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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.279 (2005/05/30)
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 □ 山田正紀『神狩り』
 □ 山田正紀『神狩り2』
 □ 村上龍『半島を出よ』
 □ 村上龍『空港にて』
 □ 村上龍『昭和歌謡大全集』
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●958●山田正紀『神狩り』(ハヤカワ文庫JA:1976.11.30/1974)
●959●山田正紀『神狩り2 リッパー』(徳間書店:2005.3.31)

 死の三年前、アイルランド東海岸に立つウィトゲンシュタインの苦悩と決意をプ
ロローグとして、神戸六甲山中での「古代文字」の発見から『神狩り』は始まる。
論理神学もしくは言語神学のアイデアは面白い(作品発表当時はさぞかし斬新で画
期的だっただろう)が、長い序章のままで終わった感じ。若書きの痕跡をとどめた
文章が初々しい。

 三十年ぶりに上梓された続編は、ハイデガー『形而上学とは何か』と『旧約聖書
』の引用から始まる。「不安の無の明るい夜のなかで、存在物としての存在者の根
源的な開示がはじめて生起する」(木田元訳)。「空の空、空の空、いっさいは空
である」(伝道の書一・二)。物語の最後では「神」に対する揶揄の言葉がゴシッ
ク体で投げつけられる。「我よ、我、なぜに『神』を見捨てたもう!」

 意識の三層構造(97頁)とか言語=クオリア論(231頁)とか脳=(神による人
間の記憶と感覚と思考の)編集器官説(276頁)とか聖なるクオリア=リッパー(3
34頁)とか神遺伝子(390頁)とか神クオリア(416頁)とか、キリスト教神学(と
いっても、ここに出てくる神はほとんどグノーシス思想でいうデミウルゴスだ)と
現代脳科学の知見を下敷きにしたアイデアと趣向には強烈に惹かれる。が、小説と
してはまるで面白くない。文体が性に合わないものだから、物語的感興がいっさい
湧かない。いくら巨匠が三年もの時間をかけて書いたといっても、面白くないもの
は仕方がない。

●960●村上龍『半島を出よ』上下(幻冬舎:2005.3.25)

 朝日新聞のインタビューで村上龍は、現実を超えるリアリティーで読者を圧倒す
るため、句読点やカギカッコ、漢字とカタカナ、ひらがなの違いまで利用して、描
写力を限界まで使ったと語っていた。シリアスで巨大な疑問を提示するため、想像
力を全開にして、持っている知識と情報と技術をフル動員して書いたとも。

 描写力や想像力や技術といった言葉の実質はたぶん実作者でないと判らないと思
うが、登場人物が百五十人を超えるその物量だけでも凄いし、巻末に列挙された二
百を超える参考文献の数にも驚かされる。しかし、上下巻千六百五十枚の全編にわ
たって張り巡らされた村上龍の描写力と想像力と構想力と情報量に驚嘆しながら読
み進めていくうち、しだいに作者が意図したものとは異なる種類の「シリアスで巨
大な疑問」が浮上してきた。それは「現実を超えるリアリティー」という語義矛盾
に関するものだ。

 二つの印象的なシーンがある。上巻「フェーズ2」の第2章。官房副長官を罷免
された山際清孝が内閣危機管理センターでただ一人何もせず傍観していて、意外な
ことに気づく。

《発言を封じられて外部から眺めていると、典型的な日本的集団といえる円卓の意
思決定の過程の異様さがよくわかるのだ。円卓の大臣と局長およびその部下たちは
福岡の封鎖に集中している。確かに九州発着の交通をすべて止めるのは大変な作業
だ。だが北朝鮮テロリストの福岡制圧という未曾有の事件に対処する基本方針が、
まだ決まっていないどころか、一度も話し合われていない。つまりこの事件に対処
するための最優先事項が決まっていない。》(上巻288-9頁)

 下巻「フェーズ2」の第12章。福岡の封鎖を解除したり日本本土に向かう北朝鮮
軍本隊を攻撃すると、液化天然ガス基地が報復テロを受けると日本のマスコミが既
成事実のように報道する理由について、高麗遠征軍作戦課のパク・ミョン中尉が次
のように分析している。

