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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.301 (2006/11/29)
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 □ 中沢新一『三位一体モデル』
 □ 郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学』
 □ 三中信宏『系統樹思考の世界』
 □ 鎌田東二『霊的人間』
 □ 加藤幹郎『映画館と観客の文化史』
 □ 池田雄一『カントの哲学』
 □ 内田樹『私家版・ユダヤ文化論』
 □ 山折哲雄『「歌」の精神史』
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(ほぼ)月刊で再開したけれど、あれからもう半年が経ってしまった。もう少しだ
け延命をはかることにした。6月以降に書いた「書評」8篇です。


●1004●中沢新一『三位一体モデル TRINITY』(ほぼ日ブックス:2007.1.1)

《やってみなければわからない》

 中沢新一の聖霊論、三位一体論は『東方的』(1991)や『はじまりのレーニン』
(1994)あたりからその姿を世にあらわし、『緑の資本論』(2002)やカイエ・ソ
バージュ・シリーズ第3巻『愛と経済のロゴス』(2003)で頂点を極めた、あるい
は(経済や性愛といった)新機軸を導入し新たな次元に突入したものと承知してい
る。使い手、使いようによっては途方もない汎用性と深みと実践性をもった思考モ
デルとして、画期的な可能性をもつものであると理解している。
 その中沢版三位一体論の入り口部分を、中沢自身が聴衆の前で語ったままに活字
化し、30分で読めちゃえて持ち歩けるハンディでコンパクトなライブ思想書にし
て使えるビジネス書にしたてたのが「ほぼ日」の糸井重里。「おもしろかったわ!
 この薄さがありがたいね。30分で読めちゃうものね。」と帯の惹句を寄せてい
るのがタモリ。
 なんだか前世紀の遺物、かつてニュー・アカとか言われた時代を髣髴させる底の
浅いコンセプトだなあ、とか、いかにもTV的なお手軽さだなあ、とか、クオリア
に続いて三位一体もコマーシャリズムの餌食になったか、とか、いろいろなことが
気になったけれど、挿画(赤瀬川原平)と装丁、写真、図版の配置や活字の大きさ、
等々の本の造りが気に入ったので速攻で買って30分かけて読んでみて「いいんじ
ゃないの、これ」と思った。
 父と子と聖霊の三つの円の関係がポロメオの輪をなすことや、東方と西方のキリ
スト教会の分裂をもたらした三位一体の解釈をめぐるフィリオクエ論争のこと、ラ
カンの現実界・想像界・象徴界との関係を踏まえた三つの項の相互関係など、三位
一体モデルの理論面でのキモにあたる話題はいっさい省かれている。またたとえば、
ホモ・サピエンスの脳にあふれる「増殖力=聖霊」とこれをコントロールする「幻
想力=子」と「社会的な法=父」の三つの原理が「人類に普遍的な思考模型」であ
るとして、では聖霊の増殖力や「神の子」を唯一神のなかに認めないイスラム教は
その例外をなすのかといったあたりのことなど、中沢新一も最後に書いているよう
にかなり説明不足の部分がある。
 でも、そういった理論的な細部にこだわらない荒削りで大胆なところ、読者の想
像力、というか思考力に委ねた大雑把で穴だらけの叙述は、それこそ30分で読め
ちゃう「ライブ感」にあふれていて、かえって読者にひらかれている。あ、この話
はもっとしっかりと書かれたコクのある文章で読んでいて、だからもうとうに知っ
ている。そんな風に思ってしまう読者(この本を読み始めたときの私のような)に
は、この本のよさはたぶんきっとわからない。
 帯の惹句はこう続いている。「「タモリ」ってものの「三位一体」の図を、考え
たんだよ。みんな、やるんだろうね、そういうことを。」こういうノリが大切なん
だろうなと思う。実際に手と頭を使って三位一体の図を作ってみること。この本を
もとにした「三位一体ゲーム」のような思考援助のツールだって、そのうち商品化
されるかもしれない。そうして99・9999%のゴミみたいな図の堆積のなかか
ら、いつか奇跡のような未発の思考のかたちが立ち上がってくるかもしれない。こ
れだけはやってみなければわからないではないか。


●1005●郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』
                      (講談社現代新書:2006.6.20)

