不連続な読書日記(2011.06-08)



【購入】

●中島義道『観念的生活』(文春文庫:2011.5.10/2007)【¥552】
 「本書は、中島義道の数多くの書物のうちでも、独自の哲学的思索者としての彼の本領が遺憾なく発揮された、おそらくは最高傑作だろうと思う。」と、永井 均が解説を書いていたので。

●岡ノ谷一夫『さえずり言語起源論──新版 小鳥の歌からヒトの言葉へ』(岩波科学ライブラリー:2010.11.25)【¥1200】
 小川洋子との対談『言葉の誕生を科学する』が面白かったので。

●佐々木中『定本 野戦と永遠──フーコー・ラカン・ルジャンドル』上下(河出文庫:2011.6.20/2008)【¥1400×2】
 昨年読んだ『切りとれ、あの祈る手を』が滅法面白かったので。

●内田樹×中沢新一×平川克美『大津波と原発』(朝日新聞出版:2011.5.30)【¥740】
 テーマよりも、内田樹と中沢新一の取り合わせに惹かれたので。この二人がタメとは知らなかった。

●海堂尊『ナニワ・モンスター』(新潮社:2011.4.20)【¥1600】
 中沢新一が『週刊ポスト』に「アースダイバー」大阪篇を連載していて、時折眺めている。司馬遼太郎の『十六の話』に収められた「大阪の原形」ほかの読み 物が面白い。で、「ナニワ」の文字に惹かれた。

●大沢在昌『新宿鮫] 絆回廊』(光文社:2011.6.10)【¥1600】
 五年ぶりの新作。餓えていた。

●東野圭吾『天空の蜂』(講談社文庫:1998.11.15/1995)【¥838】
 ある人が面白いといっていたので。

●熊倉千之『日本語の深層──〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』(筑摩選書:2011.7.15)【¥1600】
 貫之論の次の展開のための基礎文献として。そういえば、この2月に同名の本(木村紀子『日本語の深層──ことばの由来、心身のむかし』平凡社新書)を 買った。

●丸谷才一『樹液そして果実』(集英社:2011.7.10)【¥1714】
 「ジョイス、源氏物語、そして金屏風」「時代と国を超えた高級でスリリングな思考の軌跡。25年ぶり、待望の本格的文藝評論集。」この謳い文句と、なに よりもタイトルに惹かれて。

●向田邦子『隣の女』(文春文庫:2010.11.10)【¥495】
 橋本治の短編集を読みたくなり、近くの本屋で探してもみつからず、そうこうしているうちに。

●別冊水声通信『坂部恵──精神史の水脈を汲む』(水声社:2011.6.30)【¥2800】
 巻頭に坂部恵の遺稿の一部が掲載されている。近く刊行されるらしい。

●A・D・カラー『すべては雪に消える』(北野寿美枝訳,ハヤカワ文庫:2011.7.25)【¥740】
 「極上のサスペンス小説」それも海外の新作が読みたくなって。

●老松克博『ユング的悩み解消術──実践! モバイル・イマジネーション』(平凡社新書:2011.8.10)【¥760】
 衝動買いで読みたくなって。

●C.G.ユング『創造する無意識──ユングの文芸論』(松代洋一訳,平凡社ライブラリー:1996.3.15)【¥738】
 老松本がけっこう面白かったので。

●成瀬雅春『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック』(マキノ出版:2010.11.25)【¥1429】
 老松本にクンダリニー・ヨーガがとりあげられていて、いたく関心を惹かれた。クンダリニーの覚醒・上昇・昇華を検索していて、この本のことを知った。 「内田樹さん推薦!」と帯にあった。(個人的な備忘録:無尽の会の面々と、明石のチーロで会合をもった夜、先に明石駅に着いてジュンク堂で捜して買っ た。)

