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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.296 (2005/11/13)
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 □ ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』
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●996●ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論──宇宙の意味と表象』
                      (松野孝一郎他・青土社:1999.7)

 何度も何度も読みかけては、そのつど何らかの事情によって中断し、結局最後ま
で読み終えることができない書物がある。その事情がそれぞれのケースで異なるの
は当然だが、そこに一定の傾向というものはあって、なかでも、それ以上読み進め
るとただただそこに書かれ論じられている事柄を丸ごと無批判に受け入れ、最後に
は自分の頭で考えるのを放棄してしまいそうになる危険を感じ(要するに、その書
物を読みこなすだけの力量や思考の総量がまだまだ足りないことに気づいて)書物
を閉じた場合は、後々までその書物のことが気になって仕方がない。ジェスパー・
ホフマイヤーの『生命記号論──宇宙の意味と表象』は、その最たるものの一つだ
った。

 少し前から中断したままになっていた『パースの生涯』を再び読み始め、やはり
この訳文は日本語になっていない(同じ理由で中断しているジンメルの『貨幣の哲
学』よりはまだましだが)と閉口して、口直しというわけではないがふと『生命記
号論』を手にしたら、ついにこれまで何度試みても突破できなかった全十章中第三
章の壁を乗り越えることができた。某日、東京への日帰り出張の車中で一気に最後
まで読み切るつもりだったが、どういうわけか体力が続かずに持ち越し、残り二章
というところで集中が切れた。細部の議論の面白さは絶品だが、その面白さに翻弄
されて全体の議論の輪郭を見失ってしまう。少し頭を冷やして完読は後日を期すこ
とにした。全編読み終えたらもう一度最初からこんどは全体の輪郭を遠望しながら
反芻してみよう。それにしても面白い本だ。

     ※
 ようやく最終章までたどりついた。いろいろ抜き書きしながら考えを深めてみた
いことがあるけれど、どうにもその気になれない。季節の変わり目の体調不良から
なかなか快復できない。でも、いくら疲れているといっても『生命記号論』につい
てはきちんと考えをまとめておかなければいけないと思う。たとえ考えをまとめる
ことはできなくても、この書物から受け取ったものをなんとか自分の身から出てき
た言葉で反芻しておかなければいけないと思う。

 私はこの本を黄色いマーカーをつけながら読み進めていったのだが、ふりかえっ
て見てみるとほとんどの頁が黄色く染まっている。それほどまでに細部の議論が魅
力的だったということで、だからこれまでに何度も本書を繙きながら、そのつど過
剰な刺激にたえられず、というか自分勝手な思考もしくは空想の世界に入り込んで
しまってそれより先を読み続けられなかった。今回、かなり無理をして最後まで一
気に読み切ってみると、予想されたことではあるが、それら細部にちりばめられた
話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだ
かまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じら
れていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。

 こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえ
てもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節随所を拾い読みしては読後の興
奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、
そして今の私の気力と体力と脳力ではそうするしかないのだが、それでも後の日の
ために最低限の作業はやっておかなければならないと思う。

 「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。著者は最終章の末尾(232-233頁)で
本書全体を概観している。「まずは、私たちが自然法則と呼ぶ習慣がそこから生じ
て来る」。なぜなら、パースの形而上学の要点が示すように自然には習慣化する傾
向があるからだ(54頁)。次いで「習慣が生命の出現をもたらし、生物に固有であ
る予測能力がこの習慣から産まれて来た」。同時に予測間違いも生まれたが、もし
間違いが多すぎなければ、生物は遺伝物質の中のメッセージの形で生き残ることが
できる。「それは現在の痕跡を未来へと取り込ませることを意味する。やがて、こ
れらの痕跡は撚り合わされ、ますます洗練の度を増していくような洞察の基盤を形
作る、関係のネットワークが生じて来る」。

 この記号論的なネットワークのことを著者は「記号圏」と呼ぶ(102頁)。頭脳
と感覚器官の出現とともに記号圏は膨らみ、そして「最後に、この記号圏の真ん中
で、完全な自意識を持った人間が出現した」。人間は「この世界に自意識ほど価値
を持つものはない」と想像するようになったが、「こうした考えやその破壊的な副
次効果は全て錯覚である」。なぜなら「私たちが意味を発明したのではない」から
だ。「この世界は常に何かを意味しているのだ。世界がそれに気づいていないだけ
で」。

