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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.288 (2005/09/17)
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 □ 茂木健一郎『「脳」整理法』
 □ 茂木健一郎/歌田明弘『脳の中の小さな神々』
 □ 二ノ宮知子『のだめカンタービレ』
 □ 沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』
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●975●茂木健一郎『「脳」整理法』(ちくま新書:2005.9.10)

 読み進めながら、本書の姉妹篇ともいえる『脳と創造性』に覚えたかすかな異和
感がしだいに増殖していくのを感じた。

 茂木さんがこの本を書いた動機は分かるような気がする。そのことはタイトルに
表現されている。脳を使った情報整理法でも、脳力アップの教則本でもない。整理
するのは「脳」なのである。デジタル情報の洪水の中で私たちの脳は悲鳴をあげて
いる。現代人は自分の脳の働かせ方がわからなくなっている。しかし「脳」は元来、
偶有性に満ちた世界との交渉の中で得たさまざま体験を整理・消化する臓器なのだ。
「私たちの脳」でも「自分の脳」でもない、一人称でも三人称でもない「無人称」
とでもいうべき「脳」のはたらき。だから「脳」整理法なのである。脳科学ブーム
にのった凡百の(あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の)啓蒙書とは出来
が違う。だからそこに異和感を覚えたわけではない。

 でもやはり、「行動」「気づき」「受容」が「偶然を必然にする」セレンディピ
ティを高めるために必要なのです、といったマニュアル風の物言いを茂木さんの本
で読むことにはかすかな異和感がつきまとう。それは『マインズ・アイ』(くどい
が『小説の自由』にもこの本の話題が出てくる)の監訳者まえがきを読んだ時以来
くすぶっている。もちろんそこに書かれていたことは凡百の(あなたの脳をいかに
使いこなすかといった類の)啓蒙書風の物言いではなかった。「庭師は、自然の営
みを支配するのではなく、むしろ自然の営みに任せるところは任せるということを
知っている。マインズ・アイによる心の手入れと、無意識の営みの関係にも、似た
ようなところがある」。それは分かっているのだが、本書が凡百の脳科学本として
読まれてしまうかもしれないことに異和感というより懸念を覚えるのだ。

(凡百、凡百と騒いでいるが、百冊の啓蒙書を読んで言っているわけではない。「
あなたの脳をいかに使いこなすかといった類の」啓蒙書を具体的に読んだわけでも
ない。『海馬』にしろ『1日5分で英語脳をつくる音読ドリル』にせよ、決して凡
百の類とは思わないし、それなりにけっこう日々の生業に役立っている。)

 それなら何に異和感を覚えたのか。実は書いているうちにすでに異和感は解消し
てしまったのだが、あえて書く。茂木さんの科学観(「神の視点」という仮想的存
在によって構築されるクールな「世界知」)がゆらいでいるように思うのだ。もち
ろんゆらいでいるのは読者の側の事情だ。『脳と創造性』にこう書いてあった。「
偶有性が、形而上学と現実世界の境界に生まれるとすれば、そこにおける秩序化を
担うのが科学である」(220頁)。

 ここでいわれる「科学」とは、たとえばガルヴァニの「動物電気」の発見が、ス
ープをつくるため台所においてあったカエルの足にたまたま金属が触れて足の筋肉
が収縮するのを観察したことによる、といったエピソードに示されている人間の営
みのことである。でもそれは「科学離れ」といわれる時の「科学」とは違う。また
本書に「人類の歴史を観ると、世界を自分の立場を離れてクールに見る「世界知」
を忘れ、個人の体験に根ざした「生活知」に没入することは、きわめて危険なこと
だということを示す悲劇に事欠きません」(215頁)とある。ここでいわれる世界
知(科学)も、それはどの世界知(科学)のことだかよく分からなくなる。

 要するに、「世界知=ディタッチメント=科学の知」と「生活知=パフォーマテ
ィブ=アフォーダンス」、「神の視点」と「偶有性」といった図式が分かりやすす
ぎるのだ。分かりやい図式にのっとってすらすら読めるから何か分かったつもりに
なるけれども、結局何も分かっちゃいない。たとえば「神の視点」という分かりや
すい比喩。

