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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.281 (2005/06/19)
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 □ 木田元『ハイデガー拾い読み』
 □ 養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』
 □ 茂木健一郎『脳と創造性』
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●965●木田元『ハイデガー拾い読み』(新書館:2004.12.25)

 この本はけっして読み急いではいけない。木田元さんの名人の域に達した語り口
にゆったりと身をゆだね、逐行的に細部を味わいながら読まなければいけない。「
〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念
の由来」とか「古代存在論は制作的な存在論である」とか、これまでから木田元さ
んの著書で何度も何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。落語の十
八番のように。読むたび新しい刺激を受ける。物覚えが悪くなったのを嘆くより、
何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。一気に
読み進めたい欲求を抑えながら、かれこれ半年近く愉しませてもらった。

     ※
 第八回「「世界内存在」再考」と第九回「専門的常識の誤り」から。──今道友
信氏によると、岡倉天心の『茶の本』に荘子の「処世」を「Being In The Word」
と英訳した箇所があって、そのドイツ語訳「Sein in der Welt」をハイデガーが剽
窃して「In-der-Welt-Sein」としたのではないかという疑惑がある。『存在と時間
』の刊行(1927年)に先立つ1919年、今道氏の恩師伊藤吉之助がハイデガーに「Das
 Buch von Tee」をプレゼントしたというのがその論拠。

 木田元さんは、用語についてはそういうことがあったかもしれないけれど、「世
界内存在」という概念そのものをハイデガーが荘子なり天心から学んだかどうかは
疑問としめくくっている。第9章に出てくる二つの話題、イデアリスムスとレアリ
スムス、トランスツェンデンタールという語をめぐるハイデガー講義録からの議論
の紹介も面白かった。

     ※
 形而上学という日本語は『易経』の「形而上者謂之道、形而下者謂之器[かたち
よりうえなるものはこれをみちといいかたちよりしたなるものはこれをうつわとい
う]」を参考にして明治の初めにつくられた訳語である(150頁)。

 白川静によると、「道」とは戦に際して異族の生首を掲げて軍を先導したことを
示す字であり、「器」とは出陣に際して(その鳴き声が悪霊をはらう力をもつとさ
れた)犬を供犠に供する儀礼をかたどった字形であるという。それはともかくとし
て、「道」はデュナミス(ヴァーチュアリティ)であり「器」はエネルゲイア(ア
クチュアリティ)である、といったことが言えるのかどうか。

●966●養老孟司・玄侑宗久『脳と魂』(筑摩書房:2005.1.15)

 この二人は呼吸が合いすぎている。養老さんがしだいにべらんめえ調(ビートた
けし風?)になっていくのがおかしい。細胞=システム=空(=器)、遺伝子=情
報=色(=道)。人間は空であり、言葉は色である。養老システム学と玄侑の仏教
がつながる。玄侑「先生はやっぱりあれですよね。科学の立場だから、口が裂けて
も「魂」とは言いたくない。」養老「いや。だから言いたくないっていうよりも、
魂の定義が出来ないんです。僕の場合はそれなりに定義するんですよ。だから、シ
ステムとしか言いようがないんですよ。」(187頁)

●967●茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』
                           (PHP:2005.4.5)

 この本のキモは「はじめに」に出てくる二つのこと(「コンピュータに代わる、
脳を理解するためのメタファーを見いだすこと」「自らの置かれた生の文脈を引き
受け、脳の中に潜んでいる創造性という自然な力を発揮することこそが、生きる歓
びなのである」)が終章で論じられる「個別と普遍」のテーマに収斂していく理路
にある。ここをおさえておけばこの本は理解できる。けっして難しい本ではないが、
茂木さんの議論はときどきダブルミーニングではないかと思うことがある。

 良いソムリエは、素人の客との会話の中で「客に合わせてそれまでにないワイン
についての語り方を生み出すことができる」(114頁)。第4章「コミュニケーシ
ョンと他者」にそう書いてある。「よいソムリエというのは、客が何かを言った時
に、その場で口から出任せを発することができるクリエーターなのである」(113
頁)。この「口から出任せ」こそ会話がもつ創造性の基点であって、「私たちは脳
から外に言葉を出力してはじめて、自分が何を喋りたかったのかが判るのである」
(135頁)。

 けっして難しくはない茂木さんの議論に隠れた意味や展開があるのではないかと
思えるのは、たぶんこの本が「口から出任せ」的な思考と発想の生の躍動とライブ
感を伝えているからだろう。──などと適当なことを書いてお茶を濁すのではなく、
この本は一度『脳と仮想』とともにちゃんと読み返して「決着」をつけておかない
といけない。

     ※
 茂木健一郎・港千尋の対談「イメージする脳」(現代思想』2月号)が面白かっ
た。売り言葉に買い言葉、というとニュアンスは全然違うけれど、二人の言葉(脳
)がお互いに刺激しあってしだいに増幅(スパーク)していく様がリアルに伝わっ
てくる。「根本的な世界観の変革」(茂木)へ向けてスピノザとパースとベンヤミ
ンが切り結び、脳科学と人類学が手を携え、経験的なものと概念的なもの(理論)
が神学という鍋でごとごと煮られている。創造性が立ち上がる現場が出現している。

     ※
 茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されな
いか」という文章を寄せている。なぜいまこのような論考が発表されたかは言わず
もがなだが、脳科学の立場から世俗や世相や事件を切る(説明する)といった浅薄
なものではない。茂木さんがそんなバカな文章を書くはずがない。1993年の式年遷
宮の際、伊勢神宮を初めて訪れた茂木氏は言葉で表現できない衝撃を受けた。

《とりわけ、内宮の「唯一神明造り」の様式には、深い感動を覚えた。従来、日本
的とはこういうものであるとか、神社とはこのような場所であるとか、そのような
安易な思いこみのすべてを壊す、至上の何かがそこにあることが確信された。まる
で、宇宙の中にこれまで存在していなかった光り輝く元素の誕生の瞬間に立ち会っ
ているように感じられた。(略)伊勢にある何かとてつもなく大切なもの。しかし、
それに名前を付けて何の意味があろう。名付ければ陳腐になるだけである。その名
付け得ぬものが、私の愛国心の核心にあるが、それは同時に「日本」を超えた普遍
的なものでもあるはずである。》

 この特殊性と普遍性を結ぶ回路の話は『脳と創造性』のキモの部分につながる。
(ついでに書いておくと、ブルーバックス『知能の謎』の序論で「メイン筆者」の
瀬名秀明さんが柄谷行人由来の「一般性──特殊性」と「普遍性──単独性」に関
連づけて「普遍性の中に個性がある」云々と書いている。)名付けをめぐる問題は
『神々の沈黙』第一部に出てきた言語進化(呼び声⇒修飾語⇒命令⇒名詞⇒名前)
の話題と関係する。いずれも「科学的思考」の実質に関連するものだ(と思う)。

 この論文のことにふれたのは、「科学のすばらしさは、対象に対して認知的距離
(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」という箇所を抜
き書きしておきたかったからで、それは先月読んだ上野修さんの「スピノザから見
える不思議な光景」に出てきた「彼の哲学はそんな籠絡[自分の努力で運動してい
ると思っている石の自由意思への固執]からの静かなデタッチメントを教えてくれ
る」という言葉と響きあっている。

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