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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.285 (2005/08/28)
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 □ 太田肇『認められたい!』
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●972●太田肇『認められたい!──がぜん、人をやる気にさせる承認パワー』
                       (日本経済新聞社:2005.6.22)

 私はある時期から著者の人間観に違和感を覚えるようになっていた。それは本書
の「あとがき」にも出てくる二つの言葉、「きれいごと」と「ホンネ」の区分・対
立のさせ方があまりに表面的すぎるのではないかという不満(懸念)によるものだ
った。ここでいう「きれいごと」とはたとえば「人間にとって重要なのは自己実現
だ」とか「(仕事の)意欲を引き出すのはお金ではなく仕事の楽しさや面白さだ」
といった言い方のうちに示される型にはまった思考のことで、これに対する「ホン
ネ」とは(本書の場合)名誉欲や自己顕示欲、功名心、プライド、メンツなどの「
承認欲求」のことだ。「きれいごと」だけでは「組織で働いている人たちの行動や
ドロドロした現実の世界をとても説明できない」。「人間や組織をほんとうに動か
しているもの」、つまり「心の深層」にある「ライバルや顧客、業界、学会などに、
あるいは広く社会に認められたいという強い欲求」が「仕事の面白さや働きがいに
つがっている」という事実を見据えなければならない。この認識自体は正しいと思
う。

 私の限られた経験(社会的および私的経験)からいっても、「人間や組織をほん
とうに動かしているもの」は裏返しの承認欲求ともいうべき嫉妬と羨望である。著
者の次の指摘は、人間集団のリアリティを鋭く抉っている。《世間では、嫉妬や羨
望といえば不合理な感情の問題としてかたづけてしまいがちですが、実はそれがあ
る意味で合理的な感情であり、そこから生まれる態度や行動もまた、論理的に説明
できるということを見逃してはなりません。つまり、お金やモノを求めて争うのと
同じように、名誉欲、自己顕示欲やプライドをめぐる戦いや競争が繰り広げられて
いると考えれば理解しやすいのです。》(30頁)著者は、承認欲求を「タブー視せ
ず、それを真正面から受け止めることからスタートしなければ展望は開けません」
(151頁)と語っている。それを裏返していえば、嫉妬や羨望を「心の深層」に秘
匿すべき負の感情としてタブー視せず、真正面から受け止め公に語ることができる
言説の空間をつくらなければ人間集団の展望は開けない。

 しかし「きれいごと」と「ホンネ」は一方が虚偽で他方が真実だといった単純な
区分では片づけられない。本来この二つは同じ次元に並び立つものではない。理想
と現実と言い換えても同じことで、現実を直視しない理想論は欺瞞だが、理想を現
実のうちに回収してしまう議論は不毛だ。著者はそんなことは百も承知で、前者の
欺瞞を撃ちつつ、後者の不毛を回避する途を探ってきた。この方法も正しいと思う
し、組織対個人の関係においていかにして個人が「生きのびる」か、どのようにし
て組織を「つかいこなす」かといった問題設定とその処方箋はとても切れ味がよか
った。

 ただ、そこで得られた知見・洞察を組織や人事政策に応用し、さらには一般社会
に応用するためには、「きれいごと」対「ホンネ」の一見わかりやすい図式をもっ
と鍛えなければならない。さもないと「きれいごと」がもっている「人間や組織を
ほんとうに動かしている」力を見失ってしまう。いくら「きれいごと」(政権公約
)を掲げても、所詮、政治は権力闘争である。そんなことは誰でも知っている。本
当の問題は「ホンネ」(権力欲)を暴くことではなく、「ホンネ」のうちに孕まれ
たエネルギーを通じてどのような「きれいごと」を実現するかということだ。いい
かえれば「きれいごと」がもつ欺瞞性を人間集団や社会の実相として直視し、これ
を真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団
や社会の展望は開けない。

 私の不満(懸念)は本書を読むことでほとんど払拭された。次の二つの点で、著
者の人間観や社会観の「成熟」を感じさせられたのである。第一は、「ホンネ」を
個人の内面のうちに限定して論じるとらわれ(あるいは「きれいごと」=「公」に
流通する出来合の言説、「ホンネ」=心の深層にある「私」的な欲望という二元論
)から解放されていること。第二は、「きれいごと」と「ホンネ」の統合の可能性
(あるいは背反する二項の一方を切り捨てるのではなく、両者の統合へ向けた不断
のプロセスこそが人間集団や社会の実相であるという見極め)を見出していること。

 第一の点は、たとえばE・L・デシ(『内発的動機づけ』)の「承認=情報」の
説の紹介(45頁,235頁)やV・E・フランクル(『現代人の病』)の引用(53頁)
──人間本来の重要性は意味の可能性の充足にあるのだが、その意味の可能性は「
自分の内に閉ざされたものとしての心理の中に、と言うよりむしろ世界内に見出さ
れるべきものなのである」──のうちに示唆されている。第二の点は「個人主義と
集団主義の調和」と題された節(159-163頁)のうちに明快に示されている。(た
だ、「会社や社会のために尽くすことがそのまま自分の名誉に直結する構造」を自
分の中につくりあげている「超一流の域に達した」人物について、「もっとも彼ら
がこのような境地に達することができたのは、たんに彼らの能力や姿勢が優れてい
たためではなく、彼ら自身が恵まれた立場に置かれていたためでもあることは見逃
せません」とあるのは、一面の真理ではあるのかもしれないが、そもそもこの指摘
に「実証性」はあるのだろうか。)

 本書を読んで、前田英樹の『倫理という力』に出てくる「トンカツ屋のおやじ」
の話を想起した。《客から金を取って生活しているトンカツ屋のおやじにとって、
客は手段である。けれども、美味いトンカツを食わせることに関するこのおやじの
並外れた努力は、客を目的とすることなしには成り立たない。客はおやじを尊敬す
る。おやじも味のわかる客を大事にするが、大事にするからといって、金をもらわ
ないわけにはいかない。これが、おやじの立てている文句のつけようがない尺度で
ある。》(54-55頁)「きれいごと」と「ホンネ」をめぐって先にくどくどと書い
たのは、要するに、それらを真っ二つに分断することは、生の実相を損なうことに
なると思ったからだ。しかしそのことと『認められたい!』が論じていることとは
やはり別の話だったのかもしれない。

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