 以上のような「要約」を読んだところで、たとえそれが著者自身によるものであ
ったとしても、それでいったい本書の何がわかるというのか。それだとまるで砂糖
が水に溶けるの待たずに砂糖水を飲むようなものではないか(ベルクソンの引用)。
『生命記号論』を理解するためには『生命記号論』を読まなければならない。小説
を「理解」するためには小説を読まなければならないように。もっと精確に言えば、
それを生きなければならないように。

 小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志の引用)。というのも、そこで
言われる小説とは生命だからだ。小説が生命をもつというのは比喩ではない。文字
通り小説とは生命そのものなのだ。なぜならそこには「記号そのものを担う物質」
と「記号によって表現されるもの」と「記号の解読者=翻訳者」という「パースの
一般的な記号の三項関係」(43頁)が成り立っているからだ。

 このパースの記号論を踏まえた「生命記号論」は、生命現象そのものの稼働原理
であると同時に、生命現象を認識し記述する方法でもある。もっと大雑把に言って
しまえば、物質と精神、つまり物の秩序・連結と観念の秩序・連結(スピノザの引
用)、あるいは行為と認識の双方に通底する存在(生成)の論理である。

 記述すること、認識し理解すること、解読・翻訳し解釈すること。存在(生成)
すること、行為すること、生きて死ぬこと。このふたつの推論過程すなわち「記号
過程」が一致する。そのような事態──「自分も描き込まれている地図を描くこと
」(西田幾多郎は「自覚に於ける直観と反省」でアメリカの哲学者ロイスの言葉を
引きつつ、「例えば英国に居て完全なる英国の地図を写すことを企図すると考えて
見よ」と、「自覚」において自己を現実化させる「働き」になぞらえた:檜垣立哉
『西田幾多郎の生命哲学』92頁)──を著者は見すえている。

 松野孝一郎氏は訳者あとがきに書いている。「少なくともこの地球上に出現した
生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述され続けて
来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。」

     ※
 「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。ホフマイヤーがここで念頭において
いるのは言うまでもなくビッグバンのことだが、これは現実にあった出来事である
というより(実際だれかビッグバンを見た人がいるだろうか)むしろ論理的な区別、
根源的な原‐分割ともいうべき事態をさしている。すなわち「ない」と「ある」の
分裂。しかし、何もないこと、すなわち完全な虚空を考えるのは困難である。

《全てのものという抽象概念の反対概念としての虚空、すなわち論理的に心の中に
描く以外の形では理解できない虚空の内に宇宙の始まりを置こうとする宇宙論は、
私にとっては得心の行くものではない。もしそれを真剣に受け入れてしまうと、私
たちが虚空を思い浮かべる度に、毎回、真新しい宇宙を持ち出すことになりかねな
いからである。なぜなら、虚空は心の内にだけあるからである。この考えは実に心
を落ち着かせなくする。》(21頁)

 この第1章「宇宙の誕生・意味の発生 「なにもない」虚空からそこに浮かぶも
のへ」の議論は何度読んでも(実際なんど読んだことだろうか)刺激的で、ウィル
デン(よく知らない)やベイトソンやラカンを引用してホフマイヤーが導きだす結
論というか議論の出発点は途方もなく魅力的だ。以下、サワリの部分を加工編集し
て抜き出す。──「〜ない」は境界なのだ。この境界、ベイトソンの用語で言えば
差異、は精神的な働きの中にある。その境界は「誰か」が「〜ある」を認識しない
かぎり、この世には存在しない。《そして、この「誰か」が、誰もしくは何である
かを問うことが、まさに本書が投げかける問題である。誰が虚空に浮かぶものを作
ることができたのか。いつそれは始まったのか。そしてそれは何をもたらしたのか。
》(28頁)

