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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.287 (2005/09/10)
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 □ 野矢茂樹『他者の声 実在の声』
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●974●野矢茂樹『他者の声 実在の声』(産業図書:2005.7.25)

 一月ほどかけて収録された19のエッセイを順を追って一つ一つ緩急自在に、つま
り面白いところや気になったところはじっくりと読み込み、そうでもないところや
ちょっと煩瑣で煩わしいところは言葉のシャワーを浴びるだけにとどめなかば素通
りしながら読み進め、最後は読み残していた数篇の文章を一気に読み飛ばした。哲
学系の本でこういう読み方はよくないのかもしれないけれど、よく分からないとこ
ろや細部の論証にあまり逐一こだわらず、一気に通読してこそ伝わる哲学的問題の
感触というものは確かにあるし、この本はそのような読まれ方を望んでいる(と思
う)。

 もちろん、分からないところに出くわしたら「前後もあわせて繰り返し読む。と
きに、ほんとに詰まってしまうこともある。ため息をついて、しばらく別のことを
して、でもどこかでそのことを考えていて、また読む、いいでしょ、こんな読書。
贅沢だよね」(281-282頁)といわれる読み方もある。それはたしかに贅沢な読書
体験だと思う。しかし、そのような書物(野矢さんにとっては『論理哲学論考』)
に人はそうそう出会えるわけではない。そういう書物にめぐる会うため人は生涯読
書を続けるのだろう。

     ※
 『他者の声 実在の声』は大森荘蔵の『流れとよどみ』にかかわった編集者に声
をかけられて生まれた本だという。「「考える」ということ」というエッセイ(第
3章)に次の文章が出てくる。《なめらかな言語ゲームの遂行において思考を見て
取ろうとしたウィトゲンシュタインはまちがっている。われわれは、思考を論じる
にあたって、むしろ目を言語ゲームのよどみへと向けねばならないのではないだろ
うか。》(36頁)

 この「言語ゲームのよどみ」において聞こえてくるのが──意識の内と外をめぐ
る哲学的誤謬の「獣道」(28頁)もしくは出口のない「洞窟」(191頁)を抜け出
たところにひらかれる──「言語の外」(192頁)から届く野生の他者(「意味の
他者」=たとえば哲学者)の声であり実在の声なのである。「私に意味を与えよ」
(44頁)。「さあ、語り出してごらん」(194頁)。

 「言語の外」は語りえない。しかし語りうる世界(すなわち「論理空間)の内部
)は変化する。この語りの変化のうちに他者の姿は示される。だから「語りきれぬ
ものは、語り続けねばならない」(118頁)。

 ところで保坂和志の『小説の自由』に「文章としてのなめらかさ」(57頁)をめ
ぐる話題が出てくる。志賀直哉の文章は完成されていて「このまま映像に置き換え
られそうな文章だが、しかしこれは逆で、私たち自身がふだん文章を読むように映
画を見ているということなのではないか」(53頁,46頁)。このことは「何かを考
えるとき、つまり思考するとき、私たちはほとんどの場合、視覚のように思考を組
み立てている。あるいは、思考をなかば視覚化している」(262頁)のだが、しか
し「視覚化した思考でなく本当の思考[「脳の中で遂行される思考」(270頁)]
が小説の理解には求められる」(268頁)という後に出てくる主張の伏線になって
いる(たぶん)。

 ここで思い出したことがあるので挿入しておくと、編集者や書評家や評論家が「
うまい」とか「心地よい」と褒める「こういう文章[ここで保坂和志が考えた例文
は省略]を読める人は精神が眠っているだけだ」、「言葉の内側にこもってただ練
り上げていくだけのこういう文章は、別に村上春樹がはじめたというようなことで
はなくて、日本の近代文学の歴史を通じて流れつづけてきたものではないか」(17
4頁)と批判されているのも「なめらかな文章」のことなのだろう(たぶん)。

 それでは「言語ゲームのよどみ」に相当するものを『小説の自由』に求めること
ができるのかというと、それはできる。最終章で延々と引用されるアウグスティヌ
スの文章、つまり「小説の始源のありよう」(297頁)のうちに示されているもの
が「よどみ」(=散文性)である。この「よどみ」は「神」(284頁)や「宗教性
」(304頁)につながっていく。つまり論理空間と同様、小説世界もまた変化して
いく。だから「書くことは前に進むことだ」(329頁)。

     ※
 『他者の声 実在の声』に収められた同名のエッセイを読みながら、「心脳問題
をめぐるテーゼ・私家版・覚書」というのを手帖に書きつけた。(これらの断片・
覚書をたくさん蒐集し、いずれ18ほどのテーゼにまとめあげてベンヤミンの「歴史
哲学テーゼ」のようなカタチに編集していきたいと思う。)

