マダム・ヒヤシンスの手(未完)
      ─‘詩’物語の試み─


  1

 マダム・ヒヤシンスはぼくの視線を導く。あの麗しい森の中のカントへ。湿地にたてこもる馨しい獣の匂いの方へ。
 翳りの中に投げ出された下肢には、びっしりと見えない菌類がはりついているようだ。寡黙な自省と放縦な欲望とが奇妙に入り交じった静けさのうち にこれらの菌類は繁殖したに違いない。
 陽光にさらされた下腹部から二つの小丘へと向かう稜線の上で、微細な皮膚呼吸に感応して繊毛がキラキラと輝きながらたち騒いでいる。ぼくの視線 はいつもこの肥沃なロンバルデイアの平原地にはりついてしまう。何か名状し難い機構を宿した啓示的な曲線、ゲル化した膠質のしなやかな強情さを秘 めたマチエール、ぼく自身の情欲が封印され滾りつつ蒸留されるレトルト。ぼくは「魂の流動学」を専攻する学徒の謹厳さで顔のない塑像の量感をむさ ぼるのだ。

 ぼくは息をつめてマダムの首筋に唇をよせる。マダムは決して心を許さない。嘲りと慈愛とが矛盾することなくマダムの表情の中に溶け込んでいる。 ぼくは迷子のようにマダムの犯し難い領域の中を彷徨する。

  2

 思い出を語るように生きるのはお止めなさい。死んだ者の目で世の中を見ては駄目。反復を信じるのです。快楽は決してその場限りのものではありま せん。快楽が反復する時あなたの生が反復するの。けれどもそれは単なる繰り返しではないわ。

 マダム・ヒヤシンスの教えはいつも即物的だ。ぼくはマダムの冷たい手の愛撫のために息も絶え絶えになっている。 
 没薬の芳香を漂わせてアドニスに愛の技を教える女神のように、マダム・ヒヤシンスは執拗に言葉を重ねる。マダムの少しかすれた声の響きは、その 教えとともにぼくの魂の裸の皮膚をぞくぞくさせて消える。ぼくには言葉こそが、甘く冷酷な声こそが、快楽の泉なのだった。

  3

ウワウワウワウワウワウワウワ──ぼくが聖体を拝領したのは、夏の盛りのマダム・ヒヤシンスの部屋だった。神人融合の密儀のために編綴された茸職 人の百態図絵に読み耽っていたぼくは、あのマダム・ヒヤシンスの切ない吐息に失神したのだ!

  4

 マダム・ヒヤシンスの部屋は海の見える丘の中腹にひっそりと立つ洋館の一室にある。 その洋館はかつて外人逗留客専用のホテルだった。時代の流 れにすっかり取り残され廃屋同然に荒れていたのを某企業が買収して、迎賓館に改造した。だがその企業もほどなく業績が悪化した。迎賓館はある富豪 の手にわたり、別宅として使用されるようになった。そして富豪の死によって洋館は富豪の不肖の娘マダム・ヒヤシンスのものになったのだ。
 マダム・ヒヤシンスの部屋は海に面した広いテラスに続いている。海面に衝突して粉々に砕け散った日の光が、テラスと部屋を区切る一面のガラス窓 を貫いて到達する。ぼくの裸身にその光の一筋一筋が痛く突き刺さる。マダムに身動きを禁じられたぼくはしだいに高まる苦悶に表情を歪める。マダム は冷ややかに観察する。ぼくが萎えるとマダムは近づき冷たい手がぼくの下肢に触れる。ぼくは再びエレクトする。
 ぼくは常に観察されている。そのことがぼくの自意識を完璧に破壊する。ぼくの意識は殻を壊されて剥出しの不安に震えている。見えない緊縛にすが りついてかろうじて形を保っているが、どんなに微かな風のそよぎでさえそれを崩すことは可能だ。
 諸力の危うい均衡の上に形態を保っている陶器。マダム・ヒヤシンスの峻厳な眼と手によって撫で回され輝きを増す陶器。それがぼくなのだ。

  5

ラティフンディウム──ああ、この、なんと懐かしい、響きで、あることか。
ラティフンディウム──おまえの、端麗な音列の彼岸に、ぼくは、迷子となった、自分自身を、発見するのだ。
ラティフンディウム──いまや、ぼくは、細大洩らさず、記憶の淵から、掬い出したからには、おまえの、約束された身体を、貪り食らって、みたいも のだ。

  6

 クロエに声をかけられたときはぎょっとした。自涜の現場を人に見られたらそんな気持ちになったかもしれない。
 あの頃のぼくをくじけさせるものは何もなかった。ぼくはどんなことにでも、たとえば醜く太った矮人の女がふりまく媚態に鋭く感応することだって できたし、綱引きに興じる裸体の男達のきりきりと締まった尻を見て妖しいシチュエイションを想像することさえできたのだ。フリークスに虐げられ、 貴族の女達の慰み者にされる男奴隷とか。
 ぼくは手にしていた写真集をあわてて書店の棚に戻した。クロエはライの伝言を伝えると言った。

