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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.292 (2005/10/14)
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 □ 坂部恵『モデルニテ・バロック』
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●986●坂部恵『モデルニテ・バロック──現代精神史序説』
                          (哲学書房:2005.4.20)

 名著『ヨーロッパ精神史入門──カロリング・ルネサンスの残光』の続編ともい
うべき本書は、西欧日本を通底する千年単位の精神史的水脈のうちに近代日本のモ
デルニテの帰趨を位置付け、来るべき日本哲学の可能性を一瞥する誘惑の書である。

《バロックとは…モデルニテと通底してひとつの時代のおわりに立ち会いつつある
者の生と思考のスタイルにほかならず、一方でビザンチンや中世の水脈につながり
それらの見直しと再評価をうながすものとして、千年単位の歴史の展望と見直しへ
とおのずからわたしたちを誘うのです。》(53頁)

 著者の眼差しはパランプセストのように重ね書きされたスピリチュアリティーと
ポエジー、そして形而上学的思索の歴史を垂直の次元で切断し、そこに出現する「
あわい betweenness-encounter」を自らの身と感性と言葉でもってアクロバティッ
クにつないでいく。エリウゲナと空海。ニコラウス・クザーヌスと一条兼良。『神
曲』と『愚管抄』。あるいは「同時代人」としてのベンヤミン(1892〜1940)と萩
原朔太郎(1886〜1942)、そして九鬼周造(1888〜1941)。

《モダン・バロックのアレゴリーに深い理解と共感を寄せたベンヤミンのアレゴリ
ー論と、朔太郎と九鬼におけるアレゴリーの位置づけを比較対照してみれば、そこ
に時代精神のありかたとその文化的伝統に応じての偏差というべきものが浮かび上
がってくることでしょう。
 ある意味でモダン・アレゴリーに対応するものとして、二人が興味をよせた「い
き」も蕪村も、いずれも日本の文化史におけるバロック・タルディーフ、遅咲きの
バロックと称するべき現象でした。日本のバロックを、よくいわれるように、室町
から安土桃山にかけての時代に認めるとき、この領域にたいする二人の関心の欠如
ないし薄さをどう理解すべきでしょうか? このあたりについて考えてみることが、
「実存主義」の理解にはね返るとすれば、それは、どのような形をとってはね返る
でしょうか?》(79-80頁)

 本書には多くの謎と挑発が仕掛けられている。無尽蔵の刺激と創見が言い切られ
ることのない断片隻句のうちに鏤められている。

     ※
 『モデルニテ・バロック』。「霊性と創造することばの形而上に汲む」「千年単
位の歴史の展望」「エリウゲナと空海などヨーロッパ精神史と日本の並行に心を澄
まし現代性とは何かを問う」「時代の終りに立ち合うものの生と思考のスタイルと
してバロックは、モデルニテと通底する。垂直の時間の底に、いま、新たな歴史の
次元が発掘される」。腰巻きに印刷されたそれら謎めかした言葉たちが官能的に心
地よく身に染み入るのは、かつて『ヨーロッパ精神史入門』を読んだときの愉悦が
甦るからだ。(そういえば『ヨーロッパ精神史入門』を買ったのは元町の海文堂書
店だった。仕事帰りに何か哲学系の軽く読めて中身の濃い本を探していて、偶然目
にとまり直感を信じて購入した。これは『モデルニテ・バロック』の場合とほとん
ど同じ。期待が高まる。)

     ※
 『モデルニテ・バロック』を少し読んでパースとベンヤミンを繋ぐミッシング・
リンクの話(43頁)やギリシャ語のロゴスがラテン世界に入ってラチオとヴェルブ
ム(世界を生み出すことば・息吹=神言)に分岐した話(52頁)やベンヤミンと萩
原朔太郎の二人に共通する根っこの話(57頁)などに刺激を受けた。