 しかし、「〜ある」と「〜ない」、AとAでないものの分割よりもっと奥深い分
割がある。すなわち「ある」と「ない」(この「ない」は「〜ない」よりもっと「
ない」こと)の分割。《ウィルデンは、私たちは心の中で考えるときでさえも、A
とAでないものの境界を引くことで、現実と非現実をともに含む全世界を二つの部
分に分割している。その境界を設定するという行為は、少なくともAにも非Aにも
含まれない一つの系あるいは領域を定義している。/この系こそが「誰か」である。
》(29頁)

 この「誰か」は少なくとも忘れるという能力の持ち主でなければならない。それ
が(第1章に勝るとも劣らず刺激的な)第2章「失われるもの、生き残るもの 忘
却の歴史と記号──忘却の弁証法」の話題である。と、この調子で続けていると全
編を祖述することになってしまう。別にそうなっても構わないのだが、ここではビ
ッグバン後七○万年の頃に始まる記号圏の物語を彩る三つの断絶をめぐる文章を引
用してお茶を濁しておく。

《このようにして、三つの断絶がもたらされてきた。一つは生体とDNAの間の原
理的なもの、二つ目は言語に伴う自己と自己のイメージの間の実存的な断絶である
が、三番目の個人と社会との間のものは少なくともつかの間は癒されることができ
る。私たちはこれらの断絶のうち、最初の一つは他の全ての生物と共有している。
それはDNAの形でデジタルで記号化された生体の自己記述に関するものである。
この断絶が生命の出現を導き、私たちが博物学と呼ぶ自然の歴史物語を創り出した。
二つ目の断絶は、私たち人間が全て共有するものであるが、他の動物や植物には見
られない。それは、私たちが自己意識を持つ主体であるという事実と関係するもの
である。この断絶が私たちを文化史と呼ぶ文化の歴史へと導いた。
 三番目の断絶は本質的に前の二つとは異なる。同時にこの二つの物語に関与して
いるという事実から来るものである。なぜなら、自意識を持つ主体となることで、
私たちは自己本位な文化の迷宮に糸を繰りながら迷い込むこととなってしまった。
そこでは肉体が残すねばねばしたカタツムリの這い跡のような痕跡はいとも容易に
見失われてしまう。
 第三の断絶に対する治癒も、共感に対して真摯に耳を傾けることからもたらされ
ると期待される。ここで必要なのは、人間同士の共感だけではない。地球に存在す
る生物全てへの共感である。私たちの祖先は模倣文化から石器文化へと至る境界の
どこかで、自分を他者の心理の論理に従わせる方法を学ぶのに成功したに違いない
と、これまでに述べてきた。心理の論理という言葉を、私はできごとや話を支配す
る物語の論理の意味で使ってきた。だから、私たちの先祖は、他の人間が占めてい
ると思われるのと同じ物語、心理、関係を理解する術を獲得した。》(214-215頁)

 この文章だけでは第二番目の断絶(「経験の持つアナログの本性と言語の持つデ
ジタルな本性の乖離」180頁)の中身がよく判らないと思うので、もう一つだけ抜
き書きしておく。

《その時[ホモ=エレクトゥスの心のスクリーンに宇宙から切り離された孤独な存
在としての自己の姿が浮かび上がってきた時]、世界に存在する事物を分割する線、
「〜ない」の基礎となるものが効力を発揮し始めたに違いない。それは、AとAで
ないものを区別できる「誰か」がカテゴリーの間の線引きを行うということ、そし
てその言語を操る彼らもまたその「誰か」であり、それゆえ相いれないもの、世界
の外にあるものであるという事実の認識を迫ることになる。なぜなら、世界の内部
にいるためには、「誰か」は「誰か」であることを止めなければならないのだから。
 そしてこのことが、会話の発達をもたらす動機づけであることを、私たちに示す
ものだと私は信じている。(略)言語を持たない生物が自分自身の限られた環世界
を頼りに生きるしかないのに対し、会話によって世界は象徴的に作り上げられた共
有の居住場所となった。そして私たちの祖先が世界の神話を創るとき、彼らの周囲
の世界を過度に捕まえたのである。ここに言語が立ち現れ、自走しだした。》(18
1-182頁)

