //mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20111023ddm015070031000c.html]に本書が紹 介されていた。冒頭の文章に魅了された。「女34歳、男58歳。恋愛面でも社会的にも恵まれていない孤独な二人の魂が出会い、暗闇の中に儚い光をともす。 中学生のいじめを題材に、善と悪の根源を問うた長編『ヘヴン』から2年。最新作は、都会を生きる「声なき普通の人々」を描いた切ない純愛物語となった。」


【読了】

●丸谷才一『樹液そして果実』(集英社:2011.7.10)

 ほぼ二月、ほとんど毎夜、少量ずつ服薬し、どっぷりと丸谷ワールドに浸った。正直、巻末の「六日のあやめ」を読んでいるときは、そのあざといまでの語り 口に胸焼けを感じるほどだった。「U 古典」「V 近代」「W 藝術」「T ジョイス」の順に読んだ。「六日のあやめ」はWの部立てに収められた(唯一の)一篇だったので、最後にジョイスをめぐる二篇の評論を読み、清涼感とともに 巻をおくことができた。「書評」を書いておきたかったが、歯が立たない。

●中沢新一『日本の大転換』(集英社新書:2011.8.22)
●田口ランディ『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書:2011.9.10)

 『日本の大転換』に書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。それではこの「パンフレッ ト」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
 それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではな かったからである。
 この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者・中沢新 一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。
 勢いで田口本を一気読みした。いろいろ思うところがあったが、まだ整理できない。読後の感銘は、もしかすると中沢本以上の出来映えではないかと思った。

●内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫:2011.9.10/2001.12 せりか書房刊)

 せりか書房版ではあまり感銘を受けなかった。図書館で借りていい加減に読み流したからだと思う。文庫版を常時携帯し朝夕味読してみて、この本の凄さがわ かった。師事すること、祖述すること、愛撫すること。この書物はきちんと総括しておきたい。

●橋爪大三郎『性愛論』(岩波書店:1995.2.24)

 ノートをとりながら読んだ。読むともなく読んだ。第1章「猥褻論」の6節「性愛の分離公理」、第4章「性愛倫理」3節「律法から喩、そして普遍神学へ」 が面白かった。この本はいずれ立ち返ることになる。中沢新一『はじまりのレーニン』や鶴岡真弓『聖パトリック祭の夜──ケルト航海譚とジョイス変幻』など を含む「Image Collection 精神史発掘」シリーズの一冊。

●吉行淳之介『夕暮まで』(新潮文庫:1982.5.25/1978)
●梨木香歩『家守綺譚』(新潮文庫:2006.10.1/2004.1)

 「言葉に酔う」としか言いようのない体験からひさしく遠ざかっていた。『夕暮まで』を読み進めている間中ずっと、吉行淳之介が繰り出す言葉に酔い続けて いた。文章に躰が反応する。至福であるが鋭く痛い。引き続き『子供の領分』を読む。
 『家守[いえもり]綺譚』は「サルスベリ」から「葡萄」まで、勅撰集の部立てか季語集を思わせる表題をもつ28の掌編で構成されている。毎日少しずつ読 み進めているうち、どこか『蟲師』(漆原友紀)の世界を思わせる舞台設定がじわじわと躰に染み入り、最後は感動的であった。読み急いではいけない作品。引 き続き『からくりからくさ』を読む。

●川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社:2011.10.12)

 帯に「この物語は何十年先も読み継がれるだろう」とあるが、それはけっして誇張ではないと思う。これほどの書き手とは知らなかった。引き続き『先端で、 さすわ さされるわ そらええわ』を読む。
 前半と後半、人物の言動と夢、過去と現在、引用された感情と「何のためでもない言葉」、等々の様々な素材が、冬子と三束が出会い、別れる駅に向かって集 結し、そして分岐していく。充分に練られ考え抜かれたに違いない物語の構成をつきぬけて、神話的といってもいい輝きと深遠さをもった瞬間がほとばしる。無 垢な光のように、光を象ったショパンのピアノの調べのように。
 純粋悲性批判に「単行本化にあたって、最終章の重要な部分を改稿いたしました」とある。さっそく「群像」2011年9月号を入手して第13章をざっと読 んでみる。初出稿には、三束さんが冬子についた嘘の中身が書かれていない。それ以外にも改稿された箇所があるのだろうか。校閲者になったつもりで調査して みる。


