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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.286 (2005/09/10)
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 □ 保坂和志『小説の自由』
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保坂和志(『小説の自由』)と野矢茂樹(『他者の声 実在の声』)を同時進行的
に読んだのはたまたま偶然のことなのに、この二人のコラボレーションはほんとう
に見事にきまっている。朝日新聞の夕刊(8月10日)で『小説の自由』が取り上げ
られていた。そこで保坂和志は「自分と世界などについて新たな問いを作り出すの
が小説だ」と語っている。

《この小説は速いか遅いか、強いかゆるゆるしているかなどと考えながら読む。読
み終わった後はその手探り感に酔う。最初は緊張するし頭を使うし、大変です。そ
んな手探り感がなく、するする読める小説があふれているいま、書き手として感じ
る面白さを書かない人にも伝えたかった。》

この「するする読める小説」は、たとえば『小説の自由』の「3 視線の運動」に
出てくる志賀直哉の完成された文章、なめらかな文章の話題と(たぶん)つながっ
ていて、それは『他者の声 実在の声』の「3「考える」ということ」に出てくる
「言語ゲームのよどみ」の話題とも(たぶん)つながっている。これなど二人のコ
ラボレーションのほんの一例でしかない。(この話題については次回取り上げる。)
 

●973●保坂和志『小説の自由』(新潮社:2005.6.30)

 『小説の自由』を『カンバセイション・ピース』と並べて見てみると、この二冊
の本が姉妹編であることがとてもよくわかる。ブックカバーの写真もそれを撮影し
た写真家も違うけれど装幀はどちらも新潮社装幀室で、本の造りとデザインがそっ
くりなのだ。だからというわけではないが(いや実は大いに関係していると思う)、
この二冊の書物の読後感は驚くほど似ている。保坂和志の本書での議論を踏まえて
より精確に言いかえるならば、この二冊の書物を読んでいる時間の中に立ち上がっ
ているもの、現前しているものがそっくりなのだ。

 朝日新聞に高橋源一郎が『小説の自由』の書評を書いていた。「小説」について
考えることも「小説」なんだ、というのが書評のタイトルで、小説とは何かをひと
ことでいうならものを考えるためのある一つの優れたやり方である、つまり小説と
は「小説的思考」によって書かれたもののことだ、では「小説的思考」とは何か?
 それは実のところ『小説の自由』というこの本の中に流れている思考のことなの
である、だから当然この『小説の自由』もまた小説であるという趣旨なのだ。

 この指摘は正しい。(『小説の自由』を読みながらたえず『カンバセイション・
ピース』の読中感がありありと立ち上がってきた経験から、私は実感をもって『小
説の自由』もまた小説であるという高橋源一郎の魅惑的な考えに同意する。)ただ、
保坂和志いわく「小説は読んでいる時間の中にしかない」のだから、「小説的思考
」もまた小説を読んでいる(書いている)時間の中にしかない。つまり小説世界の
中に立ち上がっているもの、現前しているものこそが「小説的思考」そのものなの
だとしたら、そのような「小説的思考」によって(小説とは何かを考える小説を)
書くということはいったい誰がどうやって何を書くことなのだろう。(この困惑は
ちょうど、すでに立ち上がっている「意識」を使って「意識とは何か」を考えると
は、何が(誰が)どうやって何を考えることなのかを問う時のそれに似ている。)

 また高橋源一郎は、「小説的思考」が小説が生まれる以前から存在したという保
坂和志の「魅惑的な考え」にぼくも同意すると書いている。「小説が生まれる以前
から存在した小説的思考」によって書かれた書物とは最終章「13 散文性の極致」
(本書全体の集大成ともいえる章で、頁数も多いが内容も濃い。「4 表現、現前
するもの」とあわせて読むと『小説の自由』はほぼ了解できると言いたいところだ
が、このうねうねくねくねと迂回に迂回を重ねる文体=思考の手順で綴られた書物
はそれほど要領よく要約してすませられるほどヤワではない)に出てくるアウグス
ティヌスの『告白』のことだ。