     ※
 ホフマイヤーの虚空をめぐる議論を読みながら、私はしきりとヘーゲルを想起し
ていた。『大論理学』の最初に出てくる「有」は概念にまで成長するはるか以前の
朧気なもので、それはあくまで「無」と背中合わせのものである。あると思えばそ
こになく、ないと思えばそこにある。アウグスティヌスが『告白』(11巻14章)に
綴った時間のようなものだ。「では時間とはいったい何でしょう。だれも私にそれ
をだずねないなら、私にはそれがわかっています。たずねられ説明しようと思うと、
わからなくなるのです。」(山田晶訳)

 それが「有論」「本質論」「概念論」とつづく艱難辛苦と波瀾万丈の長旅を経て、
強い内圧と濃度をもった概念に成長する。そしてついに種子がはじけて飛び散るよ
うに存在物を撒き散らし、『自然哲学』の圏域が産まれる。つまりビッグバン!(
『生命記号論』にヘーゲルの影を見るのはけっして根拠のないことではない。ホフ
マイヤーが準拠するパースのうちにヘーゲルは濃い影を落としているからだ。)

     ※
 本書を読みながら、しきりに養老孟司『人間科学』を想起していた。(そういえ
ば『人間科学』を読み終えたときも『生命記号論』の場合と同じ物狂おしい気持ち
になったものだった。「養老孟司とはいつか決着をつけなければ」と威勢のいい言
葉で始まる書きかけのファイルが今でもパソコンのデスクトップに置いてある。)

 たとえば、養老孟司は「細胞‐遺伝子」と「脳(社会)‐言葉」の二つの情報系
を比較しながら、細胞と脳をひとまとめにして情報の翻訳・複製装置を含んだ「シ
ステム」と定義し、遺伝子と言葉という「情報(より正確には記号)」と対置させ
ている。

《さてこのように定義したときのシステムと、情報の違いはなにか。じつはシステ
ムは生きて動いているが、情報は固定している。そこがいちばんはっきりした違い
である。細胞は生きて動いているから、おそらく二度と同じ状態をとることはない。
脳あるいは脳を含む個体も、まったく同じである。脳は二度と同じ状態をとらない。
》(『人間科学』37-38頁)

 これとほぼ同様の議論がジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論』に出てくる。
ニワトリが先か、タマゴが先か。「DNAは生体のデジタル化された自己記述であ
る」のか、むしろ「生体の方がDNAのアナログ化された自己記述と見なされるべ
き」なのか。現在の知識ではこの二つの可能性のいずれも排除することができない。

《…私の理解では、生体とそのデジタル記号の両方が揃うことによって初めて、「
自己」すなわち生命が存在できるようになった、となる。なぜなら、もしDNAが
それ自身のコピーに過ぎなかったなら、DNAの「メッセージ」は何の意味も持た
ず空虚なものであろう。逆に、もしDNAにその増殖が保証されていなければ、生
体のメッセージについて語るべきものは何もない。カテゴリーと感覚認識について
のこの有名なねじれ現象はカントに負う。人はこれをカント哲学の問題と見るかも
しれないが、私はそうではない。同じ問題が生き物一般の内にも認められる。
 生命はこのデジタルとアナログの二つの形に託されたメッセージの間の記号論的
相互作用に依っている。言い換えるならそれは記号双対性とも言うべきものである。
生物の中ではこの二つの形態が互いに融合する。これこそが「自己」である。人間
における自己が肉体と精神とから成るように、「生物学的自己」は原形質とDNA
の両方から成る。》(『生命記号論』78-79頁)

 このほかにも「科学は何であれ、多かれ少なかれ、その科学に固有な現実を持つ
」(14頁)という指摘や第6章「自己の定義」での免疫系をめぐる議論など、養老
人間科学との接点はいたるところに見つけることができる。

 そもそも本書を購入したきっかけは、有限会社養老研究所主催の第1回養老孟司
シンポジウムの記録を収めた『脳と生命と心』に四冊の必読本の一つとして掲げら
れていたのを見たからだった(たぶん)。だから養老孟司と『生命記号論』はもと
もと縁が深い。(他の必読本は茂木健一郎『脳とクオリア』と計見一雄『脳と人間
』とラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』。これでようやく三冊目を読了したわけ
だ。ちなみに第2回養老孟司シンポジウムでの講演をまとめたのが野矢茂樹『同一
性・変化・時間』)。