【半読了】

●中井久夫『アリアドネからの糸』(みすず書房:1997.8.8)
 佐々木中氏が『野戦と永遠』で(ラカンの「ララング」に関連して)引用していた「「創造と癒し序説」──創作の生理学に向けて」を読みたくて、近所の図 書館から借りてきて半日ためつすがめつ眺めて過ごした。この論考に出てくる「文体の獲得」に関連して、「記憶について」や「詩を訳すまで」、また詩と生理 学つながりで「訳詩の生理学」、その他、その他の論考を読んでいるうち、昨年、驚嘆とともに読み終えた『私の日本語雑記』の読中体験がよみがえってきた。
 「私の三冊」という文章の冒頭に、次のように書いてあるのが印象に残った。「二十世紀をもっとも大きく動かした詩は結局、フランス詩のポール・ヴァレ リー(一八七一─一九四五)の「若きパルク」『魅惑』の一対、ドイツ詩のライナー・マリア・リルケ(一八七五─一九二六)の『ドゥイノの悲劇』『オルフォ イスへのソネット』の一対、そして英詩のT・S・エリオット(一八八八─一九六五)の『荒地』に落ちつくかと私は思う。」(ちょうど今、「荒地」を、英文 とその朗読と注釈を手引きにしながら読んでいる。)



【ブログ】

★10月3日(月):三つの性愛と性的身体の「かたち」

 『場所と産霊』に、三つの性愛と性的身体の「かたち」が描かれていたので、メモ(備忘録)を残しておく。

 その一、フーリエ。性の奇癖、天使的結合。
「青年期には陽気な娼婦たちとの語らいを通して自らの性の奇癖、「女子同性愛者嗜好」(ドゥブー『フーリエのユートピア』)、しかもその秘密の性愛を覗き 見るという悦楽を発見し、自ら実践したフーリエ──といってもフーリエ自身はその生涯を通じて一般女性との恋愛関係、さらに性的交渉は一度も持たなかった のではないかと推測されている。それぞれ繊細で微妙な差異をもった性の奇癖者(マニア)たちが、その性の特異性のもとに自由な乱交と複婚、すなわち無限の 天使的結合を繰り返す未来社会「愛の新世界」を生き生きと幻視した、孤独な独身者にして稀代のユートピスト、性と精神の革命を唱えた先駆者、偉大なる空想 的社会主義者フーリエ」。(16-17頁)

 その二、イェイツ。錬金術的身体、器官に妨げられない新たな生殖性に満ちた身体、薔薇の身体。
「イェイツにとって詩作とは、不可視の霊的世界に触れ、その消息を描くことに他ならなかった。そこでは精神とともに身体も変容を遂げる。それは新たな錬金 術的身体の生成であるとともに、恋愛の極致でもあった。イェイツはこう書き残している。スウェーデンボルグによれば、死者たち(つまりは天使たち)も確か に愛を営むのである。その愛の行為には、死者=天使たち二人が完全に一体化し、遠くから見るとまばゆいばかりの白熱光のように見えるものなのだ、と。」 (102頁)
「そうして可能となった存在[錬金術師たちが夢見るマテリア・プリマ=賢者の石]はあらゆるものに変身することができ、またあらゆるものをそこに孕むこと ができるようになるだろう。中世の夢の科学を近代の詩的表現へと磨き上げること。それは器官に妨げられない、新たな生殖性に満ちた身体を作り上げることで もある。/純粋無垢な生殖性。そこにおいて高貴と猥褻は背中合わせである。その矛盾のままに、純潔でありまた淫蕩でもある「性」それ自体を象徴する、薔薇 の身体。」(105-106頁)

