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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.299 (2005/11/26)
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 □ マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』
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いよいよ最終回となった。記念すべき号だから、じっくり選書するつもりだった。
松岡正剛の千夜千冊でも、千冊目にどの本が選ばれるか、アンケートまでうたれた。
(私も『源氏物語』で応募したけれど、正解は『良寛全集』だった。)結局、たま
たま直近に読み終えた本をとりあげることになった。最終回と書いたが、ほんとう
にこれでお終いにするかどうかまだ決めていない。メールマガジンのかたちでない
と言い表せないこともあるように思ったからだ。
 

●1000●マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』
              (冨永星訳,新潮クレスト・ブックス:2005.8.30)

 惜しみながら読み継いでいった。途中でリーマン予想の内容がよく判らなくなっ
たが(いや、そもそも最初からよく判っていないが)、そんなことはこの書物を味
わう上ではまったく関係がない。実に心地よい読中感は最後まで失われることはな
かった。それにしても美しい書物だ。

 ピタゴラスによる「天空の音楽」(数学と音楽の基本的な関係)の発見。基音と
すべての倍音を加えた「調和級数」(ゼータ関数にx=1を入れたときの値:121
頁)に発するオイラーのゼータ関数研究。そして、著者によって「数学界における
ワーグナー」(21頁)と形容されるリーマンの登場。第四章のエピグラフがすべて
を語っている。

「素数は音楽に分解できる、ということを数学的に表現するとリーマン予想になる。
この数学の定理を詩的に述べると、素数はそのなかに音楽を持っている、というこ
とになる。ただしその音楽は、近代概念では捉えきれないきわめてポストモダンな
ものである。」(マイケル・ペリー)

 このあたりまでは、これまでから何度も数学啓蒙書でたどったことがある。本書
はそこから先が素晴らしい。謎の人ラマヌジャンを経て、コンピュータ・エイジに
おける素数と暗号、そして「世界の両端の洞窟でまったく同じ旧石器時代の絵を発
見した考古学者の驚きにも通じる」(406頁)量子物理学とリーマン予想の驚きの
出会い、さらにはグロタンディークの狂気へと、非人間的な美しさを湛えた素数の
物語は進んでいく。失われたリーマンの「黒いノート」(230頁)は、たぶん人間
の言葉では書かれていない。

 引き続き、カール・サバー『リーマン博士の大予想──数学の未解決最難問に挑
む』を読んでいる。『なっとくするフェルマーとオイラー』(小林昭七)も常備し
ている。今日届いた海鳴社の葉書に、オイラーの『無限解析序説』がついに完訳さ
れた(訳者:高瀬正仁)と書いてあった。生まれ変わったら数学者になりたい。

     ※
 7周年を迎えた新潮クレスト・ブックスの新刊。これまでに読んだのはベルンハ
ルト・シュリンクの『朗読者』とジョン・L・キャスティの『ケンブリッジ・クイ
ンテット』とアリステア・マクラウドの短編一つだけ(ジュンパ・ラヒリの『停電
の夜』は文庫で読んだ)だが、このシリーズの造本と装幀はとても気に入っている。
本を読む愉悦、それも上質の文学作品に溺れる快楽がかたちになっている。

 保坂和志(『小説の自由』)の言葉を借りれば「読んでいる時間」──「新潮ク
レスト・ブックス7周年記念ベスト・セレクション」というパンフレットに掲載さ
れていた鼎談での、いしいしんじの言葉を借りれば「読んでいる時間の特別さ」─
─そのものが凝縮されてかたちになっている。

 『素数の音楽』は小説だと思って買ったら数学ノンフィクションだった。「素数
」と名がつけばなんだって手にしてしまう。そこに「リーマン」の名が見え隠れし
ていたら見境なく速攻で買ってしまう。昨年暮れに衝動で買ったカール・サバーの
『リーマン博士の大予想』とあわせて三日くらいかけて玩味できたら最高の休日に
なるだろう。望みどおり生まれ変われるとしたら、作曲家か数学者、それも数論で
食っていきたい。

     ※
 冒頭に数学者アラン・コンヌと神経生理学者ジャン=ピエール・シャンジューの
やりとり(『考える物質』)が紹介されている。コンヌが「数学的実在は、人間の
精神とは独立に存在する」といい、その数学世界の中心には不変の素数列があると
言い張るのに対し、シャンジューはいらだちとともに、「それならなぜ空中に“π
=3.1416”と金文字で書かれているのをこの目で見ることができないのだ?」と迫
る(18頁)。

 素数は世界に先立って存在している。ここでいう「存在している」の意味がうま
く説明できないし「世界に先立った素数の存在」(あるいは「無限」の存在でもい
い)を実感できているわけではないけれど、この主張はまったく正しいと私は信じ
ている。数学的プラトニストなのだ、私は。精確にいうと、数学的プラトニストた
ることに憧れているのだ。

 ペンローズが、ボルヘスの「詩人は発明者である以上に発見者である」を踏まえ
て「数学については,少なくともより深遠な数学的概念については,他の場合に比
べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられ
ない」(『皇帝の新しい心』111頁)と書いている。これと似たことを、養老孟司
が『日本人の身体観』で語っている。

《いまでも、私のところには「心の実在」を訴えてくる手紙が数多い。私は、繰り
返し、「実在か否か」は、「脳内の実在感」が、どういう対象に「付着するか」、
それだけだと主張しているのである。ふつうの人は、モノは実在すると思っている。
モノに囲まれて暮らしているからである。数の世界に埋没する時間の長い数学者は、
数学的世界こそ「実在する」と信じている。その例が知りたければ、神経学者シャ
ンジョーと数学者コンヌの対談を、お読み下さればいい(『考える物質』産業図書
)。抽象世界をもっぱらにする哲学者は、抽象思考こそ実在する、と信じるであろ
う。それがデカルトに起こったことに違いない。だからこそ、コギトなのである。
》(『日本人の身体観』,日経ビジネス人文庫259-260頁)

 素数が「実在」している場所は、保坂和志のいう「第三の領域」(フィクション
)と関係している(たぶん)。ここには、数学と音楽ではなく、数学と小説の妖し
げな関係がある。哲学との関係も妖しい。

 私は常日頃から小平邦彦さん(『怠け数学者の記』)の「数覚」をもじった「哲
覚」という言葉を愛用しているのだが、ここに新たに「文覚」(文覚上人の「もん
がく」ではなくて「ぶんかく」)という言葉をでっちあげたい。数覚は「(数学的
)イデア」を、哲覚は「概念」を、そして文覚は「(文字を使って思考する)人物
」を、それぞれ「実在」として知覚する。あるいは発見する。

 たとえば保坂和志の『小説の自由』は『〈私〉という演算』が「小説」であるの
と同じ意味で「小説」であると考えることができる作品なのだが、そこにおいて「
文覚」の対象となる「人物」は何かというとそれは概念語なのである。この作品の
主人公に相当するのはおそらく「現前性」だろう。

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