●サイモン・ブラックバーン『哲人たちはいかにして色欲と闘ってきたのか』(屋代通子訳,築地書館:2011.7.5)【¥1500】
 原題は‘Lust The Seven Deadly Sins’。(個人的な備忘録:永井均さんが大阪の朝日カルチャーセンターで講義をするので出かけることにした。その前夜、川上未映子の対談集『六つの星 星』を買いたいと思い書店に立ち寄りながらも、なぜか本書が眼にとまり衝動買い。発行日が誕生日と同じだったことが決めてだったかもしれない。)


【読了】

●水野敬也『「美女と野獣」の野獣になる方法』(文春文庫:2010.10.10)
 滅法、面白い。

●小川洋子・岡ノ谷一夫『言葉の誕生を科学する』(河出ブックス:2011.4.30)
 岡ノ谷一夫の言葉──「無意味な行動が異性の評価を受け、それが美的評価になり、そして美が独立したものが芸術だと思う」「意味がなくとも複雑であるこ とに意義がある文脈っていうのは求愛しかない」「天敵がいないと、強さを示すよりも、美意識を示す方向に行くんです」「むしろ言葉は情動を乗せない道具と して進化してきたんじゃないか」、「自己意識っていうのは進化の産物ではなく、他の適応的な過程の副産物ではないか」「言葉を持たないものの世界では、時 間の流れは圧縮されている」
 小川洋子の言葉──「音楽や動物の歌のような、特定の意味のないところでこそ形式が複雑化して文法は進化できるということですよね」「死の恐怖を受け入 れるために物語を必要とする。それこそまさに物語の起源ですね」「小説の終わりは、一つの世界の終わりですよね。小説は常に死者について語っているもので す」「小説を読むことは、死者と会話することですから」「言葉の芸術表現とは過去と未来の自由な往復運動ですよね」「物語りも、心も、時間も、人間にとっ てなくてはならないものすべて、言葉が土台となって生まれた」
 読み終えて数ヶ月経って、鉛筆で線を引いた箇所を任意に書き抜いていくうち、これはとんでもない本だったのだと気づく。平安貴族の和歌による求愛(言語 能力の争い)の話もよかった。小川洋子の巻末の文章はとりわけ素晴らしい。「だから、考えている間、人は孤独ではないのだ。」

●内田樹×中沢新一×平川克美『大津波と原発』(朝日新聞出版:2011.5.30)
 中沢新一が「緑の党」みたいなものをたちあげるらしいこととか、原発を神学問題として論じる中沢節が冴えていることとか、読み所はたくさんあって、最後 に、「今回の原発事故の根本のところにあるのは、現代日本人の「霊的な力」に対する畏怖の念の欠如ではないか」と内田節が炸裂する。

●山折哲雄『愛欲の精神史3 王朝のエロス』(角川ソフィア文庫:2010.3.25)
 昨年3月に第1巻を読み始めて、ようやく全編を読み終えた。

●佐々木中『定本 野戦と永遠──フーコー・ラカン・ルジャンドル』上下(河出文庫:2011.6.20/2008)
 思索の息遣いと身体の生理と感情の奔流が渾然一体となった新しい饒舌体。

●海堂尊『ナニワ・モンスター』(新潮社:2011.4.20)
 これから始まる心躍る長い物語の予告編。s

●東野圭吾『天空の蜂』(講談社文庫:1998.11.15/1995)
 ひさかたぶりの一気読み。面白かった。

●大沢在昌『新宿鮫] 絆回廊』(光文社:2011.6.10)
 毎日新聞で丸谷才一が書評を書いていた。作者だから何をやってもいいわけではないと怒っていた。同感。

●村上龍『心はあなたのもとに “I'll aiways be with you,aiways”』(文藝春秋:2011.3.25)
 読み終えるのに3ヶ月かかった。どうしてこれほどの長さが必要だったのだろう。なぜ絵文字入りのメール文を挿入する必要があったのだろう。途中、少しダ レた。読書を再開して後半にすすむと、最初から明かされていた結末に向かって、「わたし」の自問自答の苦しさと、香奈子の孤独(「お願いです、電話をもら えませんか」)が迫り、切なく息が詰まった。香奈子が消えたあとの世界の手触りを伝えるために、あの大量のメールの文字列が記録されていたのだと納得し た。

