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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.298 (2005/11/23)
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 □ 木村敏『関係としての自己』
 □ 木村敏『偶然性の精神病理』
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●998●木村敏『関係としての自己』(みすず書房:2005.4.22)
●999●木村敏『偶然性の精神病理』(岩波現代文庫:2000.2.16/1994)

 木村敏の文章には、つねに既読感を覚える。実際、書かれている事柄、臨床事例
にせよ、ヴァイツゼカーやブランケンブルクやニーチェの引用にせよ、木村独自の
思索展開にせよ、それらの話題はこれまでから何度も何度もくりかえし著書でとり
あげられてきたものがほとんどだ。微妙な言い回しや使用された概念の風味のよう
なものの違いはあっても、そして、アクチャリティとリアリティの概念の差別化な
ど、その論考がしだいに精緻・精妙化され、事の実相に肉迫する迫力は冴えわたっ
ていくとしても、そのライトモチーフとバッソ・オスティナート(通奏低音・執拗
低音)はつねに変わらない。

 木村敏における主題と変奏、差異と反復。それを一言で表現すれば「界面の思考
」となろうか。鷲田清一が『偶然性の精神病理』の文庫解説で「差異の思考、〈あ
わい〉の思考」(239頁)と呼ぶものがそれである。坂部恵が『モデルニテ・バロ
ック』で「betweenness-encounter」と訳した「あわい」。そこにおいて関係が関
係それ自身に関係するところの「あわい」=界面。そこから立ち上がるもの、浮か
び上がるもの、あるいはそこにおいて現象するものが「自己」であり「主体性」で
あり「時間」であり「クオリア」である。たとえば「クオリアは、一定の機構を備
えてさえいればだれにでも観測可能なリアリティではなく、個人と世界のあいだに
そのつど新たに成立するアクチュアリティである」(『関係としての自己』89頁)。

 これらのことを見事に表現し、さらには『偶然性の精神病理』から『関係として
の自己』への導管の所在を的確に指摘した鷲田清一の文章を引く。

《ところで、〈偶然性〉は contingence/contingency という。con-tangere、つま
り「ともに‐ふれる」ということである。そうするとこれは、偶然性と触れ(接触
であり触覚である)の関係という問題、そして「ふれる」とは触れるであり振れる
(気がふれるというときの、そう「こころの病」としての「ふれ」)でもあること
になる。木村氏は、〈いのち〉というものを、生命一般が個々の生存へと個体化さ
れてゆく過程で、それとそれでないものとの「界面」として現象すると考えようと
している。ちょっとこみ入った言い方をすれば、そういう界面の生成そのものを、
自己表象として自己を隔てる意識の出来事と、自己触発として自己にふれてゆくよ
り根源的な身体の出来事との緊張関係のなかで問いただそうとしている。本書の議
論の向こうには、〈偶然性〉をめぐるそんな問題が広がってもいる。》(鷲田清一
「〈偶然性〉の思考」,『偶然性の精神病理』242-243頁)

 「あわい」としての界面。それは森岡正芳(『うつし 臨床の詩学』)がいう「中
間世界」につながっていく。そして形而上学と生物学が出合う界面は、木村臨床哲
学がよって立つ場所(臨床)であり、同時にその行き着く先を指し示しているだろ
う。『関係としての自己』の最後におかれた文章を引く。

《従来の「古典的」な西欧の哲学は、プラトンのイデア論とアリストテレスの形而
上学の流れを継承して、ある意味で「唯心論的」あるいは「観念論的」な立場を堅
持してきた。デカルト主義的な二元論も、哲学固有の形而上学的営為から物質的自
然の法則性についての探求を分離する効果しかおさめなかった。現象学的哲学もも
ちろんその例に洩れない。これに対して近年の神経科学・認知科学に定位する科学
哲学は、意識的・精神的な現象のすべてを脳・神経機構に還元することによって、
「唯物論的」な一元論を指向している。「心」や「自己」は物質過程の淡い影にす
ぎないということになる。

 これに対してわれわれの立場は、意識に代表される心的・精神的な事態も、脳に
代表される身体的・物質的な諸過程も、いずれも人間が個別的な生を「生きる」た
めに「生それ自身」という最終的な審級に根ざしているという事実から派生した二
次的な現象にすぎず、デカルト的二元論の真の克服は「生の一元論」によって達成
する以外ない、というものである。二元論はそれ自体、「生きている」という原初
的な事実が物心両面の現象界に投影された幻影にすぎない。
 となると、ここであらためてメタピュシカとピュシカとの、形而上学と自然(科
)学(それはわれわれの場合には生物学ということになるだろう)との再接合が求
められなくてはならないのではないか。真実はこの両者の「あいだ」にこそあるの
ではないか。》(『関係としての自己』299-300頁)

