不連続な読書日記(2011.09)
【書評】
●真山仁『コラプティオ』(文藝春秋:2011.7.28)
《腐敗しているのは誰なのか》
さすが真山仁。期待は裏切られなかった。
この作品は様々な切り口で読むことができる。たとえば、天才的政治家・宮藤隼人を中心に相対峙する二人の元同級生、つまり政治学者にして若き官邸スタッ
フ・白石望と経済部記者・神林裕太が、それぞれ首席秘書官・田坂義崇と社会部の看板記者・東條謙介という手厳しい「師」との軋轢や試練を経て、やがて宮藤
を乗り越えていく一種の「成長小説」として。
本作にもし続篇があるとすれば、それは(田坂によって帝王学をたたきこまれ)宮藤の後継者となった白石と、東條に続く看板記者となった神林との、政治と
いう場面における正義や愛をめぐる確執の物語となっていくだろう。(「愛」と書いたのはいうまでもなく男女の恋愛・性愛のこと。本書の序章に登場した人物
のなかで唯一、テレビ局の政治記者・澤地遼子の物語だけが充分に展開されていない。この女性が続篇では白石と神林に、もしかすると宮藤にまで深くからんで
いくのではないかと期待している。)
白石の政治学者としての専門は「政治への無関心と衆愚政治(ポピュリズム)」。これに第四の権力としてのマス・メディアの政治的機能の問題を組みあわせ
てみる。そうすると、カリスマ的政治家の功罪や政治における正義という政治学的論点(独裁者の誕生を阻止するために白石と田坂、神林がとった手段に正義は
あるか、彼らの行為こそが民主主義政体における最大の「コラプティオ」すなわち政治的腐敗なのではないか)、そして何よりも現代日本政治の停滞に責任をも
つべきは本当は誰なのか(それは政治家自身であり、それ以上にマスメディアであり、そして何よりも国民自身なのではないか)といった問題を鋭く指摘し告発
する作品として読むことができる。
いま二つの切り口をあげた。だが、それらが小説を読む醍醐味へとつながっていくためには、まず宮藤隼人の物語がしっかりと書きこまれていなければならな
い。東北大震災以後の政治のリアリズムに即しながら、政治家・宮藤がなしたことを克明に描き、とりわけ原子力を含めたエネルギー政策やアフリカ外交をめぐ
る「情報」を豊富に提供すること。(『ハゲタカ』や『マグマ』の作者ならできる。それも第一級の仕事が。)
白石と神林の物語に先行して、宮藤の視点に立った物語が必要だったのではないか。続篇ではない前篇が。それほどの分量がなければ、ギリシャ悲劇かシェイ
クスピアに匹敵する「コラプティオ」の悲劇は描ききれなかったのではないかと思う。もっと傑作になったはずなのに惜しい。
●サイモン・ブラックバーン『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳,築地書館:2011.7.5)
《音楽をつくりあげること》
この本の著者には「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感があまり感じられない。
読み物としては悪くないと思うが、いかにも気の利いた言い回しや素材(引用や話題)の切り出し方がときに鼻につく。邦訳のタイトルが軽いし、内容と合っ
ていない。
それでも第10章「ホッブスと快感のシンフォニー」(と、これに続く第11章「カントとフロイト」)は面白かった。
とくに(カントと対照的な)「ホッブスの和合」の話題(性の快感には、他者を喜ばせることから得る喜びや快感という精神の喜びが含まれている云々)を経
て、トマス・ネーゲルの引用(相手に感じとられているということが感じとられ、それが感じとられたということがまた感じとられる、そうした相互作用を通じ
てパートナーがより一層自分のものになっていく云々──『コウモリであるとはどのようなことか』に収められた「性的倒錯」からの引用)へとすすむあたり。
そうして「神との交感や他者との一体感が、なぜエクスタシーになるのか」をホッブス的観点から論じていくところが印象深い。
「これは、すばらしい音楽をつくり上げることと似ている。弦楽四重奏が最終小節に近づいてくると、演奏者たちはたがいの演奏に呼応し合い、ごくごく微妙に
調整しながら全体として音楽を奏でる。演奏が終わったとき、一体感をおぼえたとしても不思議はない。」