 保坂和志は『小説の自由』で「私がアウグスティヌスとトマス・アクィナスとカ
ール・バルトを拾い読みしたかぎり、彼らは一度も「神を見た」とは言っていない
」(272頁)と書いている(パスカルだってそうだ)。永井均は『私・今・そして
神』で神の三つの位階──土木工事(世界の物的創造)や福祉事業(心の慰め)を
行う低次の神、世界に人間には識別できないが理解はできる変化(ロボットに心を
与えるなど)を与える高階の神、世界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱
する能力をもったより高階の神、すなわち開闢の神──を区分している。「神」と
一言で片づけられないのだ。「世界知」と「生活知」は最初から入れ子になってい
るのだ。そういった複雑さに耐えなければ何もわからない。(「脳」という言葉だ
って「神」と同断だ。)

 クオリアの謎を解くためには、そも「解く」とは何かを反省しなければなるまい。
「分かる」(A HA!)とは何かが分からなければなるまい。茂木さん自身の科学観
(世間知と世界知の統合のかたち)を明快に論じた書物を読みたい。

●976●茂木健一郎/歌田明弘『脳の中の小さな神々』(柏書店:2004.7.10)

 巻末の「特別講義」に「対象─脳内過程─意識」の三項関係が出てくる。これは
脳科学が「見る」という体験を「(外界からの刺激を受けて)神経細胞があるパタ
ーンで活動すること自体が脳の中でのさまざまな情報の「表現」であり、そのよう
な「表現」が集まって「見る」という体験ができあがる」(242頁)と説明すると
きに準拠している枠組みで、茂木健一郎いわく、この方法では「見る」という体験
(視覚的アウェアネス)を説明することはできない。

 脳科学は外界(対象)からの視覚的刺激と脳内過程(神経細胞の活動)との対応
関係を説明するだけで、脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが「私」にとっ
てクオリアとして成り立つメカニズム自体を説明するわけではない。「むずかしい
言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視
覚特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである」(244頁)。

 これに対して提示されるのが「メタ認知的ホムンクルス」のモデルで、それは「
「私」の一部である脳の神経活動を、あたかも「外」に出たかのように観察する「
メタ認知」のプロセスを通して、あたかもホムンクルスがスクリーンに映った映像
を見ているかのような意識体験が生じる」(256頁)というものだ。

 このモデルにあっては先の三項関係はいったん「物自体─脳内過程」の二項関係
に置き換えられ(ただし「脳内過程」の項は「後頭葉=認識の客体」と「前頭葉=
認識の主体」という二項が非分離の状態にあるものとされる)、その後「物自体─
脳内過程─小さな神の視点」の三項関係へと修整される。ここに出てくる「小さな
神」(ホムンクルス)という「主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細
胞のあいだの関係性によって生み出される」(258頁)。

《「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメ
タ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもってい
る。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として
成立している。
 私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。
 これが、私たちの意識の成り立ちを最新の脳科学の知見に基づき考察していった
ときの、論理的な帰結である。》(259頁)

 脳の中に棲む小さな神が見ているものは「表象されたイマージュ」である。それ
は脳内過程を通じて生み出されたものではなくて、あらかじめ与えられたイマージ
ュ(物質)が神経系の活動を通じて縮減されたものである(何のために? 不確定
=選択可能性=潜在性の領域を現実化するために、つまり行動のために。C:ベル
クソン『物質と記憶』)。そう考えることができるならば、そこにはいささかの困
難(神秘)もない。

 「メタ認知的ホムンクルス」のモデルが優れているのは、そこに「神」が出てく
ることだろう(それは『小説の自由』最終章に出てくるKつまり樫村晴香の言葉─
─「神」(284頁)や「リアリティ・宗教性」(304頁)──と響き合っている)。
心脳問題はすぐれて神学の問題である。そんなことは実はとうの昔から分かってい
たことなのである。思わず吠えてしまった。

●977●二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社:2002.4.12〜2005.5.13)

 火曜日に#1を買って読み終え、水曜日に#2と#3を買ってこれもその日のう
ちに読み終え、とうとう止まらなくなり、木曜日から土曜日まで3巻ずつ一気に#
12まで読みきってしまった。#9までの桜ヶ丘音楽学校篇はこれだけで充分に完成
・完結している。#10から始まったパリ編は物語の行方(というか感触)をまだ作
者が手探りで探っている感じ。このあとどこまで進んでいくのかまだ見えないが、
途方もなく長大な物語に発展・深化していきそうな気配を感じる。

 このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(C.保坂和志)。二
ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの中にしかない。
とりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、
千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番(#5)とか、千秋真一指揮のブ
ラームス交響曲1番(#8)など──で、当然そこに音は響いていない。しかし沈
黙の紙面のうちにたしかに音楽が流れている。それも音楽の表現のひとつのかたち
である。これはちょっと比類ない達成なのではないか。

●978●沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』(新潮文庫:2005.7.1)

 映画評(「銀の森へ」)と書評(「いつだって本はある」)、それから長野オリ
ンピック(「冬のサーカス」)と日韓ワールドカップ(「ピッチのざわめき」)の
観戦記を集めた本書は、一気に読み切ってしまうのが惜しくて、折にふれ読み返し
ながら「愛用」している。筆運びが達者で文体がきまっていていかにも「プロ」の
書いた文章だと思う。対象との距離感覚や状況の中での書き手の位置の取り方に、
経験によってのみ鍛錬され熟成する「技術」を感じさせる。

 是枝裕和の『ディスタンス』を取り上げた文章の中で、沢木耕太郎は演技におけ
る「虚」と「実」の関係を論じている。この映画の多くの場面で是枝監督は、俳優
に状況と大まかな方向を与えられるだけで、あとはその内発性に委ねるという演出
法を採った。その結果、俳優の演技は一見「自然」で「リアル」なものとなったが、
前作の『ワンダフルライフ』で七十年分の時間の重さと厚みに支えられた老女の思
い出話が虚構の部分を圧倒したほどの力は持ち得なかった。「そこには見せかけの
リアルさを必要としない内実があった。だが、『ディスタンス』の俳優たちの「リ
アル」な台詞には、その重みと厚みが決定的に欠けていた」。

 沢木耕太郎は、「実」は実であるがゆえに「虚」を圧倒する力をもっているとい
った軽率な主張をしているわけではない。ここにあるのはプロによるプロの仕事に
対する(リスペクトに裏打ちされた)批評である。「私には、演技という「虚」な
るものにおける「実」の導入の仕方において、是枝に微妙な計算違いがあったよう
に思われるのだ」。

 プロはまた己の仕事を知り抜いている。虚と実、アクションとリアクション、記
憶と記録。それらが拮抗する状況に身を置き「微妙な計算」をもって自らの立ち位
置を定め対象との距離を測り言葉を紡ぎ出すこと。たとえばローレンス・ブロック
の『倒錯の舞踏』を取り上げた文章の中で、沢木耕太郎は、ハードボイルド小説の
根幹は「アクション」ではなく、アクションによって引き起こされた「状況」への
「リアクション」だと書いている。またデヴィッド・ハルバースタムの『男たちの
大リーグ』の書評では、スポーツ・ライティングの基本は「記憶」にあると書いて
いる。「「記憶」は「記録」をともなって再構成されるが、その「記憶」が人間に
よってなされるものであるかぎり、作品が「人間の物語」と無縁でいられるわけが
ない」。

 己の仕事を知り抜いているプロの文章には安心して身を委ねることができる。読
者もまた「微妙な計算」をもってわれを忘れることができる。でも「われを忘れる
」ことと「われを解体する」こととは別の次元の話で、だからここに書いたことは
けっして沢木耕太郎を持ち上げたことにはならない。じっさい『シネマと書店とス
タジアム』に書かれていることのいくつか、とりわけスポーツ観戦記には得心がい
かない箇所が多い。「人間の物語」へのやや過剰気味の傾斜が散見される。

 『群像』10月号に掲載された石川忠司との対談「小説よ、世界を矮小化するな」
で、保坂和志が「スポーツのよさって非人間的な次元で、その人の気持ちなんか関
係のない次元なんだから、その次元で物事を肯定したり完結したりできない」と言
っている。スポーツには、結果がすべてだという意味でのリアリティ(実)とは別
の次元のリアリティ(虚)がある。それを「人間の物語」といえばそれまでだが、
状況への「リアクション」がひらくこの「非人間的な次元」を透視しないかぎりす
べては後付けの理屈の趣を呈することになる。

 沢木耕太郎はすべてが終わった時点で書いている。そのことが本書に収められた
コラムの切れ味を生み出した。読者(私)は一瞬われを忘れ、次の瞬間われに戻る。
文章はつかの間の閃光を放ち消費されていく。だが、それは決して非難されるべき
ことがらではない。

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