●向田邦子『隣の女』(文春文庫:2010.11.10)
 この春先に絲山秋子の凄さを「発見」した。向田邦子の凄さはその上をいく。

●A・D・カラー『すべては雪に消える』(北野寿美枝訳,ハヤカワ文庫:2011.7.25)
 途中でなんども投げ出したくなった。青汁を飲むようにして無理やり読み終えた。

●吉本隆明『初期歌謡論』(ちくま学芸文庫:1994.6.7)
 再読。吉本隆明の文体がしだいに身にしみこんでくる。

●永井均『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店:2007.11.6)
 再読。永井さんの講義を聴くまでに『〈私〉の哲学を哲学する』を通読しておこうと思って、ほぼ一年ぶりに読み始めたらとても手に負えなかった。書いてあ ることはよく理解できる(と思う)のだけれど、まるで実感が伴わない。意識なき自己意識が跋扈して、自己意識なき意識が行方不明になっている。そこでおお もとの議論が展開されている本書を一日がかりで通読して、永井ワールドに浸ろうと思った。

●老松克博『ユング的悩み解消術──実践! モバイル・イマジネーション』(平凡社新書:2011.8.10)
●C.G.ユング『創造する無意識──ユングの文芸論』(松代洋一訳,平凡社ライブラリー:1996.3.15)
●成瀬雅春『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック』(マキノ出版:2010.11.25)
 アクティヴ・イマジネーション──「ユング派最強のツール」と呼ばれる意識と無意識との交信(コミュニケーション)のためのイメージ技法(モバイル・イ マジネーションはその簡略版)──を「実践」しているうち、クンダリニー・ヨーガに導かれていった。


【ブログ】

★8月6日(土):坂部恵の美学講義(1)

 別冊水声通信が創刊された。(「ムック形式で1テーマを掘り下げる新たな論集」)
 第一回が『坂部恵──精神史の水脈を汲む』。冒頭に、坂部恵の遺稿の一部が掲載されている。全二十一講からなる『美学講義──霊的美の系譜』(仮題)の 第一講。
 通読して、次の二つの断片を記憶することにした。

《リベラル・アーツという共通の根から、(ファイン・)アートもサイエンスも生まれた。》

《美学を含めた現代の人文諸学でも、レトリックの復権の動きが一九六○年代このかた、いちじるしい。ニュートン物理学を典型とする厳密学のモデルが相対化 され、生きてはたらく言語や生活世界への関心が高まる機運と大幅に連動する動きである。》

 解題(黒崎政男)に、この美学講義は『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』と対をなす仕事であると言える、とある。(個人的述懐。 私が坂部恵にいれこむきっかけになったのが、この『精神史入門』だった。)
 また、「論文体とアフォリズムの中間的表現」で書かれた本稿は、メルロ=ポンティの遺稿『見えるものと見えざるもの』を髣髴とさせる、とも。
 水声社から近刊予定とのこと。「世阿弥と日本中世の芸術論」や「武満徹の音楽論」などの話題もとりあげられているという。

★8月7日(日):不在の主体=主語──坂部恵の美学講義(2)

 美学講義・第一講に、2001年、幕張で開催されたアジア初の世界美学会大会での挿話が紹介されている。
「インドの女性美学者は、私たちは美術館に展示された芸術などという概念はもたない、といった。非西洋文化圏からの挑戦的な言辞である。」
 
 その大会に際して日本美学に関するシンポジウムが行われ、コーディネーターの求めに応じて坂部恵が発表原稿を書いている。
 英語で書かれた論考のタイトルは、「不在の主体/主語と批評の不在」(“Subject of the Absence and Absence of the Critique ”)。
 コーディネーターは佐々木健一氏で、求められたテーマは日本文化の「いま・ここ」的性格。
 以下は、その佐々木氏による要約。(『坂部恵──精神史の水脈を汲む』に収録された「民間語源でも何でも……」から)

