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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.297 (2005/11/20)
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 □ 森岡正芳『うつし 臨床の詩学』
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取り上げる本の数が千冊に達したら、このメールマガジンもいったん休止して、ブ
ログに移行する。そのつもりで、頃合いを見計らいながら「準備」を進めていくは
ずだったのに、ある日(11月15日)とつぜん思い立って、ブログを立ち上げてしま
いました[http://d.hatena.ne.jp/orion-n/]。

あと二号、予定通り発行したら、それでおしまいにします。また思い立って、装い
も新たに(新たにしないかもしれないけれど)、もしくは趣向や筆名を変えて、再
開するかもしれません。しないかもしれません。
 

●997●森岡正芳『うつし 臨床の詩学』(みすず書房:2005.9.1)

 季節の変わり目の浅い鬱に身心の困憊を覚えはじめ、なにか心を清らかにしてく
れる文章を読みたくなり、森岡正芳の『うつし 臨床の詩学』を買ったのが先月末
のこと。体調を崩して「風邪をひきました」と医師に告げ「病名を決めるのは医者
の仕事だ」と説教されたことがあるが、「季節の変わり目の浅い鬱」などと素人診
断をくだすと臨床心理士や精神科医に叱られるかもしれない。でも、人は誰でも自
分の心の専門家(本書にそういった趣旨のことが書いてある)なのだから、他人に
とやかく言われることはない。この本を読み終えた頃にはすっかり気持ちと身体が
元気になっていたとしても(実際そうだった)、それはたまたま自然恢復と重なっ
ただけのことかもしれない。たとえそうだとしても、浅い鬱におそわれた時にどう
いうことをすればいいのか、どのような本を読めばいいかは、私にしか判らないこ
とだ。

     ※
 心理臨床の現場で起こっていること、つまりクライアントとセラピストの対面・
会話の場がひらく「中間世界」における言葉と感情の重なり合いと変様の推移を丹
念に綴った書物。そこに立ち上がる発生状態の主観性と自己性、そして「他者の私
の生」(21頁)を「飼いならし」ながら、受動相(pathema)から行為相(poiema)
へと転換していく様を「うつし」という語の多義性──写し、映し合い、移し換え、
移りゆき、あるいは転移[うつし:52頁]、再現[うつし:183頁]、制作[うつ
し:209頁]、等々──に寄り添いつつ詩的に、繊細に、理[ことわり]と感[う
ご]きが同じ一つの糸で縫い込まれた断章の積み重ねを通じて記録した書物。

 とりわけその叙述のスタイルが素晴らしい。一続きの論述を微細に分節し、優れ
たセラピストの合いの手を思わせる印象的な節名や見出し(たとえば「話しかける
とき私はそこにいない」)を付しながら、概念(精神性)の独り歩きを慎重に退け、
同時に感情(生命性)の自閉を解きほぐす。感情を湛えた概念と概念を孕んだ感情。
概念は瑞々しさを失わず、感情は十全に物語られる。

 この叙述のあり様そのものが、「飼いならす」という本書のキーワードにつなが
っていく。そして、本書の基調をなす「うつしの構造」(西谷啓治「空と即」から
著者が切り出したもの)をかたどっている。──人と人、人と事物、概念と感情の
出会いの局面において「AがBに自らをうつすとき、それはBのうちでAとして現
象するのではなく、Bの一部として現象する」(20頁,162頁)。

 それと同じことは、人と本との出会いにおいても生じる。すなわち「私がその文
章を読むのではなく、その文章において私があらわれる[本のなかに私が書き込ま
れている]」(145頁)という主客反転の感覚。そこにおいて私があらわれる本と
は、たとえば「記憶」であろう。玄侑宗久は「御開帳綺譚」で「我々僧侶が供養し
ているのは、結局のところ記憶ではないのか」(文春文庫『御開帳綺譚』50頁)と
書いている。この「供養」のことを森岡正芳は「共有体験[シェアリング]」と呼
ぶ。臨床とは輪唱である。

《過去の記憶を過去のものとしてふりかえるだけでは人は癒されない。それを誰か
に語り、再現する。そこに十分につき添う他者との再現[うつし]の場が必要であ
る。再現[うつし]をそれがある場において探求し、その道行きに他者が参加し共
体験すること。このような再現[うつし]の力を借りることが必要である。

 思い出を語るという想起のあり方は、語られながらそこで語られていることを生
きているようにみえる。語っている時間と語られている思い出のなかの時間が重な
り合う。一つ一つの出会いやふれ合いを再創造する。このような再創造は過去遡及
的であるが同時に、今この場において未来への見通しをあたえてくれる。そのよう
な時間のなかで、その人がどこかに追いやっていた「私」が動き出す。》(183頁)

