アラン島の思い出


              1

       超えられない論理の壁にはばまれて
       ぼくたちの永い惜別の辞が無効となる

              2

       ラティフンディウム
         ──ああ、この、なんと懐かしい、響きで、あることか
       ラティフンディウム
         ──おまえの、端麗な、音列の彼岸に、
           ぼくは、迷子となった、自分自身を、
           発見するのだ
       ラティフンディウム
         ──いまや、ぼくは、細大洩らさず、
           記憶の淵から、掬い出したからには、
           おまえの、約束された身体を、
           貪り食らって、みたいものだ

               3

        ニコラ・オレスムの鋳造貨幣礼賛論が
        ぼくのないがしろにされた希少金属含有量を暴きたてる

           (合金された精神を抹殺しようと
            ブレードランナーたちの密議している
            この融合された都市論的空間の裡に
            ぼくのおびえた長期経済計画が
            軌道修正を余儀なくされるその刹那)

               4

        サン・ルイス・ポトシとグワナファトのインディアンたちの
        「辛い短い生涯」に寄せて
        ぼくは奴隷たちに命じて百輪の花を海に流したものだった
        花は遠くの海に溶ける太陽のように
        数百年の彼方へと流れ着いたことだろう

               5

        水無脳症の子どもたちの
        撤去された脳が
        「恩寵の国」の扉の前で
        不可避的に腐敗していく
        叡知者たちの可想的な眼差しを浴びつつ

               6

        壊死巣ではぐくまれたぼくの記憶が
        微小循環に運ばれ眠りの森の血流へと注ぎこんだとき
        君の苦悶の手紙が裂け
        世界は再び創造されるのだ

               7

        いたるところに仕掛けられた血管吻合が解除され
        新生という名の死がぼくを訪れるとき
        神の無い夜明けの光のうちに溶解する観念たちよ
        虚空を充填する音楽に包まれる時の逆流
          ──光よ! ぼくを運べ
            すべてが合流する奈落の滝壷へ!

               8

        時の破片が舞いしきる可能性の森へ
        既に失効となった召喚状を携えた伝令がわけいる
        彼の脳髄にたちこめるものは
        過ぎ去った家族との団欒の思い出と
        ついに訪れることのなかった婚礼の日の出来事
        今しも息絶えたばかりの脈打つその亡骸の上に
        解剖医の正確無比のメスが振りおろされる

               9

        流れていったわたしの断片たちへの
        惜別のおもいを込め鎮魂歌が唱和される
          ──楽しげな少女たちの水浴の情景のBGMとして

               10

        愛蘭土の修道士たちは
        魂の蒸留器をひそかに所持していた

        ──ジョバンニという洗礼名をもった男の居所を探しているんだよ
        旅の古老は醸造学を志していた若き日のぼくにそう訊ねた
        アーサー王の息子と名乗る男のように彼は傲岸に構えていた
        ──清貧を愛し動物たちと語り合ったという
        ──あのアッシジの聖フランシスコのことかい
        ぼくがそういうと彼は苦々しい表情で立ち去った

              11

       古代ケルト人の寡黙な決意が封印された
       石造りの音楽の囲いの中の痩せた土地
       ぼくは滴り落ちる悲しみの言葉を手にすくっては
       たちどころに消えていくつぶやきに似た旋律を
       ついに光を浴びることなく死んでいった地下牢の住民の
       おしひろげられた追憶のスクリーンの上の五線譜に
       書き留めようとふるえる手で刻印したものだった

              12

       アラン島で織られた編年体の恋の顛末
       ぼくはずいぶん年をとったように思うんだ
       ──なぜ息をするだけで人は生きていけないのだろう
       漁師だった父親を思って彼女は
       古代ゲール語でぼくにつぶやいた

              13

       ジェイムス・ジョイスの『ダブリンの市民』を購入した日の夜
       寝つかれぬままぼくは<憂欝>という漢字の画数を数えあぐね
       熱を帯びた体からしだいにぬけでる力を感じていた

          ──意識の流れ

       ぼくは突然ありありと実感したのだ

          流れ──渦巻き、逆巻き
          流れ──淀み、そして腐敗

              14

       <中風病みの市民>へ──
       今度の土曜の夜「コーレスの店」で
       ちびのチャンドラーとイグネイシャス・ギャラハーの
       8年ぶりの再会を目撃した
       赤毛のアイリッシュ・レディを覚えてはいまいか