 その三、折口信夫、南方熊楠、フーコー。夢のなかの両性具有の少女、産霊の身体、曼荼羅の身体。
「そして折口はこの「古代」という時間[永遠・無限とつながることを可能にする純粋な時間の結晶体]を発生させる存在として、『死者の書』の主人公、藤原 南家郎女[いらつめ]、すなわち夢のなかで自身が変容した、いわば両性具有の少女を造形した。時間が焦点を結ぶ折口の両性具有の少女……そのイメージに、 さらに、折口と「同性愛」という要素を共有しながら、なかなかこれまで直接に比較対照されてこなかった南方熊楠が、大英博物館で発見した、空間が焦点を結 ぶもう一人の両性具有の少女のイメージを重ね合わせなければならない。ひとりの両性具有者の身体の上で、時間と空間が、想像力と政治が一つに融合する。そ れが「神秘の薔薇」が変容して形になった錬金術の身体の鏡像となり、それと対をなす、霊性と場所に媒介されて可能になった産霊の身体、曼荼羅の身体を形づ くるのである。」(210頁)
「多様な性の可能性のなかから、一つの性を選択し、さらには性の変身を断行し、その結果生涯を終えることになった両性具有者の生きた記録。熊楠は、アレク シナ/アベルという二つの名前と二つ性を「死」に至るまで生き抜いたエルキュリーヌ・バルバンが書き残した「生」の軌跡に、普遍が具体に宿り、多様性が個 体化される様を、まざまざと見出したはずである。/そして熊楠が、この手記のすべてを自らのデータベースに書き写してからちょうど八十年が過ぎた頃、フラ ンスの一人の哲学者が、この手記全体を新たに復刻する。さらに、それが英語に翻訳される際に、哲学者はそこに美しい序文を付すことになった。」(232 頁)

★10月5日(水):性愛と墓地、観念をモノ化するマテリアリズムの力

 中沢新一さんの「大阪アースダイバー」が週刊現代に連載されていて、時々、読んでいる。
 「どじょう野田を操る「本当の総理」勝栄二郎」という記事を読みたくて買った10月8日号は、「土はすばらしいマテリアリスト(唯物論者)である。」に 始まる第42回「墓場とラブホテル(1)」。
 これが、とびきり面白かった。

 土は、生きているあいだ、感情や思考や観念をわきたたせていた身体を分解するマテリアリストである。
 同時に、「人が粘土をこねて、人形をつくると、ただの土くれに息が吹き込まれ、感情をもっているかのような、不思議な存在へと変貌していくように」、非 生命に生命を吹き込む「偉大なるアニミスト」でもある。
 「大阪ではその土が、上町[うえまち]台地の崖に露頭していた。」
 瓦屋町から松屋町筋にかけて、「アニミズムのお使い」である人形づくりたちが、たくさん住み着いていた。
 上町台地の西方の崖に沿って広がる広大な寺町。秀吉の時代、ここが寺町と定められるずっと以前から、崖沿いの傾斜地は墓地だった。
 その墓地地帯の一角が、大阪市内きってのラブホテル街となっている。
 それは、古代の「アニミズムの元締め」のような強力な神霊をまつる生玉神社の界隈である。
 「ここでは、モノに霊力を宿らせるアニミズムと、生命あるものをただのモノに連れ戻そうとするマテリアリズムが、ひとつになっている。」

《なぜ、恋人や擬似恋人は、こんな場所で愛を交わすのを好むのか。
 秘密を解く鍵は、大阪の生んだ天才、近松門左衛門の心中物のなかにひそんでいる。死に向かって突き進む恋人たちが、死に場所求めてさまよう道行きのロ ケーションは、しばしば深い森であったり、墓地であったりする。もうすぐ、二人は自分の命を絶って、静かなモノの世界に入っていこうとしている。二人をそ こへ導いていったのは、世の掟に許されない性愛の歓喜だった。愛というよりもそれは恋であり、たがいを恋いこがれる衝動に、我が身を投じていった果てに、 二人は生命と価値を飲み込んでいく死に、飛び込んでいった。
 性愛には、愛を物質に突き戻してしまう、マテリアリズムの力がひそんでいる。愛はことばの力によって支えられている。ことばは強力だけれど、かならず語 りつくせない空虚をつくりだしてしまう。空虚はことばの運命なのだ。そこで、愛のことばがつくりだすその空虚を埋めようとして、二人は性愛の行為を執りお こなう。二人はそのとき、モノに変化していこうとしている。モノに向かうことで、観念が埋めることのできない空虚を満たそうとしている。
 墓地とセックスは、だからもともととてもよく似た構造をしていることになる。どちらも、観念を無化してモノ化してしまう、マテリアリズムの力を秘めてい る。人形から墓地へ、そして墓地に囲まれたラブホテルへ。上町台地西崖沿いには、一つの、一貫したテーマが、展開されている。その一貫したテーマを、奥底 で支えているのは、崖に露出した土のはらむ、マテリアリズムの力である。》