《二人称の科学、一期一会の科学》

《一人称としての、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がな
く、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念は存
在しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わた
しの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛みを理解し、
表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、
成立するんだと思う。》
 「痛み」はいろんな言葉に置き換えることができる。「表現」という語彙も「現
実」もしくは表現や認識の「外部」との対比において本書のキーワードをなす。こ
れらを応用すると、たとえば「生きていることの科学」すなわち「二人称の科学」
とは「外部=現実」の「表現」そのものであって、それは終わりなき会話を通じて
のみ成し遂げられる、などということができるかもしれない。
 ここでいう会話は自問自答とは似て非なるものだ。自問自答の堂々巡りは果てし
ないが、それは実は最初から終わっている。会話には媒介が必要である。P(ペギ
オ)とY(幸夫)の会話体で構成された本書に、常にG(郡司)の沈黙が潜在して
いるように。
 なぜ媒介が必要なのか。分離し区分するためである。本書に即していえば「もの
」と「こころ」の分離である。それはなぜ必要なのか。対象(物質世界)が混乱し
ているからである。あるいは分離し区分しないかぎり対象(モノ)が立ち上がって
こないからである。そうしないと生物は生きられない。
 それだけではない。分離区分が往路だとしたら、その復路がなければならない。
そうでなければ、「生きているもの」は把握できても「生きていること」へは到達
できない。なんのための二元論かというと、混乱した一元論の外へ出るためであっ
て、「モノそれ自体」のリアリティを放棄するためではない。だから媒介は「区別
を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」でなければいけない。
 そうした媒介者のことを著者は「マテリアル」と呼ぶ。「一方で認識とその外部
の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二
つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そうい
った概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになりま
す。」
     ※
《まったく知らない人の死体に向き合うとき、それは本質的には死体で、モノに近
いなにかのはずだよね。死体である限り、わたしが彼の人生を理解したりすること
はできない。それは遺体ではなく、死体として出会うことの定義でもある。にもか
かわらず、死体であることと矛盾する、彼のここに至るまでの来歴を想像すること
はでき、いや、そうしてしまう。それはモノの移動や運動を想像するように、でき
るはずだった。だけど、そのような来歴の想像は、彼が生きて崖から滑り落ち、こ
こにくるまでのすべてを想起させたというわけだよね。遺体であることと、死体で
あることとは矛盾する。でもここでは、死体であることと、遺体であろうとするこ
とが共立して、そこに一期一会の存在が感得されている。それは、マテリアルの存
在と同じものなんだ。》
 語っているのはY、聞いているのはP、最後まで沈黙しているのはG。ここに、
死体と遺体を区別しかつその区別を無効にする媒介、つまり死者が立ち上がってい
る、あの「二人称の科学」を成り立たせている媒介者が、などと言うことができる
だろうか。あるいは、一期一会の出会いのうちに究極の会話、すなわち死者とのコ
ミュニケーションが成り立っている、などと。

●1006●三中信宏『系統樹思考の世界──すべてはツリーとともに』
                      (講談社現代新社:2006.7.20)

