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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.282 (2005/07/31)
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 □ 亀山邦夫『『悪霊』神になりたかった男』
 □ 加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』
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●968●亀山邦夫『『悪霊』神になりたかった男』(みすず書房:2005.6.10)

 スタヴローギンの「告白」(『悪霊』)という「いくつもの真実を同時に隠しも
つ、永遠に解くことのできない、開かれたテクスト」(146頁)に仕掛けられた、
あるいは隠蔽されたさまざまな謎──「告白」の文体はなぜ「壊れている」のか、
母親に鞭打たれながらマトリョーシャが「奇妙な声をあげて」泣いていたのはどう
してか、ドスエフスキーはなぜルソーに言及したのか、スタヴローギンがゲッテイ
ンゲンでまる一年聴講したのは誰の講義だったのか、また世界遍歴の最後に立ち寄
ったアイスランドで何を見たのか、マトリョーシャ=スタヴローギンはなぜ縊死し
たのか、等々──をくねくねと迂回しながら解明しつつ、「ドストエフスキー文学
のはかり知れぬ恐ろしさ」すなわち「意識という恐ろしさ、内なるポリフォニー(
多声性)の地獄」(127頁)に迫る。そしてスタヴローギン的な狂気=ニヒリズム、
つまり世界をたんに見る対象として突き放す「神のまなざし」の傲慢さへと解きい
たる(158頁)。「九月十一日、神は死んで、人々が神になった」。

●969●加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』
                         (みすず書房:2005.6.10)

 片脚を骨折した冒険好きのカメラマン(ジェイムズ・スチュアート)が「裏窓」
(スクリーン)越しに「目撃」した殺人事件は、はたして本当にあったことなのか。
カメラマンはファッション業界人の美しく洗練された恋人(グレイス・ケリー)か
らの求愛をなぜに、またいかにして拒絶しようとするのか(あるいはその求愛を回
避できたのか)。本書には、ヒッチコックの傑作『裏窓』から著者が切り出してき
たこの二つの謎の提示から始まる三つのスリリングな論考が収められている。だが、
いわゆる「謎解き本」もしくは「異説本」の単純明快で手っ取り早い理解(娯楽)
を期待して読み進めると肩すかしをくらわせられるだろう。

 クレジット・タイトルや冒頭のカメラ・ワークをめぐる「視覚的情報」の分析を
通じて、『裏窓』という作品がもつ特質を「視覚をめぐる寓話(アレゴリー=別の
語り方)」と規定してみせる導入部(32頁)は、よくできた予告編を観ているよう
でワクワクさせられる。ヒッチコック作品の本質を「ブラックホール化」──映画
という視覚的媒体の内部における実質、すなわち虚構世界の実体が(スクリーン上
の外見に対応すべき内実が観客の目に届かないゆえに)実は空虚であり、かつなに
ものにも充填されない空虚そのものでありつづけること(46頁,57頁,105頁)、
あたかもノーマン・ベイツ(『サイコ』)の非人格的な「自己」のように(136頁)
──もしくは「外見と内実の乖離」として摘出し、ヒッチコックの諸作品の読解を
通じてその変遷を詳細に叙述し、また初期から古典期、現代期へと到る映画史のな
かに位置づけてみせる構成も見事だ。

 なによりも「クローズ=アップ」や「移動撮影」、「切り返し」(眼差しの交換
)や「視点編集」といった技法(映画の文法)、そして一呑みする「口」(123頁)
=血と温水を呑み込む「排水口」(131頁)=虚ろに見開かれた屍体(ヒロイン)
の「眼」(132頁,135頁)といったショット(視覚的情報)に即して(ヒッチコッ
クの作品が「ブラックホールが口を開けているような映画」(57頁)であることを
)実証してみせる手腕が水際だっている。(このあたり、巻末の「読書案内」で「
現代の超越論的な形而上学者たる精神分析学的批評家」すなわちスラヴォイ・ジジ
ェク一派を、蓮實重彦の口吻を借りて「[映画など]見なくとも語れるという安易
さをあられもなく肯定してしまう」病理的ナルシス=教条主義者と批判している著
者ならではの読解だろう。)

 しかし、細部にちりばめられた解釈の鮮烈さ、ある種猥雑と見紛うほどの理論的
豊饒さが本書全体の見通し(単純明快で手っ取り早い理解)を損なっていることも
事実だ。たとえば、著者によると『裏窓』からは「視覚をめぐる寓話」とともに「
奇妙な愛の寓話」を読みとることができる。それは「ひとを見ること」と「人を愛
すること」、すなわち視覚的問題と恋愛問題との結びつき(117頁)にかかわるも
ので、古典的ハリウッド映画においては──クローズ=アップによる外面を見るこ
とと内面を見ることとの結合、すなわち「読唇術」(118頁参照)=「読心術」の
確立、そして切り返しの編集法よる感情交流の視覚的表現(「見合わせること」)
の確立を通じて──「見ること」と「愛すること」とは一致していた(129頁)。
ヒッチコックはこのような「欺瞞的コミュニケーション」(143頁)を排除し、こ
れとは別の(愛=コミュニケーションの)ヴィジョンの可能性を映画にあたえた
(129頁)。

 著者はここからヒッチコックの作品における「無意識」の描写(129頁)や(ブ
ラックホールの開口部としての)「非人称カメラ」(136頁)へと説き及ぶのだが、
この『裏窓』にしかけられた二つの謎が交錯する本書のキモともいうべき箇所で読
者は、いや私は途方に暮れる。矢継ぎ早に繰り出される著者のアイデア(過剰解釈
)の数々に刺激をうけつづけ、私の感覚と思考がついに麻痺してしまうのだ。それ
は映画的体験に対する私の感受性の鈍さゆえのことでもあり、また(「ルネサンス
のある種の画家たちのそれに匹敵する」とジャン=リュック・ゴダールが讃えた)
『裏窓』(1953)や『サイコ』(1960)の「豊饒」から発芽した「現代期」の映画
がいまだ歴史として語られるまでには到っていないことからくるものではないか。
映画はまだヒッチコック以後、『サイコ』以後のヴィジョン(黙示録的世界)を全
うしていない。映画のヒストリーはいまだミステリーのままである。その意味で、
本書の冒頭で提示された二つの謎はまだ解かれていない。

《ヒッチコックは人間が「他者」と取りむすぶすべての関係の光学的欺瞞性を告発
します。それはまず視覚的媒体における外見と内実の乖離という、みずからの存立
基盤をゆるがす方法として立ち現れます。そして小共同体内部の合意形成から自己
意識の統覚をへて人間と自然との調和にいたる、すべての存在者の関係領域におい
て欺瞞的コミュニケーションとしてしか立ちゆかない人間の営みの黙示録的世界を
提示します。》(143頁)

 本書を読み終えて、エリック・ロメールの作品を観たいと思った。ロメールの映
画は基本的に「ヴァカンス映画」である。著者はそう書いている(108頁)。そこ
では、浜辺や中庭や登場人物たちのいつ果てるとも知れないおしゃべりの中で省察
される「現実」と映画のカメラが提示する多少なりとも客観的な「現実」とは齟齬
をきたしている。それこそ『裏窓』における外見と内実の乖離が先取りしていたも
のだ(109-109頁)。ここを読んでいて、ふと保坂和志の小説世界のことが頭をよ
ぎった(『アフターダーク』の村上春樹も)。実はとうの昔に観ていたのかもしれ
ないけれど、映画的記憶能力に著しく欠ける私にとって映画体験とはけっして「過
去」に属さずつねに「いま・ここ」に生起するものなのだ。だからロメールの映画
を観てみたいと思う。

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