圧巻は、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』「13 ナウシカア」からのエピソードの紹介。
レオポルト・ブルームとガーディ・マクダウェルが浜辺で目を見交わし、おたがいに相手が興奮していることを感じ取って、自分でクライマックスに達する場
面をめぐって、「クリントン元大統領は違うと言うかもしれないが、わたしならばブルームとガーディはこのとき性交していた、と言いたい」。
我ながら褒めているのか貶しているのかよく判らない。
●安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社:2010.7.29)
《「表現」としての近代日本思想史》
この書物は論考、評論のかたちをとった「表現」である。いいかえれば言語による芸術作品、すなわち小説。著者自身の言葉でいえば、フィクションとして再
構築された歴史なのである。
そのテーマは、書名のうちに端的に示されている。西田幾多郎の「場所の哲学」と折口信夫の「産霊(ムスビ)の神学」、この二つのものを一つに調停するこ
と。以下、第二部「霊性と曼荼羅」(第八章「場所と産霊」)からの抜き書きで、そのプロセスを垣間見てみよう。
《その[西田と折口の]類似は、彼らがともに学問の究極の目標として定めた「神」の問題においても、またその「神」に近づいてゆくための独特の方法におい
ても、顕著なものがある。西田も折口も、いまここに存在する自分が、その存在のあるがまま、つまりは有限の精神と身体をもったまま、超越の時空と、すなわ
ち無限の「神」と合一できることを願ったのである。そのためには、私(個=多様なもの)と神(普遍=一なるもの)が、それぞれ接近し合い、同一の地平を占
めなければならなかった。自己と他者、私と神、多と一、個と普遍──それら、根源的に対立する二つの極が、共通の場をもつこと。そして、そこに一元的な領
野が開かれること。西田も折口も、哲学と民俗学において、ただそのことだけを追求していたのだ。
そのような一元的な地平で、対立する二つの項を一つにつなぐもの。自らの心の奥底に存在する内在の場と、神という超越の場を一つにつなぐもの。それさえ
も、この二人は共有してもっていた。西田にとっても折口にとっても、二項対立を徹底して無化してしまうものとは、なによりも言語だった。直接性の言語、表
現性の言語、個と普遍を相互に矛盾するまま一つにつなぐ言語。西田の哲学も折口の民俗学も、この特異な言語をめぐって組織された表現についての学だっ
た。》
西田と折口のあいだに切り開かれた一元的な地平。それはまた、鈴木大拙の「霊性」と南方熊楠の「曼荼羅」とが偶然かつ必然の出会いを果たす場所でもあっ
た。
そしてそこから、近代日本思想における「真に独創的な表現の系譜」が生みだされ、さらには、「フランスとアメリカの間に切り開かれた「翻訳」という新た
な表現の時空、新たな表現の地平」へと、すなわち新旧両大陸にまたがる日本近代思想史の起源へとつながっていく。
《しかも折口の「産霊」は、その起源をたどってゆけば、平田篤胤の「産霊」にまで至る。篤胤は、キリスト教を消化し、「産霊」を中心とした宇宙生成論であ
る『霊能真柱[たまのみはしら]』(一八一三年刊)を完成した。篤胤の同時代人に、ボードレールやマラルメの詩的世界の源泉になったエドガー・アラン・
ポーがいる。ポーもまた、篤胤とほとんど同じヴィジョンを用いながら自身の特異な宇宙論である『ユリイカ』(一八四八年刊)を完成した。コレスポンダンス
とアナロジーの詩法の起源には、篤胤とポーの“宇宙”が存在していたのである。そこから西洋と東洋が「翻訳」によって混在する「迷宮と宇宙」の文学史がは
じまることになる。
折口の「産霊」において、大拙の「霊性」において、西田の「場所」において、一と多、外と内、超越と内在は矛盾しつつ一つに調停される。大拙の「霊性」
を媒介として、折口の「産霊」と西田の「場所」を一つに重ね合わせてみること。民俗学と哲学を通底させる宗教的思惟の原型を取り出すこと。それは近代日本
思想史が成立する過程そのものを捉え直すことを可能にするとともに、その到達点をも明らかにしてくれるであろう。》
