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 ■ 不連続な読書日記               ■ No.300 (2006/05/21)
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 □ 宮下誠『20世紀絵画』
 □ 岡田暁生『西洋音楽史』
 □ 宮沢章夫『チェーホフの戦争』
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「上記メールマガジンにつきましては、前回発行から半年あまり発行がないようで
す。…今月中に次号の発行がございませんと、まことに残念ではありますが、発行
継続のご意思がないものとみなして、6月1日をもってマガジン停止の処理をさせ
ていただきます。」

そんな連絡が届いたので、迷ってしまった。このままほんとに止めてしまうか、そ
れとも再開するか。再開するとしても、これまでと同じことをやっても面白くない。
結局、再スタートすることに決めたのだけれど、どういう趣向でいくか、あれこれ
考えあぐねた。で、これもまた結局、これまでとあまり変わらない(というより、
まるで同じ)かたちになってしまった。(ほぼ)月刊、というところだけが違うと
いえば違うが。

気持ちとしては、一つのテーマで特集を組んだ増刊号。週刊誌が廃刊になって、と
きおり出ていた増刊号、もしくは別冊がそのまま月刊化されたというところ。今回
の「テーマ」でいえば、ヒッチコック=トリュフォーの『映画術』を取り上げたか
ったのだが、これはまだ読み終えていない。「テーマ」に即した「巻頭エッセイ」
を掲載すれば完璧なのだけれど、そう思うだけで、肝心の文章が書けない。次回は
もうすこしちゃんとしたい(といっても、それもまた半年後?)。


●1001●宮下誠『20世紀絵画──モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書)

《抽象と具象の切実なせめぎ合い》

 絵画は画家が筆と絵の具を使ってキャンバスの上に描いたものだ。このあまりに
自明な事柄の「発見」から20世紀絵画は始まる。それは絵画についての絵画の歴史
でもあった。人間は自分が見たいものを見る。見たもの(本質)だけを描く。それ
が抽象ということで、だから絵画とはすべからく抽象なのだ。ヨーロッパの具象絵
画は抽象に取り囲まれている。北方ケルトの抽象的組み紐文様。東方ビザンティン
のイコノクラスム(偶像禁止)。西方スペインのイスラム的装飾。南方エジプトの
幾何学的造形、北アフリカのユダヤ教的抽象世界。これらの厳格な宗教的規律を思
わせる抽象の奔流に抗して、古代ギリシャに淵源する有機的具象性や「愛」に基づ
くキリスト教的なヒューマニズムという「物語」を対置させたところに具象絵画の
根拠の一つがある。それは極めて特殊な思想に根ざしたものなのである。20世紀
絵画は、こうした抽象と具象の切実なせめぎ合いの中からその豊饒さを紡ぎだして
いった。

 こうした「要約」は虚しい。本書の場合、著者自身も認めているように、叙述の
進行につれて最初のテーマ(「わからない抽象/わかる具象」という二項対立の無
効化)が、旧東ドイツ絵画という「わからない具象」に対する著者自身の個人的「
衝撃」を介して微妙にずれていく。だから読者も、著者が本書にちりばめた「理屈
」を拾い出して20世紀ヨーロッパ絵画史の手っ取り早い理解を得ようとせずに、
著者のガイド(けっして懇切丁寧とは言えないが)を参考にしながら、個別の作品
に入れこむことから始めるしかないのである。ただ、それにしては本書に掲載され
た図版はあまりに小さすぎて細部が判別できない。

●1002●岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)

《諸君、脱帽したまえ、名著だ!》

 西洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在を中途半端
に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史はたんなる情報や事実の集
積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえな
いとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方(「どんな人が、どんな気持ちで、どん
なふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシ
ック音楽を、たとえそれが世界最強のものであるとしても徹頭徹尾「民族音楽」と
して、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点に惹かれる。「
ただ一つ、本書を通して私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽し
みである。」著者はそう書いている。