 近松の心中物が人形によって演じられたこと。ことば(がつくりだす空虚)が性愛の歓喜をもたらすこと。

★10月13日(木):非人称の「意味するのを欲する」こと

 互盛央著『フェルディナン・ド・ソシュール──〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年7月)を拾い読みしていて、印象に残ったと ころを一つ。
(安藤礼二さんがいう「表現」にも、大いに関係するところがあると思うので。)

 本書の最後で、ソシュールとヴァレリーが「一つの代名詞の下で再び交錯する」。その代名詞とは、ヴァレリーが「フランス語だけがもつこの見事な語」と呼 んだ“on”のことだ。

「フランス語だけがもつこの見事な語ON──それが誰であれ、単数で複数、男性で女性──は、かつてはそうだったが、Homme ではない。というのも、ONはHomme であるよりは、むしろ次に来る動詞を可能にし、その動詞によって定義される人称主語だからである。」

 この引用に続く互盛央さんの文章。

《ポール・ヴァレリーがそう記したのは、一九三一年の『カイエ』である。代名詞onは男性でも女性でもある。あるいは男性でも女性でもない。それは「男 性」と「女性」の対が成立する「人間(Homme)」より前にある。単数でも複数でもあり、単数でも複数でもないonは、「単数」と「複数」の対が成立す る「主語(sujet)」より前、それゆえ暗黙に「人間」以外を排除する「主体(sujet)」の外にある。「次に来る動詞」によって「定義される」主語 の位置に立つonは、その動詞に先行して存在していた主語はないことを示し、すり替えを行う「見せかけの肯定」に陥ることなく言述[ディスクール]という 〈意志〉を表示する代名詞なのだ。》

 ソシュールとヴァレリーの「交錯」とは、ソシュール晩年の草稿に、「言語[ラング]の中の自由に使える辞項を使って人が何かを意味するのを欲する、とい う考えを私たちがもつには何が必要か。」云々とあるのを踏まえている。

《「人が何かを意味するのを欲する」──それが言述[ディスクール]を言語[ラング]から分かつ。ただ「意味する」のではなく、「意味するのを欲する」こ と。「欲する」の主語にフランス語で不特定の人を表す代名詞onが使われているのは気紛れな選択ではない。特定の「語る主体」の行為である以外にないパ ロールの向こう側に言語[ラング]が想定されるとき、そこには、いつもすでに非人称の「意味するのを欲する」ことがある。言述は、いつもすでに言語[ラン グ]とパロールの対に先行しているのだ。》

★10月16日(日):言いたいと思っていること

 ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏訳、作品社/1998年3月)の第一章「感覚的確信──「目の前のこれ」と「思いこみ」」から。

《わたしたちは感覚的なものを一般的なものとして表現してもいるわけで、わたしたちのいう「このもの」は「一般的なこのもの」であり、「それがある」とい うのは一般的な「ある」をいっているのである。むろん、その場合、わたしたちが思い浮かべているいるのは一般的な「このもの」や一般的な「ある」ではない が、表現するものは一般的なものである。ということは、感覚的確信のもとに思いこんでいることをそのまま表現してはいない、ということだ。が、いうまでも なく、ことばと感覚的確信を並べたとき、真理はことばのほうにあるのであって、ことばに身を寄せれば、自分の思いこみはきっぱり否定するしかない。そし て、一般的なものが感覚的確信の真理であり、ことばが一般的な真理だけを表現するものとすれば、わたしたちの思いこむ感覚的な「ある」を、そのつどいいあ らわすのは不可能だということになる。》(『精神現象学』69頁)

 これと同じ文章を、ジョルジュ・アガンベン『言葉と死──否定性の場所にかんするゼミナール』(上村忠男訳、筑摩書房/2009年11月)から孫引きす る。(【】内は原文では付点で強調。)
 ちなみに、『精神現象学』第一章の章名は、アガンベン本では「感覚的確信、あるいは〈このもの〉および言いたいとおもっていること」となっている。