《系統樹の木の下で》

 実によくできた書物だった。すべての頁をいろどる活字と図版と空白、それらを
縁どる夥しい引用(この引用の的確さ、技と趣向の鮮やかさは本書の最大の読み所
のひとつである)まで含め、細心かつ大胆な三中ワールドがひろがっていく。
 まず、それ自体として読むに値する詳細な目次が素晴らしい。そこに鏤められた
「正しい名前」をつないでいくだけで本書の骨格が炙り出されていく。たとえば「
歴史」としての、「言葉」としての、「推論」としての、そして「説明」や「仮説
」、「モデル」としての系統樹、等々。
 巻末に目をやると、本書「に」学び、かつ本書「で」学ぶための導きの糸となる
懇切な文献リスト(ダーウィンの「読書ノート」に拮抗しうるミニ書評集!)がつ
いている。工夫のあとがうかがえる丁寧な索引がついている。これらの書物や項目
の関係をうまく図示していけば、本書の見取り図を示すツリー、いや本書を起点も
しくは基点とする無尽蔵の刺激に満ちた知のネットワークを設えることができる。
 なによりも、本文の練り上げられた構成と叙述のスタイルが素晴らしい。読み手
の側の事情を忖度し、著者はときに自らの来歴を語り、身辺雑記を織り交ぜつつ、
ひとつの概念が読者の脳髄のうちに沈澱していく時間を正確に測定しながら、ネッ
トで鍛えられた健筆をふるっている。二つのエピソードからなるインテルメッツォ
をはさんで、同じ話題が反復、進化、深化されていく。書物もまたそれを読む時間
を通じて生成し進化することを、読者はそれこそ身をもって、息継ぎと深呼吸を繰
り返し、ときに息をのみながら体得していく。
《経験科学としての「歴史の復権」──それは、歴史は実践可能な科学であるとい
う基本認識にほかなりません。そして、その実践を支えているのは系統樹思考であ
り、一般化された進化学・系統学の手法です。
 進化生物学はダーウィン以来の一世紀半に及ぶ道のりの末に、人間を含むすべて
の生物を視野に入れるヴィジョンをもつにいたりました。それは同時に、関連諸学
問をこれまで隔ててきた「壁」をつきくずす古因学を現代に甦らせ、さらには、科
学哲学と科学方法論の再検討を通じて歴史の意味そのものをわれわれに問い直させ
ました。これこそが「万能酸」(ダニエル・デネット)としての進化思想が諸学問
にもたらした衝撃だったのです。》
 ──世界は一冊の書物である。この書物はある図形言語で書かれている。その言
語の名を系統樹という。世界は系統樹思考(進化的思考)に基づく推論(アブダク
ション)を行っている。推論の結果、世界は生成進化する「もの」と「こと」で満
ち溢れる。その「もの」や「こと」のうちに系統樹は入れ子式に挿入されているが、
その「こと」を知る「もの」はいない。あるとき、世界のなかの一存在者であるヒ
トの脳髄のうちに世界が折り重なり、歴史が復元される。そのとき、世界は自らを
知る。
 この世界は「分岐」だけではなく、「分岐と融合」からなる高次の構造をもつ。
系統樹すなわち分岐による階層構造のツリーから、分岐と融合による非階層的な系
統ネットワークへ、さらには「系統スーパーネットワーク」へ。この第4章の最終
節における「高次系統樹」をめぐる議論は、人間の「思議」を超えた世界の実相へ
と迫っていく。そこにおいて、局所は全域と一致し、未来と過去が連続するだろう。

●1007●鎌田東二『霊的人間──魂のアルケオロジー』(作品社:2006.4.20)