              15

       かつて<ユークリッド的頭脳>を誇った少年水夫によって
       ペテン師どもの国
       <限度を知らない機械技師たち>の国は見出された
       <軽蔑すべきベルナール>の無限連鎖講式のコミュニケーションは
       少年から<ジム>という観念的形象を剥落せしめたのである

       ああ! 鳥たちは啼き草々は枯れ森は朽ちた
       手に重みを失った地図はカント的アンチノミーのうちに
       見失われた<宝島>を隠喩によって告知することはない

              16

       かつてイワンはぼくに語った<すべては許される>と
       その日から若き有罪者たるぼくは空しく時をすごした
       立証不可能な罪を告発し
       誰に聞かれるあてのない告白の体系をたずさえた
       <いわれなき子供の苦しみへの償い>の旅のために

              17

       <冷えたる曲>が室内に充溢する
       エリック・サティの晦渋な諧謔が塗り込められる
       ぼくは『スティーヴンソン怪奇短篇集』と
       名の知れぬ作家の手になるポルノ小説を手に
       息苦しさをかみ殺して氷を噛む
       『存在と時間』の閉じられたあたりを眺めながら

         ──都市は設計しえない

              18

       事件はスピリチュアル・ディスアピアとみなされ
       ファイルボックスに整理されることになった
       ぼくが彼の言葉を思い出したのはその時だった
       ──わたしはあなたがた商人の信仰の会計係なのです
       寡黙な行商人であったぼくが
       ある抒情的な気分に襲われた夜のことだ
       回顧されたぼくの肉体が最後の充溢の後崩壊していく
       雪の日のグレシャム・ホテルの
       <思索に虐げられた音楽>の漂う部屋での出来事だ

              19

       息子のレントゲン写真を眺めながら深夜父は
       買い求めたばかりの『ジャン・クリストフ』第二巻をひもとく
       失った紙片に書きとめておいた
       ゴドーを待っていた二人の男の名が思い出せない
       ジェイムス・ジョイスの娘に会ってみたかった
         ──骨董商人の収支計算を邪魔した男は
           辛辣な口調で憂欝な想いを語り終えた
           「抒情とは決して恐怖には至らぬ
           不安の一つの存在形態だ
           人間らしからぬ死体から漂う臭気なのだ」

              20

       悩まない男と眠らない女の出会い
       盗聴された会話──放置された速記録
       いつもと違う日の光りの中に浮遊する
       砕け散った昨日の追憶
       エリック・サティの朝は
       『実践理性批判』の再読とともに始まる

              21

       <声の島>にとり残された義父から
       今日10年ぶりの便りが届いた
       変色したニュウスペイパアの切れはしに
       ペストに罹ったある哲学者の死が報じられていた

              22

       ある抒情的な朝
       <黒い森>へ分け入る野の道に
       点々と滴り落ちた哲学的苦汁の血を発見した
       乳しぼりの少女が発狂する
       一部始終をぼくは見ていた

         ──<時熟>へのおののきの造形
           としての裸体像への涜神的崇拝を根絶せよ

              23

       「否定の否定」あるいは「抽象的な否定性」としての時間たちへ
       今宵絶えることない「寡黙な饒舌」が
       ぼくの脳髄の大伽藍のひびわれた追憶の網目の中へ
       転落していくその顛末を克明に記録している盲目の書記たちの
       憂欝な未来が将来へと(ユークリッド的時間軸に沿って)
       転換されていくとしてもそれがぼくにとって
       どのような意味をもつのか──という問いに答えよ

              24

       闘争心の欠如した夜
       脳死したデカン高原の石窟寺院の方から
       <全裸の軍神>を従えた老皇帝と
       野蛮なチュートン人とのいさかいが洩れ聞こえてくる

       サルドゥーの『無遠慮夫人』を読みたくて
       終日古書店街をさまよったぼくは
       キッチュな夜の炎上する廃園の茂みの中で
       痩身術を修得したパリサイ人の
       凍った吐息に結露する思弁を編綴した

       唖者の偽証のごとく
       ウィトゲンシュタインの恋文は
       意味の証拠隠滅を企む