 西洋芸術音楽は「書かれたもの(エクリチュール)」である。そのルーツは中世
グレゴリオ聖歌に遡るが、それはまだ日本の声明にも似た一種の呪文(神の言葉)
であって、建築のように設計され組み立てられた「書かれた音楽」ではなかった(
8頁)。西洋芸術音楽はまた必ずしも耳に聴こえる必要はなかった。「音楽は現象
界の背後の数的秩序だ」という「特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術
音楽の歴史を貫いている地下水源である」(23頁)。たとえばバッハの偉大さは作
曲家にしか理解できず、そのフーガの凄さは楽譜を「読んだ」時に初めて理解でき
る(89頁)ものだし、その「純粋な運動感覚」としての面白さは演奏家にしか実感
できない(93頁)。

 そのような西洋芸術音楽の誕生と転身、興隆と衰退の歴史を、著者は記譜法や楽
器の開発といった技術面、教会・王侯貴族・教養市民といったパトロン層や音楽が
演奏される場の推移、そして宗教や民族意識といった精神史的系譜との関係をたく
みに織り込みながら達意の文章で物語る。躍動感をもって綴られるその叙述には過
不足がない。あまつさえクラシック音楽という、私たちが好むと好まざるとにかか
わらずその中に生きている「音楽環境」もしくは「音楽制度」をあたかも異文化と
して聴く(いや「読む」)態度へと導いてくれる。

 私がとりわけ惹かれたのは、第二次大戦後の現代音楽の状況を前衛音楽・巨匠の
名演・ポピュラー音楽の三つの相に分節して論じ、かつては福音であった実験・過
去の伝統の継承・公衆との接点という三位一体がなぜ20世紀後半以降ことごとく呪
縛に転じたかを描く終章だ。著者はそこで「一つ確実にいえることは、われわれは
いまだに西洋音楽、とりわけ一九世紀ロマン派から決して自由にはなっていないと
いうこと、その亡霊を振り払うのは容易ではないということである」(228頁)と
語る。そしてその唯一の例外がモダン・ジャズであったと書いている。

《第二次世界大戦以後の最も輝かしい音楽史上の出来事は、私の考えでは、一九五
○─六○年代のモダン・ジャズである。大戦前のディキシーランド・ジャズやデュ
ーク・エリントンのビッグバンドやペニー・グッドマンのスイング等は娯楽音楽の
領域を大きく超え出るものではなかったが、それに対して戦後のモダン・ジャズは、
一種の「芸術音楽化」の路線を歩んだ。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレ
ーン、セロニアス・モンクやビル・エヴァンズ、あるいはバッハ演奏でも知られた
MJQなどにおいては、「即興」はほとんど見せかけにすぎない。楽譜として書き
下ろしていたかどうかはともかく、演奏の細部に至るまで、彼らはあらかじめ相当
緻密に設計していたはずだ。またマイルスのいわゆるモード・ジャズでは、頻繁に
フランス印象派を連想させる旋法が現れるし、コルトレーンのポリリズム(異なる
リズムを並走させる手法)──彼はアフリカやインドの音楽からも強い影響を受け
たといわれる──は、ストラヴィンスキー並の複雑さだ(有名なアルバム《至上の
愛》[一九六五年]には、もはや娯楽音楽の要素はまったくない)。ほとんど「作
品」と呼んでさしつかえない構成の緻密さ、そして複雑かつ独創的な音システムの
飽くなき探求の点で、モダン・ジャズは西洋芸術音楽と同様の性格を示しているの
である。》(226頁)

 読後あらためて感じたのは、本書の通奏低音をなす二つの要素、すなわち宗教と
経済、あるいは西洋音楽の始点に位置する「神の顕現する場としての音楽」とその
対極をなす「商品としての音楽」、そしてそれらの中間にあって両者を媒介する「
感動させる音楽」、すなわち西洋音楽のハイライトとしてのロマン派との三つ巴の
相互関係の複雑かつ精妙なありようである。本書最終章の末尾に著者は次のように
綴っている。

《現代社会において音楽が、ジャンルを問わず経済原理に呑み込まれ、消耗品とな
りつつあることは確かだ。クラシック音楽であれ現代音楽であれ、あるいは「世界
音楽[ワールド・ミュージック]」と呼ばれる各地の民族音楽であれ、この事情に
大差はない。よくポピュラー音楽がその元凶のようにいわれるが、…そもそも音楽
の商品化は一九世紀西洋ではじまったとすらいえるだろう。それでも今なお音楽は、
単なる使い捨て娯楽商品になりきってはいない。諸芸術の中で音楽だけがもつ一種
宗教的なオーラは、いまだに消滅してはいない。カラオケに酔い、メロドラマ映画
の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少し
しか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のど
こかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した
社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の
洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、
私には思える。》(228-229頁)