文中の「コレスポンダンスとアナロジーの詩法」は、「詩人たちの王者」ボードレールによって導き出されたものだ。
本書の第一部「神秘の薔薇」は、スウェーデンボルグのコレスポンダンス(照応)とフーリエのアナロジー(類似)に始まり、ポー、ボードレール、ラン
ボー、マラルメ、さらにボルヘスを経て、ウィリアム・ジェイムズやパースによる「表現としての自然哲学」とイェイツによって完成されたオカルティズムとい
う二筋の流れの合流点に、日本近代思想史の起源を見定める。
そして、その到達点。「はじめに」に記された言葉によれば、それは、霊性と曼荼羅、場所と産霊という四つの概念が「一つの身体」へと集約されていくこと
である。それはまた、「霊性と場所に媒介されて可能になった産霊の身体、曼荼羅の身体」である。具体的には、折口信夫が『死者の書』に描いた両性具有の少
女であり、南方熊楠が『ロンドン抜書』のうちにその手記(後に、ミシェル・フーコーによって復刻される)を書き写したある両性具有者の身体であった。
あざといまでに華麗な大仕掛け。驚愕、驚嘆、驚倒すべき書物である。
【購入】
●真山仁『コラプティオ』(文藝春秋:2011.7.28)【¥1714】
質の高い政治小説を読みたいとずっと思っていた。海堂尊の『ナニワ・モンスター』が期待ハズレ(予告篇としてはそれなりによく出来ていたと思うけれど、
本当に読みたいのは本篇)だったので、あまり気を入れすぎないようにして読むことにした。
●若松英輔『井筒俊彦 叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会:2011.5.30)【¥3400】
最近、注目すべき「表現者」は誰かと考えてみると、安藤礼二(1967年生)と若松英輔(1968年生)、互盛央(1972年生)と佐々木中(1973
年生)の二組、四人の名が思い浮かぶ。若松氏の文章は、ネット(「井筒俊彦入門」)でしか読んだことがなかったので期待している。
●『新潮』1281号(2011年10月)【¥905】
丸谷才一八年振りの長篇小説「持ち重りする薔薇の花」(300枚)を読みたくて。若松英輔「震災と死者の詩学──小林秀雄からよしもとばななへ」と柄谷
行人「哲学の起源」第四回も読んでみたくて。
【読了】
●サイモン・ブラックバーン『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳,築地書館:2011.7.5)
読み物としては悪くないと思うが、「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感が感じられない。
●真山仁『コラプティオ』(文藝春秋:2011.7.28)
さすが真山仁。期待は裏切られなかった。
●安藤礼二『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社:2010.7.29)
刊行直後に購入したままになっていた。読み始めたら最後、何も手につかなくなるとわかっていたから自粛していた。なぜさっさと読まなかったのかと後悔し
ている。実に素晴らしい。
●川端康成『眠れる美女』(新潮文庫:1967)
●川端康成『みずうみ』(新潮文庫:1960)
大阪から1時間ほどかけて電車で自宅へ帰る。動く書斎。このところ『初期歌謡論』(吉本隆明)と『十六の話』(司馬遼太郎)を定番にしていたが、飽きて
きたので、前々から固め読みをしたかった川端作品に取り組むことにした。『眠れる美女』には同名の中篇と「片腕」「散りぬるを」の二つの短篇が収められて
いて、前二作は再読。『みずうみ』も途中まで読んでいたのを一気に最後まで読む。このテイストは予想以上に気に入った。
【半読了】
最後までまっとうしていない本。けれども放棄したわけではない本。かといってこれから先しばらくは手にすることがないだろう本。一冊の本のうち、ある特
定の文章だけを読んだもの。それに、図書館から貸し出しを受けて(あるいは、購入してから)数日、ためつすがめつ眺めては拾い読みをし、また抜き書きなど
した本。その他、一応の決着をつけた本(あるいは、そもそも「読了」することのない本)を「半読了」本として、思いついたときに記録しておくことにした。
