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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.284 (2005/08/12)
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 □ 石川忠司『現代小説のレッスン』
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●971●石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書:2005.6,20)

 この人の文章は保坂和志の『草の上の朝食』や『残響』の文庫解説と『孔子の哲
学』と小林秀雄論(「小林秀雄の「エンタテインメント」的な本質」,文藝別冊『
小林秀雄 はじめての/来るべき読者のために』所収)を読んだくらいだが、いず
れも印象に残っている。なにしろ文学の嗜好に近いものを感じる。たとえば本書で
藤沢周平を「W村上に匹敵する現代日本文学の宝」(125頁)と評している。この
センスがとてもいい。小林秀雄論での隆慶一郎の取り上げ方もよかった。(隆慶一
郎が小林秀雄の「弟子」だったことを確認するためネットで検索していて、松岡正
剛が「千夜千冊」の第百六十九夜で隆慶一郎の『吉原御免状』を取り上げているこ
とを知った。)

     ※
 あとがきに「本書は書き下ろしだが、いくつかのトピックについては共同通信社
での連載コラム、およびさまざまな場所でのトークを下敷きにしたことをおことわ
りしておく」とある。別におことわりする必要はないと思うのだが「それはまあい
い」。これを読んで腑に落ちたことがあるので書いておく。
 

 この「書き下ろし」は圧倒的に細部が面白い。村上龍=(人間の「本体」から分
離された「知覚作用」による)ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い(共同性
なき共同作業=ちぐはぐな「セッション」)小説とか村上春樹=ノワール(犯罪な
き罪悪感=純粋なメランコリーの「原因」が遡行的にデッチ上げられる既視感の伴
う冒険譚)といった作家論も新鮮だが、なによりも個々の小説作品の具体的な細部
に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭くて(かつ危なっかしくて)
とても「ナイス」なのだ。

 一例を挙げると、保坂和志の『プレーンソング』に「子猫とぼく」が一秒か二秒
のあいだ見つめ合う場面が出てくる。そこに「ぼく」と子猫の「心の通い合い」を
想定するのはいかにも感傷的=「文学」的な思い込みに過ぎないが、しかし見つめ
合うことで「そこに物質的な視線の接触・交差が起こったということは、やはりひ
どく貴重な何事かではないのか」(88頁)。ここから著者はウィリアム・ジェイム
ズ(『根本的経験論』)の引用──「物的知覚物は、あなたの身体という知覚物と
同じ一つの素材でできている。あなたの片手が一本のロープの一端をつかみ、私の
片手が他の一端をにぎる。私たちはお互いに引っ張り合う。私たちの二つの手は、
この経験においてお互いの共有物ではないだろうか」──を挟んで、「保坂和志の
小説とは以上のごとき物質的コミュニケーションが感動的に横溢する空間にほかな
らない」(91頁)と規定する。

 このあたりの著者の筆の運びには(保坂和志の小説世界に一度でも身をもって惑
溺したことのある者なら間違いなく快哉をあげるだろう)否定しがたい説得力がこ
もっている。誰もがそう思いそう感じていたのに言葉でそうと表現されるまでは誰
もそのことに気づかなかったある思考、感覚の実質が見事に言い当てられている。
それこそ批評の力というものだ。そこで援用されるジェイムズの言葉もいかにも適
切なもので、たとえ前後の脈絡を無視したトリッキーな引用であったとしても、そ
れがかえって批評の身軽さ(というか批評の対象に切り込むためなら手持ちのネタ
を自在に料理=解釈してつぎ込んでいく潔さ?)を思わせて好ましい。

(いまの例は本書の細部の鮮やかさ、切れ味の鋭さ、面白さを端的に示すものとは
言えないかもしれない。たぶん言えない。ならどうしてそんな例を挙げたのかとい
うと、なによりも本書二章「保坂和志の描く共同性と「ロープ」」が出色の保坂和
志論だと思ったからだし、そこに出てきた「物質」という言葉が、後に、吉田修一
の『パーク・ライフ』が描く究極のデタッチメントの世界について述べた箇所に出
てくるスラヴォイ・ジジェク(『イデオロギーの崇高な対象』)の言葉──「人間
の内奥の感情をもっともよく代理し得るのは、実は外部に確固と存在する「物」で
ある」(120頁)──や、あるいは佐川光晴の『生活の設計』に関連して出てくる
フローベルの『聖アントワーヌの誘惑』からの一文──「私は物質になってしまい
たいのだ」(147頁)──と響き合っていたからだ。余談ついでに書いておくと、
このことと本書三・四章と五章後半で展開される「小説の時間論」を組み合わせる
ならば「物質と時間」ともいうべき本書の隠れた理論的水脈のようなものが見えて
くる。)

 しかしそのような批評は鮮やかであればあるほど危うい。それはある具体的な対
象に即して書かれた、その場その時にしか使えない地域限定・期間限定の消費物で
ある。そこから何か普遍的で応用可能な理論や一般的な法則のようなもの(たとえ
ば「小説における物質と時間」とか)を導き出すことはできない。できなくはない
が、そうやって肥大化した批評はたぶんきっと「かったるい」。つまり本書はあく
まで「コラム集」なのだ。一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのよう
なコラムに徹すること。コラムとコラムを(それこそ共同性なき共同作業=物質的
コミュニケーションを介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせるこ
と。それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。