《極西と極東のあわいに立ち上がった比較霊性学の書》

「本書でわたしは、能で言う「諸国一見の僧」のように、各所・各人を訪ね、その
場と人の声音を聴き取り、その奏でる言葉によるたましいの鎮まりと賦活を試みよ
うとした。観阿弥や世阿弥や元雅が編み出した新しい身魂[みたま]の作法とは異
なる、地霊の呼び声と魂のアルケオロジーを求める「霊的人間」の霊性のモノガタ
リを語ろうとした。」
 序章に綴られたこの文章が本書の実質を語っている。ここに付け加えるべきこと
があるとすれば、それは「能」とはこの場合「ケルト能」(イエイツの「鷹の井戸
」に著者が与えた評言)と見るべきであるということくらいだろうか。
 実際、本書で取り上げられた「霊的人間」──各章の主人公となるヘルマン・ヘ
ッセ、ウィリアム・ブレイク、ゲーテ、本居宣長、上田秋成、平田篤胤、稲垣足穂、
W・B・イエイツ、ラフカディオ・ハーンの九人、終章にその名が出てくる(イエ
イツが「生まれながらのケルト人」と呼んだ)ウィリアム・モリスのほか、前著『
霊性の文学誌』に引き続き登場するノヴァーリス、ドストエフスキー、ニーチェ、
そして出口王仁三郎、宮沢賢治、折口信夫、さらには(いずれ著者によって主題的
に論じられることになるだろう)柳宗悦──は、ケルトと日本の間(あわい)に立
ち現われた「人間の「原型」を探求する」旅人たちであった。
 そして「諸国一見の僧」もしくは法螺(貝)を吹く旅の修行者にして歌う神道家
たる著者もまた、幽けきものの声音に耳を澄ませ、小さきものの存在を幻視する「
驚覚」──「もののあはれ」を知る心(著者はこれを“a sensitivity to spiri
tuality”と訳す)もしくは「「物」から「者」を経て「霊」に至る「モノ」感覚
」──をもって、霊的人間という個物に寄り添いながら「より普遍的で、より古い
」ものを探求する。
 こうして生まれたのが本書、すなわち(ドイツロマン主義によって媒介された)
「極西と極東の相聞歌」もしくはケルトと日本の間(あわい)に立ち上がった比較
霊性学の書である。
     ※
 本書はまた「身魂の作法」とは異なる新しい「カタリの作法」をもって「たまし
いの鎮まりと賦活」を試みようとするものである。
 モノガタリを語る言葉は「声音」をもっている。そこには「物」と「者」と「霊
」が共に内在し、死者と生者が共在する。死者の魂が生者の身体を導管として蘇え
るのではなく、あたかも無数の音の波が合成されて一つの音となるように、声音の
うちに死者と生者が重ね合わされている。そこでは死者(「霊的人間」たち)と生
者(鎌田東二)がロバチェフスキー幾何学における平行線のようにパラドキシカル
な回路でつながり、直接的な会話を交わす。
 霊性もまた個にして普遍、単数にして複数の平行線が無限に乖離しつつ近接する
パラドックスのうちにある。
 霊性とは同じもののうちに精妙な差異(個物たち)を生みだし、同時に異なるも
のを普遍のうちにつないでいく媒介者である。善悪、雅俗、男女、老若、神と悪魔、
「もののあはれ」と「もののけ」、妖精と妖怪等々、無数の反対物を自らの内に孕
み生みだし育みつつ一致させる。著者は、そのような「ロバチェフスキー時空間」
は即非の論理(色即是空や魔仏一如など)、反対物の一致(ニコラウス・クザーヌ
ス)、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)に通じるものだと書いている。
 霊性は「モノ」のうちに無数の「間」をひらき、その「あわい」から立ち上がる
潜在性である。坂部恵が『モデルニテ・バロック』で「Betweenness-Encounter」
と訳した「あわい」(「会う)の名詞形)。それは、そこにおいて関係が関係それ
自身に関係するところの界面(木村敏『関係としての自己』)である。

●1008●加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書:2006.7.25)

《目を開いたまま夢を見る場所》

 本書は「日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論」である。著者は
そう書いている。
 では、なぜこのような書物が書かれなければならなかったのか。「映画はそれ自
体としては存在しえない」からである。「映画館(上映装置)のなかで切り取られ
る上映時間という生きられた「現在」の空間的な写像ないしは存在論的な時間の問
題をぬきにしては、映画は真に論証の対象にのぼることはできない」。
 長いあいだ映画を見ることは「一枚のスクリーンに拡大投影された映像を不特定
多数の観客がひとつの場所で視覚的に共有すること」を意味してきた。しかし過去
一世紀以上にわたる多様な映画興行の歴史を振り返ると、このような考え方は根底
から修正をせまられる。映画館の座席に縛られてスクリーン上の表象を現実と誤認
する快楽にひたるという観客の「不動性」は、映画史初期から古典期への移行過程
でたまたま獲得された歴史的産物にすぎない。
 こうして、透明な窓の向こうの景色(映画作品)ではなく「窓を窓として窓その
ものを論ずる」という本邦初の試みが開始された。
 公共的な見世物(スペクタル)としての興行やこれとは異質なキネトスコープ(
覗き箱式の映画装置)による映像体験という最初期を経て、安普請の常設映画館(
ニッケルオディオン)の流行から古典的ハリウッド映画を上映する豪華で巨大な映
画宮殿(ピクチュア・パレス)へ。そして「映画のテレヴィ化」の過程で生まれた
ドライブ・イン・シアターやシネマ・コンプレックスを経て、かつてのパノラマ館
のような見世物への回帰を思わせる巨大なアイマックス・シアターへ。あるいはキ
ネトスコープ以来の「ひとりで映画を見るという経験」を復権させたVCRやDV
Dの出現。
 アメリカ篇、日本篇の二部構成で叙述される映画館(上映装置)とその観客(享
受・受容)の歴史は実に興味深い。とりわけ、映画館と教会との親和性(「そもそ
もカトリック教会じたい太陽光によって栄光の物語を上映する映画館であるともい
える」)や、列車旅行と映画体験との密接な関係をめぐる考察(「列車のスピード
は人生の奥行きを犠牲にして、平板ではあるが簡便な旅を可能にした。それは新し
い幻惑媒体としての映画が観客にあたえることのできるものと似ていた」)は刺激
的である。
 ただ、本邦初の「新しい冒険」であるだけに、本書には多くの知見や仮説、論点
が必ずしも存分に深められ相互に関連づけられることなく後の考察に委ねられてい
る。
 たとえば著者は、映画館とはあくまでも「目を開いたまま夢を見る場所」であり、
「ひとは映画館のなかや上映装置のまえでかならずしも映画を見ているとはかぎら
ない」と書いている。この論点(ひとは映画館という都市装置を使ってでほんとう
は何をしてきたのか)は本書の随所に見え隠れすが、それが主題的に存分に論じら
れることはない。
 あるいは「ひとが観客になる」とはどういうことか。著者が示した仮説(「カメ
ラの遍在性に裏打ちされた観客の視線の遍在性とパノラマ性が、ひとをして「観客
」たらしめる」)を列車旅行やDVD等々がもたらす体験に即して具体的に検証し
ていくことで、どのような議論がひらけるだろうか。
 そして映画館・観客の文化史と映画受容との関係。「映画館(ないし映画装置)
の差異が映画作品の解釈にどのような影響をおよぼすのか」という論点である。著
者にはすでに『「ブレードランナー」論序説』がある。こうした個々の映画作品を
めぐる受容=解釈の歴史の解明を積み重ねていくことで、著者いうところの「硬直
状態」から映画史が救済されるのだろう。

