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■ 不連続な読書日記 ■ No.291 (2005/10/11)
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□ 内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る』
□ 吉永良正『『パンセ』数学的思考』
□ 『レヴィ=ストロース講義』
□ 前田英樹『倫理という力』
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●982●内田樹・春日武彦『健全な肉体に狂気は宿る──生きづらさの正体』
(角川oneテーマ21:2005.8.10)内田樹はほんとうによくしゃべる。ホモ・ロクエンスとはこの人のことだ。「放
談集」といってもいい本だが、随所に叡智の言葉がちりばめられている。ことばの
力は身体感覚を変える。いい比喩(『ハウルの動く城』に出てきた、あの黒いドロ
ドロになったようなつもりで!)に出会うと人の動きはパットと変わる(110頁)。
人格を変えなきゃ、声も変わらないですよ(184頁)。以上、内田。残虐な行為は
一度存在してしまったら、あとは次々と宿主を変えて取り憑いていく精神的な寄生
体なのである(229頁)。これは対談を終えた春日の言葉。いずれもほんの一例。
●983●吉永良正『『パンセ』数学的思考』(理想の教室,みすず書房:2005.5.30)
モンテーニュの『エセー』と『パンセ』と『徒然草』は枕頭の書、無人島へのス
プートニク(旅の道連れ=連中)その他言い方はなんであれ、愛読書というよりは
もう少し切実に身体の内側に寄り添ったかたちで読みつづけていきたいとかねがね
思っていた。松岡正剛さんの言葉を借りれば「言葉のチューインガムのように噛む
」とか「本を噛む」といった感覚で(「千夜千冊」第三百六十七夜)。あと一冊日
本の古典を選び西欧と日本のバランスをとりたいとも思っていて、そんなことに気
をとられているから肝心の『エセー』や『パンセ』や『徒然草』を読む(噛む)時
間がなかなかとれない。──で、『『パンセ』数学的思考』を読んだ。「理科系の哲学入門」とカバー裏
に謳ってある。テーマは「パスカルの思想には数学的思考が通奏低音のようにつね
に流れている」(100頁)というもの。たとえば「パスカルは自然を見たままに観
察したというよりも、数学的な構想力によってそれをモデル化し、そこに無限から
無までを貫く一様なフラクタル構造を想定していた」(98頁)といった具合。この
話題が出てくるのが第1回「宇宙空間の永遠の沈黙」で、第2回「無限大と無限小
の中間」では章名に書かれている話題や真空をめぐる話題が取り上げられる。第3回「パスカルの数学的思考」には確率論の話が出てきて『パンセ』後半の宗
教論への入り口あたりまで案内してくれる。『パンセ』の断章のすべては祈りのな
かで書き留められたものだ(132頁)とか、パスカルは二○世紀の思想家シモーヌ
・ヴェイユとその兄で大数学者のアンドレ・ヴェイユをいっしょにしたような人物
だった(133頁)とか、著者の身体感覚に根づいた含蓄のある言葉がちりばめられ
ている。『パンセ』へと誘惑される。●984●『レヴィ=ストロース講義』
(川田順造・渡辺公三訳,平凡社ライブラリー:2005.7.10)レヴィ=ストロースの講演を京都で聴いたことがある。たしか日文研が主催した
催しで、梅原猛の「日本人のあの世観」についての講演の後だったと記憶している。
内容はほとんど記憶になく、日本神話、それもスサノオの名が出てきたのを覚えて
いる程度だが、20世紀を代表する知性の肉声と肉顔に接したことは貴重な経験だっ
た。本書に収められた三つの講演は1896年、いずれも東京で行われたもの。京都公
演と時期的にはほぼ重なり合うが、記憶が不確かなのであてにならない。以下、本
書からの若干の抜き書き。◎「西欧では、人類学的探求は、ひどく異質な文化に触れることを可能にした大航
海の影響のもとで始まりました。/一方、当時鎖国していた日本においては、それ
は「国学」によって始められたと考えられ、一世紀後の柳田国男の記念碑的な企て
もその伝統につらなっている、少なくとも西欧から観察するかぎりではそのように
見うけられます。」(35-36頁)◎「文化とは、ある文明に属する人びとが世界ととり結ぶさまざまな関係の全体の
ことであり、社会とは、それらの人びとがお互いのあいだにとり結ぶさまざまな関
係のことをさしています。」(112頁)◎「人間の進化は、生物学的進化の副産物ではないのです。(略)おそらく人類の
発生の初期には、直立歩行、器用な手の動き、象徴を用いる思考の能力、発声およ