 「小説が生まれる以前から存在した小説的思考」が「小説が死んだ後にも存在す
る小説的思考」もしくは「小説という概念とはいささかもかかわらない小説的思考
」はては「そもそも書かれることのない(なかった)小説的思考」(純粋小説的思
考)といったものをも含意するとしたら、それは魅惑的な考えだと私も思う。

     ※
 『小説の自由』は「小説をまず書き手の側に取り戻すために」(226頁)書かれ
た。しかしこのことと「小説は読んでいる時間の中にしかない」(74頁)という本
書の基本テーゼとは一見食い違っている。小説の「書き手の側」と小説を「読んで
いる時間」とは別の次元に属することだからだ。しかし実はそこに矛盾はない。な
ぜなら「小説家はどんな読者よりも注意深く、自分がいま書いている小説を読んで
いる」からである。つまり「小説を書くことは、自分がいま書いている小説を注意
深く読むことなのだ」(165頁)。

 これに対して「批評家・評論家・書評家は、書くことを前提にして読むから、読
者として読んだと言えるかどうか疑わしい」(74頁)。さらに引用を続けると、「
小説は外の何ものによっても根拠づけられることのない、ただ小説自身によっての
み根拠づけられる圧倒的な主語なのだ。/本当の自由とはここにある」(278頁)。

 ここまで書かれたらもう言葉がありません。要は「私を読め、私を現前させよ、
私を語るな、私を解釈するな」と保坂和志は言っている。この本を、というよりこ
の「小説」を「書評」などするなということだ。ひたすら読みつづけるか、つまり
「現前性の感触」に身体をさらしつづけるか、それとも「この保坂和志という他者
の言葉は私(中原)の言葉である」(145頁参照)というところまで引用しつくす
か。その二つしか途はない。

     ※
 『小説の自由』に次の文章が出てくる。《小説でも哲学書でも、それを楽しんだ
り理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出した
り強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残って
いない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになっているだろ
う。》(92頁)

 ほんとうに「すごいこと」になるだろう。この「読書日記」でやりたいと思って
いるのはその「何分の一」かの割合を少しでも大きくすることなのだが、忘れない
ようにするためには書かなければならず、そうするとしだいに書くために読むとい
うことになって「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えら
れる」(74頁)。

 じっさい「読みながら現前していることへの注意が弱くなる」と、書くことの方
に向かって注意が集中して最後にはその読んでいる当の書物を投げ出してしまうこ
とにもなりかねない。もちろん投げ出したって構わない。読み続けなければならな
い義務も責任も筋合いもないわけだからそれも読書の一つのかたちだとは思う。

 ところで、いま引用した「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能
性が考えられる」という文章が出てくるのは「4 表現、現前するもの」の「文字
に物質性はない」という節で、そこで保坂和志が語っている「現前性」は本書全体
のキーワードである。

 「小説における表現=現前性とは…視覚の運動(広く「感覚の運動」)をともな
う、文章に込められた要素の量に関わる」ものであって、「文字によって抽象とし
て入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こ
る」。「何よりもまず現前していることが小説であって」、「だから小説は読んで
いる時間の中にしかない」。「音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どち
らも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないこ
とを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから
言葉で伝えることはできない」。

 この『小説の自由』の73頁から74頁にかけて書かれているのはとても大切なこと
で、ここから「物質性」「表現=現前性」「テーマ・意味」の三項を抽出して、(
たとえば茂木健一郎さんの「脳内現象」の説と関連させたり、あるいは)次の文章
で指摘されている事柄と関連させてみると面白い(かもしれない)。

《スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の
関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内容)とシニフィ
アン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシ
ニフィアンの役割をはたしているのである。因果関係は、外的世界の出来事と身体
の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、
特定の心的状態(ないし意味[シニフィエ])が、はじめから身体の特定の状態(
シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフ
ィアン全体との関係のなかで全体論的に意味をもち、全体論的に解読されねばなら
ない。感官に対する物理的刺激およびそれによって励起された神経興奮は、それ自
身単独で一つの意識を生み出すわけではないのである。》(田島正樹『スピノザと
いう暗号』173-174頁)