《大半の日本人が、福岡を封鎖した根拠と、高麗遠征軍を攻撃できない口実を探し
ていたからだ。(中略)十二万の本隊を攻撃すれば本当に液化天然ガス基地はテロ
を受けるのかという問いはいっさいなく、液化天然ガス基地がテロ攻撃を受けるの
で高麗遠征軍を攻撃することはできない、という論理のすり替えを行うのだ。弱い
人間や集団は、差し迫った困難や危機から逃れる口実を探す。口実は何でもいいの
で、必ず見つかる。パク・ミョン中尉はそう分析したあとに、わたしたちは日本と
いう国の外側にいるからそういったことがよく見えるが、内部にいる者にはなかな
かわからない、と付け加えた。》(下巻442頁)

 もちろん北朝鮮側にも自分たちにとっての外部は見えていない。この長大な物語
の結構はこの一点に焦点化されているといってもいいだろう。だが、そもそも自分
自身がその中に身を置いているシステムの外部に出ることなど誰にもできない。自
らの経験そのものを成り立たせている根拠を離れると、経験のリアリティそのもの
が変質してしまうからだ。たとえシステムや根拠が、その内部にいる者たちが生存
のために共同で制作した虚構でしかないとしてもだ。

 現実を超えたところで起動する「リアリティー」などない。あるとしてもそれは
現実という観念に替わるもう一つの観念でしかない。「国家というものは必ず少数
者を犠牲にして多数派を守るものだ」(上巻230頁)というイシハラの認識も観念
だ。観念の自縛を抜け出る途があるとすれば、それは「人間の関係とコミュニケ−
ションの場を、フィクショナルなものとして構成しようとする意思」(土屋恵一郎
『社会のレトリック』)としての法的思考にかぎりなく近いものとなるだろう。

 上巻「フェーズ2」の第1章で、西日本新聞社会部記者の横川茂人が高麗遠征軍
のハン・スンジン司令官に「どの国の法律が適用されるのか」と、政治的危険分子
と重要犯罪人の逮捕の法的根拠を問うシーンがある(上巻267頁)。以後充分に展
開されることのなかったこの場面にこそ、「現実を超えるリアリティー」ならぬ「
現実を制作するフィクション」の壮大な可能性が潜んでいる。

 長編小説としては途方もない失敗作。しかし、粉々に砕け散った断片は連作短編
小説として稀にみる傑作。読後、逡巡を重ねた末のそれが結論だ。

●961●村上龍『空港にて』(文春文庫:2005.5.10)
●962●村上龍『昭和歌謡大全集』(集英社:1994.3.23)

 『空港にて』は素晴らしい短編集だった。猥雑透明な精神の緊張が漂っている。
(個人的な感想でいえば、開高健以来の感興を味わった。)「空港にて」は、僕に
とって最高の短編小説です。by 村上龍。帯にそう書いてある。日本文学史に刻ま
れるべき全八編。カバー裏にそう書いてある。これらの言葉はけっして誇張ではな
い。(日本文学史、偉大なる田舎者の系譜。)

 小説は描写がすべて。「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き
込みたかった」と作家は(書かずもがなの)あとがきにそう書いている。「他人と
共有することのできない個別の希望」を描写することは、たぶん小説にしかできな
いことで、同時に小説にできることの限界を超えている。

 『昭和歌謡大全集』は93年6月から94年2月まで「週刊プレイボーイ」に連載さ
れた作品で、この時期と連載誌、そしてそのときの作者の年齢がこの作品の性格と
いうか村上龍の活動の中での位置づけをかなり規定しているように思った。でも考
えてみればそれはあたりまえの話で、作家は多かれ少なかれその時代と発表媒体(
読者層)を念頭において作品を書いている。このことはとくに村上龍の場合に重要
なポイントだと思う。好きな小説ではない(中条省平さんだったと思うが「怪作」
の一言で片づけていた)が、どこか松本大洋のマンガを思わせる作品世界は印象に
残る。

 松本大洋のマンガは『半島を出よ』下巻の「美しい時間」の章を読んでいたとき
も頭に浮かんだ。あの作品はこれまで村上龍が書いた作品のすべてとはいわないま
でもほとんどの小説世界の「気分」のようなものが総動員されている。だから同じ
イシハラやノブエが登場する場面で同じ印象をもったとしてもおかしくはない。(
イシハラとノブエは『昭和歌謡大全集』では「高校の同級生だった」が、『半島を
出よ』ではイシハラが49歳、ノブエが55歳になっている。)

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