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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.280 (2005/06/12)
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 □ 丸谷才一『綾とりで天の川』
 □ マゾッホ『魂を漁る女』
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●963●丸谷才一『綾とりで天の川』(文藝春秋:2005.5.30)

 丸谷才一さんの文章に惹かれている。文藝という言葉がこの人ほど似つかわしい
現役作家、評論家、書評家、エッセイスト、要するに物書きはいないと思う。昨年、
一年遅れで『輝く日の宮』を読んでしっとり陶酔した。この人の小説はずっと前に
『横しぐれ』と『樹影譚』を読んだきりで、いずれも忘れがたい読後感。とくに『
樹影譚』を読んだ時の濃い印象はいまでも残り香のように漂っている(と書きなが
ら気がついたことだが、この印象はどことなく保坂和志の『この人の閾』を思わせ
る)。

 その後、新潮文庫版の『新々百人一首』をほぼ毎晩一首分ずつ読んでは言語にま
つわる感覚や感性や情感、というよりも言語表現の母胎である躰のあり様そのもの
が更新される(エロティックと形容してもいいほどの)思いを味わい堪能し、ため
息つきながら就眠する一時期をすごしたが、上巻の半分ほどまで進んだところでに
わかに雑用が錯綜し精神が混濁しはじめたので中断してしまった。

 朝日新聞に月一で連載されている「袖のボタン」はその一篇一篇がまことに上質
で藝が細かく、かつ洒脱悠然と蘊蓄を傾ける筆法が熟しきっている。翻訳も素晴ら
しい。アイリス・マードックの『鐘』が素晴らしかったのは丸谷才一の文章による
のではないかと、これは後になって気がついた。翻訳といえば『ユリシーズ』が全
三巻の真ん中あたりで中断したままになっているが、これも素晴らしい文章だった。

 丸谷才一さんの文章のどこがどう素晴らしいのかは言葉では説明できない。名文
はただ読み、ひたすら読み、時に書き写して眼と頭と心と躰にたたきこむしかない。
『文章読本』に確かそんな趣旨のことが書いてあった。その影響もあって、谷崎潤
一郎の「陰影礼賛」と開高健の『白いページ』を繰り返し読み込み、富山房百科文
庫版の石川淳『夷斎筆談』を書き写したりしたこともあった。それと気づかぬうち
に丸谷才一さんの門下生になっていた。

 書評やエッセイも素晴らしい。これまで新聞や週刊誌や月刊誌での拾い読みで充
分堪能してきたが、一度自腹を切って新刊書を買い求め、とことん咀嚼玩味消化吸
収してみようと思った。『綾とりで天の川』は『オール読物』連載のエッセイを集
めたもの。掲載紙のキャラクターに応じて自在に文体を変えながら、その実頑固な
までに文章の骨法を揺るがせない。凛とした姿勢と柔らかな息遣いが素晴らしい。
(まことに手放しの絶賛につぐ絶賛でわれながら気持ちがいい。)

 ただただ丸谷才一さんの「受売り」の話芸に手玉にとられる愉悦に身をひたしな
がら読みすすめていくうち、この語り口はどこか木田元さんのハイデガー哲学の祖
述・語り直しの話芸と通じていると思い、和田誠さんの装幀と挿絵を眺めているう
ち、ちょうど2年前にその素晴らしさを「発見」した小林信彦さんのコラム・シリ
ーズを思った。
 

●964●レオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ『魂を漁る女』
                    (藤川芳朗訳,中公文庫:2005.4.25)

 国枝史郎の『神州纐纈城』とか白井喬二の『富士に立つ影』の虚構世界を思わせ
るゾクゾクする書き出し(いま引き合いに出した二つの作品は、もうかれこれ十年
単位の昔に途中まで読んで休憩中のまま現在にいたる)。「ジル・ドゥルーズが絶
賛した知られざるマゾッホ最高傑作 謎の美女が繰り広げる官能と狂気の世界」。
腰巻きにそう書いてある。後段はともかく前段のドゥルーズ云々は、これがはたし
てどれほどのウリになるのか。

 昨年の秋も深まった頃、種村訳『毛皮を着たヴィーナス』を再読した際、クロソ
ウスキーの『ニーチェと悪循環』や『わが隣人サド』とあわせてドゥルーズの『マ
ゾッホとサド』を同時進行的に読み進めていた(松浦寿輝さんの『官能の哲学』や
『口唇論』も)。毎日数頁ずつ熟読かつ玩味して、恍惚とはいかなくても陶酔しは
じめていたのに、仕事が忙しくなって中断したままになっている。スピノザとマゾ
ッホ。この異様な取り合わせをドゥルーズでもって結合させてみるか。

 ──実に面白い。久々に長編小説を読む悦びを味わった。結末を読み急ぎたい気
持ちを宥めるのに難渋した。この作品はゆっくりと時間をかけて頭と躰に言葉と情
景と人物を染み入らせながら読み込まないといけない。

 ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュク
の(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に
出てくる二組の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。と
いっても『親和力』はまだ読んでいないので、たぶんそれは、「ゲーテの『親和力
』」(これも未読)のベンヤミンをめぐる数冊の書物(たとえば川村二郎『アレゴ
リーの織物』とか三島憲一『ベンヤミン』とかメニングハウス『敷居学』とか今村
仁司『貨幣とは何だろうか』など)を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とと
もに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズ(『マゾッホ
とサド』122頁)にリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと
思う。

 実は、前々からチャールズ・サンダーズ・パースとヴァルター・ベンヤミンとジ
ル・ドゥルーズを三位一体的に組み合わせてみたいという思いがあった。パースと
ドゥルーズはもともと『シネマ』でつながっている。パースとベンヤミンの「影響
関係」は坂部恵さんの『モデルニテ・バロック』で示唆されている。そこでも言及
されていたドゥンス・スコトゥスやライプニッツに遡れば、パース=ベンヤミン=
ドゥルーズはきっと一つの思考の平面(内在平面?)に並置されるだろうという予
感があった。実際、これまで読んだ本では山内志朗さんの『天使の記号学』にこの
三人が揃い踏みで登場している。

 ベンヤミンとドゥルーズはマゾッホとカフカでつながるかもしれない。『変身』
の主人公グレゴール・ザムザ Gregor Samsa はマゾッホに捧げられたオマージュで
ある。グレゴールは『毛皮を着たヴィーナス』で主人公がワンダから授けられた奴
隷名であり、ザムザはザッヘル・マゾッホ Sacher-Masoch のアナグラムである。
この説はドゥルーズが紹介している(「マゾッホを再び紹介する」,『批評と臨床』
117頁)。

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