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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.289 (2005/09/19)
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 □ ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』
 □ 三浦雅士『出生の秘密』
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●979●ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』
                   (柴田裕之訳,紀伊國屋書店:2005.4.6)

 四か月かけて読んだ。最初の興奮はしだいに薄れていったけれど、一字一句おろ
そかにせずに、それでいて自由気儘に、連想、空想、妄想の類の跳梁を楽しみなが
ら読み続けた。実に面白い書物だった。仮説形成による推論(C・S・パースの「
アブダクション」)の醍醐味を存分に味わった。

 「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分[右利きの人にとって
は右脳]と、それに従う「人間」と呼ばれる部分[同じく左脳]に二分されていた
」。そして「どちらの部分も意識されなかった」(109頁)。なぜなら意識は約三
千年前、言語表現の比喩機能(投影連想)によって生成されたからだ(78頁)。す
なわち、意識は生物学的進化によって生まれたのではない。それは言語に基づいて
いる。意識は幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二分心」(
bicameral mind =直訳すれば「二院制の心」)の精神構造の衰弱とともに、ほぼ
三千年前に誕生した。

 本書第一部で提示されるこの仮説の論拠は、『イーリアス』の登場人物たちには
主観的な意識も心も魂も意思もなかったことと、側頭葉損傷による癲癇患者を対象
としたペンフィールドらの実験結果にある。論証はけっして緻密ではない。にもか
かわらず、第二部、第三部と物語的感興に富んだ叙述を読み進めていくうち、「二
分心」の仮説に説得されてしまう。神の内在と超越。今後「神」という語彙が使わ
れた文章を読むたび、この本を想起することになるのではないか。

     ※
 補遺の一。本書と同時に読んだ古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学
』第四章に出てくるシャーマンとしてのソクラテス、ダイモーン的人間としてのソ
クラテスはほとんど「二分心」の精神構造をもったミケーネ人(『イーリアス』の
英雄)と同等だ。また、古代ギリシャ哲学が「神の死」(ギリシャ神話は神の殺害
のおとぎ話である)の後の精神状況(死んだ神にかわる新しい至高性の希求)から
生まれたとする古東哲明の議論とつながる。『現代思想としてのギリシア哲学』と
同時進行的に読み進めた大森荘蔵の『知の構築とその呪縛』に出てくる「略画的世
界観」から「密画的世界観」への転換の議論とも響きあっている。

 補遺の二。『神々の沈黙』の第一部を読んでいて、信原幸弘『考える脳・考えな
い脳』を想起した。信原さんはそこで、脳は「構文論的構造を欠くニューロン群の
興奮パターンの変形装置」であって「そのような変形をつうじて、外部の環境のな
かに外的表象を作り出し、それを操作することもできる」、つまり「構文論的構造
をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステ
ム全体によって産み出される」と結論づけていた。

 補遺の三。そもそも意識は脳の中にはない。意識を紡ぎ出すのは脳の機能かもし
れないけれど、少なくとも脳の中には意識はない。たとえば茂木氏のいう「脳内現
象」は実は「(物質としての)脳の中の現象」ではない。言葉というものは脳から
出力されるが、出力され記録された言葉は脳の外にある。そして、意識は言葉にス
ーパービーンする。──上野修さんが『スピノザの世界』で書いている。「一般に、
下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現して
いるとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービ
ーン(併発)している。」(116頁)

     ※
 養老孟司さんが毎日新聞(4月17日)で『神々の沈黙』の書評(「脳の右半球は
何をしているのか」)を書いていた。

《意識の問題は、脳科学の暗黙の中心的なテーマである。いちばん新しい意識に関
する総説を探して、著者の本が引用されているかどうかを見たが、されていなかっ
た。脳科学の現役の研究者は、人にもよるだろうが、だから読まない可能性がある。
脳の左右半球に関する知見も、著者の時代からかなり変わってきたからである。そ
の点では、私自身の意見も、著者とは異なっている。
 しかしこの本の価値は、そういう点に依存するのではない。現代社会をまさに「
支配する」意識、それが歴史的な時代になってはじめて出現したという議論が傾聴
に値するのである。日本史の例でいうなら、本居宣長を想起する人もあろう。現代
における「意識中心主義」は、ほとんど病膏肓の域に達している。科学はまさに意
識以外のものを否定する。意識以外のものがあるなら、それは「意識化されなけれ
ばならない」からである。それが蔓延した社会で「理科系の大学院まで出たのにな
ぜ」というオウム真理教事件が起こる。意識中心主義を詰めていったら、本当にオ
ウムは生じないのか。オウム事件の被害者、加害者は、果たして意識的理解によっ
て救われるのだろうか。
 著者の書物もまた、現代意識の産物である。しかし著者はそれを「知っている」。
そこが重大な点なのである。近代意識の前提は、自分がなにをしているのか、各人
がそれを知っているということである。近代科学者は本当にそれを「知っている」
のであろうか。》