 実は、前々からチャールズ・サンダーズ・パースとヴァルター・ベンヤミンとジ
ル・ドゥルーズを三位一体的に組み合わせて一望してみたいという思いがあった。
パースとドゥルーズはもともと『シネマ』でつながっている。パースとベンヤミン
の「影響関係」は『モデルニテ・バロック』で示唆されている。そこでも言及され
ていたドゥンス・スコトゥスやライプニッツにまで遡れば、パース=ベンヤミン=
ドゥルーズはきっと一つの思考の平面(内在平面?)に並置されるだろうという予
感があった。(実際、これまで読んだ本では山内志朗さんの『天使の記号学』にド
ゥンス・スコトゥスやライプニッツとともにこの三人が揃い踏みで登場している。)

     ※
 『モデルニテ・バロック』の最後に収められた「日本哲学の可能性」を読んだ。
名著『ヨーロッパ精神史入門』のコンパクトな要約と日欧の精神史的転換期の要を
得た比較は鮮やか。「霊性の基盤」(9世紀)、「個(体)の思考」(14-15世紀)、
「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)、「1960年代以降」の四区分
は年代記としてではなく一つの観念の生長のプロセスとしても活用できる。その背
景に潜む経済史的転換への目配りが素晴らしい。経済史─精神史的考察。哲学の「
制作」と「精神史的リソース」の活用。この二つの語彙が強く印象に残った。以下、
若干の抜き書き。

◎「科学と芸術のうちに(潜在的に)生きる哲学的思索にセンシティヴになること
は、今後の哲学とリベラル・アーツ精神の発展のために何よりも肝要なことといっ
てよいだろう」(237頁)。

◎「霊的修業のマニュアル」(244頁)という一面を多分にもつエリウゲナや空海
の「後の制度化されたキリスト教や仏教の枠におさまり切らぬ大胆さをもち、個人
とその連帯の、垂直の超越的かかわりをはらんだ原点を指し示す」思索は、「たと
えば、西田とエリウゲナの発想の近縁関係が指摘されたりもするように、(一九世
紀的な国民国家の枠組みなどとははじめから無縁な国際性をもち)、今日なおあら
たな思索を挑発して止まぬ精神史的リソースとして生きつづけているといえるだろ
う」(245頁)。

◎「個(体)の思考」と括られた転換期は「伝統的共同体の絆の弛緩にともなう個
の析出と孤立へのレスポンス」(246頁)という性格をもつ。この時期の日本にお
ける「他の個と垂直の超越の絆を介して連帯する個という思想の掘り下げ」は同時
期のヨーロッパに十分ひけをとらないほど活発だった。しかし「この連帯の面での
徹底が、かえってアトム的な個をまず擬制的に析出して(後の社会契約論にいたる
まで)しかるのちに連帯と謝絶(抵抗権等)のありようを考察するノミナリズム的
な社会哲学の内発的展開をむしろ阻害するようにはたらいた可能性」がある。
 この「共同体的連帯の重視」という側面が速くも『神皇正統記』で原理主義的イ
デオロギー化の方向を見せ、明治から昭和の最初の二十年までの共同体の思考に暗
い影をおとすことになった。「しかし、一方で、西田から西谷にいたる現代日本の
哲学者の多くが、共同体の問題を垂直の絆を含めて、ということは宗教(哲学)の
考察を必須の到達点として思索していることは、日本の精神史的リソースのもつポ
ジティヴな要素として評価することがすくなくとも可能だろう」(247頁)。

◎「リベラル・アーツ的な伝統ということをいえば、この時期[「個(体)の思考
」の時期]の歌論(詩論において空海はその先駆者でもあった)、連歌論、その他
多くの芸道論の類には、日本におけるひろい意味での哲学的制作に今後活用される
はずの多くの精神史的リソースが眠っているだろう」(247-248頁)。