     ※
 第9章「意識の統一 意識 脳の中の肉体の統治者」で神経生物学者ガザニガが
引用されている。「私たちの脳は、多くの知的システムが連邦と考えてよいような
ものの中で共存する組織である。」(189頁)「人間の心は心理学的性質よりも社
会学的性質を強く持っている。」(192頁)

 ホフマイヤーは、「もし私たちがガザニガを信じようとすれば、私たちの内部に
は場合によっては何千もの独立した脳のモジュール(考えるものの集団でもよいが
)が働いていることになるが、それではどうして私たちは自分の意識を統一された
一つの総体として感じることができるのであろうか」と疑問を提出し、自ら回答し
ている。

《これへの明白な解答は、こうした脳のモジュールもしくは考える集団の成員全て
が共同して働いており、一つの同じ身体と相互作用しているためである、とするも
のだ。肉体はいつでも一つの現実の命、一つの真実の物語に包まれている。私が言
わんとしているのは、意識が神経学的現象だとしても、その単一性は肉体の持つ歴
史的な一体性から生じているということである。意識とは脳内に座す肉体の統治者
である。
 何が起きているかというと、人間の生活のそれぞれの瞬間において、身体は、そ
れまでの人生に根ざした物語、更にはその瞬間にも当の個人を含む物語に即して、
周囲の状況の解釈に影響を与える。この解釈のことを、私たちは意識と感じている
のである。》(193頁)

 ここに「記号を表すもの=環世界」「その対象=意識」「記号の解読者=身体」
という三項関係が成り立っている。すなわち「意識とは肉体によるその環世界の解
釈である」(195頁)。

 このことに関連して(いるのかどうかよく判らないが)、大澤真幸の『思想のケ
ミストリー』に収められた「巫女の視点に立つこと」を想起した。馬頭観音像で遊
ぶ子供を咎めた別当が病んだ。巫女に聞いたところ、観音様が子供らと楽しく遊ん
でいたのをお節介したのが気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよ
くなった。この『遠野物語』に採録された説話を素材として、大澤真幸は、社会学
をすることは共同体の中にあって巫女の視点に立つことであると言う。

 別当の病は、身体・行為の水準(観音様も楽しく遊びたいはずだ)と言語・意識
の水準(観音像=超越性を粗末にしてはならない)の不一致を示す現象である。「
〈社会学する〉ということは、つまり社会的な秩序を結節する経験の構成を認識す
るということは、まさにこの[マルクスの]「人々はこれを意識しないが、しかし、
これを行う」と言われるときのその行っていることを見ることにほかならない。」
(246頁)

 大澤真幸の議論はまだつづくがこのあたりで止める。『生命記号論』とどう関連
している(と私は思った)のかよく判らなくなった。松野孝一郎の訳者あとがき「
記述の限界とそれへの開き直り」に出てくる「内部記述」に結びつけて何か考えた
かったのだろうと思うが、これはまた別の機会に。

     ※
 前後の脈絡は省くが、『生命記号論』に「物語の論理」(215頁)という言葉が
でてくる。これを読んだとき、物語(の論理)とは音楽のことを言っているのでは
ないかと考えた。物語とは音楽のことである。音楽とは記号過程である。これだけ
だと何を言いたいのかまるで判らない。実際、閃いた(というほどのことかどうか
)のはもう十日も前のことなので、当の本人にとっても何のことやら曖昧模糊・意
味不明になっている。

 同時に、物語=音楽=意識といった連想(たぶん木村敏がしばしばとりあげる合
奏の比喩の影響)も働いていたように記憶しているし、臨床とは輪唱であるといっ
た使い道のない命題(たぶん森岡正芳『うつし 臨床の詩学』の影響)も浮かんで
いたのだが、それも今となっては不分明・不鮮明だ。幸い(というほどのことかど
うか)簡単なメモを残していたので、それを頼りに『生命記号論』の関連箇所から
素材を抜きだしておく。いずれも比喩にすぎないと言ってしまえばそれまでのこと
だが。