 その1.意識は言語から「生産」される。これは『神々の沈黙』でも主要な仮説
の第一として提示されていた。無意識は言語(他者の語らい)でできているといっ
たこととか、言語が「物質」であると言えるならばそれと同じ意味で意識は「物質
」から「生産」されるといったこと。

(ここで「生産 production」というのは「五つの推論」のうちの一つで、他は演
繹[deduction]・帰納[induction]・仮説形成[retroduction,abduction]・
伝導[conduction]。推論の五つの形式・方法というのは私のオリジナルで、その
内容・実質はこれから探求する。パースによれば、何かを探求しようとするとき「
探求に際して使用される論理」と「探求の対象が従う論理」とが同一であるという
想定が前提されている。だとすれば、この五つの推論形式は同時に実在の存在形式
でもある。)

 その2.意識と物質はつながっている。實川幹朗によると「歴史的には、意識と
物質は西洋においても古代以来、一九世紀まで一体だった」(『思想史のなかの臨
床心理学』139頁)。このことはウィリアム・ジェイムズの「ロープ」とかベルク
ソンの「イマージュ」の概念に表現されている。(「つながっている」という言い
方はまだまだ未熟で、いずれこの概念を鍛えあげなければいけない。)

 その3.身体は意識を「表現」する。もしくは「身体の履歴」(桑子敏雄)が意
識を充填する。あるいは身体とは「仮面」である。このあたりになると自分でも何
を言いたいのかよくわからなくなる。

(「仮面」の原型は「内部が空洞になった管」で、たとえば麦藁がそうだしシンプ
ルな笛も濃厚に仮面的である。この「管」にいくつか切れ目を入れると複数の音=
声を発する高級な笛=楽器になるし、ひいては「顔」=仮面にもなる。本来、動物
の身体は「管」である。だからどうなのだと言われると困るが。)

 その4.使用価値と交換価値の分岐が心脳問題の起源である。(これは三浦雅士
『出生の秘密』の「あとがき」に書いてあったことをそのまま盗用しているし、こ
のままではテーゼとして使えない。)

     ※
 野矢茂樹が数学の「妖しい魅力」についてこう書いている。──論理は数学にお
ける中心的な能力ではない。なぜか。「思考は本質的に非論理的だ」からである。
数学者にとってもっとも重要な能力は直観力である。

《そこ[数学という別世界]で要求されることは、その世界に「住む」ことである。
その抽象的な世界を生き生きと感じ取り、そこで手足を伸ばし、その空気を呼吸す
ること。そのとき、具象の現実世界に対する五官とは別の感覚器官のようなものが
育ち、その抽象的な関係と構造の世界を直観することができるようになる。私はけ
っきょくそこの住人になりそこねたわけだが、数学を好きになり、数学を美しいと
感じるようになるということは、けっきょくそういうことだろう。それは論理では
ない。むしろ感覚の一種なのである。》(『他者の声 実在の声』264頁)

 これはほとんど「読んでいる時間の中にしかない」小説という別世界について書
かれた文章そのものだ。保坂和志は、小説における表現=現前性についてこう書い
ている。──「音楽ではまずメロディが思い浮かぶ」というセンテンスを書くこと
は、「小説とはまずストーリーである」というセンテンスを書くのと同じくらい、
私(保坂)にはありえない。音楽について書きながら私(保坂)の頭をかすめてい
たのは音の質感の方で、音楽が表現しているものは、メロディや歌詞(メッセージ
)なのではなく、楽器の編成それ自体だ。特定の楽器編成による一つの曲が演奏さ
れたときに、それによって何かが表現されることになるのではなく、それ自体がす
でに表現なのだ。(「特定の楽器編成による一つの曲」をたとえばカフカの『城』
におきかえれば、ここで言われていることは小説にもそのままあてはまる。)

 音楽や美術の場合、現前性をそのまま物質性と言い換えてもまあかまわないぐら
いだから、現前性=表現であることが了解しやすいだろうが、小説という文字の表
現の場合、すべてがいったん抽象化されて物質性を失っているので、現前性という
ことが了解されにくくなる。小説における表現=現前性は、漢字、ひらがな、カタ
カナといった見た目の印象や韻文における響きなどではなく、文字によって抽象と
して入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて立ち上がる
ものだ。

《その現前性を持続させて何かを伝えたり考えたり表明したりするのが小説だが、
何よりもまず現前していることが小説であって、伝えたり考えたり表明したりする
方は小説でなくてもできる。/だから小説は読んでいる時間の中にしかない。音楽
は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきり別の物資だか
ら、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた
読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない。》