 いま「日本的な知の遺産を現代につなぐ」といった趣旨の研究会に参加している。
場(空間)と縁(ネットワーク)の二つの側面からアプローチする。私が参加して
いるのは後者のチーム。そろそろ自分なりに探求する対象を明確にしないと思って
いた矢先、「日本哲学の可能性」は大きなヒントを与えてくれた。歌論と農書。こ
の二つの「精神史=自然(経済)史的リソース」(まずは前者)に取り組む。歌は
死に、農は生に通じる。生と死を媒介するもの、もしくはその基体としての身、す
なわち貨幣。こうして精神史=芸能史=農業史=経済史的考察がなりたつ。

     ※
 『モデルニテ・バロック』を五十頁ほど読む。

◎エスノサイエンス(土着の伝統科学)という言葉(147頁)。

◎「あわい」は「語り・語らい」や「はかり・はからい」の造語法と同じく「あう
」という動詞そのものを名詞化してできた言葉で、西田幾多郎の「場所」(動的な
述語)につながり、英訳すると“Betweenness-Encounter ”になること(170頁)。
それは「生死の連続体」(174頁)あるいは「生死の可逆性」(176頁)、「相互浸
透の関係」を含意すること。日本の古い使い方では「あわい」は男女のペアをさし
ていたこと(178頁)。また「潮時」という別の日本語で表現できること(178頁)。

◎「振舞い」という日本語は「振り」「振りをする」(Mimesis)と「舞い」(Tan
z)に分解できること(173頁)。舞いは振舞いの極限形態であり、ベルクソンが『
時間と自由』の最初の方でその見事な哲学的分析をしていること(この本は一度読
んだけれど覚えていない)。ポール・クローデルが「西洋の劇では何かが起こり、
能では何かがやってくる」という言葉を残していること(177頁)。

 ざっと拾い出しただけでもこれだけのネタがある。「エスノサイエンス」や「あ
わい」や「振舞い」や「能」は「場と縁」の研究にリンクできる。「あわい=潮時
」は今読んでいる木村敏『偶然性の精神病理』の「タイミングと自己」につながる。
全体に漂う西田幾多郎の影は『物質と記憶』にも関連していく。そして「男女のペ
ア」は吉本隆明の「対幻想」(ラカンの想像界)を経て三浦雅士『出生の秘密』の
最終章(595-598頁)にリンクを張ることができる。

 『出生の秘密』に関連して思いついたことがあるので書いておく。『青春の終焉
』『出生の秘密』に続く第三部のテーマについて。二つの方向がある。その一は、
最終章に出てくる「対幻想」を手掛かりに、生死・男女の「あわい」を描く妊娠小
説とか情死小説を素材にして物質への夢を探求するもの(たとえば村上春樹『東京
奇譚集』所収の「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てくる腎臓石=胎児の
夢)。

 その二は、言語の二重性を手掛かりにするもの。ここでいう二重性は「物質と意
味」のそれではなく、坂部恵『モデルニテ・バロック』の底流をなすロゴスの二つ
の流れのこと。すなわち「理性(ラチオ)」としてのロゴスと「生きた(神の)息
吹にほかならぬことば(ヴェルブム)」としてのロゴス(144頁)。とりわけ「ヴ
ェルブム」(Verbum)──「世界を生み出すないし流出させる力としてのロゴス(
ヘブライ語のダーバール)」(94頁)のラテン語訳であるヴェルブム、(唯識や密
教にも近い)新プラトン主義の伝統に根ざし(97頁)、バロックの源流としてのヘ
レニズム期の中近東、とりわけビザンチンの伝統を汲んだヴェルブム(143頁)──
に着目した言語哲学の書。

     ※
 坂部恵『モデルニテ・バロック』に「リベラル・アーツ的な伝統ということをい
えば、この時期の歌論、連歌論、その他多くの芸道論の類には、日本におけるひろ
い意味での哲学的制作に今後活用されるはずの多くの精神史的リソースが眠ってい
るだろう」とあったのにいたく刺激を受けたことは前に書いた。