 著者の紡ぐ言葉は美しい。とりわけ感銘をうけた「対話的倍音」と「中間世界」
の語が出てくる文章を抜き書きしておく。(「対話的倍音」は「概念のポリフォニ
ー」や「連歌的想像力」に、「中間世界」は坂部恵の「あわい betweenness-
encounter」にそれぞれ重ね合わすことができる。)

《私たちは理解しようとする相手の発話の一語一語の上に、自分が答えるはずの一
連の言葉を積み重ねる。相手の言葉に対して、話者がさらに声を重ね合わせていく。
新たなイントネーションが付け加わっていく。また相手の言葉との衝突を通じて、
話者によって強調点の置き換えや省略、意味の付け加え重ねあいが生じるのである。
 このような対話関係のなかで──声と声が重なり共鳴しあい、あるいは衝突する
なかで──新たな意味や連想が生まれてくる可能性を「対話的倍音」(dialogical
 overtone)と呼ぶことができる。(略)
 話者は相手の言葉を引用しつつ、そこに新しい意味を含ませながら、なおその意
味がすでにもっていた意味を保持しておくということもできる。言葉はいくつもの
言葉の交錯であり、その言葉のなかに対立する感情も同時に包含することができる。
》(119-120頁)

《セラピーの場面には、多様かつ根源的なうつしの営みが含まれている。それは生
命性と精神性の相克、あるいは創造的な交叉という問題に集約される。生命性のも
つ直接的で一次的な持続は体験の下地を支えるものであるが、人間の精神は必ずし
も生命の方向性と一致しているとはかぎらない。うっかりすると、生命性からの解
離に精神が加担してしまう。また心身に負荷のかかるストレスや外傷的事象に接す
ると、体験の下地は荒らされてしまう。セラピーで対応が求められる状態の背景の
多くにはこの問題が潜在するようだ。

 その回復への手がかりは生命性の世界にもどるということ、自然のあるがままを
受け入れるということなのだろうが、そう簡単なものではない。その探求にあたっ
ては「うつし」という言葉の多義性そのままに、生活や文化の多面的な様相に入り
込む必要が出てきた。人ともの、心と身体の交叉するところ、生命と精神、覚醒世
界と眠りの世界の交錯するところ、生活世界と夢や空想イメージ、仮構物の交互作
用の生じる場がある。さらに自己と他者が交感する接触面、そしてある出来事とそ
れとはまったく別の系列の出来事の交錯するところ、過去をふりかえり語るとき、
今この場に似たものがふたたび現れたり、生きた体験がテクスト世界に転換[うつ
]されたときに新たな意味世界へと跳び越えたりと、これら中間世界の魅力は限り
ないものがある。このような場に生じるうつし合いを通じて、人はそれまでとは違
った意味空間に移りゆく。それは日常世界のなかに詩的瞬間を胚胎するところとな
る。》(215-216頁)

     ※
 それにしても後味のいい本だった。透きとほった静謐感。しんしんと降り積もっ
た透明な雪片が、まるで無数の倍音をはらんだ音の粒子のように、自らの抽象的な
重みと戯れている清涼な沈黙のざわめき。読み終えて数日、感想を書けなかった。
この作品の本歌の一つ、坂部恵『仮面の解釈学』を一瞥しておきたかったからだ。

 『仮面の解釈学』は実に面白い。その昔、読み初めて早々、叙述のあまりの深甚
精妙ぶりにすっかり興奮し舞い上がってしまったことがある。まだ機が熟していな
い。私自身がもう少し熟成しなければ、この本に呑み込まれてしまう。その時はそ
う思って、わずか数十頁で封印した。以後、大切に保管していたはずがいつの間に
か行方不明になり、二冊目を買って常備しておいた。今度は、終章「しるし・うつ
し身・ことだま」から読み始めた。実に面白い。あまりの刺激に我を失いそうにな
る。なにもかも放り投げてこのまま読み耽ってしまいそうになる。耽ってもいいの
だが、そのまま揮発してしまいそうでこわくなる。度数の高い酒を飲みこなすには
体力が要る。

 ほとんど酩酊状態で「しるし」の五節分を読み終えて、『うつし』の多層性を帯
びた構造がくっきりと浮き彫りになった。この本は序と五つの章からなるのだが、
それが「しるし」の五節、つまり「わたしたちの生死往来の場である、しるし(兆
・徴・験・記・印)と著[しる]きあらわれ[現象]のことなり[差異・事成り]
の境位を、究極のところで領[し]るもの」(『仮面の解釈学』176頁)の五つの
相転移の様をかたどっている。未読の「うつし身」も五節で構成されている。これ
を読むともっと深く冥い世界を覗き込むことになるかもしれない。そのまま帰って
こられなくなるかもしれない。

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