《そこで、その概略を紹介することにしよう。──出発点は、日本語の命題の特徴である。すなわち、多くの場合主語が明示されず、述語だけで構成される、と いう特徴である。その文は、不在の主語のところに、状況に応じて様々な主語を入れてみることが可能で(西田の「無の場所」)、日常言語が既に隠喩的な構造 をもっている(ここで言う「隠喩」とは、等価なものの重ねあわせ、というヤコブソン的な意味でのそれ)。これに対応する性格が伝統的な日本文化のなかに見 出される。まずは、主体=主語の欠如に対応して集団的な創造のかたちがあり(連歌)、そこでは個々の主体が消え、いわば無名の大文字の主体が支配する。つ いで「ミメーシス的」性格が指摘される。典型は折口の論じた「もどき」だが(『鏡のなかの日本語』に「〈もどき〉」が収録されている)、これと言語の構造 との関係は語られていない。この性格は、能や特に狂言のような演藝に顕著だが、「ふるまい」(もちろん『〈ふるまい〉の詩学』の原点)や「まねび」という 哲学的に枢要な概念に通じている。第三が隠喩的表現の優越で、短歌や俳句のような極端な短詩が当然に帯びてくる性格で、かつ墨絵が彩色画以上に色彩的であ る、という事実のなかにも認められる。最後の特徴は閉鎖的な社会システムで、藝道における秘伝や相伝のかたちをとった藝の伝承、歌舞伎における襲名の事実 が参照される。この主語(=主体)的に開き、述語的に閉じた制度は、よく機能している場合には高度の創造性の土壌となりうる。》

★8月11日(木):批評の不在──坂部恵の美学講義(3)

 坂部恵の日本文化論「不在の主体/主語と批評の不在」の概略紹介の後段。昨日引用した佐々木健一氏の文章の続き。

《この文化の特徴は、批評(批判的活動)に対しても次のような影響を及ぼす。先ず、藝道の諸分野で、その初期には傑出した批評が生れる(定家、世阿弥、心 敬、芭蕉)。しかし、その教えは直に悪しき意味での collectivism に堕してしまう。また、これらの人びとが傑出した創作家でもありえたのは、ひとつの謎である。「ミメーシス的」性格では、当初強い批評的な力をもっていた 「もどき」も定型化してその力を喪い、国学も(まねびを通して)国粋主義へと退化する。また、例えば世阿弥の批評における「はな」や「幽玄」などの隠喩的 なキー概念は、当初批判的な意味をもっていたが、直にステレオタイプ化し、批評自体も藝談に堕する。そして最後に、「述語的に閉じた社会システム」のなか では、公共の基準が成立しにくい、ということがあり、その状況は近代においても続いている。
 最後に、これらの考察に基づいて、坂部さんは日本における藝術創作と批評の可能性について「ペシミスティック」な見解を示したうえで、つぎのような「マ クシム」を以てこの発表もしくはエッセイを閉じている。すなわち、「怖れずに他の述語的場に侵入せよ、このプロセスにおいて空(vacant)となること を怖れるな、自ら不在の主体となり、根を喪うことを怖れるな」。》

 最後の「マクシム」「教え」について、佐々木氏は「何やら哲学的遺言めいて聞こえる結びである」と書いている。

★8月14日(日):私が死んだら世界が消える

 週刊現代(8月6日)の「日本一の書評」に、中島義道著『明るいニヒリズム』をめぐる著者インタビューが掲載されていた。

 現在の風景に過去の意味を付与するのは自分だから、自分がいなくなれば過去の世界はなくなる、とあります。これは「自分が死んだら世界は消える」という ことでしょうか。──この質問に答えて。

《私が死んでも、世界から見れば、私が消えただけの話です。ただ、裏を返せば、「私から見て世界がなくなる」ということでもある。私にとっては「私が死ん だとき世界が消える」と言っていいのかもしれません。このあたりは、もっとよく考えねばなりませんが。》

 文春文庫版『観念的生活』に、2011年2月28日と日付けのついた「観念的生活、その後」が収録されていて、その冒頭が『明るいニヒリズム』につな がっている。

《それは徐々に訪れて来た。そして、今年の初めに雪崩のように一挙に私を襲った。「それ」とは、この世界は、本当は「無い」ということである。》

★8月29日(月):語りえぬこととしての存在──永井均の講演(1)

