〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.283 (2005/08/07)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 加藤典洋『僕が批評家になったわけ』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 

●970●加藤典洋『僕が批評家になったわけ』(岩波書店:2005.5.30)

 「ことばのために」という(ちょと趣旨のつかみにくい)叢書の一冊。編集委員
の顔ぶれ(荒川洋治・加藤典洋・関川夏央・高橋源一郎・平田オリザ)はとてもい
いと思う。でも結局この五人がそれぞれ本を一冊ずつ書くのだったらわざわざ「編
集委員」と名乗ることもないのに。その編集委員を代表して加藤典洋さんが書いた
趣意書の中にこの叢書は「世の小学生以上の広範な読者の前に、差し出されるので
す」とあるから、これもまたみすず書房の「理想の教室」やちくまプリマー新書の
仲間なのだろう。書店でぱらぱらと拾い読みをしていて「ムッシュー・テスト」(
ヴァレリー)と「徒然草」だとか、「電子の言葉」と内田樹と「徒然草」だとかの
話題が目についた。加藤典洋と「徒然草」の取り合わせに惹かれた。

《誰もいない。部屋の壁に貼られた反古がはがれかかり、また机の上に残された写
経が開けられた戸口から吹く風にめくられる。おや、裏に何か書きつけられている
みたいだぞ。/彼らはふすまを外す。それを丁寧にはがす、また写経の紙片を集め
る。/もし、それを集積したものが、『徒然草』になったのだとしたら──。/そ
うだとしたら、ここには先に述べた、ことばで出来た思考の身体としての批評とい
うものの、ふつうわれわれが理解しているものの対極の像が、屹立している、こと
になるのではないだろうか。》(39頁)

     ※
 批評とは何か。それは「日々の生きる体験のなかで考えること」(29頁)、それ
も「徒手空拳」(170頁)で、「できるだけ自由に、自分の力だけで」(203頁)「
ゼロから考えていく」(219頁)ことだ。そのような「ものを考えることがことば
になったもの」(43頁)が批評である。「本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ
相手とサシで勝負ができる」(14頁)こと。批評とはそういう「言語のゲーム」(
219頁)なのである。だから、批評はどこにでもある。「あることばを読んで、面
白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素
に感応することなのだ」(30-31頁)。

 こうして著者は批評の原型としての(30頁)──そして「いわゆる文学としての、
批評として書かれた批評」(160頁)を通り越して批評の未来へと、つまり「批評
のことばの、突端」(203頁)へと導くものとしての──『徒然草』にいきあたる。
じっさい、備忘録や読書メモなど二四三のさまざまな断片を集積した『徒然草』は、
「どういうところに人がものを考えることの面白さ、深さ(?)、気持ちよさを感
じるのか」という批評の酵母に関する「みごとな見本帖」(32頁)になっている。

 この『徒然草』をめぐって、小林秀雄は「純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂
が出現した文学史上の大きな事件なのである」と絶賛した。「物が見え過ぎる眼を
如何に御したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である」と書いた。たしか
に『徒然草』には、「公衆、世間、一般読者」という「スクリーン」(学会や文壇
といった閉ざされた世界に対する外部存在)の出現とともに成立した近代批評──
「これまで誰もいわなかったこと、新しいことをいう」(185頁)文学としての批
評、もしくは重く難しい「ことばで出来た思考の身体」(30頁,39頁)──の極北
をなす「ムッシュー・テスト」(ヴァレリー)の「無名」への夢に通じるところが
ある(39頁,160頁)。

 著者はこのことを確認した上で、『徒然草』が導くもう一つの夢を粗描してみせ
る。それは「ふつうのことをふつうにいう」こと、「わからない、わからなかった
ということを書く」(173-174頁)こと、つまり「平明な批評のことばの果て」(
185頁)にある未来の批評である。ここで著者は、インターネットに代表される「
電子の言葉=電子エクリチュール」が生み出した新しい批評の書き手、内田樹を引
き合いに出す。

 『徒然草』序段と『ためらいの倫理学』のあとがきは似ている。それらは(中世、
明治以後・情報化以後の現代という違いこそあれ)いずれも「書き言葉」と「話し
言葉」という二つの力のせめぎあいのなかから「自由に書きたい、自由に考えたい
」(202頁)という欲求を通じて生み出されていった。兼好法師の場合は漢字とひ
らがなの「和漢混淆文」とともに、内田樹の場合は──机の上の「スクリーン」に
のみ存在する「書き言葉」であり、セーブしなければ誰の目にもふれずこの世に存
在しないものになる「話し言葉」の要素をも濃厚に合わせもつ──「書き言葉=話
し言葉」的な新しいメディア=電子エクリチュールとともに(208-209頁)。

 そもそもことばは分裂をかかえている。養老孟司は『唯脳論』で、言語の本質は
視覚・知覚系(文字記号)と聴覚・運動系(音声)という本来異質な無関係な二つ
の刺激が(ゴリラやチンパンジーより広い大脳皮質をもったホモ・サピエンスの脳
において)「連合」したものだと書いた。ゴリラやチンパンジーは意思の疎通は可
能だが、言語はもっていない。意思が疎通すればそれで言語だとはいえない。言語
は記号ではない。「この養老説から浮上してくる言語観は、空中で放電している青
白い光のようなもの、二つの液体が混じり合って生じている化学反応のようなもの、
つまり、難しいとか重いという以前に、平明なままで、すでにダイナミックな運動
としてある存在なのである」(197頁)。

 批評もまた二つ力のせめぎあいのなかで営まれる。著者は「平明な批評というと
きの、平明さの基礎は何か」をめぐる終章で、内田樹=レヴィナスとの「対決と和
解」(?)をまじえながら、平明と難解、全体性と無限、野生と純粋、世間と世界、
面白いと美しい、等々の二つの力の中間にあるものとしての批評、「永遠の初心者
」(レヴィナス,222頁)による批評のあり方を語っている。「なぜ批評は平明で
なければならないのか。それは批評が、誰もが、いつ、どのような出発点からも、
どんなルールででも、参加できるものでなければ、死んでしまう、ゲームだからな
のである」(220頁)。本書はそのような(来るべき)批評の酵母の見本帖、すな
わち加藤版「徒然草」である。

《批評の一番奥底にはこの世間のうごめきがある。頭上には世界がある。地上には
世間がある。批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあい、その中間
に、噴水の上のゴムマリのように浮かんでいる。/あることばが、何か心にとどま
る、すぐれている、と感じられるとき、起こっていることは、よく考えてみるなら、
そういうことである。何かが中空に浮かび、とどまる。知識の量、頭脳の明晰さ、
着眼の面白さに還元されないものが、そこにある。すぐれた批評に接したと感じる
とき、私たちは、他なる思考の泳者がたしかに私たちのなかの世間にしっかりとタ
ッチして、私たちをその世間的思考から彼岸まで連れて行き、さらに私たちのなか
の世界にタッチした後、もう一度、世間の場所に連れ帰るのを、感じているのであ
る。》(242頁)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       : http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP: http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