●井筒俊彦『読むと書く──井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会:2009.10.26)
解題「詩と哲学の間──井筒俊彦の境涯」に、編者の若松英輔氏は、「デカルトやパスカルがその代表的命題とともに記憶されるように、もしも井筒俊彦を象
徴する一語なれば、私は迷わずにこの一節を挙げたい。」と書いている。井筒俊彦の哲学を代表する「この一節」とは、講演録「言語哲学としての真言」で空海
を論じつつ井筒俊彦がいった「存在はコトバである」。
●互盛央『フェルディナン・ド・ソシュール──〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社:2009.7.8)
昨年、『エスの系譜──沈黙の西洋思想史』を読んだときから、いつかこの大著に触れてみたい(読んでみたい、のではなく)と思っていた。春先から何度
か、いきつけの図書館から貸し出しを受け、読むともなく眺めている。手にとっては、上下二段組、六百頁をゆうに超える書物の重みを確かめている。
(想い起こせば、去年の暮れ、『エスの系譜』と、佐々木中著『切りとれ、あの祈る手を──〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』と、中井久夫著『私の日本
語雑記』をほぼ同時進行的に読み進め、意味的符合、語彙的符合、構造的符合、その他諸々の符合を通じてこれらの書物が相互に響き合っていたことに驚きかつ
興奮した。その幾つかは手帳に書きとめておいたのだが、残念なことに、いまになって読み返してみると、そのほとんどが判じ物めいていて理解できない。
さらに想い起こせば、昨年は、これら以外にも、たとえば中村明一著『倍音──音・ことば・身体の文化誌』ほか、たくさんの書物にめぐり合えたはずなの
に、「書評」はおろか抜き書きやメモの類もほとんど残していない。読むためには書かなければならない。だから、それらの書物はいまだに読み終えた気がしな
い。死に臨んで「生きた気がしない」というのと、それは同じことではないかと思う。)
●C・G・ユング『クンダリニー・ヨーガの心理学』(S・シャムダサーニ編,老松克博訳,創元社:2004.10.20)
『ユング的悩み解消術』(老松克博)に紹介されていた。一度手にとって概観しておきたかった。1932年の10月から11月にかけて、4回にかけて行わ
れたセミナーの記録。
老松氏の解説「分析心理学におけるクンダリニー・ヨーガの意義」に、ユングの心理学は「サトル・ボディの心理学」であると書いてある。「サトル・ボ
ディ」とは、五感で触知できる「グロス・ボディ(粗大身)」に対して、「見えない、もうひとつの体」である「微細身[みさいしん]」を意味する。インドに
おけるサトル・ボディの伝統がクンダリニー・ヨーガであり、中国におけるそれが道教の煉丹術であったように、(ユングが熱心に研究した)西洋の錬金術も
「サトル・ボディという元型的観念の広がりのなかの一部」である。
《ユングは西洋の錬金術を熱心に研究し、『心理学と錬金術』では、錬金術が錬金術師の心の変容(個性化)の過程を物質の変容の過程に投影したものであった
ことを明らかにしている。
いや、もう一歩、踏み込んで言うとしたら、こうでなければならないはずである。ユングは物質に投影された心を研究したと言うよりも、心とも体(物質)と
もつかぬ領域、あるいは心でも体でもある領域を探究したのだ、と。ユングはこうした領域を、類心的無意識、身体的無意識などと呼ぶ。これは、イマジネー
ションでできた体としてのサトル・ボディに重なる概念である。》(13頁)
《かくして、クンダリニー・ヨーガは、サトル・ボディという元型的観念の広がりのなかの一部として捉えられなくてはならない。インド的な脚色にいたずらに
幻惑されずに、より普遍的な次元でその本質を見ていく必要がある。当然ながら、私たちは、日本文化のなかにあるサトル・ボディ探究の伝統も視野に入れてお
くべきだろう。ここではわずかなヒントしか述べられないが、たとえば、クンダリニー・ヨーガと同じ流れに属するタントラ仏教(真言宗、天台宗)はサトル・
ボディと直接的なつながりを持っていることになるし、禅や武術の修業、能、茶道などの技法もこれと無関係ではあるまい。》(13-14頁)
