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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.294 (2005/10/30)
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 □ 瀬名秀明『デカルトの密室』
 □ 天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る』
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●991●瀬名秀明『デカルトの密室』(新潮社:2005.8.30)

 『BRAIN VALLEY』との比較でいうと、小説あるいは物語としては心底愉しめなか
った。作者が考え抜いて仕掛けた(であろう)謎やパズルも、自力で解いてみたい
という意欲がかきたてられない。他者の心が理解できない天才科学者フランシーヌ
・オハラやクールな進化心理学者一ノ瀬玲奈といったキャラクターはけっこう魅力
的だと思うが、車椅子のロボット学者兼作家の尾形祐輔やもう一人の天才真鍋浩也
といった(やや生彩に欠ける)キャラクターが表にたって十全に造形されることは
ない。冒険譚の主人公ともいえるAIのケンイチは、わが子のように愛おしく思え
ない(当たり前だが)。

 登場人物に感情移入ができず、かといって、ユウスケと祐輔、レナと玲奈の場面
ごとの書き分けや視点の移動、映画的手法を駆使した叙述、メタ・フィクションの
企みのうちに巧みにはりめぐらされた(に違いない)ミステリーにも心底心が動か
されない。要するに作品が性に合わなかった(たぶん私の小説観・物語観が頑なで
あったか古くさいものであったかのいずれかなのだろう)にもかかわらず、最後ま
で飽きずに(それどころかしばしばクールな興奮を覚えながら)読み進められたの
は、やはり題材と趣向と素材に心をそそられたからだ。細部にちりばめられた「考
察」が素晴らしかったからだ。これはもう小説や物語を読んでの感想からはかけ離
れている。とりわけ印象に残った第三部の真鍋浩也と尾形祐輔との「対決」のシー
ンから、感銘をうけた箇所を抜き書きしておく。

《「人間は己の視点から決して逃れられない」真鍋が言葉を継ぐ。「なぜだと思う。
物語こそが自意識であるからさ。なぜ人間には意識がひとつしかないのか。無意識
の状態が存在しているのに、なぜ人間はそれを自分で知覚できないのか。自意識と
はいったい何だと思う。ぼくが以前から考えていたことはこうだ。つまり自意識と
は、身体という筐体を介して起き上がってくる物語なんだよ。人間は自らの身体と
いう筐体をいったん潜り抜けることで、自らの意識を認識する。自分の意識を知覚
するには、いったん身体を通らなければならないんだ。だがその意識は身体という
物理現象を擦り抜ける瞬間、時間という要素を取り込んでしまう。そのプロセスは
否応なしに人間の意識を物語化させる。自意識は身体を通り抜けた瞬間、“物語”
というひとつの塊に収束してしまうんだ、まるで波動関数の振る舞いのようにね!
 それが人間の宿命であり、意識のハード・プロブレムの核心に他ならない。逆に
いえば物語を受け入れる視点こそが自意識であり、その物語を紡ぐ鮮やかな質感の
集合こそが〈私〉という存在なんだ。ではその鮮やかさとは何だ。それはどうやっ
て獲得されるのか。身体機能を介した体験と自らの記憶との繋がり。そこには身体
という檻の間を行き来する知覚作用が不可欠だ」》(430-431頁)

《「ぼくたちは物語の中に入り込むと、〈私〉が切り離される」ぼくは腹に力を込
めて告げた。「物語の中に描かれた自分は、自分でないような気がする。喋った言
葉が一字一句同じであっても、完璧で的確な描写であっても、正確に事実を伝えて
いたとしても、どこかでぼくたちはそこに書かれた自分に違和感を持つ。物語に書
かれれば書かれるほど、ぼくたちの〈私〉は物語から切り離されてゆく。しかしさ
らにその状態が続くと、そのことさえも物語に取り込まれ、いくら抗おうとしても
跳ね返され、やがてぼくたちは責任を呑み込んで、それでもよいのだと思い始める。
そのときぼくたちの〈私〉は物語にようやく入り込む。(略)デカルトの“われ考
える、ゆえにわれあり”が意識中心主義だと一般に批判されるのなら、フランシー
ヌは考えたに違いない、そこからさえも抜け出さなければならないと。彼女の瞳が
力を持つその瞬間を見たぼくならわかる、デカルトの意識中心主義を最後の一点ま
ですべて排し、自らを殺したとき、彼女の私が新しい〈私〉になるのかもしれない
と……」》(432-433頁)

