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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.277 (2005/05/22)
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 □ 上野修『スピノザの世界』
 □ E.ジルソン『神と哲学』
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●954●上野修『スピノザの世界──神あるいは自然』
                       (講談社現代新書:2005.4.20)

 講談社の『本』5月号に上野さんが「スピノザから見える不思議な光景」という
短い文章を書いている。

 スピノザは「地球に落ちてきた男」を思わせる(とても地球人とは思えんよ)。
スピノザは神を非擬人化すると同時に人間を非擬人化している。スピノザの哲学は
(「人間」的なものの籠絡からの)静かなデタッチメントの哲学だ。すなわち、わ
れわれの身体が物質宇宙の一部分であるように、われわれの思考も無限な思考宇宙
の一部分である。われわれに思考があるのにわれわれがその部分である自然に思考
がないとするのは不自然である。われわれの中で事物自身が事物自身について肯定
したり否定したりするようになったとき、われわれの精神は「自動機械」となって、
自分のいる場所(自然)がずっと「神」であったとわかる。カメラが引いていくと、
帰還した地球の故郷が実は惑星ソラリスの変様部分であるのが判明するあのタルコ
フスキー監督の「惑星ソラリス」のラストシーンを思い出す。

 この文章を読むと、『現代思想としてのギリシア哲学』の序章「月から落ちてき
た眼」を思い出す。古東さんはそこで「エイリアン」もしくは「クセノス」(異邦
人・異星人・客人)としての哲学者像を描いていた。この哲学者の「外からの視線
」が「他界からのまなざし」であり、そのようなまなざしをもって、つまりたまし
いの向け変え(ペリアゴーケー)、実存変容をもってこの世界のありさまを感じ考
え生き直すことが「臨生」である。

     ※
 ちなみに『他界からのまなざし』を読んでいると、装置、機械、技法といった語
彙が頻出する。この文体はスピノザの「霊的自動機械」を思わせる。上野さんは『
エチカ』は「説明の体系」であり「一個の証明機械」であるという。この「『エチ
カ』で稼働する証明機械、これは『知性改善論』の言っていたあの「霊的自動機械
」を思わせる」(77-78頁)。

     ※
 上野修さんの『スピノザの世界』は、スピノザの異例・異様な思考世界をとても
上手にコンパクトかつ無味乾燥に解説している(これは悪口ではない)。「『エチ
カ』のこのあたり[第5部の最後、定理21から42]を読むといつも異様な緊張を感
じるのだが、きっとそれは、証明している自分自身が証明されているという特異な
必然性経験をしてしまうからだろう」(181頁)とか「このあたり[同定理32の系]
に来ると『エチカ』はいったい何ものが語っているのかわからなくなってくる」(
184頁)とか、スピノザ小旅行(実際は読み終えるまで十日以上費やしたけれど、
気分としては一泊二日)のガイドブックとしては最高のフレーズだと思う。

 考えているのは自然(事物)であって、私(精神)ではない。──本書のキモは
次の文章のうちに凝縮されている。《スピノザの話についていくためには、何か精
神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。
精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨ま
なければならない。》(108頁)

     ※
 ちょっと気になるのは、たとえば『エチカ』第2部でデカルト由来の心身合一の
問題がいとも早々と解決されてしまうことにふれた箇所で、「…「物体B」の観念
になっている思考も「身体Aの変状a」を漠然とでも知覚しちゃうのではないか」
(123頁)と突然会話風の表現が出てくるところ。これと似た表現が「あとがき」
にも出てくる。「…それら観念がみな無限に多くの私の(?)並行する精神である
ということになっちゃうのではないか」。これはやめてほしいと思う。

●955●●E.ジルソン『神と哲学』(三嶋唯義訳,行路社:1975.12.15)

 ジルソンの本は一度は読んでおきたかった。序文に「天才とはこういう人をいう
のであろうか、かれの講義を聞くとそれだけ自分の頭が作り変えられるような気が
した」と讃えられているのはベルクソンである。ジルソンは「ベルグソンによって
聖トマス・アクィナスの哲学的方法に導かれた者は、いまだかつてだれもいない」
と書いている。ということは、ジルソンこそベルクソンによってトマス・アクィナ
スの哲学的方法に導かれた最初の人だということなのだろうか。訳文を読むだけで
はよく判らないが、そう解する方が面白い。實川幹朗さんの『思想史のなかの臨床
心理学』にトマス・アクィナスとベルクソンをつなぐ記述がある(72-3頁,233頁)。
それはともかく、トマス・アクィナスの研究を通じてジルソンは「デカルトの形而
上学の諸帰結は聖トマス・アクィナスの形而上学との関係においてのみ意味をなす
こと」に気づいた。

     ※
 軽い気持ちで読み始めた『神と哲学』が俄然面白くなって、一気に読了した。四
つの講義(「神とギリシア哲学」「神とキリスト教哲学」「神と近代哲学」「神と
現代哲学」)を収めた二百頁に満たない小冊子だけれどけっこう濃い。たかだか四
頁ほどのスピノザをめぐる叙述が際立っていた。「スピノザの宗教は、哲学だけに
よって人間の救済に到るにはどうすればよいかという問に対する、形而上学的に百
パーセント純粋な解答である。」(128頁)「スピノザの形而上学的実験は、少な
くとも次のような断案の決定的証明となったことは確かである。すなわちそれは、
およそいかなる宗教的な神であれ、その真の名が「在る者」でない神は単なる神話
にすぎないということである。」(129頁)いっそ全頁を抜き書きしておきたい。

 最終章に出てくる科学者(不可知論者)との対決も迫力がある。「われわれは、
この宇宙が確かに神秘的であるとわざわざ科学に教えてもらう必要はない。そんな
ことは人類の最初からだれでも知っていることである。(略)この宇宙が一部の科
学者たちにとって神秘的と思われる真の理由は、「存在」の、つまり形而上学的な
問を科学的な問と取り違えて、かれらが形而上学的な問に答えることを科学に望む
ということである。かれらが科学によって何の答も得られないのは、あたりまえで
ある。そこでかれらはとまどい、宇宙は神秘的であると言うのである。」(152-3頁)

     ※
 スピノザを「神に酔える人」と呼んだのはノヴァーリスである。うかつにもジル
ソンの本を読むまで気がつかなかった。ためしに中井章子さんの『ノヴァーリスと
自然神秘思想』を見ると40頁にその断章が引用されている。この本はかつて熱読し
たものだから、間違いなく知っていたはず。ノヴァーリスといえば、古東哲明さん
の『現代思想としてのギリシア哲学』第二章「逆接の宇宙──ヘラクレイトス」の
扉に「矛盾律を否定することこそ、より高次の論理学の最高の課題であろう」とい
う断章が掲げられていた。ちなみに「キリスト教の神を見失った世界が、この神を
見いだす以前の世界[タレスやプラトンの世界]に似てくるのは、やむをえないこ
とである」(『神と哲学』166頁)というジルソンの指摘は、というより『神と哲
学』の第一章そのものが『現代思想としてのギリシア哲学』と響きあっている。

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