 「この時期」とは14世紀から15世紀にかけての中世日本のこと。ネットで調べて
みると、この時期の主要な歌論としては二条良基[1320-1388]の「近来風体抄」、
正徹[1381-1459]の「正徹物語」、心敬[1406-1475]の「ささめごと」がある。
岩波文庫の『中世歌論集』にはこの三篇のほか藤原俊成「古来風体抄」や藤原定家
「近代秀歌」や「後鳥羽院御口伝」など計十一編が収められていて便利だが、残念
ながら品切れ。田中裕(丹仙)さんの「桃李歌壇」、「主催の部屋」の掲示板「連
歌論・能楽論」で「心敬を読む」というプロジェクトが進行している。「ささめご
と(天理本)」の原文も掲載されている。まずはこのあたりから初めてみるか。

 正徹と心敬、世阿弥と禅竹。この二組の関係は併行していると誰かが書いていた。
心敬と禅竹は「禅」でくくれるということらしい。松岡心平さんが『世阿弥を語れ
ば』の松岡正剛との対談で、観阿弥、世阿弥、元雅もしくは金春禅竹の三代の天才
がつづかないと能楽があの高みに達することはできなかったと語っている。だとす
ると、正徹、心敬に先立つのは二条良基か、それとも俊成・後鳥羽院・定家の新古
今トリオか。

 同じく『モデルニテ・バロック』に、「あわい」は「あう」を名詞化してできた
言葉で英訳すると“Betweenness-Encounter ”になるとあり、これは木村敏『偶然
性の精神病理』につながるのではないかということも前に書いた。「タイミングと
自己」を読み終えてますますその確信が深まった。

 木村敏は「日本人は、時間という現象を「タイム」という客観化可能な(リアル
な)「もの」として理解する以外に、タイムがアクチュアルに「タイムする」、そ
の一瞬の微妙な動きを「タイミング」として捉える特別な感覚に古来長けていたの
ではないか」(111頁)と書いている。またタイミングを「意識と無意識、個人の
人称性と個人を超えた匿名性、時間と自己、時間と生命などがたがいに触れ合う界
面的な次元」(121頁)に位置づけ、「自他の界面現象としてのタイミング」と表
現している。

 この「タイミング」は潮時とか間合いといった複数の日本語におきかえることが
できそうだが、歌論、連歌論などを読むとそのものズバリの言葉が見つかるかもし
れない。「症例」に出てくる患者の言葉に「フライング」がある。「人と話してい
ても間がもてなくて、全体の雰囲気よりも早めに出てしまう。いつもフライングし
ている感じ」。日常語に「舞い上がる」とか「(場の雰囲気から)浮いている」が
あるが、これもまた連歌論、能楽論あたりに適切な語彙が見いだせるかもしれない。

     ※
 精神史的リソースとしての中世芸道論研究のための文献を探しに図書館をはしご
した。どれだけ読めるかはともかく、雰囲気をもりあげるための七冊を選んで持ち
帰った。ドナルド・キーン『日本文学の歴史5 古代・中世篇5』(連歌の章を含
む)、草月文化フォーラム編『日本のルネサンス(上)』(松岡心平・大岡信他の
鼎談「寄合の芸能」を含む)、酒井紀美『夢語り・夢解きの中世』『夢から探る中
世』、松岡心平編『世阿弥を語れば』、網野善彦・宮田登『神と資本と女性──日
本列島史の闇と光』(書名に出てくる女性・資本・神は『レヴィ=ストロース講義
』の性・開発・神話とパラレルだ!)、大岡信『うたげと孤心──大和歌篇』、丸
谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)の八冊で、いずれも一度か二度
目を通したり書店で立ち読みをしたものばかり。

 図書館からの帰りにカフェに寄って『神と資本と女性』の第一章「資本主義の考
古学」を読んだ。三浦雅士が聞き手になって網野善彦が語るインタビュー。印象に
残った発言を抜き書きしておく。