【ブログ】
★9月11日(日):腐敗しているのは誰なのか──真山仁『コラプティオ』
真山仁著『コラプティオ』(文藝春秋、2011年7月)読了。
質の高い政治小説を読みたいと思っていた。
海堂尊著『ナニワ・モンスター』が期待ハズレ(予告篇としてはそれなりによく出来ていたと思うけれど、本当に読みたいのは本篇)だったので、あまり気を
入れすぎないようにして読むことにした。
さすが真山仁。期待は裏切られなかった。
この作品は様々な切り口で読むことができる。
たとえば、天才的政治家・宮藤隼人を中心に相対峙する二人の元同級生、つまり政治学者にして若き官邸スタッフ・白石望と経済部記者・神林裕太が、それぞ
れ首席秘書官・田坂義崇と社会部の看板記者・東條謙介という手厳しい「師」との軋轢や試練を経て、やがて宮藤を乗り越えていく一種の「成長小説」として。
本作にもし続篇があるとすれば、それは(田坂によって帝王学をたたきこまれ)宮藤の後継者となった白石と、東條に続く看板記者となった神林との、政治と
いう場面における正義や愛をめぐる確執の物語となっていくだろう。
(「愛」と書いたのはいうまでもなく男女の恋愛・性愛のこと。本書の序章に登場した人物のなかで唯一、テレビ局の政治記者・澤地遼子の物語だけが充分に展
開されていない。この女性が続篇では白石と神林に、もしかすると宮藤にまで深くからんでいくのではないかと期待している。)
白石の政治学者としての専門は「政治への無関心と衆愚政治(ポピュリズム)」。これに第四の権力としてのマス・メディアの政治的機能の問題を組みあわせ
てみる。
そうすると、カリスマ的政治家の功罪や政治における正義という政治学的論点(独裁者の誕生を阻止するために白石と田坂、神林がとった手段に正義はある
か、彼らの行為こそが民主主義政体における最大の「コラプティオ」すなわち政治的腐敗なのではないか)、そして何よりも現代日本政治の停滞に責任をもつべ
きは本当は誰なのか(それは政治家自身であり、それ以上にマスメディアであり、そして何よりも国民自身なのではないか)といった問題を鋭く指摘し告発する
作品として読むことができる。
いま二つの切り口をあげた。だが、それらが小説を読む醍醐味へとつながっていくためには、まず宮藤隼人の物語がしっかりと書きこまれていなければならな
い。
東北大震災以後の政治のリアリズムに即しながら、政治家・宮藤がなしたことを克明に描き、とりわけ原子力を含めたエネルギー政策やアフリカ外交をめぐる
「情報」を豊富に提供すること。
(『ハゲタカ』や『マグマ』の作者ならできる。それも第一級の仕事が。)
白石と神林の物語に先行して、宮藤の視点に立った物語が必要だったのではないか。続篇ではない前篇が。
それほどの分量がなければ、ギリシャ悲劇かシェイクスピアに匹敵する「コラプティオ」の悲劇は描ききれなかったのではないかと思う。もっと傑作になった
はずなのに惜しい。
★9月17日(土):音楽をつくりあげること──『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』
サイモン・ブラックバーン著『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳、築地書館、2011年7月)読了。
「本書は、ニューヨーク公共図書館とオックスフォード大学出版局によるキリスト教「7つの大罪」についての講演企画のうち、『色欲』の翻訳版である。」
そういう出自ゆえか、この本の著者には「色欲(lust)」を哲学の問題として論じる内的必然性や切迫感が感じられない。
読み物としては悪くないと思うが、いかにも気の利いた言い回しや素材(引用や話題)の切り出し方がときに鼻につく。邦訳のタイトルが軽いし、内容と合っ
ていない。
それでも第10章「ホッブスと快感のシンフォニー」(と、これに続く第11章「カントとフロイト」)は面白かった。
とくに(カントと対照的な)「ホッブスの和合」の話題(性の快感には、他者を喜ばせることから得る喜びや快感という精神の喜びが含まれている云々)を経
て、トマス・ネーゲルの引用(相手に感じとられているということが感じとられ、それが感じとられたということがまた感じとられる、そうした相互作用を通じ