《わたしたちは感覚的なものをも一般的なものとして【言葉で表現する】。そして、わたしたちが言葉で表現するものが【存在する】のである。〈このもの〉と はすなわち【一般的な】〈【このもの】〉のことである。あるいは、〈それが存在する〉(es ist)とはすなわち〈【存在する】〉【一般】のことなのだ。その場合、もちろん、わたしたちはその一般的な〈このもの〉、あるいは〈存在する〉一般をわ たしたちの前に【表象している】(vorstellen)のではなくて、一般的なものを【言葉で表現している】(aussprechen)のである。いい かえるなら、わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで【言いたいとおもっている】(meinen)とおりのままには言っていないのである。しか しながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが[言いたいとおもっていることよりも]いっそう真なるものである。言葉のなかでは、わたしたちは 直接にわたしたちの【言いたいとおもっていること】(unsere Meinung)に背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいと おもっている(meinen)感覚的な存在を言葉にして表現する(sagen)ことができるなどということは、とうていありえないのだ。》(『言葉と死』 36-37頁)

 文中の「meinen」に付された訳注。「“meinen”は、わが国のヘーゲル研究者のあいだでは通常「思いこんでいること」と訳されるが、アガンベ ンはこれに“volere-dire[言いたいとおもっていること]”という訳語をあてている。」
 “volere-dire”はフランス語では“vouloir-dire”で、この語は、以前(2007年1月23日[http: //d.hatena.ne.jp/orion-n/20070123])引いた木村敏氏の「日本語で哲学するということ」という文章(坂部恵第3巻月 報)で知った。

★10月23日(日):最近買った本─吉行淳之介『夕暮まで』ほか

 ある若い人が最近、吉行淳之介の文体に惹かれるものを感じたので読んでみたいと思っていると話してくれた。
 吉行の作品は学生時代のある時期、かなり熱心に集中して読んだことがあって、もう題名はほとんど忘れたけれども長中短篇の小説の世界には孤独や憂愁や寂 寥の気分が濃く立ちこめていてその極上の読後感の余韻が今でも幽かに残っている。「軽薄のすすめ」(これくらいしか名前を覚えていない)ほかのエッセイや 対談も面白くてけっこうたくさん読んだと記憶している。

 吉行淳之介をめぐっていくつか思い浮かぶことがあった。たとえば村上春樹のデビュー作を吉行淳之介が高く評価し、その村上が『若い読者のための短編小説 案内』で吉行の「水の畔り」を取りあげていたこと。(そしてその「水の畔り」が、村上の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「UFOが釧路に 降りる」に通じているのではないかと思ったこと。)
 またつい先日読み終えたばかりの丸谷才一著『樹液そして果実』に収録された「『暗室』とその方法」という文章(「中央公論」1994年9月号に掲載され たもの、ちなみに吉行は1994年7月26日に死去)に、戦後はじめて出来た東大英文科卒業生・在学生・休学者の名簿が夏目金之助ではじまり吉行淳之介で 終わっていたと紹介されていたこと。そして吉行の作品から一冊だけあげるなら「暗室」だろう、その主題は「誕生と交合と死によつて規定されてゐるわれわれ の人生、この厄介なものの厄介さ」であって、この作品の「実に独創的な方法」に先行するものとしては「断章が無雑作にはふり出されて、脈絡があるみたいで もあるし、ないやうでもある」趣をもった「伊勢物語」が心に浮かぶと書かれていたこと。「そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふの は、かなりの人の認めるところだらう。」
 ついでに書き足しておくと「暗室」は同じ随筆仕立ての小説でも「墨東綺譚」の遥か上をいき、もう一つの随筆体小説、川端康成の「禽獣」は短篇なので比較 はしないが、川端のいわゆる「末期の眼」とは違うずっと成熟したゆったりしたものの見方を吉行の描く小説家(「暗室」の語り手兼主人公の中田)に感じると 書かれていたこと。
 さらにさらに書き加えておくと「人はよく吉行淳之介の作品に濛々とたちこめる死と虚無の匂ひについて言ふ。もちろんそれは正しい。しかし、たとへば孤独 の深さを味はひつくすためには社交の達人であることが必要なやうに、死と虚無をよく知るならば生きることへの意志を持つてしまふだらう。」云々の作家評に ふれて、かつて座談の名手と呼ばれ艶福家(と言うと少しニュアンスが違う、女性遍歴者か)として鳴らし「腿(もも)尻三年、胸八年」(ネット上には「桃尻 三年、乳八年」とか「モモ膝三年、尻八年」などの諸説あり)なる名言を吐いた生前の吉行淳之介の顔かたちが思い浮かんできた。
 要するにかつて憧れ痺れた吉行淳之介の文章をそろそろ再読してみるかと思い始めていた矢先だった。
 吉行の名を聞いた時それらのことが一気に心中に浮かんできたのだが、なぜだがそれを口にするのは話を合わせて迎合しているように思われはしまいかと躊躇 われ話題はそのうちほかへ流れていった。
 社会人になってから吉行の文章を読むことは絶えた。思い起こせば就職した年に刊行されたのが『夕暮まで』だった。まずこの(流行語を生んで評判になっ た)未読の作品から読んでみることにした。
 その若い人が読んでいるというので『子供の領分』も買い置きした。ここに収められた短篇はもしかしたら読んでいるかもしれない。