 神なき時代に生きる人々にとって「聖なるもの」が降臨するもうひとつの場が劇
場ではないか。いや、電子テクノロジーと映像技術によって仮想化された映画館こ
そがそうなのではないか。少なくとも20世紀のある時期、そのような時代があった
し、今なおそうなのではないか。たとえば本書の随所に、名演を収録したCDとと
もにかつて音楽が聴かれた場を追体験できる映画がいくつか紹介されている。たと
えばグレゴリオ聖歌が唱えられた中世修道院世界(『薔薇の名前』:8頁)、「王
の祝典のための音楽」が奏でられたバロック時代の宮廷(『カストラート』『王は
踊る』:68頁)など。映画と音楽のあいだには、(おそらく)いまだ汲み尽くされ
ていない水脈が流れている。

●1003●宮沢章夫『チェーホフの戦争』(青土社)

《画期的に面白い批評》

 書名に惹かれて衝動買いをして、それほど期待もしないで読み始めたらたちまち
引き込まれ、とうとう最後まで一息に読み切ってしまった。息継ぎを忘れたわけで
はないが、気分としてはチェーホフの四大劇を幕間の休憩もなしに一気に観終えて
ようやく一息ついた感じ。思わぬ拾い物だった。拾い物どころか、これは画期的に
面白い名著だ。

 どこが画期的かというと、まず『桜の園』=バブル経済下の「不動産の劇」、『
かもめ』=高度消費社会とフェミニズムの文脈で読まれるべき「女優という生き方
をめぐる劇」、『ワーニャ伯父さん』=リストラ中年男性の鬱を若い女性の視点か
ら身体化した「憂鬱の劇」、『三人姉妹』=仄暗い未来の予兆に苛まれた「戦争に
ついての劇」と、資本主義経済が極まった1980年代後半から「戦争前夜」ともいえ
る現代にいたるここ20年の日本の社会状況、とりわけ経済と政治の趨勢をたくみに
重ね合わせながら、チェーホフの戯曲がもつ「現在的な読みの可能性」(183頁)
を鮮やかに引き出してみせた宮沢章夫の手腕が素晴らしい。

(本の腰巻きにはこう書いてある。「「資本」をめぐる四つの悲しい喜劇」。「土
地、女性、自殺、戦争……没後百年を経て、ますます生々しさをますチェーホフの
4大戯曲を、気鋭の劇作家/演出家が精緻に読みとき、現代の〈戦争〉にそなえる
ための構えを模索する傑作評論」。)

 その手腕が存分に味わえる本書の読み所は、「ある目的、つまり「あるせりふ」
を言わせるための伏線を緻密に組み立てるきわめて構築的な作家である」(202頁)
チェーホフの戯曲に対して、かのエッセイ群でいかんなく示された宮沢章夫の細部
(と細部の関係)への、いささか狂気じみたこだわりがものの見事にフィットして
いるところだろう。「人々のやりとりのあいだに、ひっそり埋め込まれている」(
207頁)不可解なせりふへの注視をはじめ、人物の登場や退場の仕方、衣装や年齢
や場所についての指示、舞台の外から聞こえる音、「間」、「舞台空虚」等々のさ
りげなく記されたト書きへの注目。

 演出家ならではの着眼点といいたいところだが、そうではない。それらはチェー
ホフの場合「わざわざ」書き込まれている。「こうした細部にこそ見落とすことの
できない劇の核心があるとも読める」(202頁)。だからこそ細部を読み解かない
かぎり、戯曲を戯曲として「読解」するという本書のねらいは果たされない。すな
わち、劇は動かない。チェーホフがその戯曲のうちにしかけた運動性のようなもの
が見えてこないのである。