てパートナーがより一層自分のものになっていく云々──『コウモリであるとはどのようなことか』に収められた「性的倒錯」からの引用:邦訳78頁)へとす
すむあたり。
そうして「神との交感や他者との一体感が、なぜエクスタシーになるのか」をホッブス的観点から論じていくところが印象深い。
「これは、すばらしい音楽をつくり上げることと似ている。弦楽四重奏が最終小節に近づいてくると、演奏者たちはたがいの演奏に呼応し合い、ごくごく微妙に
調整しながら全体として音楽を奏でる。演奏が終わったとき、一体感をおぼえたとしても不思議はない。」
圧巻は、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』「13 ナウシカア」からのエピソードの紹介。
レオポルト・ブルームとガーディ・マクダウェルが浜辺で目を見交わし、おたがいに相手が興奮していることを感じ取って、自分でクライマックスに達する場
面をめぐって、「クリントン元大統領は違うと言うかもしれないが、わたしならばブルームとガーディはこのとき性交していた、と言いたい」。
我ながら褒めているのか貶しているのかよく判らない。
恋愛や性愛をめぐる哲学の書、それも古代ギリシャの自然哲学者からレヴィナス、ラカン等々に至る西欧の系譜にもとづくものだけではなくて、たとえば、永
井均の「独在性の〈私〉」を踏まえたもの、あるいは、井筒俊彦がいう「古今、新古今の思想的構造の意味論的研究」を踏まえたもの、そんな書物を読んでみた
い。
★9月18日(日):存在の感じ方、男と女がどのように感じあえるか
昨日の話題、恋愛や性愛をめぐる哲学の書をめぐって。
松岡正剛さんが、千夜千冊の第九百十六夜[http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0916.html]で、ハイ
デガーの『存在と時間』という「とてつもなく難解な哲学書を柔らかく」するために、「女の話」をもちだしている。
「およそ世界に存在しないものなんてないはずだ。宇宙も杉も、ライオンも病原菌も、人間も書物もテーブルも、存在しているのは当たり前である。そんなこと
をわざわざ考えに考えて哲学にするには、世の中の存在というものをいったん否定するか、それとは逆に、まるごと許容する以外はなく、いずれにしても、存在
の発現が存在の終焉に触れあいながら存在しているのだということを、自分という存在を賭けて感じる必要がある。
このことを実感できる最も身近なことは、むろん虫や星や音楽に夢中になってもいいのだが、時期によっては男と女がどのように感じあえるかということが、
最もセンシティブである。とくに若いあいだは、このことに勝る存在の感じ方はない。それで女の話なのである。いや、男の話でもかまわない。」
松岡正剛さんがいう「女の話」とは、ハンナ・アレントのことだ。
「ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど、アレントの魅力が飛び抜けすぎていた。ハイデガーはアレントを、アレントはハイデガーを求めあった。むろ
ん不倫だった。」
「ハイデガーはアレントにぞっこんになった。その数年後、『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば、アレントを貪りながら草稿を書いていたと
いったほうがいい。」
「ハイデガーがアレントと不倫関係になったことと『存在と時間』が関係ありそうな書きっぷりをしたかもしれないが、まさにその通り。おそらく深い関係があ
る。互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい。そのことを証明する気はないが、そんなことはすぐに見当がつくことだ。最近では、やっと刊行された二
人の書簡集がそれを証している。」
「ハイデガーは『存在と時間』を書く前に、すなわちハンナ・アレントと密(蜜?)になっていたころ、『仮面論』『根拠とは何か』を書いて、そこで「世界と
いうものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ」と指摘していた。」
「ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間なのである。