●980●三浦雅士『出生の秘密』(講談社:2005.8.15)

☆8月12日
 『群像』に連載されていた三浦雅士の『出生の秘密』が刊行された。腰巻きの謳
い文句に「衝撃作『青春の終焉』に続く新たな地平」とある。ぱらぱらと眺めてい
るとラカンの「想像界・象徴界・現実界」とパースの「イコン・インデックス・シ
ンボル」の関係を論じた箇所があってぐっときた。いずれ購入することになりそう
(いったいいつ読むつもりなんだとの声)。

☆8月15日
 『出生の秘密』を買った。パースとラカンのことが書かれた「六 記号の階梯」
と「七 鏡のなかの私」をざっと流し読んだ。アッと驚くことが書かれているよう
には見えなかったので妙に安心した。「あとがき」をじっくり読んだ。異様に高揚
した文章だった。「一 出生の秘密」の冒頭、丸谷才一『樹影譚』の内容紹介を少
し気を入れて読んだ。上手い。いかにもプロの書き方。こういう読ませる文章、商
業的な文章はいったん術中にはまるともう一気に読み切るしかないと思った。内容
があろうがなかろうが読ませられてしまう。それはそれでとても愉しいことだ(と
思っていた。ところが、そこから先が一向に面白くならない。妙にドライブ感に欠
ける。ここから「あとがき」のあの高揚感までの道は長い。以上、後日談)。

☆9月3日
 『神々の沈黙』に「意識は言語に基づいて創造されたアナログ世界」(87頁)で
あると書いてある。『出生の秘密』では、ヒトは言語を獲得して(象徴界に参入し
て)人になるといった趣旨のことが論じられている。『神々の沈黙』と『出生の秘
密』はちょうど系統発生と個体発生の関係。

☆9月4日
 いま断続的に読み進めている三浦雅士の『出生の秘密』が「六 記号の階梯」を
終えてパースとラカンの妖しげな関係を取り上げた「七 鏡のなかの私」にさしか
かったところ(佳境)なのだが、パースとベルクソンというテーマもとても面白い。
「パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふ
たりの思想は完全に重なり合うものである」(ジェイムズ『純粋経験の哲学』)。
ついでに書いておくと保坂和志『小説の自由』の「8 私に固有でないものが寄り
集まって私になる」に「子どもたちの実父問題」(149頁)という話題が出てくる。

☆9月16日
 『出生の秘密』読了。あとがきの高揚はやはり浮いている。一つの概念というか
問題系(言語空間)の誕生の現場に立ち会えた興奮が心から湧いてこない。面白い
本ではあったが、はたしてこれほど長く書くだけの実質があったのだろうか。成長
(進歩)・教養・青春(自意識)の誕生とその終焉の実相を鮮やかに叙述しきった
『青春の終焉』と比較して、冗長と迂回と停滞の感は拭えない。膨大な素材が自閉
して放り出されている。一度熱を冷ましこれらを再編集して最初から語り直せば、
もっと濃く鮮やかな物語になるのではないか。(三角関係という自意識のドラマか
ら主人・奴隷の二者関係へ。この『青春の終焉』から『出生の秘密』への道行きに
続くものは何か。それが「一なるもの」へと向かうのは見やすい道理だ。)

     ※
 「出生」の秘密には二つの次元がある。その一は未生以前の物質(死)から生命
(生)へ、その二は動物としてのヒト(本能)から言語を獲得した人間(知性)へ。
そのそれぞれの境界(界面)のうちに「秘密」は潜んでいる。ラカンの概念を使っ
て、前者は現実界から想像界へ、後者は想像界から象徴界へと言い換えることがで
きる。本書を支えている理論的骨格がこの現実界・想像界・象徴界の概念で、パー
スのイコン・インデックス・シンボルがこれと不即不離の関係でからんでいく。そ
のもっと奥にあるのがヘーゲルの『精神現象学』。フロイトをヘーゲルによって読
みかえる作業を通じてラカンは現実界・想像界・象徴界を切り出し、ヘーゲルの概
念化作用(生命の本質)を記号化過程におきかえてパースは記号の三区分を導出し
た。

 以上が『出生の秘密』のいわば舞台と書き割り。その上で、丸谷才一の短編「樹
影譚」をふりだしに中島敦(象徴界から想像界、現実界への下降)、芥川龍之介(
象徴界への停留)、夏目漱石(象徴界と想像界の界面)の三人の文学者とその作品
群をとりあげ、最後にふたたび丸谷才一の『エホバの顔を避けて』で締めくくる。
なかでも全体のほぼ三分の一の分量を費やした漱石が圧巻。ヘーゲルと漱石のあや
しい関係(漱石は大学時代に『精神現象学』に感銘を受けて「老子の哲学」を書い
た)を執拗低音とする長い叙述をくぐりぬけ、アウフヘーベンとは「僻み」である、
つまりヘーゲルの弁証法は「僻みの弁証法」であるという帰結が示される。