    ※
 現前性で思い出した。加藤典洋『僕が批評家になったわけ』に小林秀雄と岡潔の
対談『人間の建設』を取り上げた箇所がある(93-97頁)。

 小林が「数学のいろいろな式の世界や数の世界を、言葉に直すことはどうしてで
きないのでしょう」と問う。岡は最初、いや数学も言葉なのだと応じるが、「小林
の質問がアインシュタインとベルグソンの論争にふれると、これがもっと遠い射程
をもつ問いであることに気づく」。そして「数学は知性の世界だけに存在しえない
ということが、四千年以上も数学をしてきて…はじめてわかった」、つまり数学を
つきつめていったら数学とことばが違うことがわかったと答える。

 岡「矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだ
めなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知
性を説得することだけなんです」。
 小林「わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土
台の数学ですね」。
 岡「そうなんです」。

 加藤典洋はここで小林が「感情」といっているものは「現前」、つまり「ありあ
りと現れていること」(=「ありありと心に感じる」こと=「実感するということ
」=「わかる」こと=「納得する」こと)と同義だと書いている。そしてデリダ(
『声と現象』)の「現前の形而上学」批判をもちだし、「批評は「わかる」ことの
上に立つのか。「わかる」ことの切断の上に立つのか。難しい問題がまさに、口を
開こうとしているのである」と結んでいる。

     ※
 保坂和志の『小説の自由』を野矢茂樹の『他者の声 実在の声』と対比させなが
らレビューを書こうと目論んでいた。たとえば野矢の「論理空間」と保坂の「小説
世界」、それらと「言語の外」との関係、はては時間との関係など。でも保坂和志
の文章からなにか理論めいたものを引き出すことは虚しい。その虚しい作業にいず
れ取り組むことになるかもしれないので、ここにそのラフスケッチを書いておく。

 保坂和志の思考のかたち(というか思考の手順)はいつも三つの項から成ってい
る。たとえば「音楽」と「美術」と「小説」。たとえば「表現」と「感覚の運動」
と「意味・テーマ」。たとえば「物質性(音楽性)」と「精神性(散文性)」と「
フィクション(第三の領域)」。たとえばアウグスティヌスとカフカとチェホフ。
その他諸々。

 これら三つの項を行ったり来たり逡巡しながら「何か」が立ち上がり浮かび上が
り「現前」することを能動的に受容することが保坂にとっての小説を書くこと(=
文字で思考すること=読むこと)の実相で、それは解釈することとはまるで違う。
それはまた哲学とも似て非なるもので、この違いを一言で表現したのが野矢茂樹の
「他者の声 実在の声」である。

《他者は、意識における他我ではなく、意味の他者として私を取り巻く。たとえば
哲学などはあからさまにそのような声として現れてくる。理解しきれない、しかし
まったく理解を拒むわけでもない、「さあ、理解してごらん」という誘惑のざわめ
き、それが意味の他者なのだ。
 同じような誘惑の声を、私は実在のもとに聞く。このコーヒーの味わいも、ある
いは先週の山歩きのときのさまざまなことも、言葉で表現しつくすことはできない。
しかし、それらは語りえぬものとして言語の向こう側に鎮座しているわけではない。
「さあ、語り出してごらん」、そんな誘惑がかすかに、あるいは声高に、響いてい
る。私はそこにこそ、「実在性」の在りかたを見たい。》(『他者の声 実在の声
』193-194頁)