 以上は『小説の自由』前半のキモ「4 表現、現前するもの」からの抜粋(68-
74頁)だが、中盤のキモ「9 身体と言語、二つの異なる原理」──そこで言われ
ていることは、小説家は身体・言語という二つの異なる原理もしくは身体・言語・
記憶という三つの異なる原理にまたがって文章を書いているのだが、やはり小説は
「融通のきかない自律性」をもった言語でなく身体、それも「一般化される以前の
個人としての身体」が起点となっているといったことで、もちろん保坂和志のくね
くねと迂回に迂回を重ねる思考のエッセンスをそんな一言で片づけるわけにはいか
ないし、読んでいて面白いのはむしろ「2 私の濃度」や「5 私の解体」につな
がる「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」の方だ──を経て、後半
というより本書全体のキモ「13 散文性の極致」になると、保坂和志は「事実/虚
構」といった単純な二分法をこえたところで小説が小説として(事実でも虚構でも
ない第三の領域=フィクションとして)立ち上がる現場を、小説という概念が生ま
れる以前の場所(アウグスティヌスの『告白』)における「小説の始源のありよう
」(297頁)のうちに探っている。

 『告白』を注意深く読み進めてきた読者は、ある時間(読書体験)の集積を経て
「アウグスティヌスとはこういう人だ」という理解に達する。その時そこにおいて
「まさに小説として一人の人物の立ち上がりが完成したのだ」(335-336頁)。し
かしそこで言われる「アウグスティヌス」という「一人の人物」は物質性ではなく
精神性、言い換えれば論理の組み立てや思考の組み立てのことだ。「アウグスティ
ヌスには思考の手順しかない」(336頁)のである。小説とは「人間が文字という
形で書いていくことが世界そのものとどういう関わりがあるのか」という「問い、
ないし、問い以前の形のない何かを持ちながら、思考の手順を動員することによっ
て思考を推し進めようとする散文なのではないか」(308頁)というわけだ。

 そのような意味での小説(感覚の運動・思考の手順)と数学の違いは、そこに「
人物」が登場するかどうかである。ここにきてようやく先の野矢茂樹の引用につな
がった。保坂和志は、小説と『デカメロン』や『カンタベリー物語』との違いのひ
とつは人物がしっかり描かれているかどうかだと書いている。そして「人物がしっ
かり描かれている」というのは、その人物が「書かれていることをフィクション=
「記憶するに値する」「忘れることができない」「信じざるをえない」ものとする
メカニズムとか媒体になるということ」(297頁)だと書いている。

 数学と『デカメロン』とではまるで違うが、野矢茂樹が言うように(文字を使わ
ず思考する)数学者にとって直観力こそがもっとも重要な能力なのだとすると、(
文字を使って思考する)小説家にとって大切なのはあくまで「思考の手順」として
の文体=散文性で、そこで立ち上がるのが「人物」だ。「人物が媒介者となって「
信じざるをえない」ものとしてのフィクションという次元が完成する」(297頁)。
「「実例を使って考える」のではなく、「実例が考える」、アウグスティヌスはそ
ういう思考法に乗って書いている」(318頁)。

 補遺1。頭の中だけで考える作業と文字を使って考える作業の違いについて、『
小説の自由』の318頁から319頁にかけて書かれていることは実に面白い。野矢茂樹
は思考とは「雨乞い」のようなものだと書いている(『他者の声 実在の声』257
頁)が、これは保坂和志の分類によると頭の中で考える思考のことだ。
 補遺2。『小説の自由』の176頁、264頁、335頁に『フェルマーの最終定理』の
話題が出てくる。ここのところもなかなか味わい深い。

 補遺3。「書くことは前に進むことだ」。『小説の自由』の329頁に出てくるこ
の言葉(あるいは315頁の議論)は、野矢茂樹のテーゼ「語りえぬものを語りえぬ
ままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」(『他者の声 実在の声』
234頁)と響き合っている。

     ※

 マーカス・デュ・ソートイ『素数の音楽』の冒頭に数学者アラン・コンヌと神経
生理学者ジャン=ピエール・シャンジューのやりとり(『考える物質』)が紹介さ
れている。コンヌが「数学的実在は、人間の精神とは独立に存在する」といい、そ
の数学世界の中心には不変の素数列があると言い張るのに対し、シャンジューはい
らだちとともに、「それならなぜ空中に“π=3.1416”と金文字で書かれているの
をこの目で見ることができないのだ?」と迫る(18頁)。

