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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.290 (2005/09/20)
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 □ 村上春樹『東京奇譚集』
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「ねじまき鳥」以来の長篇・中編・短編のサイクルがこれで二巡した。『ねじまき
鳥クロニクル 第3部』(1995)、『スプートニクの恋人』(1999)、『神の子ど
もたちはみな踊る』(2000)の第一期。『海辺のカフカ』(2002)、『アフターダ
ーク』(2004)、そして『東京奇譚集』(2005)の第二期。私がたてたムラカミハ
ルキの法則によると二巡でパターンが変わるはずだが、これは当てにならない。
 

●981●村上春樹『東京奇譚集』(新潮社:2005.9.18)

 就眠前に一篇だけのつもりで読み始めたら止まらなくなり、二時間ほどかけて最
後まで読み耽った。ちょうど五篇のオムニバス映画を観た感じ。でも読んでいる間、
映像が浮かび上がることはなかった。NHK教育を小音量でつけていて誰かがピア
ノ・ソナタを演奏したり義太夫を唸っていたが、ほとんど耳に残っていない。活字
が音となって響くこともなかった。純粋に文章を「読む」ことに集中し、そこから
立ち上がる物語世界に没頭した。至福の二時間。私の頭の中に村上春樹のための場
所が確立されているのだろう。短編集としては『神の子どもたちはみな踊る』の完
成度が高いように思うが、村上春樹らしい軽く浅い陰影が忘れ難い読中感を醸しだ
す小品集だった。

     ※
 ここには五つの断面が描かれている。異界へとつながる通路・裂け目、あるいは
実と虚、生と死、男と女の「あわい」──「あう」の名詞化、坂部恵はこれを“Be
tweenness-Encounter ”と英訳する(「生と死のあわい」,『モデルニテ・バロッ
ク』170頁)、村上春樹的形象でいえば「耳」または三半規管。これらの断面にお
ける奇譚的出来事との遭遇がもたらす知覚(平衡感覚)と記憶(時間)の変容の五
つのかたちが描かれている。

 誰よりも鋭い耳(34頁)をもった調律師は、十年ぶりの姉との再会に際して「物
体と物体とのあいだの距離感」(36頁)を喪失する(「偶然の旅人」)。絶対音感
をもつピアニストは、息子が鮫に襲われて死んだ海を眺めながら過去と将来の「時
制」を見失う(51頁,「ハナレイ・ベイ」)。異界へのドアを探している「私」は、
階段の踊り場の大きな鏡に向かい合ったソファに腰を下ろしていて「25分」(102
頁)の記憶の消滅を体験する(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」)。人
の名前を盗む猿に心の闇を言い当てられた女(みずき)は、身体がほどけ皮膚や内
臓や骨がばらけてしまいそうになる(206頁,「品川猿」)。

 そして、何よりもバランスを大切にする女(キリエ)と本当に意味を持つ女性を
探しつづける小説家の男(淳平)が登場する「日々移動する腎臓のかたちをした石
」では、同名の作中作の中で腎臓石(胎児?)に支配された女医が現実へのいっさ
いの関心を失う(146頁)。

 とりわけ興味深いのはこの(「どこであれそれが見つかりそうな場所で」と「品
川猿」の間に配列された四番目の)短編で、そこでは断面が告知するもの──すな
わち「肉体における腫瘍みたいに」(180頁)増殖する心の闇=「空白」(154頁)
──からの救出ではなく、それとの親密な「バランス」を通じて「自分という人間
が変化を遂げる」(152頁)ことへ向けた作家のメッセージが、小説家の苦難(小
説制作上の)を救ったキリエの口を通じて伝達される。

《たとえば風は意思を持っている。私たちはふだんそんなことに気がつかないで生
きている。でもあるとき、私たちはそのことに気づかされる。風はひとつのおもわ
くを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内面にあるすべ
てを承知している。風だけじゃない。あらゆるもの。石もそのひとつね。彼らは私
たちのことをとてもよく知っているのよ。どこからどこまで。あるときがきて、私
たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。
それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく。》(145頁)

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