び伝達能力など、文化以前の属性が生物学的進化によって選択されたのでしょう。
ところが文化が形づくられはじめたとき、これらの属性を確立し広めていったのは
文化なのです。」(156-157頁)そのほか、文字のない社会の研究成果がいかに現代社会の問題解決に寄与するか
を論じた第二講演でとりあげられた三つのテーマ──すなわち「性」(家族・社会
組織)と「開発」(経済生活)と「神話的思考」(宗教思想)──はとても射程の
広い区分だと思った。また、レヴィ=ストロースが人類学の方法は世阿弥の「離見の見」と通じ合うと
述べたことについて、川田順造が巻末に寄せた文章の中で、それはアメリカ文化人
類学でいう“detachment”に対応させられるだろう、しかし世阿弥の説は「離見の
見にて見る所はすなわち見所同心[けんじょどうしん]の見なり」(『花鏡』)と
いう言葉に凝縮されているように、「為手[して]が我見[がけん]を離れること
によって、見所すなわち観客と心を共有できる場を創出することにある」のであっ
て、「隔たりを置くこと」(デタッチメント)とは細かいようだが重要な違いがあ
るのではないかと書いていたこと(236-238頁)も印象に残った。※
『芸術新潮』9月号にレヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』が紹介
されていた。レヴィ=ストロースその人を撮影した写真集ではなく、二十代半ばの
レヴィ=ストロースが撮影したブラジル先住民の写真集。それまでの民俗学写真と
くらべこの写真集のどこが画期的だったのかと問われて、港千尋いわく「撮影者の
視線の低さです。背の高いあのレヴィ=ストロースがしゃがみこんで、先住民の子
どもたちを、上から見下ろすのではなく子どもと同じ低い視線で撮っている。視線
は対等になり、撮影者は子どもたちを見ると同時に、子どもたちから見られてもい
る。このような視線の対称性はそれまではほとんどなかった」。※
養老孟司さんが「鎌倉傘張り日記」(『中央公論』10月号)に面白いことを書い
ている。「言葉と文化」が今回のエッセイの題名。中国語は奇妙な言葉で、西欧語
にも日本語にも冠詞があるのに中国語にはそれがないというのだ。日本語に冠詞が
あるとは初めてきいた。養老孟司の説明によると、「昔々おじいさんとおばあさん
」と来ればそのあとは「が」である。次に「おじいさん」と来れば「は」である。
先の「おじいさん」は概念としてのおじいさん(ア・おじいさん)で、山に芝刈り
にいくのは具体的かつ感覚的なおじいさん(ザ・おじいさん)である。英語の不定
冠詞、定冠詞と同じ働きを日本語の助詞「が」と「は」がはたしているのである。
中国人が日本人というとき「ア・日本人」(概念的なもの)と「ザ・日本人」(感
覚的なもの)の区別がない。だから個々のケースが全体とみなされやすい。中国が
政治的であり原理的であるのは中国語の性質によるのだ。以下略。昔読んだ本の中で、何が正義かをめぐる個々の正義観は千差万別でもそこには共
通の正義の概念がある、といったことが書いてあった。(昔読んだ本というのが井
上達夫氏の『共生の作法──会話としての正義』であることは間違いない。でも人
にやってしまって今手元にないので議論の詳細が確認できない。)言葉の使い方は
逆転しているが、ここで言われる「正義観」が不定冠詞のつく概念的なもので「正
義の概念」が定冠詞のつく感覚的なものと考えてみると面白い。この場合の「感覚
」はたとえば「生命感覚」とか「宇宙感覚」などと言われるときの根源的かつ普遍
的な感覚を表現している。あるいは数感、哲覚のたぐい。個別であれ普遍であれ何
かがたしかに実在しているという感覚。これに関連して(いるかどうかはともかく)レヴィ=ストロース講義の一節を想
起したので抜き書きしておく。《哲学的あるいは科学的思考が概念を作り、概念の
連鎖によって論理を進めるのに対し、神話的思考は、感覚的世界からとりだされた
イメージによって展開されます。/神話的思考は、観念のあいだに関係を設定する
かわりに、天と地、地と水、光と闇、男と女、生のものと火にかけたもの、新鮮な
ものと腐ったものなどを対置します。こうして、色彩、手ざわり、味わい、臭い、
音と響きといった感覚でとらえられる質を用いた論理体系が創り上げられるのです。
神話的思考はこれらの質を選び、組み合わせ、対置することによって、なんらかの
形で暗号化されたメッセージを伝えるのです。》(119頁)●985●前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書:2001.3.20)
プラトンは『パイドロス』で正確に考える人(知恵を愛する人)を「巧みな料理