ところで、このZeitlichkeitの“Zeitlich”というドイツ語には、そもそもが「はかない」とか「無常の」という意味をもっているとい
うことには、もうすこし注目が集まっていい。ぼくは『花鳥風月の科学』(淡交社)では、この“Zeitlich”を、万葉の歌から採って「まにまに」とし
たものだ。」
「ぼくはハンナ・アレントと燃えつつ綴った『存在と時間』のハイデガーの投企と放下にこそ、あいかわらず関心を寄せている。」
以上、松岡正剛さんがいう「女の話」に関連する箇所を抜き出してみた。
一部関係のないものも含まれているが、それにしても、「アレントを貪りながら草稿を書いていた」とか、「互いに濡れながら、互いに哲学したといってよ
い」とか、「ハンナ・アレントと燃えつつ綴った」とか、ずいぶん過激な表現がちりばめられている。
近いうちに、『アーレント=ハイデガー往復書簡』を手にとってみようと思った。
★9月30日(金):「表現」としての近代日本思想史──安藤礼二『場所と産霊』
安藤礼二著『場所と産霊 近代日本思想史』(講談社、2010年7月)読了。
素晴らしい。実に、素晴らしい。
一昨年、『光の曼荼羅 日本文学論』に接して驚愕し、『神々の闘争 折口信夫論』を読み返しては驚嘆し、さらに雑誌掲載の「霊獣」を耽読して驚倒し、
『近代論』を齧りかけたところで(消化不良を起こして)中断していた。
『場所と産霊』も昨年、刊行直後に購入しそのままになっていた。読み始めたら最後、何も手につかなくなるとわかっていたから自粛していた。
今は、なぜさっさと読んでおかなかったのかと後悔している。自粛などと小賢しく考えずに。そうすれば、再読、三読の愉悦を味わえただろうに。
※
この書物を要約することなどできない。
手短に概略を解説することはできたとしても、長篇小説の登場人物とその関係と粗筋を述べるようなもので、そんなことに意味はない。
まったく意味がないわけでもないだろうが、粗筋や解説を読むことと読書そのものとはまったく異なる種類の経験である。
そもそも誰が探偵小説の筋と結末を知りたいと思うか。誰が詩の要約など読みたいと思うか。
要約できない論考などないのだから、この書物は論考ではない。それは論考、評論のかたちをとった「表現」である。
いいかえれば言語による芸術作品、すなわち小説。「はじめに」で著者自身が使った言葉でいえば、「フィクション」として再構築された歴史なのだ。
テーマは、書名のうちに端的に示されている。
西田幾多郎の「場所の哲学」と折口信夫の「産霊(ムスビ)の神学」。この二つのものが、著者によって一つに調停される。
以下、粗筋ではなく生きた文章(第八章「場所と産霊」)からの抜き書きで、そのプロセスを垣間見てみる。
《その類似[西田と折口の生涯の軌跡と思想形成の在り方、その可能生と不可能性までも含めた類似]は、彼らがともに学問の究極の目標として定めた「神」の
問題においても、またその「神」に近づいてゆくための独特の方法においても、顕著なものがある。西田も折口も、いまここに存在する自分が、その存在のある
がまま、つまりは有限の精神と身体をもったまま、超越の時空と、すなわち無限の「神」と合一できることを願ったのである。そのためには、私(個=多様なも
の)と神(普遍=一なるもの)が、それぞれ接近し合い、同一の地平を占めなければならなかった。自己と他者、私と神、多と一、個と普遍──それら、根源的
に対立する二つの極が、共通の場をもつこと。そして、そこに一元的な領野が開かれること。西田も折口も、哲学と民俗学において、ただそのことだけを追求し
ていたのだ。
そのような一元的な地平で、対立する二つの項を一つにつなぐもの。自らの心の奥底に存在する内在の場と、神という超越の場を一つにつなぐもの。それさえ
も、この二人は共有してもっていた。西田にとっても折口にとっても、二項対立を徹底して無化してしまうものとは、なによりも言語だった。直接性の言語、表
現性の言語、個と普遍を相互に矛盾するまま一つにつなぐ言語。西田の哲学も折口の民俗学も、この特異な言語をめぐって組織された表現についての学だっ
た。》(195-6頁)
西田と折口のあいだに切り開かれた一元的な地平。