     ※
 保坂和志+石川忠司「小説よ、世界を矮小化するな」(『群像』10月号に掲載)
を読んだ。面白かった。保坂和志いわく「僕は、小説は部分だけ読んでいて構わな
いと思っているのね」(206頁)。「最近僕はエッセイを十五枚ぐらいの長さで書
くことにしているんです」。「でも、彼[村上春樹]は考えをつくったんじゃなく
て、文章をつくったんだよね。だからみんなに使われる。村上春樹以降の人は、文
章で小説を書くんじゃなくて、考えで小説を書かなきゃいけないと思うんだよ」(
210頁)。「[五枚から十枚ぐらいの長さでまとめられた]エッセイみたいにこぢ
んまりとした作品を完成させるのに都合のいい文章は持っているんだけど、とめど
なく考えを先に進められる文章は持っていないということなんだと、今僕は思って
いる」(210頁)。「比喩というのは世界に向かわず、言語の中で次から次に移っ
ていくことだ……だから、やっぱり比喩を使っていたら世界[リアリティ]は開示
されない、きっと。…言語と世界をいかに結びつけるかということを忘れたら小説
は大人が真面目に読むものじゃなくなると思う」(214頁)。

 石川忠司が「2001年の保坂和志」(『世界を肯定する哲学』)と「2002年の保坂
和志」(「文学のプログラム」/『言葉の外へ』所収)を図式化して、その間の「
ゆらぎ」もしくは「矛盾」を衝いていた。両者に共通しているのは「人間(肉体)
に対する世界(存在)の先行性」(211頁)なのだが、「図式1[2001年]では世
界の先行性、世界と人間の断絶を敢行していたのは言語の「裏地」、言語の肉体的
側面だったのが、図式2[2002年]では逆に言語の「表地」、肉体性からかけ離れ
た純粋な論理・思考的側面になっている」(212頁)。保坂和志いわく「それは自
分だってわかっていないんだもん」。石川「しっかりしてよ」。保坂「人任せにす
るなよ(笑)」(213頁)。

 以下、世代交代(バトンの受け渡し)を描く小説、空間の中での「私」の消滅、
いいことも悪いことも何も「起こらなかったことに××する」のその「××」を考
えること、といった話題がつづき、最後に保坂・石川両人の「今後の予定」が語ら
れる。保坂和志いわく「「小説をめぐって」の連載は、やっぱり小説を書いている
わけじゃないから、小説を書きたい」(219頁)。『小説の自由』は現在も続く「
小説をめぐって」(『新潮』連載)の最初の十三回分をまとめたもの。(二人の対
談を読みながら、昔読んだマヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を想起していたの
だが、このことはまた別の機会に書く。)

 石川忠司がいう「ゆらぎ」は私もおぼろげに感じていて、それは小説とは感覚の
運動であるという『小説の自由』前半の規定と、小説とは思考の手順を総動員して
書きつづけることだという後半の規定との間に、あるいは小説とはフィクションと
いう第三の領域を立ち上げることだという前半後半を通じた規定と、『〈私〉とい
う演算』のあとがきにある「ぼくにとって小説というのは、フィクションであるか
どうかということではたぶん全然なくて、歌かどうかということであるらしい」と
いう規定との間に漠然と漂う異和感のようなもののことだ。もっとも『〈私〉とい
う演算』のあとがきは「こここにある文章はその「歌」から最も遠いところで書か
れているのだけれど、その分、思考の生の形に近い」とつづき裏地と表地はつなが
っているのだが、そのあたりはとても危うい。

 それにしても石川忠司の図式はとても便利なもので、「物質性─精神性─フィク
ション(第三の領域)」という保坂和志の三項関係にあてはめて「言語の裏地(肉
体性:感覚の運動)─言語の表地(記号性:思考の手順)─世界(リアリティ)」
と変形してみたり、今読んでいる茂木健一郎『「脳」整理法』の議論(「世界知=
ディタッチメント」と「生活知=パフォーマティブ」、「偶有性」と「神の視点」
)と関連づけたりすると面白い。言語の裏地における「肯定/否定」「全体/部分
」「容器/中味」の関係は、マテ・ブランコの『無意識の思考─心的世界の基底と
臨床の空間』とも関連しているはずだ。

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