人」に譬えた(82頁)。ベルクソンはこの比喩を愛好した。著者もこれを愛好する。
だから倫理を語る本書にトンカツ屋のおやじが登場した。「トンカツ屋のおやじは、
豚肉の性質について、油の温度やパン粉の付き具合について随分考えているに違い
ない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及
ばない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。このことを怖れよ。この怖
れこそ、大事なものである。」(8頁)なぜか。「怖れることができるには、自分
より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる」(10頁)からである。著者もまた「巧みな料理人」として倫理という食材を捌く。その旨味、すなわち
「潜在的道徳」(20頁)や知性でも本能でもない「第三の能力」もしくは強い大き
なひとつの力としての「倫理の原液」(30頁)をひきだすために。倫理とは人間の
業である。しからば人間とは何か。道具を使う動物である。言語を操る動物である。
この最初の分割(捌き)が本書の基調(風味)をかたちづくる。道具は自然との接触において技術という知恵をうみだす。美味いトンカツを揚げ
る技とスピノザを註釈する技倆とが同じ価値で出会うような場所で成り立つ技術、
その技術を継ぐことが同時に人間というものを継承することであるような技術(83
頁)。それは木(自然)に学ぶ宮大工の棟梁の信仰と倫理学(152頁)につながっ
ていく。「これは職人だけの領分ではない。生活の至る所に開けた自然への通路で
ある。自然は私たちの知性に、ほんとうは何をさせたがっているのか、宮大工はど
うやらそれを知っている。「物の心」、「人の心」を知る彼のやり方が、そのまま
彼にその知恵を育てさせる。このような知恵が発する声に、私たちは耳をすませた
ほうがよい。その声の向こうにもっと低いもうひとつの声が聞こえる。それは、自
然が知性に命じる声だ。道具を用いる知性が知性を超えて、ひとつの黙した倫理に
達する路が、ここにある。」(160頁)言語は知性の発明品ではない。知性(個体の能力)が本能(集団の能力)から完
全に分化したその地点に、言語は知性と共にすでに存在していた(114頁)。著者
はそう考える。まず知性のエゴイズムから共同体を防衛するために、死後の世界や
転生の物語を言葉や絵図で仮構する「静的宗教」が生まれた。しかし、宗教は知性
に対する自然の防衛反応である以上にもうひとつの源泉をもっている。すなわち「
エラン・ヴィタール」(ベルクソンではなく著者自身の言葉でいえば「倫理の原液
」)。ある「特権的な魂」によって告げられる「あなたの隣人を愛せよ」というた
だそれだけの言葉のうちに集約される「動的宗教」。「静的宗教のなかに点火され
て人類のなかに燃え続けてきた何か、消えかかっては再燃し、飛び火していった何
か、宗教と呼ぶにはあまりに単純な言葉でしか表わすことのできない一つの力、私
たちの社会を世界規模の危機から救うものは、まずこれだろう。これを動的宗教の
本質と呼ぶかどうかはどうでもよい。この力は、黙していて、個体の知性の上に、
知性以上の強い動力としてやってくる。」(129-130頁)こうして調理の仕上げの段階を迎える。自分より桁外れに大きなものへの怖れ。
自然が知性に命じる声。知性が知性を超えてひとつの黙した倫理に達する路。個体
の知性の上に、知性以上の強い動力としてやってくる沈黙の力。「私たちの生の目
的は、自然という〈ひとつの生〉が創り出す目的と同じ方向を向いている。私たち
の理性は、この目的が何なのかを問うことはできる。が、明確な答えを引き出すこ
とはできない。「在るものを愛すること」だけが、ついにその答えになる。答えて、
その目的に応じる行為となる。それなら、この答えがうまく出るような生への問い
方を、私たちは絶えず工夫しているほうがよい。それが、他のどの動物でもない、
人間として生きるということではないのか。」(185頁)生の究極の目的は、決して忙しがらずに美味いトンカツを揚げること、毎日白木
のカウンターを磨き上げながら自分の死を育てていくことである。人はこの言葉に
説得されるだろうか。「在るものを愛すること」という言葉は在るものを愛するこ
とへと人を動かすだろうか。もしそうであれば、ここにひとつの奇跡が成就したこ
とになるだろう。著者の綴る言葉は熟成したソース(倫理の原液)に浸された芳醇
な料理としてさしだされる。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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