《マルクスの偉いところだと思うのは、研究の領域をどんどん広げ、それとともに
その言説自体を変えていく点ですね。「共同体」について、資本主義が発展してい
く過程で、どのように苦痛を伴う悲惨なことが起ころうと、アジア的、インド的な
停滞を支えた共同体は壊れたほうがいいと言っているのですが、晩年、ロシアのこ
とを勉強すると、共同体は社会主義の基盤になりうるかもしれないと言いはじめる
わけです。(略)マルクスの好きな、「なべて理論は灰色、ただ緑なす現実こそ豊
かなれ」という言葉は私も大好きですね。》(19頁)

《生産物を商品にするということは、人間の力の及ばない世界に投げ込むことこと
なんですよ。市庭[いちば]というのはそうした場です。商品、貨幣、資本の問題
は本質的には人間の社会の最初、原始時代から考える必要があると思います。交換
は人類の本質に関わる問題ですから。しかし、日本では、少なくとも都市が広範に
形成される十四世紀ぐらいから、社会体制と関連させて考えなければならないでし
ょうね。「資本主義」はすでにその頃から始まっているともいえます。》(37頁)

 網野善彦がいう「十四世紀」は、坂部恵の(四つの)「精神史的転換期」の第二
期、つまり「個(体)の思考」の時期(日欧ともに14-15世紀)と重なる。丸谷才
一の(五つの)「日本文学史の時代区分」にいう第三期にすっぽりとおさまる。こ
こで坂部(□)・丸谷(△)の時代区分を重ね合わせてみる。坂部の「霊性」が丸
谷の「呪術性+色好み(エロティックな感受性)+政治」(宮廷文化の特質)と響
き合う。(日本文学史における「垂直性」の次元は中国に相当するのだろうか。)

 △第一期「八代集以前」(?──9世紀なかば)
  □「霊性の基盤」(日欧ともに9世紀)
 △第二期「八代集時代」(9世紀なかば──13世紀はじめ)
 △第三期「十三代集時代」(13世紀はじめ──15世紀すゑ)
  □「個(体)の思考」(日欧ともに14-15世紀)
 △第四期「七部集時代」(15世紀すゑ──20世紀はじめ)
  □「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)
 △第五期「七部集時代以後」(20世紀はじめ──?)
  □「1960年代以降」(日欧共通)

 『日本文学史早わかり』は標題作と「歌道の盛り」の二つのエッセイを読んだ。
昔読んで深い感銘を受けた記憶がある。新しい関心のもとで読み返すと、あらため
て新鮮な感興を覚える(「夷齋おとしばなし」というエッセイも収められていて、
かつての石川淳狂い再熱の予感におそわれた)。標題作からは、詞華集的人間(「
アンソロジー・ピース」を参考に造語した丸谷手製の「アンソロジー・マン」の訳
語,68頁)とか「宴遊、社交、そして室内装飾としての」実用的な詩(70頁)など
の概念を蒐集できた。以下、標題作から「場と縁」に関係しそうな箇所を二つ抜き
書きしておく。

《この時代[十三代集時代]に連歌が盛んになつたのは意義深いことで、それは第
一に、三十一音の和歌以外の詩形を日本文学にもたらした。そして第二に、和歌が
挨拶としての機能を失ひ、孤独な藝術になつた寂しさを補ふやうにして、社交性や
遊戯性や即興性を詩に回復した。それは集団の制作で、露骨に共同体的な詩であつ
た。しかし皮肉なことに、この共同体の詩は詞華集に向かなかつたのである──『
菟玖波集』『新撰菟玖波集』と准勅撰が二つも生まれたにもかかはらず、われわれ
はこれらの連歌集を読んだとて、ほとんど、連歌のおもしろさを解することができ
ない。》(60頁)