◎指揮者のいないマタイ受難曲──あるいは発生は発声である
《本書の初めの方で、私はDNAの暗号を料理の本に書かれたレシピにたとえた。
だが、もっと適切な比喩は大編成の合唱曲の譜面に見ることができる。胚発生は実
際、同時に遺伝子を読み上げる、多数の「声」によって遂行される。ここの発声を
互いに調整し、全体を合唱の形に統一させるのがこの発生過程である。そうである
からこそ、遺伝子の解釈に荘重さが現れて来る。
 胚発生では、個々の組織は正確に調律されており、組織間の統合は絶妙な協調効
果によってもたらされる。要するに、個体発生過程において、指揮者に当たるもの
は見つからない。個々の「歌手」あるいは「演奏家」は組織ごとに、私たちがまだ
おぼろげにしか分かっていない相互伝達過程を通して、その全体調整を行う。いず
れにしろ、ゲノム(遺伝物質の総体)はただの譜面にすぎず、どうひいき目に見て
も指揮者にたとえられはしない。いずれにせよ、それは指をぱちんとならしただ
けで全てが調整されるようにはなっていない。聖マタイの情熱(Saint Matthew Pa
ssion)の合唱演奏の場面を思い出していただきたい。》(76-77頁)

◎意識は物語である・意識は記号過程である
《私の示唆するものは、脳のモジュールと身体の間に私たちの身体の機能を一秒ご
とに面倒を見ている記号過程のループと全く同じものが、意識的な統一の中にも入
り込み、私たちの環世界の断片を意識に換える際の選択過程を担っているというこ
とだ。(略)意識の一定の流れを作り出すことで、あるいは身体が私たちの環世界
を解釈すると言うことによって、私は当然、身体は一つの群れ集まった実体、記号
過程を行う身体‐脳システムの全体であると考えている。私たちが私たちの身体で
考えているという事実は、意識(そして言語)は物語でなければならないことを意
味する。肉体の活動、あるいはそれと等価な基本行動が、私たちの知性や意識の源
泉なのである。
 そこで私は意識を純粋に記号過程による関係として見ることを提案する。意識と
は身体の実存的環世界を、肉体が空間的物語的に解釈したものである。
 しかし、もし意識をこのように想像上の物語として精神空間の内に配され、そこ
で意味のある繋がりが為され、絶え間ない自己言及によって構成されるものである
と見なすなら、この意識はどうやって私たちの思考や行動に影響を与えることがで
きるのだろうか。答えは簡単だ。意識はいわばオン、オフの切り替えをするスイッ
チとして働くのだ。》(195-196頁)

◎意識のキーボード・神経ペプチドの音色
《内なる記号圏におけるコミュニケーションの手段のうち最も興味深いものは…神
経ペプチドである。人間の知性が集団からもたらされるとするこの議論の結論を述
べるうえでの例として、神経ペプチドについてみていこうと思う。簡単に言うと、
神経ペプチドは小さなシグナル分子で、それと結合するレセプターを持った細胞に
よって認識されるが、この種のレセプターは身体‐脳全体を通じてたくさん存在し、
それが脳と免疫系を統合するインフォメーション伝達のネットワーク、精神身体ネ
ットワークの基礎を作る。
 もし私たちがここで、脳が意識のキーボードの旋律を常に監視し、身体や脳の特
定の腺や部分にメッセージとして伝えられるオン/オフの指令のパターンを解釈し
ていると想像すると、神経ペプチドはこれらの指令を履行するためにデザインされ
た多くの楽器のうちの一つと見ることができる。例えばこれは、体内の特定の部分
における、神経ペプチドそのものの量(ボリューム)とそれとは異なった種類の神
経ペプチドの種間関係に変更をもたらすことになる。
 …アメリカの生化学者ルフはこの身体の神経ペプチドへの備えに対し、「神経ペ
プチドの音色」という表現を使い、ある考えを展開した。神経ペプチドは個人の気
分や感情的な状態を決定するのに部分的な役割を持つと考えられているので、生化
学的なレベルにおける特定の精神状態は身体‐脳における特定の神経ペプチドの音
色に関連していると認めうる、というのがその骨子である。
 このことから意識、神経系、神経ペプチドの音色の間の関係は…[「記号を表す
もの=意識」「その対象=神経ペプチドの音色」「記号の解読者=神経系」という
]…三項関係を伴う記号として描くことができる。》(201-202頁)

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