それは同時に、個と普遍を一つにつなぐ表現性の言語、「純粋言語」(209頁)のフィールドである。
また、鈴木大拙の「霊性」と南方熊楠の「曼荼羅」とが偶然かつ必然の出会いを果たす場所であり、そこから、近代日本思想における「真に独創的な表現の系
譜」(117頁)が生みだされてくる。
さらには、「フランスとアメリカの間に切り開かれた「翻訳」という新たな表現の時空、新たな表現の地平」(30頁)へと、すなわち新旧両大陸にまたがる
日本近代思想史の起源へとつながっていく。
《しかも折口の「産霊」は、その起源をたどってゆけば、平田篤胤の「産霊」にまで至る。篤胤は、キリスト教を消化し、「産霊」を中心とした宇宙生成論であ
る『霊能真柱[たまのみはしら]』(一八一三年刊)を完成した。篤胤の同時代人に、ボードレールやマラルメの詩的世界の源泉になったエドガー・アラン・
ポーがいる。ポーもまた、篤胤とほとんど同じヴィジョンを用いながら自身の特異な宇宙論である『ユリイカ』(一八四八年刊)を完成した。コレスポンダンス
とアナロジーの詩法の起源には、篤胤とポーの“宇宙”が存在していたのである。そこから西洋と東洋が「翻訳」によって混在する「迷宮と宇宙」の文学史がは
じまることになる。
折口の「産霊」において、大拙の「霊性」において、西田の「場所」において、一と多、外と内、超越と内在は矛盾しつつ一つに調停される。大拙の「霊性」
を媒介として、折口の「産霊」と西田の「場所」を一つに重ね合わせてみること。民俗学と哲学を通底させる宗教的思惟の原型を取り出すこと。それは近代日本
思想史が成立する過程そのものを捉え直すことを可能にするとともに、その到達点をも明らかにしてくれるであろう。》(194頁)
文中の「コレスポンダンスとアナロジーの詩法」は、「詩人たちの王者」ボードレールによって導き出されたものだ。
本書の第一部「神秘の薔薇」は、エマヌエル・スウェーデンボルグのコレスポンダンス(照応)とシャルル・フーリエのアナロジー(類似)に始まり、エド
ガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アルチュール・ランボー、ステファヌ・マラルメ、さらにホルヘ・ルイス・ボルヘスを経て、ウィリアム・ジェ
イムズやチャールズ・サンダー・パースによる「表現としての自然哲学」(94頁)とウィリアム・バトラー・イェイツによって完成されたオカルティズムとい
う二筋の流れの合流点に、日本近代思想史の起源を見定める。
そして、その到達点。「はじめに」に記された言葉によれば、それは、霊性と曼荼羅、場所と産霊という四つの概念が「一つの身体」へと集約されていくこと
である。
それはまた、「霊性と場所に媒介されて可能になった産霊の身体、曼荼羅の身体」(210頁)である。
具体的には、折口信夫が『死者の書』に描いた両性具有の少女であり、南方熊楠が『ロンドン抜書』のうちにその手記(後に、ミシェル・フーコーによって復
刻される)を書き写したある両性具有者の身体である。
このあたりにくると、もう何がなんだか判らなくなる。だから、この書物を要約することなどできない。
※
著者は「はじめに」で、本書は、「近代日本思想史をあくまで「表現」の問題から論じ、本書自体もまた一つの「表現」たらんとしている」と書いている。
また「後記」には、次のように書かれている。
《言語表現の基本構造であると思われる類似[アナロジー]と照応[コレスポンダンス]にとり憑かれてしまった表現者たちを、まさにその類似によって一つの
場所に集め、相互に照応する関係のもとに語っていく。その結果、歴史のなかで可能になりながらも、歴史を乗り越えていくような類似と照応による表現の地平
を抽出できたら……。それが本書にかけられたものである。しかしながら、自分にとってまったく未知の試みであった第一部を受けた第二部「霊性と曼荼羅」
は、できるだけ新たな知見を盛り込みながらも、どうしてもある部分は、これまでの著作でとり上げた人物と作品を再登場させ、異なった視点から再構成すると
いうことになってしまった。霊性と曼荼羅を現代に甦らせた鈴木大拙と南方熊楠、そこから場所と産霊という理念を導き出した西田幾多郎と折口信夫という四人
の営為に寄り添っていくことが、私にとって生涯のテーマとなるのであろう。》