 著者はこのことに(おそらく)気づいている。気づいていて(おそらく)戦略的
に「書き下ろし」ている。たとえばプロローグで与えられる本書全体の見通し。物
語(話し言葉)の豊饒に拮抗するため近代文学=純文学(書き言葉)は「描写」「
思弁的考察(感想)」「内言/内省」といった物語とは異なる言葉の位相を開発し
たが、その洗練・昇華はては過剰な増殖によって近代小説は窒息し「かったるく」
なった。現代小説は「活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性」すなわち描写
・思弁的考察・内言の「エンタテインメント化」をめざしている。以下、村上龍の
「描写」(一章)、保坂和志の「思弁的考察」(二章)、舞城王太郎の「内言」(
五章)へと続く。

 このいかにも借り物めいた「理論」(実際それはベンヤミンと吉本隆明から借り
てきたものだ)は貧弱である。描写・思弁的考察・内言のとりあわせは説明不足か
つ恣意的だし、そもそもそこで言われる「近代小説=純文学」の実質が曖昧で、だ
から著者は最終章の後半になって(村上春樹をめぐる「大きな物語」論と阿部和重
をめぐる「ペラい日本語」論に二章分を費やすという、プロローグで予告された本
書の構成を完璧に損なう長大な「伏線」を張った上で)、本格小説(西欧ふうの長
編小説)や私小説、はては「資本主義小説」をめぐる議論を持ち出して帳尻を合わ
せようとする。著者は至るところで後付けの理論を繰り出し、その結果、プロロー
グで与えられた本書の「体系」は破綻するのである。

 だが、それらのことは本書の欠陥でも欠点でもなんでもない。くどいようだが本
書の魅力のすべては細部(コラム)の輝きにこそある。理論や体系や小説観といっ
た大括りの議論は粉々に砕け散って、具体的な小説世界という「物」に即したその
場その時の思いつきやひらめきや創造的な発見の歓び(批評=コラム)のうちに生
き生きと息づいている。いや、むしろそのような抽象的で普遍的で一般的な概念や
観念や体系といった意匠が立ち上がる現場こそが批評=コラムというものなのだ。

 著者がプロローグで与えた(理論的かつ体系的な)見通しは、だから一冊の完結
した書物(「書き下ろし」)を夢想しての余分なお化粧などではなくて、いわば「
現代批評のエンタテインメント化」宣言なのである(って、こういうカッコだけつ
けた括り方は説明不足で曖昧で結局のところ何も言ったことにならないのは百も承
知の上で、でもやっぱりそう言っておきたいと思ったから書いた)。

     ※
 ところで、本稿の冒頭に引用符付きで使った「それはまあいい」というのは著者
の口癖の一つで、たとえば村上龍の『五分後の世界』に「アンダーグラウンド」の
地下司令部を視察した晩年のアインシュタインの話が出てくるのだが、ここで「「
アインシュタイン」を持ち出してくるあたり、何だが頭悪くて最高なんだがまあそ
れはいい」(57頁)とか、水村美苗の『本格小説』の「水村」と「祐介」の「エロ
い」会話を引用した後で「いい年して色気たっぷりじゃねえかと思わざるを得ない
がそれはまあいい」(218頁)といったかたちで使われる。

 これと同じ感覚は、村上春樹の『風の歌を聴け』でジェイズ・バーのトイレで酔
いつぶれていた女の子と「僕」が翌朝彼女のアパートの部屋で交わした会話をめぐ
って、女の子が裸なのは「僕」が言うように「自分で脱いだんだ」として目をつぶ
るとしても、「しかし何で「僕」まで裸なんだ? 女の子の意識がないのをいいこ
とに、こっそり「僕」が彼女をヤッたのは誰が見たって明らかではないか」と書い
た後で「それはともかく」と話題を転じ一気に『ねじまき鳥クロニクル』までの村
上春樹の作品の本質を抉り出すくだり(134-135頁)にも漂っている。

 これらはどうでもいいといえばまあそれまでなんだろうが、枝葉末節ついでに書
いておくと、本書の随所に丸括弧書きで挿入された「余談」(ちなみに話)にもこ
れと似た感覚がつきまとう。前後の文脈を抜きにしていくつか事例拾うなら、たと
えば「一民族に神様から与えられている「魂」の量はすでにアプリオリなかたちで
決定されているのではないか」(148頁)とか、「もともとストーキングとはきわ
めて文学的な欲望の産物だ」(219頁)とか「旧約聖書の万物創造のくだり。天や
地を創造する主体は一貫して一人称の「私」なのに、人類を創造するときに限り、
主語が突然「私たち」と複数形に変わる。『アフターダーク』の「私たち」は、人
類を創造した出自不明のこの「私たち」を思わせて非常に薄気味悪い」(221頁)
など。

 要するにそれは「トーク」の感覚なのだ。ちぐはぐな「セッション」としての会
話、村の寄り合い的なたらたらとした結論のない会話を愉しんでいるとき、しかも
そこに(熱心にであれどうでもいいといったクールなものであれ一応耳を傾ける)
ギャラリーがいて多少の緊張感が漂っているとき、相手の発言に突っ込みを入れて
みたり(「頭悪くて最高」とか「いい年して色気たっぷりじゃねえか」とか)、「
それはともかく」と会話の主導権を引き戻し、咄嗟にひらめいたアイデアを臆面も
なく口にしてみたりするあの感覚。

 最近はほとんどなくなってしまったけれど、若い頃の友人たちとの「ライブ・セ
ッション」は(天使はバタバタ通るわ文殊は高速で駆け回るわで)「時にオレは天
才なんじゃないだろうか」と思うほどのひらめきをもたらせてくれた。もちろんそ
れは錯覚なのだが、それはまあいい。本書のそこかしこにその場その時だけ通用す
るあのライブな感覚が充満していることは確かで、それがまた細部の面白さを際だ
たせている。

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