 しかしこの本の本当の面白さは、そうした戯曲「読解」の趣向や手法や技倆だけ
にあるのではない。いま「本当の面白さ」と書いたが、面白さにホンモノとニセモ
ノがあるわけではない。AかBか、否定の否定は肯定であるといった単純な論理で
チェーホフの戯曲や宮沢章夫の文章を読むほど愚かしいことはない。「本当の面白
さ」は、ホンモノとニセモノの区分のもう一つ外側にある。

 チェーホフの作品は上演当時「静劇」と呼ばれた。舞台の上では何事も起こらず、
舞台の外で事件は起こる。宮沢章夫は本書で、「チェーホフの劇作法として特徴的
な、「舞台上に起こっている出来事と、その外部で発生している出来事」との関わ
り」(46-47頁)について考えた。そして、陰鬱で悲劇的な『桜の園』や『かもめ』
にきっぱりと記された「喜劇、四幕」の意味について考えた。その「読解」の結果、
宮沢章夫が見出したものは、チェーホフ的な「醒めた目」(55頁)であり、「メタ
レベルで演劇を見ているチェーホフの視線」(65頁)であり、「空虚を表現として
出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法」(198頁)であった。

 たとえば『三人姉妹』第一幕ト書きで「円柱のならんだ客間。柱の向うに大広間
が見える」と指示された舞台空間をめぐって、宮沢章夫はこう書いている。

《舞台に二つの空間が設定されている。「大広間」とは隔離された場所(=客間)
を設けることによって、たとえばイリーナとトゥーゼンバフだけが残ってマーシャ
について語るように、「客間」に二人の姿だけが残され、ほかの者らに会話を聞か
れないようにするのは、ごく単純な技法として読める。けれど、空間そのものが表
現としてあるとも想像できるのは、なにしろ、「広間では一同テーブルにつく。客
間には人影がない」と書かれたとき、「人影がない」というその空虚さが、まず一
番に観客の目にも届くものだからだ。空虚を通して「円柱」の向こうで演じられる
劇を見ることになる。同時に、舞台に広がるのは、先にも書いたような「朗らかさ
」である。「朗らかさ」を裏付ける照明の光は、舞台を覆うように降り注ぐと想像
できるが、空虚を表現として出現させるチェーホフ特有のイロニーに充ちた技法に
よって、幾重にも光は屈折し、登場人物たちをまた異なる姿として出現させるだろ
う。》(197-198頁)

 「メタレベルで演劇を見ている」のは作家チェーホフであり、同時に批評家宮沢
章夫である。その「メタレベル」においてこそ、桜の木に斧を打ち込む「遠い音」
がバブル経済の槌音と響き合い、妊娠した女優に向かい「女優だったらその窓から
飛び降りてみろ」と言い放つ演出家の言葉にこめられた演劇集団の生‐政治性が浮
かび上がり、47歳のワーニャの鬱が同年齢の宮沢章夫や石破防衛庁長官(イラクへ
の自衛隊派遣当時)の身体性(の欠如)と通じあい、未来の戦争の予兆に苛まれた
「作家の鋭利な知覚」(230頁)がはたらく。宮沢章夫が本書で達成したアクロバ
ティックな、それでいて身体の運動性にしっかりと寄りそった「読解」は、来るべ
き「批評」の一つのかたちを示している。

     ※
 上に書いたことと直接の関係はないが、以下に、本書を読むために再読したチェ
ーホフの四大戯曲から、印象に残ったせりふを一つずつ抜き書きしておく。

「時どき人間は、歩きながら眠ることがある。」(『かもめ』第三幕でのトリゴー
リンのせりふ,新潮文庫『かもめ・ワーニャ伯父さん』68頁)
「この年まで僕は、生活を味わったことがない、生活をね!」(『ワーニャ伯父さ
ん』第三幕でのワーニャのせりふ,同171頁)
「ことによるとおれは、人間じゃなくって、ただこうして手も、足も、頭もあるよ
うな、ふりをしているだけかも知れん。ひょっとするとおれというものは、まるっ
きり存[あ]りゃしないで、ただ自分が、歩いたり食ったり寝たりしているような、
気がするだけかも知れん。」(『三人姉妹』第三幕でのチェブトイキンのせりふ,
新潮文庫『桜の園・三人姉妹』192-193頁)
「一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。」(『桜の園』幕切
れでのフィールスのせりふ,同111頁)

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