●1009●池田雄一『カントの哲学──シニシズムを超えて』
            (シリーズ・道徳の系譜,河出書房新社:2006.6.30)

《世界を美学的に見ること》

 カントの三批判書を「九龍城のような建物」あるいは「大地震のあとの廃墟」と
譬え、「この建築物の不完全性には、なにか重大な意味が隠されている」、カント
のテキストは「それが何のために書かれているのかわからない書物として読むべき
である」と啖呵を切る序文が素晴らしい。
 また、同じ序文で映画『マトリックス』を取り上げ、その物語世界とカントの批
判哲学との親和性を論じているように、「映像の時代」もしくはヴァーチャルなメ
ディア空間の時代、そしてポスト冷戦期の消費社会を生きる現代資本制下の感受性
や欲望、思想や政治の状況に関連づけて、カントを軽々と読み囓っていく手際が見
事だ。
 本書の読みどころは、細部の考察のうちに縫い込まれたこうした潔い断言と、そ
こに無造作に取り入れられた多彩な素材を部品として、本書のキーワードを使えば
「目的なき合目的性」を意識しながら緻密に組み立てていった論述の鮮やかさにあ
る。
 しかしその一方で、それらの細部がたたえる魅力に比して論考全体の印象がずい
ぶん中途半端なものに見えてしまう。
 そこで「主張」されているのはこういうことだ。カントの批判哲学はシニシズム
を帰結する。しかし同時に「シニカルな時代における行動の原理、シニシズムの対
抗原理」をそこから読みとることが可能だ。その転回は、あたかもプトレマイオス
の天動説から「趣味判断」をもってコペルニクスの体系にシフトするようにしてな
される。このコペルニクス的転回のための具体的方策は、カントを第三批判書から
読み解くことである。世界を美学的に見ることである。
《カントは『判断力批判』のなかで、人体に対しても、それを何に使ったらいいの
かわからない道具としてみる必要があると述べている。カントにとって美学的に世
界をみるということは、世界を廃物として眺めるということを意味するのだ。この
ことは、世界を美しい仮象、スペクタクルとして鑑賞するということを意味するわ
けではない。》
 著者はカントの著書を廃墟としての建築物に譬えた。建築物とは「それ自身が世
界であるような道具」であった。つまり、著者が言っているのは、カントの三批判
書を「美しい仮象」として鑑賞するのではなく、「何に使ったらいいのかわからな
い道具」として眺めること、具体的にはカントを第三批判書から読み直すことであ
る。そのことが「構想力の逆転写」すなわち「対象、その表象から図式、そして悟
性的概念へと、判断が逆流する」可能性をひらいていくということである。
 本書が全体として与える中途半端な印象は、対象(三批判書)そのものに自ら(
シニシズムの対抗原理)を語らせようとする著者の叙述の方法がもたらしたものだ。
それは、実体的なものとして「目的」を語ることによって「目的なき合目的性」そ
のものの生の感触が消失してしまうことをおそれての戦略だったのだろう。
 あるいは、カントの三批判書を最後から読み直すことでもってあぶりだされる新
しい主体、新しい自由の可能性と、それを実体的に語ることの不可能性との両面を、
叙述の全体でもって示したかったということなのかもしれない。本書末尾の次の文
章に心底衝撃を受けるかどうかは、読者がそのことを自らの構想力のはたらきでも
って確認できたかどうかによる。
《趣味判断の主体はいったい誰なのか。判断をくだす当人なのか、それとも彼に憑
依した不可視の誰かの意志なのか。カントにとって世界を美学的に見るということ
は、世界を怪物と化したサイボーグとして注視し、その声にならない機械音に耳を
傾けるということだったのではないだろうか。》