     ※
 書き下ろしの序論(『関係としての自己』)が素晴らしい。短いけれど著者の濃
密な思考が凝縮された文章で、『時間と自己』以来の読後の興奮を予感させる。何
度も何度も反芻しては、そのたび痺れ陶酔し、ひりひりと知的刺激を受けた。ニー
チェが自己(ゼルプスト)と呼びフロイトがエスと呼んだもの。一人称的な意識的
自我と非人称的な無意識(動物的本能)、アクチュアリティ(現勢態)とヴァーチ
ュアリティ(潜勢態)、そしてアポロン的ビオス(個体的生存/個の側の死すべき
生)とディオニューソス的ゾーエー(集合的生命/種の側の死を知らぬ生)とのあ
いだの「生命論的差異」を媒介するはたらき、関係としての自己=身体。

《…一方で個別的自我に接続しながら(そのかぎりで一人称的な個別性を保持しな
がら)、他方では非人称のヴァーチュアルな「種の生命」に根を張った、両義的な
媒介者…。フロイトが「エス」と名づけようとしたもの、それはわれわれが「自己
」の名で呼んでいるアクチュアルなはたらきのことではなかったか。「エス」の避
けがたい両義性は、それがそれ自体において、一人称の個別的な生のリアリティ(
ただしそれは「リアリティ」として名指されたとたんに三人称化する)と、非人称
の種的な生のヴァーチュアリティとの関係そのものであることを物語っている。》
(『関係としての自己』16頁)

(ここに出てくる「アクチュアリティとヴァーチュアリティ」「一人称のリアリテ
ィと三人称のリアリティ」の組み合わせは、フェリックス・ガタリの『分裂分析的
地図作成法』に出てくる「アクチャルなものとバーチャルなもの」「リアルなもの
と可能的なもの」という二組の対概念と相即している?
 序論には「個別化の原理」(自己を一人称的自我として成立させる原理)という
言葉も出てくる。これは『モデルニテ・バロック』(坂部恵)の序章「レアリスト
の語法」に出てきた「このもの性」に結びついていく。そもそも私が著者の「ヴァ
ーチュアリティ」と「リアリティ」の概念を知ったのは、『善の研究』(哲学書房
)の解題の中で山内志朗さんの紹介を読んだからだった。意識の生成をめぐる心脳
問題と西欧中世の神学的論争、普遍論争とがこうして結びついていく?)

 序論は結局、五度読んだ。読み返すたびに新たな発見がある。冒頭にドゥルーズ
が引用されている。「意識はけっして自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない
自己に対する自我[モワ]の意識である。それは主人の意識ではなく、主人に対す
る奴隷の意識であって、主人は意識的である必要がない」(5頁,邦訳『ニーチェ
と哲学』65頁)。

 ここに出てくる主人と奴隷の関係は、フロイトの「自我とエス」では騎手と馬の
関係に喩えられている。「《自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界の直接の影
響によって変化するエスの部分》である一方で、《理性とか分別とかと呼ばれるも
のを代表して、さまざまな情念を含むエスと対立している》。自我のエスに対する
関係は《手に負えない力をもつ馬を制御する騎手に似ている》が、落馬を防ぐため
に《ふつうはエスの意志を、あたかも自分の意志であるかのように実行に移してい
る」(『関係としての自己』15頁,邦訳『フロイト著作集6』274頁)。

 主人と奴隷の関係といえば『精神現象学』。三浦雅士は『出生の秘密』で真理と
非真理、現実と虚構(文化)、理想と現実を主人と奴隷に準えていた(548頁.556
頁)。主人と奴隷の弁証法(僻みの弁証法)はルソーの『人間不平等起源論』の直
接的な延長上に考察されたと見るべきだろうと書いていた(552頁)。だからどう
というわけではない。ヘーゲルとフロイトを掛け合わせるとラカンの現実界・想像
界・象徴界になる。現実界と想像界の界面に「ソワ」が、想像界と象徴界の界面に
「モワ」が立ち上がる。そんなことが言えるのだろうか。