 ライはぼくと同い年の従兄でクラスメートだが一年の春休み前からずっと学校には顔を出していなかった。過激でエロティックな詩を学校新聞に発表 したことが問題になったからだというのが、まことしやかな長期欠席の理由だ。しかしライはそんなやわな男ではない。ライの詩を勝手に掲載したの は、その程度のことで事件を起こせると考えた馬鹿な上級生達だったのだ。ライはきっと何かに夢中になって学校どころではないのだろう。しばらく 会っていないので本当のところは分からない。

 おれは砂漠の遊牧民のせがれに生まれたかった、ベドウィンの羊飼い達が歌う歌をライというんだ、砂漠の夜火を囲んで誰かが即興で歌うと皆が合い の手を入れる「ヤー、ライ!」って、そんな情景がおれの原風景なのかも知れない。ライが中学生の頃そう言った。ゲンフーケイってなんだよ、難しい 言葉使ってカッコつけるなよ。

  7

 今度の週末遊びに来てよ。ライが久しぶりにあなたに逢いたがっているし、ママもその夜は家にいるから。
 直線的な黒い眉と意志的な唇を持ったクロエがぼく達と口をきくようになったのはわりに最近のことだ。
 クロエはぼく達より二つ若いがライ以上に徹底した例外者で、私立の女子中学校に在籍しているもののクラスに顔を出すのは年に数回だという。
 始めて話をしたときあなたのことをこれからヨブって呼んでいいかと言った。ヨシノブという名前の最初と最後をくっつけただけだというからああ別 に構わないと答えた。サッカー狂いの少年だったぼくには早熟なライやクロエとの交際は随分と疲れることだった。でも二人が醸し出す無垢な淫蕩とで もいえる雰囲気はたまらない魅力だった。

 その頃クロエはキルケゴールの『反復』を読んでいたらしい。その中に旧約聖書のヨブ記のことが出てくる。そのことは後になって知った。知ったか らといってどうということはなかったが。  
 クロエはお前のことを気に入ったようだ。ライからそう聞いて、まるで天才的な頭脳を持った女性に愛された肉体派の男になったような倒錯した思い にかられた。

  8

 黒い絵という不思議な名前を彼女に与えたママはライの伯母だ。ライの一族の間でクロエのママのことが話されるときには一種独特の雰囲気が漂う。 ぼくの母でさえ妹の嫁ぎ先の身内のスキャンダルを他人に語るとき、初体験を先に済ませた少女が処女の友人にひそひそとあることないこと告白するよ うにして話す。
 母に言わせるとライだってあの一族の病原菌なのだ。ぼくがライと仲良しなのはあまり感心しませんと父に話していたのをぼくは実は知っている。ま してスキャンダルが生んだ娘クロエを含めた三つ巴の関係にぼくが深くはまり込んでいると知ったらきっとうろたえて馬鹿げた振る舞いに及ぶことだろ う。そう思うと頭が痛い。ぼくは決して母を愛しているわけではないがもっと大人の女になってもらいたいものだと思う。

 ぼくが大人の女というときに思い浮かべているのはクロエのママのことだ。そしてクロエのママとはライの伯母マダム・ヒヤシンスのことだ。

  9

 マダムを最初に見たのは随分昔のことだ。ライの父親が事故で死んだ。悲しみの場に不釣り合いなほどに美しいマダムと、いずれ自分に注がれること になる親族達の敵意とあらかじめ闘っていたクロエの二人は、まだ小学生だったぼくにある運命的な出会いを感じさせたものだった。

 その次マダムを見たのはライに連れられてちっぽけなギャラリーで開催された書道家の個展を観にいったときだ。シュールで幻想的な写真やへんてこ なオブジェが配された中に「風信子」と落款された書が数葉展示されていた。異様な植物が生命力の及ぶ限り繁殖して塊になったような、判読不能の文 字がそこにしたためられていた。
 アート狂いのライは今もっとも可能性を秘めた芸術は書だとぼくに言った。それが正しいかどうかは知ったことではなかった。ライの暇つぶしに付き 合っただけのことだったのだ。だが作品をぼんやりと眺めているうちにぼくは何やら心が浮き立つ思いにかられた。それはサッカーの試合で一瞬の後 ゴールを奪っている確たるイメージがいきなり脳髄の中に飛び込んできた時の興奮に似ていた。後はイメージを信じ心を真空にしてキックを繰り出すだ けでいい。

 書道家にあわせてやる。ライはぼくに約束した。いいよ関心ないから。嘘つくな。おまえ随分熱心に見入っていたじゃないか。すごく淫らな書だった ろう。「風信子」って女だぜ。凄い美女。おまえもまんざら知らぬ間柄でもないんだ。
 ギャラリーの事務室の椅子に腰掛けた風信子は寡黙な少女のように可憐だった。ライの姿を認めてシャイな笑顔を見せた。ぼくはライに教えられるま で気づかなかったが、彼女の方では直ぐにぼくのことが分かったようだった。