 小説を書くこと(ひとつの時空と世界観を立ち上げること)、物語を紡ぐこと、
あるいは物語の中に入ること、物語という密室の中に他者を取り込み閉じ込めるこ
と。人工知能(ヒト型ロボット)をつくること、あるいは子どもを産み育てること、
子どもが大人になること、子どもを世界観という密室の中に閉じ込めること。この
二つの問題系が「本当に深い意義のあるお話」(『指輪物語』のサムの言葉)の中
で渾然と一つに溶け込んでいく。

 物語とは、いや複数の物語(の可能性)を一つに収束させる小説とは、量子コン
ピュータのはたらきを夢見るための装置だったのかもしれない。ケンイチは小説を
書くことを願いつづけた。あるいは『デカルトの密室』のうちにはケンイチが書い
た小説が(尾形祐輔が書いた物語とともに)こっそりと挿入されていたのかもしれ
ない。

 最後に、この作品の最深部にしつらえられた自由意志をめぐる問題系に関連して、
本書の第三部を読みながら私の脳内にしきりに浮かんでいた言葉を記録しておこう。
それはウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の草稿(1917年1月10日)に綴っ
た次の文章だ。「自殺が許される場合は、全てが許される。何かが許されない場合
には、自殺は許されない。このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、
自殺はいわば基本的な罪だからである。」

●992●天外伺朗・瀬名秀明『心と脳の正体に迫る
     ──成長・進化する意識、遍在する知性』(PHP研究所:2005.9.30)

 実に面白い。無尽蔵に面白い。ここにあるのは比喩とアナロジーだけだ、と言っ
てしまえばそれまでだが、だからこそ面白い。以下、いくつか話題を拾っておく。

 第3章「植物の意識を探る」での三輪敬之氏の発言は示唆と刺激に富む。《「場
」は自身の内部に立ち現れてくる、情感を伴った空間で、対象化された物理的な空
間ではありません。僕たちは、「今、ここ」において即興的に会話をしていますが、
それが成立するためには、舞台が共有される必要があります。この舞台が「場」に
相当します。[以下、清水博の「即興劇モデル」による「場」の説明が続く。]「
場」は実体でなくて、働きなのです。》(71-72頁)

《「場」の研究に関連して、僕が今取り組んでいるのは、空間的に離れた場所間に
おいて、空間的な「間」、すなわち間合いを取り合って人々がコミュニケーション
をすることができるシステムの設計です。/互いが「間」を取り合うためには、互
いの異なる「場」が共通の一つの「場」へと統合される必要があります。そして、
その統合された「場」に互いの存在を位置づけることになるわけですね。これによ
り間合いが生成すると考えられます。この間合いがうまく作られないと、タイミン
グが合った共同作業が困難になります。つまり、時間的な間の生成に先行して空間
的な間が生成するものと考えられます。》(73頁)

 本書の底流にある「遍在する知性」というアイデアは、ベルクソンめいていてな
かなかナイス。そのベルクソンについては、第11章「意識を科学する」の冒頭で話
題になり、第13章「量子コンピュータで意識の問題は解決する」にも一度その名が
出てくる。

《天外 ホログラムは三次元の情報を復元するよね。しかもそのフィルムの一部だ
けを取ってきても、全体を復元できるという特性がある。脳はまさに量子ホログラ
ム復元装置かもしれない。そうすると、僕らのまわりにあるゼロ・ポイント・フィ
ールドは巨大な記憶装置だというんだ。
 瀬名 それこそ「遍在する記憶」ということになる。ベルクソンの「純粋記憶」
が、量子論と脳科学で蘇ってくるような感じですね!》(257-258頁)

 最後にもう一つ。「Aha!体験」は「抽象化能力」(人間の脳=能力の特徴の
一つ)の最たるものだという天外伺朗の説が面白い(253頁)。

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