《非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があ
るとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。
といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つこと
は不可能で、共同体の力によつて持つからである。孤立した個人にさういふことが
できるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎないだろう。事実われわれは、その
ことの不可能をいはば無意識的に知ってゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞
華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は
共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもた
らすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から
伝はつて来た力を失ひ、社会を築くことをやめてしまつた。》(85-86頁)

 文庫版の巻末に寄せられた「著者から読者へ 二十八年後に」も面白い。王朝和
歌=藤原定家とエリオット=ジョイスを結ぶ線として、「正徹の歌論を介して日本
の文藝理論がモダニズムの批評に近いことを感じとったとき、文学における伝統の
重要性がきびしく迫ってきたのである」(221頁)と述懐しているくだり。(ここ
での文脈とはまるで関係ないが、『中世芸能を読む』の「連歌的想像力」の中で松
岡心平が紹介している正徹の言葉が面白い。「骨髄に通じて面白きなり」98頁)

 もう一つ。私(丸谷)の日本文学史は「朦朧たる観念語によつて述べられるので
はなく、具体的な物件によつて表現されることが望ましい」。その「物件」とは勅
撰集のことで、「それは一方においてわが文学における宮廷文化の重要性を示し、
他方、『古事記』から谷崎潤一郎に到る系譜が個人主義の所産ではなく共同体的な
性格のものであることのしるしとなる、と感じられた」(223頁)。

     ※
 坂部恵の日欧精神史的転換期の説と丸谷才一の早わかり日本文学史の組み合わせ
が頭の中でどんどん増殖していく。

 ミシェル・ウエルベックが『素粒子』で提唱し中沢新一が『カイエ・ソバージュ
』シリーズでとりあげた三つの形而上革命(一神教革命、科学革命、そしていまだ
到来しない第三次形而上革命)と組み合わせてみたり、ゾーエー的・種的な「霊性
」とビオス的・個的な「魂」、無意識と意識、システムと情報(養老孟司)、共同
体=水平軸と伝統=垂直軸(丸谷)といった二つの概念、ヘーゲル=パースのイコ
ン・インデックス・シンボルやヘーゲル=ラカンの現実界・想像界・象徴界という
三つ組みの概念(声・顔・身という「仮面的なもの」の三つの形象、レヴィ=スト
ロースの性・開発・神話的思考、等々)その他諸々の概念や観念や形象を重ね合わ
せたりしているうち訳が分からなくなっていく。

 想像界は性と食の世界である(三浦雅士『出生の秘密』)。だとすると、勅撰集
の部立てが四季歌と恋歌中心であること(『日本文学史早わかり』)と大いに関係
してくる。農書と歌論という「研究対象」にも近づく。そこに貨幣・金融・資本論
をどう組み合わせるか。これはほとんど独語的覚書。

     ※
 神が宿るのではない、存在が神なのだ。場と縁の研究会、縁グループの会合に出
席してこの言葉(宗匠・弁天さんの命題)を知ったことが第一の成果。第二の成果
はケルト熱が再発したこと。

 坂部恵さんの「日本哲学の可能性」(『モデルニテ・バロック』)によると、西
欧日本を通じた第一の精神史的転換期(9世紀、霊性の基盤)を代表する思想家は
エリウゲナと空海で、この二人の並行性は多岐にわたるが、その一つはかれらの思
想のなかに「民衆のメンタリティーのなかに生きてはたらく思想や霊性と通底する
ところ」があったこと。修業時代の空海が日本古来の山岳修業者の伝統とかかわり
をもったこと。アイルランドに出自をもつエリウゲナの思索にケルトの想像力、構
想力と通底するところがあったこと。ケルトの霊性と日本の霊性。このあたりのこ
とは永久保存本、鎌田東二『宗教と霊性』を再読して確認しておこう。手元におい
ておきたくて二冊買った坂部恵『仮面の解釈学』もあわせて読んでみることにしよ
う。

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