●1010●内田樹『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書:2006.7.20)

《考える人》

 理路の人・内田樹が繰り出す高級漫談の切れ味は鮮やかだ。ところが、圧巻とも
いえる「終章」をロジカル・ハイとともに一気呵成に読みきって、はて私はこの本
を読み終えることでいったい何を得たのだろうか、その点がはなはだ心許ない。
 この書物に鏤められた「無謀な着想」や「驚くべき思弁的仮説」や「めまいのす
るような仮説」の一つ一つを数え上げることはたやすい。
 ユダヤ人とは誰のことか。それは国民名でも人種でもユダヤ教徒のことでもない、
それは「国民国家と国民」といった枠組みで思考している限りは理解することので
きない、いやそもそも「それ」として語る語彙すら持たない「まったく異質なもの
」「端的に私ならざるもの」に冠された名である。「ヨーロッパがユダヤ人を生み
出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパは
今のような世界になったのである。」
 「ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ私
たちが「世界」とか「歴史」とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通
じて構築されたものなのではないか。」

 なぜユダヤ人は迫害されるのか。それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに
激しく欲望していたから」である。非ユダヤ人が「欲望」するのは、ユダヤ人の知
性である。「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思
考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。」
 いずれも内田節(理路)が冴え渡っている。しかしそれらを束ね重ねあわせ、か
つ一冊の書物としての結構を踏まえ、内田氏はこの本を書くことでほんとうは何を
言いたかったのかを整理要約して語ることができない。
 『私家版・ユダヤ文化論』には、これを一冊の書物として、つまりそれぞれの章
や節に書かれた事柄を一続きの論述として、一個の物語(理説)として編成し整序
する土俵が欠けている。というか、内田氏はそうした土俵(言語と言っていいかも
しれない)の起源、あるいはそもそも「考える」とはどういう事態だったのかとい
う問題を、もはや想像することすらかなわぬ知性の起源以前との対比で「考える」
という不可能事に挑んでいる。
 だから本書は、その構成において完璧に破綻している。「ユダヤ人」をめぐる認
識論(第一章)と存在論(終章)というまったく位相を異にする論考が、その間に
「ユダヤ人」という概念とそれへの欲望の近代日本とフランスにおける使用例・発
現例の概観(第二、三章)をはさんで媒介される。異なる書物の異なる章を任意に
切り出し、あたかもカバラか聖書のように編集したもののようだ。それを内田氏は
意図的にやっている(たぶん)。「私家版」とはそういう意味だったのではないか。
 内田氏は「新書版のためのあとがき」に、「私のユダヤ文化論の基本的立場は「
ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない」とい
うものである」と書いている。こんな告白を最後の最後になって記すのは実に人が
悪いと思うが、ここで注目したいのは、なぜ「新書版のための」とわざわざ書かれ
ているかということだ。
 雑誌連載時に書いた「あとがき」風の文章(終章8節「ある出会い」)に加えて
といった趣旨なのかもしれないが、そうではないだろう。新書版以外の版が想定さ
れているからに違いない。それはこれから書かれるものかもしれないし、すでに著
されているのかもしれない。あるいは、もう一つの私家版として私の脳髄の中に常
に既に巣くっているのかもしれない。