 大阪中之島の朝日カルチャーセンターで、永井均さんの講座[http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp? CNO=124131&userflg=0]を聴いた。
 8月27日の土曜日、午後3時半から5時過ぎまで。ちょうど大阪が激しい雨(気象庁の発表では、午後4時過ぎまでの1時間で史上最多の77.5ミリ)に 襲われていたときのこと。
 雨音、落雷の音、救急車の音がひっきりなしに聴こえるなか、百人足らず(だったと思う)の聴衆を前に、永井哲学が「上演」された。
 演題は「語りえぬこととしての存在」。以下は、パンフレットに記載されていた「講座内容」から。

《ウィトゲンシュタインは「語りえぬことについては沈黙しなければならない」と言った。しかし、その「語りえぬこと」とは何であろうか?私は、それは「存 在」である、と考えてみたいと思う。この考えは、ウィトゲンシュタイン解釈としても成り立ちうるが、逆にウィトゲンシュタイン批判としても成り立ちうる。 存在することは言葉で語ることができない、このことを、私の存在、今の存在、世界の存在について(時間があれば神の存在についても)考えてみたい。》

★8月31日(水):哲学を伝えること──永井均の講演(2)

 前回、永井均さんの講演を「永井哲学の上演」と書いたことについて。

 『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」に書いてあったこと。
 2006年の夏、大阪大学文学部でおこなわれた講演の音声ファイルの入手先を紹介したあとで、「これは、役者がひどく下手くそである点を除けば、本書を 「台本」として読まれる方にとって、実演の見本として役立つでしょう。」
(このことは、以前、2007年11月25日[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20071125]に紹介した。)
 また、『西田幾多郎』の「はじめに」には、次のように書いてある。
 「解説書や入門書に意味があるのは、それがそこで独立に哲学をしている場合だけだと思う。それ以外の仕方で、哲学を伝えることはできないからである。」

 記録的豪雨のなか、大阪の中之島で永井均さんは、(何やら書いてあるらしい紙片をときおりのぞきながら)、永井哲学への「入門」もしくは「解説」を実演 していた。
 それはもう何度も繰り返された哲学議論だったろうし、(ホワイトボードに書かれた図を含めて)、永井均のそれなりに熱心な読者である私には馴染みの深い ものだった。
 そうであるにもかかわらず、それは、同じことが洗練されて、あるいは手抜きされて再演されたのではない。初めてそこに出現し、私が初めて耳にする哲学思 考だった。
 そういおうとおもえばいえる事態が、そのときそこに成り立っていた。
 実はそこからまったく新しい世界がひらけたのだが、しかしそのことを(そのような新しい現実の「存在」を)言葉で語ることはできない。
 いや、語ることはできるのだが、語ったとたん、それはこの、すでに成り立っていた私たちの現実世界のうちに回収されてしまって、初発に語ろうとしたこと は語りえない。
 そんなメカニズムが働いて、永井哲学の核心は、その場にいた聴衆に、いや、他人のことはよくわからないのでいわないことにして、少なくともこの私には、 確かに伝わった。
 と同時に、それは、洗練されたかたちであれ、手抜きされたかたちであれ、哲学者本人によって再演された、「永井哲学」というレディメードの哲学思考のう ちに回収されていった。

 何度でも初めて上演すること=再演されること。
 それが、独立に哲学すること(西田哲学から独立して永井さんが哲学することだけでなく、永井哲学から独立して永井さんが哲学することを含めて)の意味で あり、哲学を伝えること(永井哲学を永井さんが永井さんに伝えることを含めて)の意味なのかもしれない。
 「上演すること=再演されること」の前段を強調すると、あのとき、記録的豪雨のなかで、独立に哲学をしていたのは、永井均という人ではなくて、実はこの 私自身だったのかもしれない。
 それが、哲学が伝わるということの意味だったのかもしれない。