 僻みは「否定」と「抑圧」(保存)の二重の意味をもつ(「僻み」を九鬼周造の
「いき」と比較すると面白い)。「意識そのもの、自己意識そのものに僻みの作用
がある。いやそれは僻みの作用そのものである」(538頁)。僻みの構造は食にお
ける晩餐、性における婚姻と論理的に相同である(541-543頁)。ここに想像界(
食と性の世界)から象徴界(言語)への移行の「秘密」が隠されている。獲物をそ
の場で食べずに仲間のもとに持ち帰り共食したときに「魂」は生まれた。否定(す
ぐには食べない)と抑圧(食べるときまで待つ)が食物を「意味」に変えるからだ。

《否定と抑圧が祖霊という観念を引き寄せ、食物が供物になったとき価値が生まれ
た。使用価値から交換価値が剥離した。意味すなわち言語が発生したのだ。(略)
食べられるけれど食べられないというこの二重性は、魂と身体という二重性、自己
であると同時に他者であるという二重性と、同じことなのだ。二つの身体を持つの
は王だけではない。名を持つ人間のすべてが二重性を帯びているのである。人間こ
そが交換されうるものなのだ。貨幣とは何よりもまず人間のことなのであり、人間
の発生と奴隷の発生とは軌を一にしているのである。自己とは自己の奴隷化にほか
ならない。》(あとがき,615-616頁)

 著者は「あとがき」で「出生の秘密を解明しようとするささやかな試みが、言語
空間の探求へと進むほかなかった理由」を書いている。食べられるけれど食べられ
ないという二重性はそのまま言語・貨幣・社会・国家・宗教の二重性につながる。
この二重性が次元の混乱を惹き起こし、ひいては人間を豊かにも惨めにもしてきた。
それは生命すなわち概念化作用による世界の階層化・次元化が錯覚と錯誤をもたら
し、ひいては生命現象の豊かさを形成してきたことに対応している。であるならば
言語における物質と意味の二重性が精神の次元に錯覚と錯誤をもたらすのは当然と
いうべきだろう。

 何が言いたいのか。想像界(生物)から象徴界(精神)への移行が根源的である
こと。すなわち世界は「言語空間」であること。父母未生已然の世界すなわち現実
界(物質)、それもまた「言語空間」であること。「人は言語空間すなわち死のな
かで生き、生はただ言語によってのみ輝く。/言語空間の探求はいまはじまったば
かりなのだ」。これがこの「一冊の興味深い書物」(516頁)の末尾の言葉である。

☆9月17日
 木村敏『関係としての自己』の「序論」を読んだ。これでたぶん五度目。読み返
すたびに新たな発見がある。冒頭にドゥルーズが引用されている。「意識はけっし
て自己[ソワ]の意識ではなく、意識的でない自己に対する自我[モワ]の意識で
ある。それは主人の意識ではなく、主人に対する奴隷の意識であって、主人は意識
的である必要がない」(5頁,邦訳『ニーチェと哲学』65頁)。

 ここに出てくる主人と奴隷の関係は、フロイトの「自我とエス」では騎手と馬の
関係に喩えられている。「自我は、知覚・意識系の仲介のもとで外界の直接の影響
によって変化するエスの部分》である一方で、《理性とか分別とかと呼ばれるもの
を代表して、さまざまな情念を含むエスと対立している》。自我のエスに対する関
係は《手に負えない力をもつ馬を制御する騎手に似ている》が、落馬を防ぐために
《ふつうはエスの意志を、あたかも自分の意志であるかのように実行に移している
」(15頁,邦訳『フロイト著作集6』274頁)。

 主人と奴隷の関係といえば『精神現象学』。三浦雅士は『出生の秘密』で真理と
非真理、現実と虚構(文化)、理想と現実を主人と奴隷に準えていた(548頁.556
頁)。主人と奴隷の弁証法(僻みの弁証法)はルソーの『人間不平等起源論』の直
接的な延長上に考察されたと見るべきだろうと書いていた(552頁)。だからどう
というわけではない。ヘーゲルとフロイトを掛け合わせるとラカンの現実界・想像
界・象徴界になる。現実界と想像界の界面に「ソワ」が、想像界と象徴界の界面に
「モワ」が立ち上がる。そんなことが言えるのだろうか。