 これは後日談だが、その同じ人から梨木香歩にもはまっていると聞かされて再度驚いた。というのもこの春先、大阪勤務になった記念にというか近づきのしる しに大阪で建築事務所を開いている同年齢の親戚と仕事帰りに一杯やって別れ際によかったら読んでみてと渡されたのが梨木香歩の『家守綺譚』。
 基本的に人が薦める本を素直に読めない性質(たち)なのだがこの作者には妙にそそられるものを感じて、機会があれば読む待機本に分類して常備しておい た。これを機会に読んでみようと思っているが、しかしここまで偶然の一致が続くとちょっと怖い。
 以上の話とは関係なく、昔愛読した作家の作品を時を隔てて読みかえすのは読書の歓び、醍醐味これに尽きることだと思う。
 いま学生の頃の印象深い作家や作品を思い浮かぶまま挙げてみると、高見順(『嫌な感じ』や『如何なる星の下に』)、石川淳(評論、夷齊もののエッセ イ)、五木寛之と野坂昭如。そして吉行淳之介から開高健へ移ろい名作『夏の闇』にめぐりあった。

     ※
 吉行淳之介のことを話してくれた人との会話のなかで、原発と自動車は同じかということが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するの とは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、なぜどうして「違う」のかは自分でもよく分からなかった。
 その時は『大津波と原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから 云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。
 後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが 電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも技術的にも未知の 領域が多すぎる)の三点だった。
 第二、第三の点はあまり自信がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波と原発』のもとになっ たラジオデイズでの内田樹・平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという『日本の大転換』 を読むことにした。
 中沢新一さんは「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「「緑の党」みたいなもの」の立ち上げを宣 言した著者が最後に約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。

 田口本(『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』)は中沢本を買おうと思っていた日の朝、新聞広告でふと目にとまったので併せて購 入した。
 ひと頃は「好きな作家は?」と問われれば「村上春樹と保坂和志と田口ランディ」と答えることに決めていた(一度だけ聞かれたことがある)。しばらく遠ざ かっていたものの、最近関心が高まってきていた。

★10月24日(月):最近読んだ本─中沢新一『日本の大転換』ほか

 中沢新一著『日本の大転換』を読んだ。

 ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。
 たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的交換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネーによる 「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってありますから、ここ では多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。
 そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文明がもつ 「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。
 また本書で始めて、マルクスやバタイユやハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提唱されて いるのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネルギー革命は一神教か ら仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。
 そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、中沢新一 のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。

 それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
 それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではな かったからである。
 この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者・中沢新 一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。

《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波と原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生まれ変わり への道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前方に向かって、エ ネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。
 もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆けて自覚的 に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に基づくそれを第七 次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に、大きな転換をもたらすの である。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》

 最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インターフェイス の構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。
 勢いで田口ランディさんの『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』を一気読みした。いろいろ思うところがあったが、まだ整理できな い。読後の感銘は、もしかすると中沢本以上の出来映えではないかと思った。

     ※
 吉行淳之介『夕暮まで』を読んだ。

 「言葉に酔う」としか言いようのない体験からひさしく遠ざかっていた。『夕暮まで』を読み進めている間中ずっと、吉行淳之介が繰り出す言葉に酔い続けて いた。文章に躰が反応する。至福であるが鋭く痛い。
 梨木香歩の『家守綺譚』はまだ途中だが、映画「西の魔女が死んだ」を観た。素晴らしい作品だった。映画の感想を語る言葉がほしい、身につけたいと痛切に 思う。