     ※
 まだまだ書いておきたい事柄が残っている。汲めども尽きない。汲み上げて、共
感であれ違和感であれ、その実質を自分なりの言葉で考えたいテーマは無尽蔵とい
っていいほど残されている。ここではその一つ、これだけは見逃せない指摘を取り
上げる(ただし、取り上げるだけ)。それは、もう一人の「偶然性」の思考者パー
スについて書かれたものだ。

《語の意味が記号としての語そのものにアプリオリに含まれているのでなく、話し
手と聞き手の相互関係という〈場〉において多様に解釈されうるという経験は、パ
ースの三項関係の記号論を連想させる。パースは周知のように、記号とその指示対
象を一対のものとする従来の二項関係とは違い、この両者にそれを媒介する「解釈
」という第三項を考えた。パースによると《記号、もしくはレプリゼンタメンとは、
何らかの点で、あるいは何らかの能力において、誰かに対しある何ものかを表意す
るものをいう。それは誰かに話しかける、つまりその人の精神のなかにそれと同等
の記号、または多分もっと発展した記号を生む、それが生むそのような記号のこと
をわたくしは最初の記号の解釈内容と呼ぶ。その記号は何ものか、その対象を表意
する》。パースに依れば、《たがいに理解できる共通の意味または解釈思想──す
なわち第三項の媒介──がなければコミュニケイションは成立しない》のであって、
彼はこの媒介 mediation のことを「中間性」betweenness つまりわれわれの言い
方では「あいだ」とも呼んでいる。

 ただパースとわれわれとの大きな違いは、彼がこの第三項を第一項、第二項とい
わば同一平面上で考えていることである。したがって彼のいう解釈項は、《それ自
体がまた新しい記号となってそれと対処をつなぐもう一つの解釈項を生み、それは
また新しい記号となって更に次の解釈項を生んで、……記号と対象と解釈項という
三項関係が無限に生ずる》(有馬道子)ことになる。これに対してわれわれのいう
〈あいだ〉は、語やその標準的な意味内容(ないし指示対象)とは位相の異なった
次元にあって、それ自体がさらなる記号となることは絶対にない。むしろ、公共的
・三人称的に固定された「位相差」(これをハイデガーにならって「存在論的差異
」と呼んでもいい)を見失わないことこそ、現象学的精神病理学にとってはその死
命を制する要務なのである。》(「〈あいだ〉と言葉」,『関係としての自己』13
9-140頁)

 これと同趣旨(かどうか)のことが、フロイトの「タナトス・エロス二元論」に
関連して書かれていた。これらについては、いつか必ずまとめて決着をつける(つ
もり)。

《このフロイトの「死の欲動」論の最大の問題点は、彼がわれわれのいう「生命論
的差異」を考慮しなかったことにある。タナトスがそれを取り消して生誕以前の状
態にまで復元しようとする個体の生命とは「死すべきもの」としてのビオス以外の
なにものでもない。だから「死の欲動」は、自分自身のビオスに向けられるだけで
はなく、「破壊欲動」「攻撃欲動」として、他人のビオスにも向けられる。これに
対して、「性の欲動」であるエロスが、それぞれ異なったビオスである「二個の胚
細胞の融合」を通じて継続しようとする不死の生命とは、ビオスとなまったくその
存在次元を異にするゾーエーにほかならない。それはヴァイツゼッカーが、「生そ
れ自身は死なない」と述べた「生それ自身」の領域に属している。》(「生命論的
差異の重さ」,『関係としての自己』196頁)

 ちなみに、パースをめぐる文章にでてきた「同一平面」すなわち水平的な関係性
と、存在論的差異であれ生命論的差異であれ垂直的次元との関係性をめぐって、関
連する箇所を(前後の脈絡を抜きにして)引いておく。このあたりの議論を、たと
えば坂部恵の「しるし・うつし身・ことだま」(『仮面の解釈学』)や梅原猛の『
美と宗教の発見』第二部「美の問題」を参照しながら、いつか王朝和歌の美学の問
題に連続させていきたいと思う。

《「主体」は環境世界との──いわば「水平」の関係における──「出会いの原理
」としてそのつど成立するのだが、そのような主体はその可能性の条件(つまり「
主体性」)を、有機体と「生それ自身」との──いわば「垂直」の関係における─
─「根拠関係」のうちにもっている。生きものを生きものたらしめている「根拠そ
れ自体」は、「対象となりえない」。ということは、それはもはやリアルな「もの
」ではないということである。しかしこの根拠それ自体は(あるいはこの根拠との
根拠関係は)、「一定の具体的かつ直観的な仕方で」──アクチュアリティとして
──経験される。》(「未来と自己」,『関係としての自己』279-280頁)

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