☆9月18日
 ベルクソンは、私の身体と他の物体の区別から当初は「内部と外部」の概念が生
まれるのだが、「イマージュ一般が私に与えられれば、私の身体は結局必然的にそ
れらの中ではっきりした事物として現出することになる。それらはたえず変化する
のに、私の身体はそのまま変わらないからである。内と外の区別は、このようにし
て、全体と部分のそれに帰着するだろう」(『物質と記憶』54頁)と書いている。
ここを読みながら私は「アナログの私」(『神々の沈黙』)を想起し、内部と外部
はラカンの想像界に、全体と部分は象徴界に対応しているのではないか(『出生の
秘密』)と考えた。

 三浦雅士の『出生の秘密』に、ハイデガーがヘーゲルの『精神現象学』をとりあ
げた講義で用いた図が紹介されている(524-7頁)。『精神現象学』は論理学・自
然哲学・精神哲学という知の体系『エンチクロペディ』へと進む導入・端緒である。
『精神現象学』から見れば『エンチクロペディ』はその註にすぎない。『精神現象
学』が詩であるとすれば、『論理学』はそれを散文にしたようなものだ。しかし『
エンチクロペディ』の体系でいえば、第三部「精神哲学」の第一篇「主観的精神」
のBが「精神現象学」になっている。つまり全体が部分になり、部分が全体になっ
ている。内と外が逆転しているといってもいい。

《生命の発生において、卵割によって外胚葉、中胚葉、内胚葉が形成され、外胚葉
から皮膚が、そして神経や脳が形成されてゆくさまに似ている。最大の内部である
脳は、最大の外部である皮膚からできあがっているのだ。同じように、ヘーゲルに
おいては、知の体系そのものが、メビウスの帯、クラインの壺のかたちになってい
るのである・/このことは何を意味するか。『精神現象学』の記述は新生児の意識
から、すなわち人間以前の意識から出発しているが、はたしてそれは人間に許され
ることなのだろうかという問いに対して、ヘーゲルはその体系の変遷そのものによ
って答えようとしたのだということを意味している。》(『出生の秘密』525-6頁)

☆9月19日
 坂部恵『モデルニテ・バロック』を五十頁ほど読んだ。──「あわい」は「語り
・語らい」や「はかり・はからい」の造語法と同じく「あう」という動詞そのもの
を名詞化してできた言葉で、西田幾多郎の「場所」(動的な述語)につながり、英
訳すると“Betweenness-Encounter ”になること(170頁)。それは「生死の連続
体」(174頁)あるいは「生死の可逆性」(176頁)、「相互浸透の関係」を含意す
ること。日本の古い使い方では「あわい」は男女のペアをさしていたこと(178頁
)。また「潮時」という別の日本語で表現できること(178頁)。

 「振舞い」という日本語は「振り」(Mimesis)と「舞い」(Tanz)に分解でき
ること(173頁)。舞いは振舞いの極限形態であり、ベルクソンが『時間と自由』
の最初の方でその見事な哲学的分析をしていること(この本は一度読んだけれど覚
えていない)。ポール・クローデルが「西洋の劇では何かが起こり、能では何かが
やってくる」という言葉を残していること(177頁)。

 ざっと拾い出しただけでもこれだけのネタがある。「あわい=潮時」は今読んで
いる木村敏『偶然性の精神病理』の「タイミングと自己」につながる。全体に漂う
西田幾多郎の影は『物質と記憶』にも関連していく。そして「男女のペア」は吉本
隆明の「対幻想」(ラカンの想像界)を経て三浦雅士『出生の秘密』の最終章(59
5-598頁)にリンクを張ることができる。

 『出生の秘密』に関連して思いついたことがあるので書いておく。『青春の終焉
』『出生の秘密』に続く第三部のテーマについて。二つの方向がある。その一は、
最終章に出てくる「対幻想」を手掛かりに、生死・男女の「あわい」を描く妊娠小
説とか情死小説を素材にして物質への夢を探求するもの(たとえば村上春樹『東京
奇譚集』所収の「日々移動する腎臓のかたちをした石」に出てくる腎臓石=胎児の
夢)。

 その二は、言語の二重性を手掛かりにするもの。ここでいう二重性は「物質と意
味」のそれではなく、坂部恵『モデルニテ・バロック』の底流をなすロゴスの二つ
の流れのこと。すなわち「理性(ラチオ)」としてのロゴスと「生きた(神の)息
吹にほかならぬことば(ヴェルブム)」としてのロゴス(144頁)。とりわけ「ヴ
ェルブム」(Verbum)──「世界を生み出すないし流出させる力としてのロゴス(
ヘブライ語のダーバール)」(94頁)のラテン語訳である「ヴェルブム」、(唯識
や密教にも近い)新プラトン主義の伝統に根ざし(97頁)、バロックの源流として
のヘレニズム期の中近東、とりわけビザンチンの伝統を汲んだ「ヴェルブム」(14
3頁)──に着目した言語哲学の書。

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