 素数は世界に先立って存在している。ここでいう「存在している」の意味がうま
く説明できないし「世界に先立った素数の存在」(あるいは「無限」の存在でもい
い)を実感できているわけではないけれど、この主張はまったく正しいと私は信じ
ている。数学的プラトニストなのだ、私は。精確にいうと、数学的プラトニストた
ることに憧れているのだ。

 ペンローズが、ボルヘスの「詩人は発明者である以上に発見者である」を踏まえ
て「数学については,少なくともより深遠な数学的概念については,他の場合に比
べて,玄妙な,外的な存在を信じる根拠はずっと強い,と私は感じないではいられ
ない」(『皇帝の新しい心』111頁)と書いている。これと似たことを養老孟司が
『「私」はなぜ存在するか』で語っていた。量子論を専攻している人には量子が見
え、遺伝子やゲノムの研究者には遺伝子やゲノムが見えるのと同様、数学者にとっ
ては数学的世界が実在する、云々。
 
 素数が「実在」している場所は、保坂和志のいう「第三の領域」(フィクション
)と関係している(たぶん)。ここにも数学と小説の妖しげな関係がある。哲学と
の関係も妖しい。

 私は常日頃から小平邦彦さん(『怠け数学者の記』)の「数覚」をもじった「哲
覚」という言葉を愛用しているのだが、ここに新たに「文覚」(文覚上人の「もん
がく」ではなくて「ぶんかく」)という言葉をでっちあげたい。数覚は「(数学的
)イデア」を、哲覚は「概念」を、そして文覚は「(文字を使って思考する)人物
」を、それぞれ「実在」として知覚する。あるいは発見する。たとえば保坂和志の
『小説の自由』は『〈私〉という演算』が「小説」であるのと同じ意味で「小説」
であると考えることができる作品なのだが、そこにおいて「文覚」の対象となる「
人物」は何かというとそれは概念語なのである。この作品の主人公に相当するのは
おそらく「現前性」だろう。

     ※
 『他者の声 実在の声』についてはまだまだ書いて(引用して)おきたいことが
ある。ここでは(「読書ノート」に書きつけたメモをたよりに)ひとつ取りあげる。
──「言語は自律している、この洞察が後期ウィトゲンシュタインを導いて行った
のである」(『他者の声 実在の声』30頁)。こういうフレーズを洒落て気の利い
た言い回しか何かのように読み流してはいけない。ここで言われているのはかなり
凄いことなのだ。

 言語は脳のはたらきを通じて生み出されたものである。その言語が自律している。
脳から離れて自律している。個体の生理活動や心的活動や心身の履歴から離れて自
律している。言語がそこに(どこに?)あって、自らを組み立て編成している。だ
から言葉の「意味」は言語の中にある。脳のはたらきを通じて意識のうちに立ち上
がる、もしくは浮かび上がるものではない。しかもそれは他と置き換え可能な一つ
の言語観なのではない。ウィトゲンシュタインはそのような言語観を抱いたのでは
なく、生きたのである。言語が自律した世界を生きたのである。「あなたは言語と
はコレコレだと思っているが、実は言語とはシカジカなのだ」といった知識や信念
の話ではないのである。言語が自律している世界を生きるのは、そんな生やさしい
ことではないのである。

 ──私のメモはここで終わっている。その後に「考えているのは私なのか」「そ
れは私の思考なのか」と走り書きが残っている。この覚書きを書いていた時に立ち
上がっていたもの、もしくは浮かび上がっていたもの、つまり現前していたものの
感触は今はもう残っていない。だからここに再現することはできないが、その時書
こうと思っていたこと(私の場合それは「考えようとしていたこと」「引用しよう
と思っていたこと」と同義である)の残骸だけは収集しておくことができる。いち
いち本にあたって確認するのが面倒になったので、以下はほとんどうろ覚え。

 残骸の一。前回「引用問題」に関連して引用した保坂和志の原文は「この新宮一
成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である」となっている。これはラカンの「
他者の語らい」や「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」とい
った議論と結びついている。それはまた『他者の声 実在の声』の「言語の外」か
ら聞こえてくる(他者や実在の)誘惑の声、あるいは『神々の沈黙』のかつて右脳
から聞こえてきた神々の声とも結びついている。

 残骸の二。その『神々の沈黙』に「意識は言語に基づいて創造されたアナログ世
界」(87頁)であると書いてあった。『出生の秘密』では、ヒトは言語を獲得して
(象徴界に入って)人になるといった趣旨のことを論じている。この二つの書物を
ひとまとめにしてみると面白い。何か新しいパースペクティブが拓けそうな予感(
論理空間が変化しそうな予感)がする。

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