●1011●山折哲雄『「歌」の精神史』(中公叢書:2006.8.10)

《「耳と心」でたどる日本宗教芸能史》

 「歌」とは身もだえする語りである。「ひとり」をめぐる感受性と情調の千年に
およぶ歴史のうちに育まれた伝統的な「叙情という名の魂のリズム」である。「ひ
とり」とは外来語としての「個」に対応するひびきをもつ大和言葉で、「魂鎮め」
や「魂乞い」というときの魂のことだといっていいだろう。
 「歌」には、実人生へのリアリズム感覚に裏打ちされた深く清冽な情感(悲哀感
)が湛えられている。中世という「聴覚の時代」に淵源する「無常観と生命の昂揚
感」の伝統が流れている。この魂の律動、生命の律動を聴き取るには「耳と心」を
もってしなければならない。
 それでは今日、日本の詩歌の世界にかつてのような叙情の息吹や香りを感ずるこ
とができるだろうか。著者は美空ひばりの死とともに、いやそれに先んじて叙情は
すでにアスファルトのように乾ききっていたと嘆じる。
 宗教的世界観(無常観)と叙事的文学(生命律)を分離し、歌唱の伝統に背を向
けてテキストの内部に自閉するひからびた知性の跋扈が、この惨状をもたらしたの
である。それは「語りを忘れた人文学」が陥った衰弱と対をなす現象でもあった。
 こうして人文学者・山折哲雄による、日本文化の「遺伝子」あるいは「ウィルス
」ともいうべき「伝統的な生命リズム」の系譜をめぐる探求が開始される。
 萩原朔太郎を介して古賀政男と石川啄木が並置され、啄木から西行へ、西行から
親鸞の和讃へ、そして今様歌謡などの法悦文芸へと、「叙情の源流」を尋ねる旅は
遡行していく。その過程で挽歌と相聞歌の同質性や釈教歌の意義(道元における歌
の切実さ)が明らかにされ、最後に、瞽女唄と盲僧琵琶の調べを経て北原白秋の童
謡へと降る。
 歌唱の伝統のうちに息づく「歴史の旋律、精神の鼓動」に寄り添いながら、著者
の筆致は時に軽やかに、時に沈痛に、そして演歌、歌謡曲、童謡の歌詞が引用され
た箇所ではおそらく自ら節をとり唄いながら、自在に進んでいく。とりわけ「流離
と放浪のなかで浮沈をくり返す盲人の精神史」をあつかった章では、著者は静かに
高揚している。
「芸能と信心が未分化のまま支え合う哀感の歴史、といってもいい。瞽女の唄と語
りのかなたから能の詞章が蘇り、浄瑠璃や常磐津のリズムがきこえてくる。中世の
和讃や今様の旋律までがひびく。」
「小林ハルさんの瞽女唄と永田法順さんの盲僧琵琶の語りが、一瞬、そのような長
い長い宗教芸能史の起伏に富んだ流れをわれわれの眼前に蘇らせてくれるのだ。小
林ハルさんの瞽女唄語りも永田法順さんの釈文語りも、それをきけばわかるように
感傷の涙に曇らされることのない強い響きと鋭い感情表現をもっている。物語の主
題をみすえた対象把握の全身的な構えは、おそらくそのきびしい盲目の生活体験に
よってきたえられ培われたものであったにちがいない。
 現代の歌謡や詩歌からはすでに見失われてしまった叙事的な哀感の調べが、そこ
にはわずかに流れつづけているように思えてならないのである。」
 雑誌連載という出自がもたらした制約とそれと裏腹な表現の自由度が、著者をし
て新しい人文学の書を書かしめた。あとがきにいう「瓢箪から駒」とは、おそらく
そのことだ。「思索と体験が出会う究極の到達点」。道元の歌に寄せて語られたこ
の言葉は、「耳と心」でたどる宗教芸能史という人文学の新しい語り方(親鸞の和
讃に匹敵する)を的確に形容している。

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